昭和32年の出来事(10歳)~三浦洸一の「踊子」
自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの11回目。自分が9歳から10歳、つまり小学校3年生から4年生になる昭和32年(1957年)の出来事を調べてみる。(写真はクリックで拡大)
この年の1月には南極観測船「宗谷」が南極に到着。オングル島に基地建設(ここ)。そして5月、大阪のそごうが有楽町駅前に進出。キャッチフレーズは「有楽町で逢いましょう」。フランク永井で同名の流行歌が発売されたのは11月。そのそごうも、今はビックカメラに姿を変えている。6月には東京タワーの建設が始まる(完成は翌昭和33年12月)。映画では「明治天皇と日露大戦争」や「喜びも悲しみも幾歳月」もこの年の封切りだという。
歌では、石原裕次郎の「錆びたナイフ」。友達と一緒に行ったローラースケート場でいつもこの歌が流れていたのを思い出す。その他、フランク永井の「東京午前三時」や島倉千代子の「東京だよおっ母さん」、コロンビア・ローズの「東京のバスガール」などなど。
この年の記憶は確かだ。翌年春に、生まれ故郷のこの埼玉を離れ、茨城に引っ越すので、埼玉の小学校の最後のこの年の記憶は鮮明。思い出した事をメモしてみると、日活映画「若ノ花物語・土俵の鬼」というのを見て、若ノ花の大ファンになり、ラジオで相撲中継を夢中になって聞いた記憶。NHKのラジオドラマ「一丁目一番地」を皆で聴いた記憶(ここ)。
それに「切手収集」という“趣味”を初めて持った(ここ)。(これは当時の流行で、結局自分 は続かなかったが・・)。そして、休日というともっぱらゴム動力の竹ひご飛行機を作った。学校の校庭では竹ひご飛行機の大会。10数秒しか飛ばなかったが・・。今日ジョイフル本田に行ったら、今でも数百円で売っている。この姿をみるといまだにワクワクする。(遠い将来、孫にでも作ってあげる機会があるかどうか・・・)
楽しい思い出としては、お袋が子供たちを連れて大宮まで小林桂樹の「サラリーマン出世太閤記」という映画を見に行った記憶。Netで調べてみると、この映画は確かに昭和32年6月封切りだ。そして焼津の伯母が来た時には色々な場所に連れて行ってもらった。浦和まで「青い大陸」という海底ドキュメンタリー映画を見に行った。これはこの年かどうかは定かでないが、子供の頃の鮮明な記憶。そして木下大サーカスに行った記憶。大森海岸に潮干狩りに行った記憶等々・・・。今特養にいるが、子供の頃は兄ともども世話になった。しかし、小学校3~4年になると、幾らでも思い出が蘇ってくるものらしい。
さて今日は、昭和32年の歌として、8月に発売されたという三浦洸一の「踊子」を聞いてみよう。あの朗々とした声は、今もコンサートで健在だという。
<三浦洸一の「踊子」>
「踊子」
作詞:喜志邦三
作曲:渡久地政信さよならも言えず 泣いている
私の踊子よ ああ船が出る天城峠で 会うた日は
絵のように あでやかな
袖が雨に 濡れていた
赤い袖に 白い雨月のきれいな 伊豆の宿
紅いろの灯に
かざす扇 舞いすがた
細い指の なつかしささよならも言えず 泣いている
私の踊子よ ああ船が出る下田街道 海を見て
目をあげた 前髪の
ちいさな櫛も 忘られぬ
伊豆の旅よ さようなら
小学校4年生の1学期の通信簿の先生のコメント。「全般によくやっております。特にハーモニカは級で一番うまいです。もう少し積極性があれば申し分ありません」。この頃から自分の音楽の“才能”が出てきたようだ。(でも結局、趣味で終わったが・・・)
2学期「あまり向上していません。能力に比して努力していないように思います。指名されると答えますが、積極的に挙手をすること少ないです。ノートの使い方乱暴です。物事を美的に処理する様に」・・・・。なるほど。もうこの頃に自分の「本性」が出ていたのかと、今更ながらドキッとした。
ふと“今泉”という名を思い出した。自分をいじめていた女の子の名だ。雪合戦をしたりすると、必ず自分めがけて投げてきた。気の弱い自分は必死に逃げたものだ。そして、もう直ぐ転校なのでこの子から逃げられると・・・・。しかし現在の“悟り”の境地(ここ)から思うと、この子は実は自分に気があったのだ。その事を自分は今まで気が付かなかった・・・・
