中村元の「阿弥陀経」(8/10)
この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第19回 極楽国土を欣求する-阿弥陀経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ4 大乗の教え(下)」(これ)を元に味わっていくもので今日はその第8回目、この回からは、念仏による浄土往生が勧められる。
<こころをよむ/仏典「阿弥陀経」~その8>
しゃりほつ しゅじょうもんしゃ おうとうほつがん がんしょうひこく しょいしゃが とくよにょぜ
舎利弗 衆生聞者 応当発願 願生彼国 所以者何 得与如是
しょじょうぜんにん くえいッしょ しゃりほつ ふかいしょうぜんごん ふくとくいんねん
諸上善人 倶会一処 舎利弗 不可以少善根 福徳因縁
とくしょうひこく しゃりほつ にゃくうぜんなんし ぜんにょにん もんせつあみだぶつ しょうじみょうごう
得生彼国 舎利弗 若有善男子 善女人 聞説阿弥陀仏 執持名号
にゃくいちにち にゃくににち にゃくさんにち にゃくしにち にゃくごにち にゃくろくにち にゃくしちにち
若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日
いっしんふらん ごにんりんみょうしゅうじ あみだぶつ よしょしょうじゅ げんざいごぜん
一心不乱 其人臨命終時 阿弥陀仏 与諸聖衆 現在其前
ぜにんじゅうじ しんぷてんどう そくとくおうじょう あみだぶつ ごくらッこくど
是人終時 心不顛倒 即得往生 阿弥陀仏 極楽国土
「念仏往生のすすめ」
次に念仏による。浄土往生をすすめます。
「舎利弗よ、衆生にして[極楽国土および阿弥陀仏の聖衆(しょうじゅ)のことを]聞かん者、まさに願(がん)を発(おこ)して、かの国に生まれんと願うべし。所以(ゆえ)はいかに。かくのごときのもろもろの上善人(じょうぜんにん)とともに、一処(いっしょ)に会うことをうればなり。舎利弗よ、少なる善根(ぜんごん)・福徳(ふくとく)の因縁を持って、かの国に生まるることをうべからず。
舎利弗よ、もし善男子・善女人(ぜんにょにん)ありて、阿弥陀仏[の名号]を説くことを聞き、名号を執持(しゅうじ)せんに、もしは1日、もしは2日、もしは3日、もしは4日、もしは5日、もしは6日、もしは7日[の間]、一心不乱ならば、その人命(いのち)終る時に臨んで、阿弥陀仏、もろもろの聖衆とともに、現じてその前に在(ましま)さん。この人[命]終る時、心、顛倒(てんどう)せず。[命終るや]すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することをえん。」
この極楽国土およびそこにいる阿弥陀さまや聖衆(しょうじゅ)の方々のことを聞くならば、願いを発(おこ)してあの国に生まれようと願うべきである。なぜか。ああ、極楽国土に生まれたいなと思うと、こういうすぐれた方々と「一処」、同じところで会うことができるからである。これはまことにありがたいことであって、わずかの「善根(ぜんごん)・福徳」、つまり功徳を積んだからといって、なかなかすぐに生まれることはできないはずである。けれども、もし「善男子」または「善女人(ぜんにょにん)」、これは信仰を持っている人々のことですが、その人々が阿弥陀さまの「名号」、名前を聞いて、1日でも2日でも3日でも4日でも5日でも6日でも、あるいは7日でも一心不乱に心に思っているならば、その人の臨終のときに、阿弥陀さまはもろもろの「聖衆」、清らかな方々とともにその前においでくださる。この人は命の終るときには、心が「顛倒」することがない、つまり煩悩などのため、誤った見方をすることがない。純なる信仰を保って命が終わってから、阿弥陀さまの極楽国土に行って生まれることができるのである。
「阿弥陀経」を知ったならば、極楽往生を願うべき。なぜなら極楽で、善き人々と会うことになるから・・・。
「倶会一処(くえいっしょ)=ともに一つ処(ところ)で出会うこと」という思想は浄土系の宗教意識を高める上で大きな力があった。真宗では、念仏の信仰に生きる人は、この世のいのちが終わるとただちに浄土に生まれるとする。
しかし、少しばかりの善行では浄土には行けない。それこそ「一心不乱」に阿弥陀仏の名号を心に思っているならば、その人が亡くなるときに阿弥陀仏が迎えに来てくれる。
「さらに、阿弥陀仏の名号をつねに執持(しゅうじ)している人は、お迎えが来るとき、つまり命の終わるとき「死にたくない」とか「死ぬのがいやだ」などといって、心が顛倒することがありません。何となれば、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることが確定しているからです。」(参考:「あなただけの阿弥陀経」)
まさに「あの世(極楽浄土)」で、先に逝った人たちに会えるという教えが説かれている。
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