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2009年6月 1日 (月)

中村元の「阿弥陀経」(7/10)

この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第19回 極楽国土を欣求する-阿弥陀経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ4 大乗の教え(下)」(これ)を元に味わっていくもので今日はその第7回目、(原典は前回の後に極楽世界の素晴らしさが引き続き語られるが、ここでは省略されており)今回は阿弥陀仏の名号の由来について説かれる。

<こころをよむ/仏典「阿弥陀経」~その7>

しゃりほつ  お にょ い うん が  ひぶつ が  こ  ごう あ み  だ   しゃりほつ ひぶつこうみょうむりょう 

舎利弗 於汝意云何 彼仏何故 号阿弥陀 舎利弗 彼仏光明無量
しょうじっぽうこく む しょしょうげ ぜ こ  ごう い あ   み   だ  う   しゃりほつ ひぶつじゅみょう 
照十方国 無所障礙 是故号為阿弥陀 又舎利弗 彼仏寿命

ぎゅうごにんみん むりょうむへん あそう ぎ こう    こ  みょうあ み だ   しゃり ほつ あ  み だぶつ
及其人民 無量無辺 阿僧祗劫 故名阿弥陀 舎利弗 阿弥陀仏
じょうぶついらい おこんじっこう う  しゃ り ほつ ひぶつ う  むりょうむへん  しょうもんでし
成仏已来 於今十劫 又舎利弗 彼仏有無量無辺 声聞弟子
かいあ  ら  かん ひぜ さんしゅ  し しょのう ち  しょ ぼ さつしゅ やく ぶ  にょぜ  しゃりほつ 
皆阿羅漢 非是算数 之所能知 諸菩薩衆 亦復如是 舎利弗

ひぶっこく  ど じょうじゅにょぜ    く どくしょうごん
彼仏国土 成就如是 功徳荘厳

「阿弥陀の名号の由来」
こうした極楽世界のすばらしさが、もう少し語られたあと、ブッダはシャーリプトラ(舎利弗)に対し、阿弥陀仏について説きます。

「舎利弗よ、汝が意(こころ)においていかに。かの仏(ほとけ)、何がゆえに、阿弥陀と号す。舎利弗よ、かの仏、光明無量(こうみょうむりょう)にして、十万の国を照らすに、障礙(しょうげ)するところなし。このゆえに、号して阿弥陀をなす。また、舎利弗よ、かの仏の寿命およびその人民[の寿命]も、無量無辺、阿僧祗劫(あそうきこう)なり。かるがゆえに阿弥陀と名ずく。舎利弗よ、阿弥陀仏、仏となりてよりこのかた、いまに十劫(じっこう)なり。また、舎利弗よ、かの仏に無量無辺の声聞(しょうもん)の弟子あり。みな、阿羅漢にして、これ算術(さんじゅ)のよく知るところにあらず。もろもろの菩薩衆も、また、かくのごとし。舎利弗よ、かの仏国土には、かくのごとき功徳荘厳を成就せり。」

ブッダはシャーリプトラに、「お前はどう思うか、なぜこの仏さまは阿弥陀というのであるか」と問いかけ、そして説明します。かの仏さまの光明は無量であり、限られていない。十万の国を照らす。それに妨げがない。それからまた、極楽の仏さまの寿命、ならびにそこに住んでいる人の命も、無量無辺で、限られることがない。「阿僧祗(あそうぎ)」はアサンキューヤという音を写したもので、数えられないほど多いという意味、「劫」もまた非常に長い時期を申します。それで、阿弥陀と称されるのだ、というのですね。すでに述べたように、もとの言葉でアミタは「無量」という意味です。ですから、阿弥陀仏の名前、アミターバは「無量光」と訳され、アミターユスは「無量寿」と訳されるのです。音を漢字で写すと「阿弥陀」です。阿弥陀仏の仏となってからいままでに十劫を経ている。かの仏さまには、数えきれぬほど多ぜいの声聞(しょうもん)の弟子がある。「声聞」というのは仏さまの教えを聞いて忠実に実践する人たちです。彼らはみな阿羅漢である。修行を完成して尊敬さるべき人ですが、そうした弟子たちはとても数えきれない。菩薩方も同様に多くいる。極楽国土はこのようなすばらしい姿を具現している。

う  しゃ り ほつ ごくらく こく ど しゅじょうしょうじゃ かいぜあびばつち  ご  ちゅうた う
又舎利弗 極楽国土 衆生生者 皆是阿毘跋致 其中多有
いっしょうふしょ ご しゅじん た  ひ  ぜ さんじゅ しょのうち し   たんか  い  むりょうむへん 
一生補処 其数甚多 非是算数 所能知之 但可以無量無辺

あ そう ぎ こうせっ
阿僧祗劫説

「また、舎利弗よ、極楽国土には、衆生生まれ者、みなこれ阿毘跋致(あびばっち)なり。その中に多く、一生補処(いっしょうふしょう)[の菩薩]あり。その数、甚だ多し。これ算数のよくこれを知るところにあらず。ただ、無量無辺・阿僧祗劫(あそうぎこう)をもって説くべし。」

「阿毘跋致(あびばっち)」はアヴァイヴァルティカという音を写したのですが、不退転、退くことがないという意味です。「一生補処(いっしょうふしょう)」は菩薩の最高位。迷いの世界に縛りつけられているのは、この生が最後で、この一生がすぎれば、つぎには仏の位を補う人、釈迦如来の場所を補う人という意味です。その数が非常に多い。とても数えきれない。だから、「無量無辺」「阿僧祗劫」をもって説くべきである、というのです。

阿弥陀仏は、①無量光(むりょうこう=空間的無限定性)と、②無量寿(むりょうじゅ=時間的無限定性)の二つの側面をそなえておられる。
阿弥陀仏の「光明」は、①数量で計り知れず②十方の国々を照らし③礙(さまた)げられないので、阿弥陀(無量の意)という。
そして「光明」は単に単に下界や対象を照らすのではなく、迷い苦しむ私たちの心の中を照らす。そして阿弥陀仏は、私たちの迷いが続く限り永遠に救済し続ける仏なので、無量寿という性質(超時間性)を持っている。
そして数限りない阿羅漢や菩薩が、弟子として仏に従っている。
そして阿弥陀の極楽国土に生まれた衆生は、清らかな求道者(菩薩)で、さとりを求めるための厳しい修行に退く者は一人もいない(不退転)。(参考:「あなただけの阿弥陀経」)

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