原爆映画の思い出・・・(田中計器での映画)
今日は8月6日。広島に原爆が落とされてから64年目だという。ふと、昔見た原爆の映画のことを思い出した。今日はそんな思い出話・・・。
生まれてから小学校4年生まで、自分は与野に住んでいた。現在の埼玉県さいたま市中央区上落合である。近くに田中計器工業㈱という会社があった。地図で見ると既にその会社は無く、現在その敷地にはマンションが二つ建っている。そこでは確か、自動車のワイパー用小型モータを作っていたっけ・・・。当時の我が家は、その会社が払い下げた元社宅のうちの一軒で、通路に同じような家が並んでいた。
(左の写真は、昭和30年頃の正門。地図は昭和55年8月発行のもの。田中計器はアスモという社名に変わっているらしい。日本ワイパーブレードという名も見える)
昭和30年代初めの頃の楽しみは映画であった。週末の夜になると、その田中計器の食堂で映画会が開かれ、自分たちも映画会のウワサを聞いて、もぐり込んだ。そこで見た“怖い映画”が原爆の映画だった。ドカンと原爆が落ち、人が融けて行く・・・。怖くてその場面では下を向いていた。そしてその怖いシーンが終わった頃、やっと顔を上げる・・・・
実はその映画の題を覚えていなかった。大人になって、色々調べて、その映画は「原爆の子」という映画だったのでは?と思うようになった。映画「原爆の子」は、新藤兼人監督、乙羽信子主演の昭和27年(1952年)制作の映画で色々な賞も取っている。ストーリーは、広島原爆で一人生き残った乙羽信子扮する瀬戸内海の小島の小学校の教師が、原爆被災当時に勤務していた広島の幼稚園の園児たちのその後の消息を知りたいと思い、夏休みに一人ひとり訪ねて歩く・・・
しかし、後でこの映画を見たが「怖いシーン」はほとんど無い。もしかすると、そのときは子供心に“怖い”と思って見なかったが、本当は残酷な場面は無かったのかも知れないな・・・と思ったり・・・。
フト、もう一度当時の原爆映画には何があるのかをNetで調べてみた。すると「ひろしま」(これ)という1953年の映画があることが分かった。関川秀雄監督で岡田英次や月丘夢路が出演している。フト、この映画があの時の映画かも知れない・・と思った。論より証拠、NetのDVDレンタルに申し込んでみた。そのうちDVDが送られてきたら見てみよう。あの怖い映画かどうか・・・・
当時、たぶん自分は小学校にやっと上がった頃だったと思うが、これらの原爆の映画が、子供心に強烈なインパクトを与え、原爆の悲惨さを心に深く刻んだことは確か・・。今更ながら、感受性の強い子供時代に与えられた刺激は永く残るものだ。
まあ、それらの昔見た映画の記憶を今一度呼び戻してみるのも、8月6日の良い供養なのかも知れない・・・。
話は飛ぶが、この頃の映画の記憶では、小学校の校庭に銀幕を張ってみんなで地面に座って見た「女中ッ子」(1955年 佐野周二/轟夕起子)や、お袋に大宮の映画館に連れて行ってもらった「サラリーマン太閤記」(1957年小林圭樹・加藤大介)などを思い出す。これらについても、その内書いてみよう。
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コメント
「原爆の子」は学校から観に行きましたが「ひろしま」は記憶にありません。
「女中っ子」走っている汽車から雪の中へ飛び降りるシーンが忘れられません。
過去に書かれてる「しいのみ学園」も良かったです。
「ふろたき大将」「つづりかた兄妹」「若乃花物語」・・は、学校からです。
学校から、家から、村の巡回映画、沢山観たものです。
投稿: なち | 2009年8月 7日 (金) 07:34
なち さん
「ふろたき大将」「つづりかた兄妹」は知りませんが「若ノ花物語 土俵の鬼」は良く覚えています。この映画を見てから若ノ花の大ファンになりました。この映画は、昭和31年(1956年)12月公開とか・・。自分は小学校3年生でした。
投稿: エムズの片割れ | 2009年8月 8日 (土) 22:23
小学校からバスで近くの高校に若乃花を見に行ったことがあります。
それから花籠部屋の弱い長谷川等の成績が気になり出しました。
映画を観たのはその後です。つづりかた兄妹も実話ですよ
。
投稿: なち | 2009年8月 9日 (日) 04:08
「女中っ子」が観れます。
走っている汽車から雪の中へ飛び降りるシーンは 1:30 頃。
テレビでしていたのか地震情報が入っています。
https://www.youtube.com/watch?v=EGdNMFRaoBo
若乃花を見に行ったのは、高校でなく中学校だったと地元の方が言っておられました。
【エムズの片割れより】
紹介ありがとうございます。
あとでゆっくりと見ます。懐かしいです。
投稿: なち | 2019年9月16日 (月) 19:09