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2008年6月の26件の記事

2008年6月30日 (月)

高校卒業42年目のクラス会で「元気」を貰った

先日(08/6/28)、高校卒業以来42年ぶりのクラス会があった。
我々も全員が還暦を迎え、少なくてもサラリーマンは全員が定年・・・。そのせいか、クラスの半数の27名が出席。(当時は、今では考えられない1クラス56~7名だったのだ)

皆の話を聞くと、思ったよりサラリーマン延長戦組は少なく、大半は年金生活モードに入っていた。そして、「(60~70歳の時期をゴールデンエイジと捉えて)これからは楽しむぞ・・・!」という話を聞いて、(迷っている自分として)「元気」を貰った気がした。
しかし中には、定年退職して失業保険を貰い出したが、娘さんがまだ中学3年生だったり、二人の子供さんがまだ薬学部在学中で、卒業する65歳まで辞めるにやめられない人など、孫の写真を見せている人がいる一方で、なかなか大変な人も多い。

でも一様に、まさに「還暦」という節目が皆の話に出ている。サラリーマンであれば、全員肩書きが外れ、話題は「年金」の話に移って、誤登録で空白期間があった経験談とか・・・
つまり還暦という節目で顔を合わせると、皆が同時に「上がり」で、高校を卒業したときと同じスタートラインに全員が戻ってきた感じ・・・。そして「みんな、それぞれ何をしてた?」と、同じ土俵での話に・・・・

しかしリタイア後、時間をもてあまして困っているという話は意外と無い。二人の市会議員への挑戦の話など、今までの我々サラリーマンの世界からは全く発想し得ない世界・・・。

でもやっぱり「なるほど・・」と思ったのは、最初にも書いたが「これからの10年が、まさに時間も金も、そして体力もある10年。そのゴールデンエイジを楽しまなくっちゃ!」という話・・・・。だから、自分もこれを「見習わなくっちゃ!」
でも待てよ? 「サーテ、じゃあ何を楽しむ??」と、またまた迷ってしまう・・・。良いヒントを貰っても、これでは救いようが無いよね・・・・・・

(関連記事)
42年後の母校(土浦)を訪問
元土浦一高校長 横田尚義氏の回想記「生きた証し」

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2008年6月29日 (日)

42年後の母校(土浦)を訪問~土浦一高の校歌と応援歌

昨日(2008/6/28)、還暦で皆ヒマになったせいか、卒業以来42年ぶりに高校のクラス会をやるというので、土浦まで行って来た。
当初は、遠いこともあり、サボろうかなと思っていたが、元アナウンサーの友人がその為にわざわざ山口から飛行機で来るとの連絡があり、自分も“おみこし”を上げた。
夕方6時からの同窓会だが、4時に待ち合わせて母校に行ってみようということになり、久しぶりに行った。(今日のメモは、誰も興味が無い話・・・。まさに自分の備忘録である)

Image01212 高校は、昔は「土浦中学」といって(HPはここ)、その本館は国の指定重要文化財になっている。それが目当てだ。
勝手に構内に入ると、大きな大太鼓の音。そうか、そろそろ高校野球か・・・。その応援団の練習である。それにブラスバンドの練習など、土曜日の夕方にしては騒がしい・・・
自分は、旧校舎の外側だけを見物するのだと思ったら、元アナの友人は図々しく、どんどん教員室目掛けて闖入して行く。そして先生を見付けて、「教室の内部を見学させろ」と乱暴なお願い・・・。先生は「今日は生徒も居るし、公開日は決まっているのでその時でないと・・」と戸惑っている。それでも、強引な「お願い」に対し、そして数十年ぶりに来た遠くからの「先輩」?に対して、「旧校舎のカギはここでは持っていないが。部活で開いているかもしれないので・・・」と我々を親切にも案内してくれた。
運良く旧校舎が、ブラスバンドの部室に使っていてカギが開いており、中に入る事が出来た。懐かしい・・・・・。我々が入学したのが1963年(昭和38年)、そして今は文化財になっている正面の校舎で授業を受けて卒業したのが1966年(昭和41年)3月だった。それから42年・・・。普通は校舎の建て直しをしているはずだが、この学校は、旧校舎が文化財となっているため、そのまま保存されているのが嬉しい。そして何と教室も、当時のままに保存されている。この教室では、来年のNHK大河ドラマ「坂の上の雲」のロケも予定されているとか・・・(下の写真の上でダブルクリックすると、写真が大きくポップアップするので、念のため)

