「感謝」ということ・・・・・
最近、“感謝”という言葉が頭に良く浮かぶ。「何に対して?」→「大いなるものに対して・・・!?」
昔、子供の頃、10年以上前に亡くなった親父から、「お前は感謝が足りない。感謝の念が無ければ人間は何が出来てもダメだ」と、それこそ何百回、何千回、何万回と言われ続けていた。しかしヘソが曲がっていた自分は、言われる度に反抗し、「感謝」とは逆の行動を取ったものだった。
しかしトシを取るというのは良いもので、段々と体の力が抜けて行く。“力み”が抜けて行く。そして自然体になり、“大いなるもの”への感謝の気持ちが出てくる。
大いなるものとは何か?それは人智が及ばないもの・・・。それは神さまかも知れないし、観音さまかも知れないし、または仏さまかも知れない。それらの“何か”に対して、最近、なぜか感謝したくなる・・・。
あまり細かくは書けないが、この6月末で自分のサラリーマン生活も2度目の大きな節目を迎える。これは明らかに“人の力”の支援の賜物。でも細かい点で、“何か”がサポートしてくれているような気がしてならない・・・・。だから何となく“大いなるもの”に感謝したくなるのである。
具体的には何かって?(ツマラナイ話だと思うだろうが)例えばパソコン。最近、体の応用が効かなくなったせいか、パソコンのキーボードと体との相性(腱鞘炎?)で、散々振り回された事があった。(ここ)
それ以来、パソコンは会社で使い慣れた“dynabook Satellite K11/K16”シリーズでないとダメ、と思い込んでいる。これは理屈ではない・・・・。3年も前のXPマシンにこだわっている自分もヘンだが、これは実体験を積み重ねた結果なので仕方がない。でも、会社で愛用しているこのK16機と分かれる日(6月末)が近くなってきた。そして焦った・・。別れなければ・・・・。先日、フトNetで検索してみると、何と中古のK11が売りに出ている! そして手に入ったのだ。半年前の自宅用と今回の会社用の、2つのK11が手に入った・・・・。これは、自分としては“大いなるものの為せるワザ”と思わないワケにはいかないのである。(まあ細かくはK16とタッチが違う気がするが、気のせいだろう・・・)
昼休みの散歩で良く行った高野山東京別院。これも最後である。今日は天気も良かったので、弘法大師や観音さまに般若心経を唱えてきた。お世話になりました・・・、と。そして、朝食の常連だった新橋駅構内のパン屋や、行き帰りの駅のトイレにも・・・・。
こんなに素直になった自分・・。もし、あの世から現世を眺める事が出来たら、さぞ親父がビックリしている事だろう・・・。
でも腑に落ちないのが、カミさんがいつも「あなたは“性格が悪い”と言われていたでしょう!」と未だに言うこと・・・。「アア、昔から親父がいつも“お前は性格が悪い”言っていたよ・・」と応えるのだが、(もう半世紀以上も経っているのに、)親父の「お前は心掛けが悪い」「お前は感謝が足りない」という言葉が頭から離れないので、カミさんの言を否定できない。待てよ?これは今なら立派な「幼児虐待」ではないか?
でもまあ昔の事なので許してやるか・・・?
7月からの再スタートを前に、感謝を知り、少しだけ大人になった気分の自分ではある。(←カミさんは認めてないけど・・・)
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コメント
先日、私は私の良心に従って生きていきたいと書きましたが、その良心の根源はエムズさんと同じ感謝の気持ちではないかと思います。昔、母は暮れになると小さなお餅を家の内外のあちこちに供えました。すべての物に神様が宿り、それに感謝するのだと言っておりました。
昔の人たちは、宇宙の大いなる物に畏怖の念を持って生きていたのだと思います。固定した宗教ではなく、大いなる物に生かせて貰っている事に感謝していたのでしょう。年をとると傲慢になってきます。改めて大いなる物に感謝の念を抱いて行きたいと思います。慎ましくしとやかな人間になれますように。(無理かなー?)
投稿: 白萩 | 2009年7月 4日 (土) 00:45
白萩さん
先日の手仕事屋きち兵衛さんのコンサートで、「トシを取ったら品位を身に付けたいね」という話がありました。
「オレがオレが・・・」という次元を超えて、自然に対して素直になって、真の意味での品位をどう身に付けるのか・・・。もちろん品位は付けようと思って付くものではありません。よって人の品性は、感謝の念と共に、残された人生の課題なのかも知れませんね。
投稿: エムズの片割れ | 2009年7月 4日 (土) 21:54
心が安らぎます。
投稿: 小田中 常和 | 2009年7月 6日 (月) 06:49