「幸福は足元にあり」?~松原泰道師の話
先日読んだ至知8月号に102歳になられる南無の会会長 松原泰道師の言葉があり、心に残った。曰く・・・
「明珠在掌
南無の会会長 松原泰道
幸せは、我が内にある
すべてのものには、そのものをそのものたらしめる根源的な機能(はたらき)があります。一枚のちり紙も例外ではなく、ものを拭くという機能を備えています。携帯電話はいくら便利でも、ものを拭く機能はありません。すべてのものにはそれぞれ固有の機能があり、この機能を象徴的に明珠(みょうじゅ)、仏性(ぶっしょう)などと言います。
「明珠在掌(明珠掌(たなごころ)に在り)」という禅語は、その大切な象徴が手のひら、至近の距離の中にあることを説いています。
・・・・・・・
心を耕し、柔らかくする
釈尊がある農村で説法をしていました。そこは仏教に敵対意識を持つバラモン教の盛んな村で、一人の農民が釈尊を冷やかして言いました。
「ご出家よ、布教も結構だけれども、いまこの農村は、ご覧の通り猫の手も借りたいほどの農繁期だ。そんな説法などやめて、田んぼを耕してくれた方が皆助かるんだ」
釈尊は答えて言いました。「私も耕しています。あなた方の心を、私も耕しているのです」
怪訝な顔をする農民に釈尊は続けました。
「農土を放っておくと荒れ地になる。雑草もそのままにしておけば害を為しますが、抜いて土に埋めておけば立派な肥料になります。同じように、私たちも心を野放しにしておくと人間を駄目にしてしまいますが、煩悩をよく耕して心に漬け込んでいくと、悟りの肥やしになるのです」
悩みや苦しみもよく耕せば、それが幸福のもとになり得ます。
例えば、病気で苦しんでいる時にはこんな不幸はないと考えがちですが、あえて同じ病気に苦しむ患者さんを見舞って、治療の経緯を語るなら、相手の方から喜ばれ、病気になったおかげで自分自身も健康な時には味わえなかった喜びを得られるでしょう。これはあらゆる逆境にも当てはまります。その人の心一つでこの不況の中にも幸福を見出すことはできるものです。
幸福とは、他から与えられるものではなく、自ら発見してつかみ取っていくものです。与えられるものを待っているのではなく、マイナスの中にプラスを発見し、耕していくところに人生の生きがいはあります。両手の掌に鋤や鍬を持って一所懸命に耕していくことによって掌の中に明珠がつくられていくのです。
幸福は足元にあり。このことを忘れず、日々の生活の中から幸福を見出し、豊かな人生を築いていきたいものです。」(至知8月号より)
最近、駅から家までのバスの中から見る町の風景を、「美しい」と感じることがある。駅のタクシーのテールランプの灯り、照明に照らされた店先、そしてビルのネオン・・・。
毎日、当たり前に見ている風景が、心して見ると何ときれいなことか・・・・
般若心経では、人間の五感を「眼耳鼻舌身意・・・」と表しているが(ここ)、その中でも「見る」という機能は何事にも代えがたい。
フト立ち止まって、周囲を見回してみる。いま見えている情景を“意識”してみると、そこには素晴らしい光景が見えている。まずカラーだ。色が付いている。それに解像度は液晶テレビの比ではない。ほぼ無限大・・・。そして太陽光下から星明りの暗闇まで見えるダイナミックレンジの広さ。
しかもスクリーンの網膜は球形なのに、脳の働きでキチンと歪みのない平面に見える高性能・・・
確かに、「幸福」は身近にある。我々は“素晴らしいこと”を、何と「当たり前」として感謝の無い生活をしていることか。
何かこの一文で、自分の日頃の“感謝のない生活”を反省させられてしまった。
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