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そして事務所に戻ると、O先生はわざわざパンフレットまで持ってきてくれた。(それが最初の写真。突然訪れた我々に対して、ここまで親切に対応して頂けたO先生には恐縮・・)

一回り校舎を回って帰ったが、プールでは「最低限プールの横の距離を泳げないと夏休みに補講・・」と言われて必死に泳いだ(?)事を思い出したり(←実は今でも泳げない・・)、ここら辺に旧図書館があってそれを教室にしていたっけ(昭和38年)・・とか、当時の思い出の“新図書館”も今は無い・・・・、とか、午前中の授業が終わるやいなや、校内に売りに来るパン屋めがけて一斉に走って「アンド(-ナツ)」を買ったっけ・・・とか、校内に自動販売機があるとは、もう時代が違うな・・とか、まあ色々な話をしながら歩いた・・・・

夜のクラス会で、「さっき一高に行って来たが、昔の旧校舎がそのままの姿であり、来年の大河ドラマ“坂の上の雲”のロケに使うらしい」と皆に紹介したら、その話題に全国から集まった面々は、興味津々・・・・??

まあ、昔の“時間軸が凝縮された”学生時代を思い出してみるのも還暦の特権かも・・・?
(でも高校時代は、受験勉強以外に特段の思い出が無いのが残念。しかし自分のような能力が無い生徒を、叱咤激励してビシビシ鍛えた先生方の熱意は今でも感謝している。←というのはウソで、ふと英語のS先生の授業は怖くて、今だったらうつ病になっていたかも・・・・)

(参考)
参考に、高校3年の時に貰った、一高校歌、応援歌をアップしておく。これは、1965年(昭和40年)5月15日に学校から貰ったソノシート。校歌の楽譜は昭和38年10月20日の校歌碑の除幕式記念の時のもの。ついでに、1969年1月16日の新聞記事のPDF(ここ)も・・・ (写真はクリックで拡大)

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<土浦一高 校歌>~1965年(昭和40年)5月15日

<土浦一高 応援歌(A)>~1965年(昭和40年)5月15日

<土浦一高 応援歌(B)「校旗の下に」>~1965年(昭和40年)5月15日

<土浦一高創立百周年記念カード 1997-11-1>

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●本日、カウントが12万を越えました。

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2008年6月27日 (金)

さだまさし「檸檬」のオブリガート(副旋律)の妙・・

さだまさし「檸檬」は名曲だが、自分はその録音を3つ持っている。この編曲を比較してみると面白い。
実は、ここで言いたいのは「オブリガート(=副旋律・対旋律)の魅力」なのである。

まず1999年12月16日発売のアルバム「続・帰郷」の新録音盤は、編曲が萩田光雄である。
聞くポイントは、バックの旋律・・・。ドンチャ・ドンチャというリズムの向こう側に流れる旋律なのである。これを「オブリガート」または「副旋律」「対旋律」というらしい・・。
特に2番のバックに流れるオーボエの副旋律。これが泣けるのである・・・。(さだまさしの歌は少しダレているが・・)

<さだまさし「檸檬」/編曲:萩田光雄>(「続・帰郷」より)


「檸檬」
  作詞・作曲:さだまさし
1)或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
 君は陽溜りの中へ盗んだ

 檸檬細い手でかざす
 それを暫くみつめた後で
 きれいねと云った後で齧る
 指のすきまから蒼い空に
 金糸雀色の風が舞う
   
喰べかけの檸檬聖橋から放る
   快速電車の赤い色がそれとすれ違う
   川面に波紋の拡がり数えたあと
   小さな溜息混じりに振り返り
   捨て去る時には こうして出来るだけ
   遠くへ投げ上げるものよ

2)君はスクランブル交差点斜めに
 渡り乍ら不意に涙ぐんで
 まるでこの町は
 青春達の姥捨山みたいだという
 ねェほらそこにもここにもかつて
 使い棄てられた
 愛が落ちてる
 時の流れという名の鳩が
 舞い下りてそれをついばんでいる
   
