「病気」と闘うか?
今日は野暮用で、カミさんと一緒に品川まで行った。電車の中でウトウトしながら東京駅に着くと、「“片割れ”は何も気にしないのだから・・」と言う。聞くと、自分の右隣に座っていた奥さんが、何やら大きなレントゲン写真を持っていたのだそうだ。しかも日付が8月の日にちが並んでいたとか。それで「セカンドオピニオンで、どこかの病院に持って行った帰りかも・・・」という話になった。(自分は寝ていたので見ていないが・・・)
それから東京駅のホームで電車を待ちながら、自分たちの場合はどうするかという話になった。結論は「出来たら、自分たちは病気とは闘いたくないね」という話に落ち着いた。
実はこれには理由がある。(前にも書いたが)4年ほど前に、叔父が肝臓ガンのため、68歳余で亡くなった。肺ガンを切り、肝臓ガンを切っての壮絶な死だった。それがトラウマになっているらしい。叔父は、手術をする前日まではピンピンしていたのに、手術をしたのを機に、どんどんん体力を失い、結局肝臓ガンで亡くなってしまった。それで、「手術をしなければ、あんなに早く亡くなることは無かったのではないか・・・」、という話になった。
たぶん、気の小さい自分は、ガンが早期発見されたら、それに拘って、そして怯えて、かえって病気を重くしてしまうかもしれない・・・。それを逆に考えると、知らなければ(手遅れにはなるが)ギリギリのところまで「生活の質(QOL)」を落とさないで生きられる事になるかも・・・?
話は変わるが、すぐに読めるからと、電車の中で読むようにカミさんに持たされた本(ひろさちや著「日本人の良識」~これ)に、このような文言があった。
「・・・仏教は、病気に対して何を教えてくれるか? 仏教の教えは、基本的には、――闘うな――である。西洋の医学が「闘病の医学」であるのに対して、仏教は病気と闘わず、病気と仲良く生きることを教えている。
なぜかといえば、仏教は、老・病・死を自分の内側にあるものと見ている。人間が自分の内側にあるものと闘えば、それは自分自身と戦っていることになる。自分と闘うなんて愚かなことだ。だから、仏教は「病気と闘うな」と教えるのである。・・・」
自分はもちろん「その時」になったら右往左往することは分りきっている。今日の電車の奥さんの心中も、察して余りある。
しかし最近は、「何でも直ぐに病院に駆けつける」という自分のスタンスが変わってきたように感じる。(それは「臭いものにはフタ」という我が家の“家訓”に則っているのかも知れないけど・・・・)
こんな事をフト思うのも、親父の12回目の命日(8/15)が近いためかも知れないな・・・。
(追:08/8/15)
「リビング・ウィル」(No130)という冊子に、朝日俊彦氏の「高齢者に「がん検診」どこまで」という記事があり、そこにこのような文があった。
「・・・先日も、80歳を過ぎた男性が夫婦で相談に来られました。肺にあやしい影が見つかり、多分、がんだと思われるので、精密検査をして、それから手術をするように勧められたとのことです。・・・・夫婦で、これから受けなければならない厳しい検査や手術に恐れをなしているのです。今は何とか生活できていますが、手術を受けることで、がんは治っても、弱り込んだり、ボケたりしてしまうことも予測されます。そこで。検査や手術を受ければどのようなことが予測されるか、このまま放置すればどのようになるかを説明しました。
ご夫婦が娘さんを交えて相談した結果、検査も手術も受けずに、このままの生活を続ける選択をされました。・・・どうするかは本人が決めることになっています。しかし、現実は、治す方向へどうしても進むようです。医師にしても、治すから楽しみがあるのであって、何もしないで様子を見るのではもの足りないという気持ちになります。・・・」
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コメント
こんばんは~
ちょっと話がずれますが。
父が肺ガンで入院したとき 夫と少し話しをしました。
夫は癌と判ったとき 教えて欲しくないと言いました。私はそうするつもりです。
でも 私は教えて欲しいと答えました。
意識と身体の動く内にやっておきたい事言い残したい事が有る気がします。
こういう思いは女の人の方が強いかもしれません。
父は最後まで知らされなかった病名を 結構正確に気づいていたと思います。
投稿: 見切り発車 | 2008年8月13日 (水) 23:58
見切り発車 さん
告知については、ウチと全く同じですね。自分は教えて欲しくないと言い、カミさんは教えて欲しいという。これは男女差なのでしょうか・・。
でも本人の意思とは無関係に、医者は簡単にその場で本人に告知するとか・・・。
昔は、もう少しデリカシーがありましたが・・・
投稿: エムズの片割れ | 2008年8月14日 (木) 15:53