障害者自立支援法を考える(6)~作った側の論理
今朝の朝日新聞『耕論』(P9)に「障害者の自立 支援いかに」という記事があった。3者の 立場、つまり、この法律を作った立場、障害者の委員として改正を求める立場、そして障害児を育てた経験からの立場、それぞれの主張が書かれており、障害者自立支援法の問題点を考える上で有用な記事だと思った。よって一言も省略せずに各々の主張を「事実」として捉えてみたい。(以下、2008年12月21日付け朝日新聞「耕論」より)
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「本人責任」で解決できぬ ~福島 智さん(東京大学教授)
「厚生労働省の社会保障審議会障害者部会の委員として今春から障害者自立支援法の見直しを議論してきた。16日まとまった報告書を採点するとしたら100点満点で30点。大学の試験なら落第だ。自公連立政権で合意している「抜本的な見直しの検討」は、部会では何もできなかった。
利用者の負担のあり方や所得保障、作業所への報酬など多くの点で本質的な改革は打ち出せなかった。私は新たな法律を作るべきだと思うが、個々の問題ごとに見直す路線が最初から敷かれていた。
国内の障害者は推定724万人で、ざっと20人に1人。3年たった支援法で自立が進んだとは実感できない。自立とは、自分の財布と相談して今日の晩ご飯を何にするか自分で決め、恋ができること。つまり、人の手助けを得ながら自分の生活を自分で決めること、恋が実るかどうかは別としていろんな人と自由に出会える環境にいることだ。施設よりも、やはり地域で暮らすことで可能性は広がる。
だが、支援法では、重い障害のある人が地域で暮らそうとしても、事実上の上限があり、十分な支援が受けられない。障害者が通う作業所への報酬も「月払い」から、不安定な「日払い」になった。支えるヘルパーへの報酬も低い。
最大の問題はそれまで所得に応じて利用料を払う「応能負担」だったのが、サービス料の原則1割を支払う「応益負担」になったことだ。負担することで消費者の権利が守られるという主張はナンセンスだ。お金を出せない人は何も言えないのだろうか。
本来、自立とはひとりの人間としての生存そのものだ。憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」は、国民として無条件に最低限の生存が保障されるということだ。例えば、食事やトイレ、入浴の介助、呼吸器のケアなど命に直結する支援は、障害者から利用料を取るべきではない。
他者とのコミュニケーションや移動の自由、情報へのアクセスといった文化的な生活を送るためのニーズも、ある程度までは無料にすべきだ。
私は3歳で右目、9歳で左目が見えなくなり、14歳で右耳、18歳で左耳が聞こえなくなり、盲ろう者となった。他者とのコミュニケーションが断絶された時、私の存在は消えた。孤独という言葉では表現できない、絶対的孤立だった。母が考えた指点字による通訳が始まってようやく生きていると思えた。
人はコミュニケーションができないと死ぬ。生存にかかわる支援を否定されることが死刑執行とすれば、こちらは終身禁固刑のようなものだ。
障害者は、行動とコミュニケーションが制限されているという意味で、いわば「目に見えない透明な壁の刑務所」に収監されている存在だ。それは生まれながらの運命だったり、不慮の事故だったり、個人の責任を超えた事情によるところが大きい。たとえ1割でも本人に利用料を求めるのは、無実の罪で閉じこめられた刑務所から出るために保釈金を払えということだ。
生きるために不可欠な支援を「個人の利益」とする「応益負担」は、障害を本人の責任とする考え方に結びつく。」
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国民的理解に「負担」必要 ~京極高宣さん(国立社会保障・人口問題研究所長)
「障害者自立支援法は「応益負担だからけしからん」という意見がある。しかし、その批判は必ずしもあたっていない。低所得者には負担の上限を低くする応能的な配慮がなされている。応益か応能かという空中戦ではなく、どんな負担なら国民も納得できるかを議論すべきだ。
「利用者が負担すること」にはいくつかの機能がある。一つは財源の確保。二つ目は需要コントロール。もちろん負担が厳しすぎると利用の停止や抑制につながるので、適度な負担にしなければならない。三つ目は「ただ乗り」の横行を防ぐことだ。
