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2008年11月 8日 (土)

中村元の「観音経」(8/13)

この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連 Image01261 続講義「こころをよむ/仏典」(CDはこれ)の「第18回 願望をかなえる-観音経」の部分を、『中村先生の声』と『原文』『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていくもので、今日はその第8回目である。

<こころをよむ/仏典「観音経」~その8CDはこれ

むじんに ぜかんぜおんぼさつ じょうじゅにょぜくどく いしゅじゅぎょう ゆうしょこくど
無尽意 是観世音菩薩 成就如是功徳 以種種形 遊諸國土
どだつしゅじょう ぜこにょとう おうとういっしんくようかんぜおんぼさつ
度脱衆生 是故汝等 応當一心供養観世音菩薩
ぜかんぜおんぼさつまかさつ おふいきゅうなんしちゅう のうせむい ぜこししゃばせかい
是観世音菩薩摩訶薩 於怖畏急難之中 能施無畏 是故此娑婆世界
かいごうしい せむいしゃ むじんにぼさつ びゃくぶつごん せそん
皆号之為 施無畏者 無尽意菩薩 白仏言 世尊
がこんとうくようかんぜおんぼさつ そくげきょうしゅうほうしゅようらくげじきひゃくせんりょうごん
我今當供養観世音菩薩 即解頸衆宝珠瓔珞價直百千両金
にいよし さくぜごん にんじゃ じゅしほっせちんぽうようらく じかんぜおんぼさつ
而以与之 作是言 仁者 受此法施珍宝瓔珞 時観世音菩薩
ふこうじゅし むじんに ぶびゃくかんぜおんぼさごん じんしゃ みんがとうこ じゅしようらく
不肯受之 無尽意 復白観世音菩薩言 仁者 愍我等故 受此瓔珞
にじ ぶつごうかんぜおんぼさつ とうみんしむじんにぼさつ ぎゅうししゅう
爾時 仏告観世音菩薩 当愍此無尽意菩薩 及四衆
てん りゅう やしゃ けんだつば あしゅら かるら きんならまごらか にんぴにんとうこ
天 龍 夜叉 乾闥婆 阿脩羅 迦褸羅 緊那羅 摩羅伽 人非人等故
じゅぜようらく そくじかんぜおんぼさつ みんしょししゅう ぎゅうおてん
受是瓔珞 即時観世音菩薩 愍諸四衆 及於天
りゅう にんぴにんとう じゅごようらく ぶんさにぶん いちぶんぶしゃかむにぶつ いちぶんたほうぶっとう
龍 人非人等 受其瓔珞 分作二分一分奉釈迦牟尼仏一分奉多宝仏塔
むじんに かんぜおんぼさつ うにょぜじざいじんりき ゆうおしゃばせかい
無尽意 観世音菩薩 有如是自在神力 遊於娑婆世界

「無人意よ、この観世音菩薩は、かくの如きの功徳を成就して、種種の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すく)うなり。この故に、汝等よ、まさに一心に観世音菩薩を供養すべし。この観世音菩薩摩訶薩は怖畏(おそれ)の急難の中において、能く無畏(むい)を施す。この故に、この娑婆世界に皆これを号(なづ)けて施無畏者(せむいしゃ)となすなり。」

 

この「無畏(むい)」は、さきほど申したように、畏れのないこと。つまり安全にしてくださる、畏れを去ってくださる、という意味です。だから、観音さまのことを「施無畏者」といいます。無畏を施す、与える者というわけです。

無尽意菩薩は、仏に白(もう)して言わく「世尊よ、我今、まさに観世音菩薩を供養すべし」と。すなわち頸(くび)の衆(もろもろ)の宝珠(ほうじゅ)の瓔珞(ようらく)の価、百千両の金(こがね)に直(あたい)するを解きて、以ってこれを与えて、この言(ことば)を作(な)す「仁者(きみ)よ、この法施(ほっせ)の珍しき宝の瓔珞を受けたまえ」と。
時に観世音菩薩は肯(あ)えてこれを受けず。無尽意菩薩はまた、観世音菩薩に白(もう)して言わく「仁者(きみ)よ、我等を愍(あわ)れむが故に、この瓔珞を受けたまえと」と。
その時、仏は観世音菩薩に告げたもう「まさにこの無尽意菩薩とおよび四衆と天・竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦褸羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩羅伽(まごらか)、人・非人等を愍れむが故に、この瓔珞を受くべし」と。
即時(そのとき)、観世音菩薩は、諸の四衆および天・竜・人・非人等を愍れみて、その瓔珞を受け、分かちて二分と作し、一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏の塔に奉れり。
「無尽意菩薩よ、観世音菩薩には、かくの如き自在の神力ありて、娑婆世界に遊ぶなり」と。

そこで、そういう教えを聞きまして、無尽意菩薩は「ああ、わたしも観音さまを供養しましょう」と言い、瓔珞、宝の玉を連ねてあるような首飾り、それをさし上げて「これを受けてください」。そうすると、観音さまはそれを受けなかった。無人意は重ねて、「われらを愍(あわ)れむがゆえに、この瓔珞をお受けください」とお願いした。
すると仏さまは、観音さまに「とにかくみな生きとし生けるもののためにこれを受けなさい」といわれた。そこで観音さまは生きとし生けるもののために、その瓔珞、首飾りを受けて、分けて二つにして、一つは仏にさし上げ、一つは多宝仏の塔に奉った、というのです。
どこまでも生きとし生けるもののことを考えられるけれども、自分では受けない、という崇高な気持ちがここに具象的に表現されております。

ここの所は、主役の観音菩薩と、衆生の代表としての無尽意菩薩、そしてアドバイザーとしての仏さま(釈迦牟尼)が絵のように見える。
仏教には「布施」が3種類ある。金や物を施す「財施」、教えを説く「法施(ほうせ)」、そして人に無畏を施す「無畏施(むいせ)」。観音さまは人々が恐怖におののいている時に「心配しなくてよいよ」と安心を与えてくださる。だから「施無畏者(せむいしゃ)」とも呼ばれる。

次に、無尽意菩薩は、観音菩薩を供養するために、自分が身に付けていた瓔珞(ようらく=サンスクリット本では真珠の首飾り)を観音さまに差し出す。しかし、観音さまは、自己の仏道修行として人々を救済されてきたので、それを受け取らない。受け取ったらそれは修行ではなくなってしまうので拒否。しかし無尽意菩薩は、一度断られて引っ込んでは男がすたる。再度受け取るようにチャレンジ。すると、見かねた仏さまが受け取るように、とアドバイス。そして観音さまは「そこまで言われては」と受け取る。しかし、受け取った瓔珞を二つに分けて、一つを仏さまに、もう一つを多宝仏の塔に掛けたんだってさ・・・

まあ我々が住む娑婆世界では、何でも自分のため、自分の家族のため等々、自分たち中心に物事を考えて行動してしまう。その点、さすがは観音さま・・・・。

しかし我々も、このトシにもなると「無畏施(むいせ)」が一番有り難いような気がする。例えば病気になったとき、手術をする時など、金も物も、何も有り難くない。有り難いのは、まさに「安心」の心。観音さまは、まさに我々の味方である。

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