昭和22年の出来事(0歳)~「鐘の鳴る丘」
朝、新橋駅構内のパン屋でコーヒーを片手にNHKラジオ深夜便「特集・わが人生の歌語り第47回 五木寛之」を聞きながら、フト思った。“自分も真似してみようかな・・・”と。
この番組は、五木寛之氏の歩んできた歴史をひも解きながら、当時流行していた歌を一緒に聞く番組で、今回(2009/2/22放送)は「昭和54年」だった。当blogも“人生を振り返る”のがコンセプト。よって、同じように自分の生きてきた年代を振り返ってみようかと・・・
そんな訳で、今日は自分の生まれた昭和22年(1947年)について振り返ってみる。(・・・と言っても、自分に記憶がある訳では無いので、世の中の動きだけだが・・・)
終戦後2年目の昭和22年は、戦争から帰還した人や、戦争が終って安心した人たちが子供を作ったため、空前のベビーブームだった。今ではそれを「第一次ベビーブーム」というが、当時は第一次とは言わなかった。
しかし、今まで「昭和22年度生まれは250万人で最も多い」と認識していたが、調べたらどうも違うらしい。(出典はここ)
昭和22 (1947年) 2,679 千人
昭和23 (1948年) 2,682 千人
昭和24 (1949年) 2,697 千人
昭和25 (1950年) 2,338 千人
で、3年間殆ど同じだが、タッチの差で昭和22年生まれは、昭和23年・24年生まれに負けている。残念!?
しかし、2007年は106万人というからざっと2.5倍。近所でもどの家にも子供がいた。しかも、我が家のような3人など珍しくも無く・・・
この年の出来事を調べてみると、まず4月に六・三・三学制が実施され、国民学校が小学校と改名されて学校給食が開始された年だという。
物価は、タバコが2円50銭、 新聞が月20円、封切映画が20円の時代。銀行員の給料は220円位だったという。 ラジオでは、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が大ヒット。このドラマの主題歌「とんがり帽子」がヒットしたという。(もちろん自分は知らない)
古関裕而のこの明るい歌で、皆、貧しいながらも明るい未来を目指していたのだろう。
<川田正子の「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」>
「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」
作詞:菊田一夫
作曲:古関裕而
歌 :川田正子1)緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小山羊も ないてます
風はそよそよ 丘の上
黄色いお窓は おいらの家よ2)緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いるときに
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母の
元気でいろよと 言う声よ
口笛吹いて おいらは元気3)とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらは帰る 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの家 おいらの家よ4)おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる 今日よりも
明日はもっと しあわせに
みんな仲良く おやすみなさい
戦後まもない頃の歌とあって「おいらは帰る 屋根の下 父さん母さん いないけど 丘のあの家 おいらの家よ」という歌詞に戦争の影を見て取れる。
ともあれ、戦後皆が元気を取り戻していた頃に、自分はこの世に生を受けたというわけ。(タイトルの(0)は当時ゼロ歳を意味する。~続く)
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