喰べかけの夢を聖橋から放る
   各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
   二人の波紋の拡がり数えたあと
   小さな溜息混じりに振り返り
   消え去る時には こうしてあっけなく
   静かに堕ちてゆくものよ

次に一番最初の録音である1978年3月25日発表の「私花集」(アンソロジィ)というアルバムから。編曲はジミー・ハスケルである。

<さだまさし「檸檬」/編曲:ジミー・ハスケル>(「私花集」より)

特に、「ねェほら そこにもここにも・・・」というバックに流れるオーボエの旋律・・・。

そして三つ目は、1978年8月10日にシングル盤でリリースされた時の録音。この編曲は渡辺俊幸である。

<さだまさし「檸檬」/編曲:渡辺俊幸>(「昨日達」より)

この編曲が、一番副旋律が目立たないな・・・・。

しかしこの3つを良く聞くと、副旋律が全て同じである(または似ている)事が分かる。普通は、作曲者の主旋律をもとに編曲すると思われるが、どうもこの歌は3人の編曲が同じような副旋律なので、「さだまさしがこの副旋律も作曲したのではないか・・・?」と思ったのだが、どうだろう・・・?

(追:2019/12/17)
さだまさし「檸檬」>(「新自分風土記II~まほろば篇~」より)

それとこの詩に“景色”がある・・・。なんと“カラフルな詩”であることよ・・・。
「白い石」「蒼い空」「金糸雀(カナリヤ)色の風」「快速電車の赤い色」「各駅停車の檸檬色」・・・。自分はこの「赤い色」の電車(JR中央快速線)で通勤しているので良く分かる。(ちなみに「各駅停車の檸檬色」はJR総武線である)
P10209051 フト、この曲のことを書こうと思ったので、今日会社の帰りに御茶ノ水駅で途中下車してみた。降りてすぐそこが聖(ひじり)橋。聖橋に入る手前にスクランブル交差点がある。そして聖橋の上から御茶ノ水駅方向を見ると、電車が通る・・・・。この歌は、こんな景色かな・・・とシャッターと切ったのがこれ。(中央線も1年前から新車両になり、赤い(本当はオレンジ色)線になってしまったけど・・)
でも「金糸雀色の風」だけは見えなかった・・・。

P10208881 聖橋を渡ると直ぐ右手が「湯島聖堂」。中に入って「白い石の階段」を探してみた。どの階段も「白い」階段は無く、いつもの石色だった。でもその中で、この写真の“湯島聖堂入り口”を、自分は「白い階段」だと“認定”した。

しかし、さだまさしが作曲したのがちょうど30年前。でも聖橋も湯島聖堂も何も変わっていない。変わったのは、電車の車両と、自分の髪の毛だけ??
とにかく、こんな風景を、よくもまあしゃれた詩に書くものだ。さだまさしは詩人だな・・・と思った。

(付録)~一緒に撮った一コマ・・・
「聖橋」・・・後ろに見える建屋群は東京医科歯科大学。3つ目の写真は御茶ノ水駅のホームから。

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「湯島聖堂」

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2008年6月25日 (水)

「日本人の時の感覚~定刻発車、正確な日本の鉄道」

NHKラジオ深夜便「日本人の時の感覚~定刻発車、正確な日本の鉄道 経済・経営ライター 三戸祐子」(08/6/19放送)を聞いた。
我々が当たり前と思っている電車の定刻運行が、実は大変な事で、それは日本の歴史によって培われているという話だった。曰く・・・

