藤山一郎が歌う「千曲川旅情のうた(小諸なる古城のほとり)」
今日はなぜか「千曲川旅情のうた(小諸なる古城のほとり)」である。
自分がこの歌を知ったのは、藤山一郎のLPを買ったとき。ピアノとチェロとフルートの簡素な伴奏で歌う藤山一郎の歌唱に、聞き入ったものだ。この日本の代表的な名歌曲は、色々な歌手が歌っているが、自分はやはり(初めて聞いた)藤山一郎のこの録音が一番好きだ。
<藤山一郎の「千曲川旅情のうた(小諸なる古城のほとり)」>
「千曲川旅情のうた」
作詞:島崎藤村
作曲:弘田龍太郎
歌 :藤山一郎小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流るあたゝかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ暮行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の
岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
弘田龍太郎の作曲になるこの歌曲は、題が二つあるようだ。「小諸なる古城のほとり」と「千曲川旅情の歌」。JASRACのデータベースにも両方載っている。ただし、藤山一郎の歌は「小諸なる古城のほとり」で登録されている。
Netで調べてみると、初めて出た島崎藤村の詩集「落梅集」(明治34年)には、「小諸なる古城のほとり」と「千曲川旅情の歌」は別々の詩であり、それを後に、藤村自身が自選藤村詩抄で「千曲川旅情の歌 一、二」と改題したもの。このために二つの題があるらしい。
藤村は27歳の時(明治32年)に、信州小諸義塾の創立者木村熊二の招きで、国語と英語の教師として赴任してきたが、塾の経営は苦しく、給料は減額されたが、土地の豪農神津家の援助のもとで詩集や小説「破戒」などを書き続けたという。 この詩もその頃作られたという。その後、藤村自身が軽井沢の星野温泉に投宿していた弘田龍太郎(1892-1952)を訪ね、直接作曲を依頼したという。そしてこの歌曲は大正14年8月31日に作曲されたという。信州小諸の懐古園に歌碑がある。
思い出すと、小諸の懐古園には今までに2回行った事がある。学生の時と、10年位前に家族で行った。メモを見ると、1999年11月27日とある。中央道須玉インターで降りて、清里から小諸に行き、軽井沢の会社の保養所で泊まったっけ。
話は変わるが、クラシックの世界には、同じ曲を演奏しても、歴史に残る「名演奏」というものが残っている。フルトヴェングラー/ベルリン・フィルの「運命」の1947年5月27日の歴史的ライブ録音(これ)などは、これに該当するだろう。
藤山一郎のこの歌唱もそれと同じ・・と言ったら、言い過ぎだろうか??
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