昭和30年の出来事(8歳)~伊藤久男の「数寄屋橋エレジー」
自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの9回目。
自分が7歳から8歳になる昭和30年(1955年)の出来事を調べてみると、この年はあまり大事件が無かったようだ。
初のSONYブランド製品として、国産初のトランジスタラジオTR-55発売(8/7)。東芝が国産初の自動電気炊飯器を発売。アルミの1円硬貨発行(6/1)。森永粉乳中毒事件(ヒ素混入)で死亡130人、患者1万2000人。創価学会政界進出。広島原爆資料館が開館。厚生省が発表した「売春白書」によると全国で公娼50万人。広辞苑の初版発行。
映画では、木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」や、前回書いた左幸子の「女中っ子」など。
歌は、中村メイコの「田舎のバス」、菅原都々子「月がとっても青いから」、宮城まり子「ガード下の靴みがき」、島倉千代子のデビュー曲「この世の花」、春日八郎「別れの一本杉」など。
自分の好きな歌では、伊藤久男の「サロマ湖の歌(これ)」「サビタの花(これ)」があるが、もうアップしてしまったので、この年の歌でアップする曲がなかなか見つからない・・・。
仕方が無いので、今日は前年1954年(昭和29年)の歌で、伊藤久男の「数寄屋橋エレジー」を聞いてみよう。
考えてみると、当サイトは偏見に満ち満ちている。つまり、懐かしのメロディーが伊藤久男などに偏重し切っている。でもまあ、自分の好みの曲を論ずるワケで、(=嫌いな歌は挙げないので)仕方がないのであ~る。
<伊藤久男の「数寄屋橋エレジー」>
「数寄屋橋エレジー」
作詞:菊田一夫
作曲:古関裕而雨に濡れ 雨に濡れ
あの橋に佇ずむ人は 誰を待つ
人は変れども 数寄屋橋の顔は
いつも変らない来ぬ人は 来ぬ人は
遥かなる旅に立ちしを君は知らず
夜霧流れても 数寄屋橋の顔は
いつも変らない風吹けば 風吹けば
思い出は川のネオンにゆらめきて
泣く人もあれど 数寄屋橋の顔は
いつも変らない
数寄屋橋というと、自分が東京に遊びに行く様になって最初に行ったのが有楽町。そこに橋も無いのに「数寄屋橋公園」という小さな広場があって、そこに「数寄屋橋此処にありき」という碑があり、子供の頃は良く分からなかった・・・。
さて、昭和30年というと、自分は小学校1年~2年の頃だ。通信簿を見ると、コメント欄に「明朗で素直、何時ものびのびと、まじめに学習しているので成績はよい。もう一息の所です。来年こそ期待しています」とあ~る。なるほど、この年までは自分は良かったのだ。3年生で激変するが、それは次回・・・
通信簿を見ると面白い。1、2学期は、科目ごとに評価の内容が細かく分かれており、国語では「聞く」「話す」「読む」「書く」「作る」といった項目に、評点が「すぐれている」~「おとる」までの5段階でそれぞれに「○」が押されている。しかしこの年(昭和30年)の3学期からは、指導要録の改正により、評定が「5」~「1」の数字で表される事になったらしい。
ところで、学校給食はいつ始まったのだろう。朝、近くのパン屋で10円のコッペパンを買い、隣の肉屋で5円のコロッケにソースをぶっ掛けてパンに挟んでもらってから学校に行ったのを、未だに「美~味い」思い出として記憶している。給食の記憶もある。金物の椀に注がれた白い味の無いミルクとコッペパン。いつもミルクが嫌いな人が残して大騒ぎしていたっけ。これは3年生の頃からか??
話は飛ぶが、昨日の朝の静岡の地震は大きかった。でも直ぐに収まったので良かった。テレビのニュースを見ると、明日(8/13)の午前0時は開通、と言っていた東名高速が、半日くらい遅れるとか・・・。お盆の帰省ラッシュの時期なので大変だ。
そう言えば、あの関東大震災は9月1日だった。M7.9。予想されている東海地震はM8と想定されているというから恐ろしい・・・。(写真はクリックで拡大)
それに今朝の新聞に、昨日の地震で崩れてきた1000冊の自分の本に生き埋めにされて亡くなった女性がいたと載っていた。
終戦や関東大震災など、色々と昔を振り返る時期である。お盆休みを利用して、危険予知のため、家の周囲の地震対策を振り返ってみるとしようか・・・・。
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