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2008年6月 3日 (火)

映画「マンデラの名もなき看守」に感動

Image01041 今日は、カミさんと一緒に、久しぶりに良い映画を見た。「マンデラの名もなき看守」という南アフリカ初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの、獄中27年間のある看守との交流を描いた映画である。(公式HPはここ

しかし、このような優れた映画に、なぜ観客が少ないのだろう。東京で上映中の映画館はたったの4つ。東京以外では14・・・・。しかも自分が見た立川では、6/6には終わってしまう・・・・。確かに今日も、平日のせいか、観客はシルバーが少しだけ・・・・
確かにテーマは重い。しかしその事実の重さに心は圧倒される・・・。

1948年から法制化された南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)。その弾圧下の1968年の南アフリカ、ロベン島から物語は始まる。当然の人種差別主義者の看守グレゴリーが、ロベン島の看守として配属される。そこには、黒人解放闘争の中心人物マンデラが収監されていた。子供の頃に黒人の友人と遊んだグレゴリーは、白人で数少ないコーサ語(南アフリカ原住民の言語)を話すことから、マンデラの担当を命ぜられる。
マンデラは、半年に一回しか許されない郵便や、接見時に、コーサ語で伝えられる暗号の言葉で仲間に活動を指示。グレゴリーは忠実に指示内容を上司に伝え、そして出世していく。
しかし、自分の伝えた情報からアジトが当局によって襲撃され、殺されて行く事態に、段々と目覚めていくグレゴリー。そして、マンデラの息子の死亡・・・・。マンデラともコーサ語を通じて段々と心が通っていき、いつも堂々としたマンデラの態度・信念に感化されていく。
しかしマンデラの妻に、マンデラから託されたチョコレートを渡した事から、黒人びいきと罵られ、グレゴリーは孤立化してロベン島を去る。
1982年、何事も無く過ごしていたグレゴリーは、ロベン島から別の刑務所に移送されたマンデラの看守を、再び命ぜられる。そして今度は、同じ看守として働き出した息子が・・・
そして1990年、世界の経済制裁もあり、マンデラは釈放。南アフリカの新たな前進が始まった。

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映画の中では、マンデラとグレゴリーが、花の栽培用の棒を手に黒人固有の剣術をする場面で、つい目頭が熱くなった。(上の写真) 子供の頃に黒人の友人と一緒にやった剣術・・・・。 結局、人と人の心を繋ぐのは、上辺の言葉だけでは無いのである。お互いに認め合った文化・・・・
しかし、誰も子供の頃の体験・経験というのが、人生に大きな影響を与えるものだ。この映画の看守も、子供の頃の黒人の友人との体験(コーサ語)があればこそ・・・・

ともあれ、ひょんな事でアパルトヘイトの裏側を垣間見ることになった。確かに楽しい映画ではないが、アッという間の2時間だった。このような映画に、若者がたくさん行くような日本だと、今後が楽しみなのに・・・

それとこの映画の主題のひとつが「家族」の重さ・・・。全てを投げ打っても、家族を守るのが第一という価値観・・・。
日本のサラリーマンは、現役時代は「仕事第一・・・」で、定年になって家族から棄てられるのとは大違い・・・。(まあウチは関係ないけど・・・・)

●本日、カウントが10万を越えました。(信じられないカウント数です。本サイトを訪れてくれた方に、心より感謝します)

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» 『マンデラの名もなき看守』 ビレ・アウグスト 監督 ジョセフ・ファインズ/デニス・ヘイスバード出演 [ドンカンはツミである]
忍耐、忍耐、忍耐の末に、信念を貫いた南アフリカ大統領、ネルソン・マンデラと、良心を貫いた彼の看守の物語。 素晴らしい映画でした。 黒人と遊びながら育ったため、現地語であるコーサ語を解したことから、マンデラ付きの看守になったグレゴリー。彼も妻も、出世ができるチャンスだと大喜びします。 黒人を野蛮なテロリストだと考え、最初はマンデラに高圧的に接していたグレゴリーでしたが、彼の人柄と境遇を知り、黒人を差別的に扱うことに対して、疑問を持つようになります。 ある日、面会に訪れたマンデラの妻... [続きを読む]

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