「捨てる」ということの難しさ
仏教では、人生は苦である(思い通りにならない)という。そして、全ては「空(くう)」だといい、また宇宙の全ては「縁」によって結ばれており、単独で存在するものはないという。そして、その苦を脱するには、“全てを捨てよ”と教える。また、“こだわりを捨てよ”とも教える・・・・・。
宇宙的な時間軸で見ると、その全てに納得はいく。しかし現実の生活で「捨てる」という事がどれほど難しいことか・・・。「こだわりを捨てる」という事がどれほど難しいことか・・・。
ブッダは2500年前、王子という地位も、妻子も、全てを捨てて城を出た。そして悟りを得たという。
先日ラジオで聞いた早大の東後先生の場合は(ここ)、危うく家庭崩壊を招いたが、その原因は父の遺言(=「偉くなれ」)の呪縛だったという。
たとえ、その様な重いものが無いとしても、我々は何で捨てられないのか? 何で「こだわる」のか? 何で自由になれないのか?・・・・
最近、通勤の途中で思うことがある・・・。電車を降りるとき、我先にと先を急ぐ人には、先に行ってもらえば良い。自分は最後に降りれば良いさ・・・と。
しかし、電車が駅に着いて乗客がホームのエスカレータに集中する時、色々な人の流れが一つのエスカレータの入口向かって並ぶが、そのとき“日本人はつくずくエライ”と思う。つまり、自分はいつも自然の流れに身を任せるものの、誰が横から割り込んでも、誰も文句を言わない。みんな黙々と順番を待ってエスカレータに吸い込まれていく。(中国では、「待つ」「譲る」という習慣は無いそうだ・・・)
これはもともと日本人に、民族の文化として「捨てる」「こだわらない」事が身に付いているのかも知れない・・・・、と思った。
それに引き換え、自分は・・・?というと、何一つ「捨てる」事ができず、すべてに「こだわって」暮らす自分がいる。
世の中の「上がり」の年齢に達し、もう「付録」のフェーズに入っているにもかかわらず、相変わらずこの“ギラギラしている”生活態度はいったいどうしたものか・・・
もう少し力まず、あるがままで平穏に暮らすためには、どうしたら良いのだろう・・・・、と思う最近ではある。(具体的な事は書けないが・・・・)←大きな声では言えないが、どんなに疲れて帰って来ても、“Blog”に執着しているのであ~る。捨てられない・・?←Blogを!
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