さだまさしの「惜春」
さだまさしの「惜春」・・・・。
なぜか今日は、この歌の旋律が頭に浮かんだ・・・。理由は分からない・・・・。
<さだまさしの「惜春」>
「惜春」
作詩/作曲:さだまさし君は坂道を登ってゆく
僕は坂道を下りてゆく
すれ違い坂は春の名残りに
木蓮の香り降る夕暮れ薄墨の中に沈みゆく愛を
涙と交互に掘り起こせば
出逢うのはいつもあたたかな嘘と
わずかばかりの夢の切れはしやさしさ故に傷ついて
やさしさ故に傷つけて君は振り返る弱さもなく
僕は引き止める強さもなく
ただ立ち尽くせば背中合わせに
おだやかに落ちてゆく二人君は忘れ去る強さもなく
僕は思い出す弱さもなく
ただ音もたてず時の流れに
ふりつもるさびしさの気配倒れゆく愛の光と影から
こぼれた真実を抱き起こせば
哀しみはつまり風に追われては
枯葉がくり返す吹き溜りやさしさ故に傷ついて
やさしさ故に傷つけて君は坂道を登ってゆく
僕は坂道を下りてゆく
すれ違い坂は春の名残りに
木蓮の香り降る夕暮れ
この歌は、1979年の発売だという。もう30年も前の歌だが、なぜか滲みる・・・。(写真はクリックで拡大)
しかし「哲学者:さだまさし」の歌詞は、相変わらず意味深い。「惜春」とは“春を惜しむ”か・・・。ところで「春」とは何だ? 「昔の良き時代」か?・・・
この歌も、「君」という文字に、勝手に色々なものを当てはめてみると、想像の世界は広がる・・・。
話は飛ぶが、昨日、中原十六世名人がこの3月末をもって現役を引退する、との報を聞いた。中原名人と自分とは、年齢がほぼ同じということもあり、昨夜の記者会見のテレビに、つい聞き入ってしまった。
もちろん自分は、将棋はまったく指せないが、親父や息子が将棋キチであったため、将棋界については“少しだけ”気にしていた。だから、自分と年代がごく近い中原名人が、昨年8月に脳出血で倒れたときは、ビックリ・・・。
昨日の記者会見では、左手足が不自由だが、今後は執筆活動をして行くと言っていた。
まだ61歳・・・。あまりに早い引退である。でも、将棋は特に頭脳の過酷な戦いゆえ、現役継続は難しいのだろう・・。
また中原名人本人は、自身のあまりの激変に戸惑っていることだろう。その心中はいかばかりか・・・、察して余りある。なぜ自分の手足が動かないのか・・、なぜ将棋が指せないのか・・・・、と。
もちろん中原名人にとっての「春」は「健康な自分」だろう。
ところで、自分にとっての「春」は何だろう・・・、とフト思う。「惜春」の“春”とは・・・
少なくとも「会社の業績」や「株価」で無い事だけは確か。(←かな~~??)
こんな名曲を聴きながら、そんな無粋なことを思う訳が無いではないか・・・!!
●メモ:カウント~34万
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