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2008年8月20日 (水)

太平洋戦争を考える(7)~ニューギニア帰還兵 川村正風氏の話

盆休みに録り貯めたNHKラジオ深夜便「こころの時代」を通勤電車の中で聞いている。今日は、「ニューギニア戦線の日々から ~ニューギニア帰還兵 川村正風」(08/8/12~13放送)を聞き、その話の凄まじさ、生々しさに、改めて戦争の惨さを考えさせられた。

川村さんは、大正4年生まれの93歳。しかし卓球やプロ並みの書道を通して、声もまだまだ矍鑠(かくしゃく)とされている。
戦場からの帰還兵は、誰もが「思い出したくない」「語りたくない」のが本音という。しかし西部ニューギニアの戦場の状況は、記録が全て焼却されたため、何も残っていない。それで、生き残った者の責任と言われ、2002年に本を出したという。(ここ

川村さんは、一度目の召集は訓練中の怪我で除隊されたが、昭和18年10月、28歳の時に再度召集され、「死んでも帰れぬニューギニア」と言われた西部ニューギニアのマノクワリ地区に駐屯。着いた時から、敵を見ぬまま飢餓とマラリアとの戦い。砲弾を運ぶ部隊だったが砲が届かず、砲弾は使われぬまま。後方支援も無く、ただただ飢餓との戦いに明け暮れる。米軍は攻めてくることもなく、北に去り、日本からも米国からも見捨てられた地域となる。
飢餓の状況は凄まじく、毒蛇などは御馳走。中でも油の飢餓に、靴用の油は植物性なので大丈夫だろうと、雑草の天ぷらの美味かったこと。しかしそれも直ぐに無くなったため、今度は機械油でのてんぷらをしたら、上も下も大変・・。
あまりの飢餓に死者だけでなく、精神異常者も出て、見かねた将校が、手榴弾での海の魚(サヨリ)の捕獲を許可。しかしサヨリはすばしっこく、ギリギリに手榴弾を投げないと魚が逃げてしまう。そして、そのタイミングを間違えて死ぬ兵隊・・・。終わりの頃は、敵兵が空襲に来ると、落とした爆弾で魚が浮く。それが有り難くて、たまにこの「定期便」が来ないと、待ち遠しくなる、という変な状態・・。
発狂する人も出てくるので、部隊長の発案で、同じ部隊だった俳優の加藤大介が演芸会を催す。(「南の島に雪が降る」をいう映画の名前はどこかで聞いたことがあったが、これだったのだ)加藤大介が筋書き・脚本を作り「父帰る」「浅草の灯」などをやった。舞台が開くと雪の情景・・・。それはパラシュートで作った白い舞台。にわか作りの役者、紙による雪・・・。何の希望も無かった兵隊からは涙が・・・。川村さんは、この舞台を見て「たまらなかった」と言う。そして、それを体験した貴重な人。

そして終戦。聞いたのは昭和20年8月18日だったという。それから銃を差し出し、砲弾は使うことなく、七日七夜、連日爆破破棄された。結局、戦闘らしい戦闘は無く、残った武器はすべて廃棄。飢餓とマラリアの中で、ジャングルを逃げ回っただけ・・。
そして帰還の昭和21年5月までの9ヶ月は、ただ生き抜くことだけ。しかし、終戦を迎えても日本に帰れぬまま死ぬ人。相棒も21年1月に亡くなった。部隊は最後まで一糸乱れず。それは部隊長が人格者だったから。人の上に立つのは、やはり人格。弁舌が爽やかとか馬力があるとかあるが、最終的には「人格だ」と教えられた。加藤大介の問題も含めて、部隊長は発狂者が出る状況を何とかしなければ・・・と考え、一人でも多く帰国させねばと・・・

最も悲劇だったのは、帰還する船に縄梯子で登る際に、その途中から力尽きて落ちて死ぬ兵隊が居たこと・・・・。これは忘れられない。
やっと名古屋港に着き、家に帰ると別の人・・・。家族は居ない・・・。その後何とか知人を訪ねて、九州に疎開している家族と再会を果たすが、戦争後遺症は続く・・・

希望が全く無く、救いが無く、神も仏も無いと本当に思った。神や仏はもともと無いのに、人間の都合で作ったものに過ぎない、と虚無的になった。帰還してもお宮やお寺に行く気もせず。しかしある時、宮本武蔵の「独行道」の「仏神を敬してたのまず(仏神は貴し仏神をたのまず)」という言葉に巡り合って、ようやくピタリと来た。つまり、神仏は敬うが、自分の都合の良いように「助けてくれ」と頼るのはダメ、という心境。

頼れるのは自分だけ。それ以来、酒を飲んでも自分を失ったことはない。自分をコントロールすることだけは出来ている。また、賞味期限切れを食べるのは常。エサさえあれば良い、という考えが抜けない。だから、美味しい物を食べに行こうとか、温泉旅行に行こうなどとは自分からは決して思わない。それは飢餓で死んで行った戦友を思うと、とても言えない。奥さんを介護して10年、そして死後11年になるが、この21年間、一人で食べるようになって益々いい加減になった。この2年ほどは1日1食。朝果物を食べて晩に食べるだけ。
そして、今は卓球と書道。93歳・・・
最後に、「日本人は、戦後“恥”を忘れたのでは? 昔は疑いを掛けられただけで職を辞するという気合があった・・・」という言葉で終わった。

NHKで、「証言記録 兵士たちの戦争」という番組をシリーズでやっているが、まさにこの番組は「貴重な記録」になるのではないか。まさに「生き証言」である。

昨年、太平洋戦争を理解しようと色々な本を買いあさり、「太平洋戦争を考える」というタイトルで幾つか記事を書いた。でも結局、まだ本は積んである。でも、またこれを機に、買ってある本だけでも読んで、「何があったのか」だけでも早く理解しようと思った。(最近、熱が冷めていたので・・)

(関係記事)
「太平洋戦争」を考える(1)
太平洋戦争を考える(2)~マニラ市街戦での殺戮
太平洋戦争を考える(3)~NHK「日中戦争」を見た
太平洋戦争を考える(4)~東京裁判
太平洋戦争を考える(5)~御前会議とは何か?
太平洋戦争を考える(6)~対米開戦までの舞台裏

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コメント

何時も中身の濃い記事をありがとうごさいます。毎日必ず拝見しております。
特に今日の記事は意を尽くしており、改めて川村さんのお話を思い起こしました。
「掌」に始まったご縁・・・、これからもよろしくお願いいたします。

投稿: toriaezu3965 | 2008年8月21日 (木) 10:13

toriaezu3965 さん

当blogをご愛顧頂きありがとうございます。
夏になると、やはり戦争の話題が多いですね。しかし加藤大介の戦場での舞台の目撃者が居られたとは・・・・。

投稿: エムズの片割れ | 2008年8月21日 (木) 22:24

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