四つ目はシンボル効果。多少でも自己負担することで権利性が生まれる。「払っているのだから、もっとサービスを」と言える。最後に、呼び水効果。障害者も1割を負担しているということで、国の支出に国民的合意が得やすくなった。実際にこの3年間で障害者福祉の予算が1400億円程度も増えた。これほどの伸びは今までないことだ。
利用者負担の考え方は、私が部会長を務めた障害者部会で骨子を決め、導入された。負担せずサービスが少ない方がいいか、負担は若干増えるがサービスを使いやすくする方がいいか。選択肢はこの二つしかないと、私は言ってきた。かなり抵抗はあったが、全体として後者で一致したと思っている。
利用者負担の軽減措置もとられ、1割でなく平均3%程度の負担に抑えられている。確かに導入当初は低所得者への配慮が足りなかった。サービスも使ってもらうことが本来の目的で、使わせないような重い負担ではいけない。
障害者も同じ市民と考えるべきで、市民権が剥奪されている場合には合理的配慮が必要だが、市民権以上のものを置くのは反対だ。介護保険や後期高齢者医療制度も1割負担だ。そうでないと国民的理解は得られず行き詰まる。
支援法の施行前に、重度の知的障害者が暮らす施設に行った事がある。一番長い入所者は1千万円ぐらいの預貯金を持っていた。多くは600万円。施設でかかる費用も食事もただで、障害年金は一切使わなかった。ところが、在宅の人は同じ障害年金から食費を出している。不公平ではないかと、支援法で食費も取るようになった。
負担を求める以上、所得保障は必要だ。消費税が上がった時に、障害年金を現在の1級、2級のほか、さらに手厚い特級を設けたい。2級で6万6千円、1級でその1.25倍という水準から、1.5倍ぐらいに上げたほうがいい。
将来的には介護保険の「普遍化」が必要だ。介護保険の中に障害者サービスを入れる「統合」ではなく、介護保険のサービスを障害者も使える部分は使おうという考えだ。また、24時間介護が必要な重度の障害者は、医療保険の対象でもあり福祉の対象でもあるようにした方がいい。
内閣府の調査では、支援法でサービスを利用している人の3分の2が満足している。与党は利用者負担の見直しを検討しているが、原則は守ってもらいたい。応能負担に戻すと障害者予算に財政難のしわよせが来かねないからだ。」
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重度障害者の生活を見て ~石井めぐみさん(俳優)
「障害者自立支援法が施行される前、自治体の勉強会に通いました。何がどう変わるのか、自治体の担当者も「始まってみないと分からない」と言っていました。実施されると、重い障害のある人ほどホームヘルプサービスなどを必要とするため、ぎりぎりの生活をしていた上に重い負担がのしかかってきました。今、改めて思います。現場を知らないまま法律が決まる、と。
全国には約5千カ所の小規模作業所や、地域活動支援センターがあって、約8万人の障害者が交流したり、働いたりしています。障害者にとって作業所に通って働くことは、本当に生きがいなのです。その生きがいをあきらめざるを得なくなるような「自立支援」とは、いったい何のための法律でしょう。
私は、長男が重度の脳性麻痺で、養護学校に通う年になったら「チューブで栄養をとる子は通えない」と言われ、驚きました。90年代のことですが、私の住む東京都では、チューブでの栄養注入やたんの吸引は「医療行為」で、医師や看護師しかできない、学校での「医療行為」はできない、という。私は注入や吸引という「不法な医療行為」をして子を育てていたことになるわけです。都や当時の文部省、厚生省にかけあいました。しかし、教育と医療がそれぞれ「管轄外」という縦割り行政の壁で、現場は置き去りにされる。結局、「医療行為」を「医療的日常行為」という言葉に置き換えて黙認されましたが、為政者は現場の実態を知らないのです。
障害児の活動にかかわって全国各地で講演したり、作業所や地域活動支援センターを回ったりして、障害者や母親たちの話を見聞きします。
作業所では時給100円、150円でクッキーを作ったり、わずかな工賃で、寝たきりのままチューブで栄養をとりながらは和紙をちぎって絵はがきを作ったりしています。働くことが生きがいなのに、障害者へのサービス料が原則1割負担。軽減措置はあっても、光熱費ばかりか部屋の電気を消すにも有料サービスを使用しなければならないといった事態が相次いでいます。
