「子ども部屋」~思い出すこと・・
今朝の朝日新聞の「生活」欄に「子どもの部屋、どうする? 個室より“居どころ”作り」という記事があった。記事の主旨は“入学・進級の季節が近付いてきました。そろそろ子ども部屋を作ったほうがいいか・・・” “小学校入学を機に個室を与えたら・・・”
自分の場合、この「子ども部屋=個室」は自分の人生に非常に大きな影響を与えたと思うので、思い出すままにメモしてみる。
自分が初めて勉強部屋を与えられたのは小学校5年生の時だった。自分が生まれたのは埼玉だったが、単身赴任していた茨城の親父の会社に社宅が出来たため、その社宅に入る事になった。昭和33年3月のことである。
茨城の社宅には、6畳二間の他に、独立した3畳の部屋があり、そこを当時中学2年だった兄貴と一緒に“勉強部屋”として使うことになった。そして同時に机を買ってもらった。いま思うと、単に引き出しが二つ付いただけのシンプルな机だったが、とにかく嬉しかった。そこに、“自分の原点=スタートライン”があったように思う。つまり自分はそこで初めて「自分の居場所」を得た。
机に座ることが嬉しくて、家に居るときはだいたいそこに座っていた。自分の城である。高校・大学受験の兄と一緒に、その3畳の部屋で5年を過ごした。もちろん話などはしない。そして、かなり早い時期に、カーテンで自分の机の周りを囲った。いま思うと、たった半畳の机の周りを仕切ることによって、机がまさに“自分のすみか”となった。そこに居ると、まさに自分の世界・・・。鉱石ラジオや短波ラジオを作っては世界の日本語放送を聞いた。もちろんイヤホンで。そういえば、人生でたった一度ハチに刺された事があったが、それは屋根に登って短波ラジオのためのアンテナのエナメル線を張っていた時だった・・。
イヤホンで、良く落語を聞いていたことを思い出す。そして、そっと半田付けをしていると、隣の兄貴から「くさい!」と怒鳴られた。そりゃそうだ。1m向こうは大学受験勉強中だもの・・・。
居間に自分の居場所が無かったこともあるが、いつも机に座っているので、結局勉強もすることになった。そして先生から褒められるとそれを機にまた勉強する・・・、という回転が生まれ、それがその後、自分の人生に大きな意味を持つ事になる・・・。
話が変わるが、結婚したころ、会社の同僚・同期の間で土地・家を買う事がはやり、自分も上の子どもが生まれた頃に、縁あって土地を買い、家を建てた。もちろん会社から大きな借金をして・・。
自分もそうだったので、子供には個室を・・、と思っていたこともあり、そこに10年住んだあと、公団の土地の抽選に当たったこともあって、住み替え、子どものそれぞれの部屋を確保した。
考えてみると、昔は“自室”など、夢のまた夢・・・。それが今は“小学校に上がるので・・”の“当たり前”の時代になっているらしい。でも、やはり子どもにとって勉強部屋は必要だと思う。つまり、何よりも“自分の城”は絶対に必要だと思うから・・・。
半年位前だったか、マンションに応募した(ここ)。その時も、もう家には居ない息子が帰った時の“城”をどうするかは議論した。まあ抽選に外れたのでその心配も無くなり、相変わらず息子どもは、今までの自分の部屋に当然のごとく帰ってくるが・・・・・
今夜もテレビで、派遣を切られた労働者が路上生活になっていく姿を伝えていた。この人たちは、まさに“居場所”が無くなっている・・・。
小学校に上がるので“子ども部屋を・・・”という話題と、派遣切りに遭った人の路上生活の話題・・。何ともやり切れない理想と現実との乖離である。
(付録=子ども部屋を作ったとき、二人の息子に「どの部屋にする?」と聞いたら、小学校2年だった下の息子が「ドロボウが入ってきたときに、一番安全なこの部屋にする」と一番奥の部屋を選んだことがあった。この息子が将来自分の家を建てたときに、相変わらず「一番奥の部屋がお父さん部屋!」と言うのか、それとも玄関から一番近い部屋を自分の部屋にするのか、いまから興味津津(しんしん)ではある!?)
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