伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」を読む
読み終わった後のこの感動、心の暖かさ、そしてこの清清しい気分は一体何なのだろう・・・。今までに味わったことが無い、非常にユニークな本と出会った・・・。
カミさんが「この本、評判が良いらしいので、オトーさんのために買ってきた・・」と言って、(前例の無い事だったが)一冊の本を手渡されたのが一ヶ月位前だっただろうか・・・
しばらく放っておいたが、本の名前も良く認識しないまま、仕方が無いから読むか・・・・と、カバーを取って裸の本をにカバンに投げ込み、通勤電車の中で読み出した。通勤の行きは新聞、帰りは居眠り、と決まっている毎日のパターンの中で、つまらない話のはずが、なぜか居眠りをしまいまま降りる駅に着くことが多くなった。(つまり本を読んでいて“居眠れ”ないのである!)
読み終わって、改めて本の題を見たら「ゴールデンスランバー」とある。どの様な位置付けの本かとNetで見たら「2008年本屋大賞受賞」とある。本屋大賞は自分も記事を書いた・・・、と(自分のblogで)検索してみたら、あった(ここ)。何と本屋大賞の1位ではないか・・(ったく! 自分で書いていながら、この認識はいったい何なんだ!・・・と自分に腹を立てた)~さらに本のカバーを見たら、本屋大賞受賞とオビに大きく書いてある・・・
前置きはこの位にして・・・。
この本は実に不思議な本だ。フト漱石の「我輩は猫である」を思い出した。それと、パスコンのスクリーンセーバーも連想する。いや玉突き台かな?
つまり、よくもまあ「遊ぶ」事が出来る・・、と感じた。伏線が色々と張られているのだろうが、それに慣れない自分にとっては「文章の遊び」、つまり、どうでも良いような事を延々と書いているように感じる。だから昔、漱石の“猫”を読んだ時と同じ印象なのだ。本題のストーリーとは関係の無いような事柄を、細々と書いている(・・ように見える)。
しかも、読んで行くと“時間軸”が飛ぶ。「今」から「過去」に。そして他の登場人物の過去に・・。そして場面が飛ぶ。頭の回転の悪い自分は、付いて行くのがなかなか大変・・。つまり、テレビドラマでも「名前」よりも「顔」で識別する自分には、ストーリーに付いて行くのが大変・・・というわけ。
物語が、時間軸に沿って展開してくれると分かり易いのだが、パッと飛ぶので、本をバラバラにして、登場人物ごとに時間軸に沿って並べ直したい位・・・
そして、物語の時間軸がたった2日間だけのせいか、話が玉突き台の中で、玉が跳ね返ってエリアから出られない感じ・・・。
内容的には、映画の「逃亡者」と同じく、濡れ衣を着せられて逃亡する話だが、フト昔の事を思い出した・・・。
昔、学生時代に「朝日ジャーナル」をいう雑誌が流行った。それで読んだことだが、「テレビの画面が、デモ隊が投石をしている所を映せば、視聴者は警察が可哀想と思い、警察の棍棒でデモ隊が叩かれている所を映せば、デモ隊が可哀想と思う」。つまりマスコミは、何を流すか(どの画面を取るか)で民衆の扇動が出来る・・。その恐ろしさもこの小説は描いている。
でも、この小説の全体のテーマは、“人と人とのつながり”“信頼関係”か・・・・
元カレは、別れた後は“他人”にはなっても“友人”には戻れないはずが、援助を差し伸べたり・・・。同僚・友人は、誰一人として彼を犯人だと思う人は居ない・・・
特に親子の信頼の表現は圧巻。最後に出てくる「痴漢は死ね」の言葉の重みは、この本を読まなければ分からない。そして「たいへんよくできました」に心が暖かくなる・・・・。
“まったく言葉遊びばかりしている小説・・”という印象が、最後の数ページで見事にひっくり返された。最後の数ページのために、前の数百ページがある・・という本。今まで巡り会ったことのない、実に不思議な本であった。
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