「日本の定時運転率は96%。世界の鉄道でもみな9割以上というが、尺度が違う。国によっては10分以下は定時だったり、アフリカのとにかく走らせるのが精一杯の国では、その日のうちに着けばよい、という国までさまざま。でも日本は文字通り、新幹線など0.3分とか0.5分とかで、1分も遅れてはダメ。
この日本の風土は、リーダーがしっかりしていた事もあるが、国民がそれについていった。それは奈良時代から駅馬伝馬制度があったりして、ポイント間を繋ぐ仕組みがあった。それに国民は文字が読めた。
定時運転は江戸時代から準備されていた。それは、駅と都市が鈴なりにつながっていた。したがって、時刻合わせのチャンスが多い。つまり駅と駅の間隔が狭いと、時刻を合わせるのに有利。ヨーロッパなど、駅の間が30分とか1時間とか、間が遠いので時刻合わせのチャンスが少ない。
奈良時代からあった駅馬伝馬制度は、徳川幕府もそれを利用して交通体系を作った。だから日本人は昔から交通の魅力を知っていた。京都には有名なお寺があるとか・・。大名行列でも分かるように、旅に慣れていた。
鉄道は大きな移動プロジェクトだが、参勤交代をいう制度で、日本人は経験を積んでいた。参勤交代は、勝手に行けばよいというものではなく、あらかじめ幕府から、何月何日までに江戸に入れと指示があり、それに遅れるとお家騒動・・・。また幕府に対して、何人を連れて、どれだけの兵馬を伴い、馬は何頭連れてこれだけの金を遣う・・と、届けを出していた。よって日本の社会は、経験的にプロジェクト遂行能力があった。
また、時の鐘は全国で3万~5万くらいあったらしいが、ペリーが日本に来た時に、ゴーンという時の鐘を怖れたという話が、ハリスの「日本滞在記」に書いてある。ペリーは攻めてくる合図だと勘違いした。
明治5年に陸蒸気が走った時、時間になると勝手に出発するので「オーイ陸蒸気の船頭さん待ってくれー」と誰かが言ったとか。
日本の鉄道が定時運行するようになったのは、明治末期から大正の中頃ではないか。運転技術を教え広めた人もいる。
戦前の鉄道黄金時代は1920年代。その頃には、現在でも使われている鉄道の各種規則が出来た。
汽車から電車に変わった頃、サラリーマンの通勤が始まった。電車の運行回数を増やすためには、駅での停車時間の短縮が重要。大正14年10月には20秒停車が始まった。大正3年には1~2分停車が普通だった。それに、降りる人が先で乗る人は後、というルールもこの頃に始まった。その頃の省線電車に「乗り降りご順に」というポスターがあり、理屈で停車時間が少なければ電車の回転が良くなり、混雑緩和につながる・・と、啓蒙したという。」

なかなか雑学として、この話は面白い・・・。
しかし、電車やエレベータなどの先降り後乗りが、大正時代に始まっていたとは・・・。ちなみに中国では、そんなルールは無く、一斉に乗り降りするから大変だったことを思い出した。
世界でも異常に正確な日本の定時運行は、単に日本人の(几帳面な)特性から来ているとばかり思っていたが、意外や、歴史的な背景がある事が分かった。

この番組をイヤホンで聞きながら、ちょうど乗っていた都営浅草線で、駅に着いてドアが開いている時間を計ったら、25~28秒だった。ラッシュ時は、やはり20秒は無理なようだ。

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2008年6月23日 (月)

クラフトとさだまさしの「僕にまかせてください」

先日BSのTVを見ていたら、団塊の世代向けだろうか、70年代フォークのCDのCMをやっていた。その通販のCMの中で、クラフトの「僕にまかせてください」という歌が流れ、カミさんが「この歌が好きだった」というので、フト取り上げてみる。

歌詞をあまり気にしない自分としても、この歌の歌詞は好きだ。先ず聞いてみよう。クラフトのオリジナル盤である。

<クラフト「僕にまかせてください」>

「僕にまかせてください」
  作詞/作曲:さだまさし
  歌 :クラフト

きみはその手に花をかかえて
急な坂道をのぼる
僕の手には 小さな水おけ
きみのあとにつづく
きみのかあさんが眠っている
ささやかな石のまわり
草をつみながら振り返ると
泣き虫のきみがいた

両手をあわせたかたわらで
揺れてるれんげ草
あなたの大事な人を僕に
まかせてください

きみがとても大切にしてた
藤色のお手玉
あれは昔きみのかあさんが
作ってくれたもの
そして僕が大切にしてる
日だまりのような人
それもそっと きみのかあさんが
残してくれたもの