地域差もあって、財政難の市町村では補助金も十分出せず、親の負担が増えたり、閉鎖する作業所も出たりしています。国が各都道府県に求めた「工賃倍増計画」で給料が少し上がった人たちもいますが、障害が重く作業がしにくい人は最低限の生活もできない。支援法で、障害者の格差も広がっている。
私はサービス料をゼロにしろとは言いません。しかし、軽減措置などでごまかさず、「応益負担」の見直しに踏みこむべきです。
私の長男は8歳で亡くなりましたが、障害をもって生きるということは、並はずれた魂の強さを持つということなんです。毎日、生活上の不便さと障害を乗り越えて生きてゆく。その力に私たちも大きなパワーをもらっているんです。そうした障害者の「自立」とは何でしょうか。
それは、本人が誇りをもって堂々と生きていけると感じられること、だと思います。そのための最低限の生活は保障されるべきです。」
勝手な言葉の取捨選択をしないために長々と書いたが、この法律を作った側の意見(京極さん)を初めて聞いた。そこには、石井さんが指摘している「現場を知らないまま法律が決まる」という実態が如実に現れている。
言葉尻を捕らえて失礼だが「支援法の施行前に、重度の知的障害者が暮らす施設に“行った事がある”。一番長い入所者は1千万円ぐらいの預貯金を持っていた。」とある。
一度“行ってみたら”、(障害年金を使おうにも使えない人が積もり積もって)1千万円の貯金になっているとは、けしからん!だから全員から金を取る事にした・・」と聞こえる。
それに「どんな負担なら国民も納得できるか」「国の支出に国民的合意が得やすくなった」といった、“国民が障害者支援を反対している”という視点が気になる。「障害者を支援し過ぎて政府はけしからん!」というデモでもあっただろうか?
この3者の意見を聞いてみて、現場を知らない「部会長」の権限(思い込み)で(あまりにも影響が大きい)法律の骨子が作られ、それを無批判に通過させた国会がその元凶としたら、あまりに寂しい。
そして、委員だった福島さんが言うように、まさにせっかくの「抜本的な見直しの検討」が、自公連立政権の合意事項(=国民への約束)であるにもかかわらず、既に官僚が路線を敷いており、改定そのものが抹殺されようとしているとしたら、非常に残念だ。
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コメント
はじめまして。
後天的な原因によるてんかんと知的障碍と付き合っている30代の息子を持つ母親です。
私も朝日新聞の記事を読みました。ありがとうございます、取り上げていただいて。
この京極さんのおっしゃっている施設入所者の預貯金があるという話、もっと実情をしって欲しいと思います。
年老いた親が良い年頃の障碍を持った子供より1日だけ長生きしたいと言う思いがその預貯金に表れているんだと思っています。
子供に必要な物は親が自分の生活を切り詰めて出して子供の年金は親亡き後困らない様にとの願いから使わなかったからです。
衣服(普段着・防寒着・下着等)を購入したり、クリーニング代、教養娯楽代など、以前の制度でも、年金から使っていたらお金が残っていなかったでしょう。
保護者会という名で入所するために数百万と言う寄付金を納め、月々、自立支援法以前は施設維持費と言う名の金額を収め、現在は支援外実費という名の請求書がきます。
とうとう子供の年金通帳が赤になったという連絡がありました。
日常必要な費用を負担した上で請求金額を納めなければいけません。
子供の将来を考えあぐねています。
投稿: やえちゃん | 2008年12月28日 (日) 15:50
やえちゃん さん
コメントありがとうございます。
確かに京極さんの目線が残念です。「国から養ってもらいながら、数百万の財産を持つとはケシカラン」という視点でしょうが・・・。
親にしてみると、自分が死んだ後の事が一番心配。だからせめて本人名義のお金だけでも、倹約して残しておきたい・・・。
京極さんも、単に現象だけ見ないで、その背景の事情に踏み込んで貰えれば、少しは理解されたのかも・・。
しかし、現実は厳しいですね。ある確率で生まれる子を、社会全体で支える仕組みが、もっと発展しないといけませんよね。海外ではどうなんでしょう・・。今度調べてみたいと思います。
投稿: エムズの片割れ | 2008年12月28日 (日) 22:57