まあ戯言はこれ位にして、最後にこの歌のステレオ再録盤を聞いてみよう・・・
<三浦洸一の「踊子」ステレオ盤>
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コメント
「踊子」は母も私も好きな歌で、レコードがあります。
今もラジオからもよく流れて来ますね。
朝日放送ホームソング昭和32年2月の歌です。
野球が終わると、秋から夜の歌番組がありますが、
火曜日は昔放送されたホームソングを流されるので楽しみです。
投稿: なち | 2009年9月27日 (日) 07:59
若い頃、川端康成の小説に惹かれ、読み漁りました。一端の小説家気取りで大学帽に学生服に身を包み、あちこち旅行などもしました。今考えると恥ずかしいのですが、こうしたした自分が懐かしく思われます。三浦光一の踊り子は小説の伊豆の踊り子をたくみに表現した曲で、好んで口ずさりました。
投稿: semishigure | 2009年9月28日 (月) 21:53
semishigureさん、なちさん
この清潔な歌はいつまでも歌い継がれて行くでしょうね。でも他の歌手ではこの清潔さは出ないかも・・。そういえば他の歌手では、この歌はあまり聞いた事が無いな・・・
投稿: エムズの片割れ | 2009年9月28日 (月) 22:24
石川さゆり 天童よしみ 三鷹淳 和田弘とマヒナスターズ
渥美二郎 成世昌平 青江三奈・・
JASRACを見ると歌手が出しているようです。
成世昌平さんと野路由起子さんのカバーを聞いた事があります。
投稿: なち | 2009年9月29日 (火) 04:21
「踊子」昭和32年2月ラジオ放送の時は、すでにファンしていました。が、校庭でランニング中にその近所の新家庭からラジオから歌声が流れていました。が、ほんの1部分しかわからず、それ以来何十年後にこのホームソング特集が2~3年前にあってフルで、聴きました。それがその音源が、三浦洸一55周年
2枚CDに入曲されて発売になり長年の夢が毎日聴いています。私は、オリジナルの方が好きです。この歌は、何度聴いても心が、洗われます。
投稿: odoriko | 2009年10月 1日 (木) 10:21
「踊子」は素晴らしい歌で、私も愛唱歌の一つにさせて頂いています。
ただ、一つ疑問があるのですが、歌詞の一部の
「私の踊子よ ああ船が出る」という部分に、
昔から疑問をもっています。「私の踊子・・」
は、「渡しの踊子・・」なのではないでしょうか。以前にそういう説が認められて、そのように訂正されたと、思うのですが。その方がずっと情景にも適合しているのです。
【エムズの片割れより】
なるほど・・・。でもNetで「渡しの踊子よ ああ船が出る」で検索しても引っ掛かってきません。まさに“新説”ですね。
投稿: 秀ちゃん | 2010年7月15日 (木) 11:47
三浦さんの歌、『釧路の駅でさようなら』と香山美子さんとのデュエット『月よりの使者』も素晴らしいです。
投稿: yakata1578 | 2011年4月 5日 (火) 21:19
私の踊子よ という疑問について。
この私の踊子よ というのは自分の気になっている踊子という気持ちを言っているので、渡し場の事をいっているのではありません。
投稿: ひでお | 2018年6月21日 (木) 20:34
母が三浦洸一のファンでよく歌っていました
これほど端正な顔と立姿勢高く澄んだ声、歌詞メロディーがマッチした歌を知りません
「袖が雨に濡れていた 赤い袖に白い雨」
のフレーズが特に好きです
五年前、日本百名山を目指して登った天城山は雨でした
投稿: 内倉 功 | 2019年10月27日 (日) 19:34
最近、YouTubeで「踊子」を松原健之さんの歌唱で聴きました。美しい高音、端正な歌唱、清潔なイメージは三浦洸一さんを彷彿とさせ、この歌を唄い継ぐに相応しい歌い手さんだと思いました。
投稿: ikuyo iduka | 2020年5月 6日 (水) 20:50