集めた落ち葉に火をつけて
きみはぽつりとありがとう
彼岸過ぎたら 僕の部屋も
あたたかくなる

この歌詞には物語がある。スジがある。だからこの歌詞は、ひと言も省略できない。TV広告では「クラフトとさだまさしとの友情で出来た曲・・」なんて紹介されていたが、Netで見たら、この歌は1975年(昭和50年)4月~9月に日本テレビ系で放送された土曜ドラマ「ほおずきの唄」(出演:中村翫右衛門、近藤正臣、島田陽子ほか)の主題歌としてクラフトが歌ったものだという。
民放のドラマをほとんど見ない自分は、このドラマがどんなものかは全く知らない。でも「主題歌」なので、たぶんドラマのストーリーはこの歌と同じかも・・・・?
なお、「さだまさしさんによれば、この曲は、はじめは「彼岸過迄」という曲名になる予定だったそうです。」(引用はここ)という記事もある。

話は戻るが、この歌詞を聞きながら、目をつむって描かれている景色を想像すると、何か心が暖かくなる。
でも、今の女性上位の世の中で「僕にまかせてください」というセリフが本当に存在するのかどうか・・・。
先日漱石の小説(「こころ」)を読んだこともあり、まさに「彼岸過迄」という明治のドラマの中の出来事のような気もする。この歌詞のような姿は、“現代では有り得ない・・・”と感じるのは、単に自分だけの偏見だろうか?

・・・とここまで書いて、さだまさしの歌う「僕にまかせてください」を改めて聞いてみた。やはり作者の歌は良い・・・。クラフトのオリジナルは尊重したいが、なぜか扁平で心がこもっていないように聞こえる。それに引き換え、さだまさしの歌は、しみじみと暖かみがあって好きだな~。作者の歌も聞いてみるか・・・。

<さだまさし「僕にまかせてください」>

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2008年6月22日 (日)

八王子「オーケストラと歌う市民合唱コンサート」

カミさんの友達が出るというので、カミさんと「オーケストラと歌う市民合唱コンサート」に行った。(チケットはその友達の招待・・)
初めて行った「八王子芸術文化会館(いちょうホール)」。ここは元の八王子市役所の跡地に建てたもので、今まで行く機会が無かったが、結構立派・・。

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プログラムによると、「オーケストラと歌う市民合唱団」というのは、“一般公募市民及び市合唱連盟合唱団により構成された総勢約120名の合唱団”とのこと。市民とは言うまでもなく「八王子市民」。オーケストラは東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。指揮は平井秀明氏。
プログラムは、オーケストラをバックにした合唱曲と、「モルダウ」等の純粋管弦楽曲、そして会場も含めた全員合唱・・・。

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P10208431_2 舞台は小規模のオーケストラの後に合唱団。オケは小さい。コントラバスが2名、ビオラ・チェロが各4名。ヴァイオリンも10名程度。そして合唱団は、数えてみたら女声81名、男声25名・・・。女声が男声の3倍以上・・・・。

このコンサートのコンセプトは、“市民合唱団がオケとともに歌う”というもの。特にピアノ伴奏のオリジナルの合唱組曲を、オケの伴奏で歌う・・・。
まずビックリしたのは、2曲目のオラトリオで、クラシック音痴のカミさんが「感動して、涙が出た」と言う・・・・。

今日の曲はどれも良く聞く曲で、久しぶりに聞くナマ。そのダイナミックレンジの広さはさすがナマ。「モルダウ」のシンバルのシャーンという音、トライアングルのチーンという音、そして大太鼓のドーン。

圧巻は、最後の高田三郎の混声合唱組曲「水のいのち」。これは、自分はオリジナルのピアノ伴奏で聞きなれた曲だ。それを今回は、中村健氏によるオーケストラ編曲での「挑戦」である。先ず心配したのは、もともとピアノ伴奏の曲なので、合唱とオーケストラのバランス。弦は少なくても、ブラスの音は大きい。その音量(存在感)に合唱がどう応えるか・・・・。でも合唱は良く頑張っていた。音量という意味ではなく、プロのオケに負けない存在感を出していた。今日の演奏は、もしかすると“本邦初演”かも・・・
自分は、まさに初めてオーケストラ伴奏の「水のいのち」を聞いた訳だが、ゴージャスなオーケストラの音に負けない合唱団と、最後の曲を歌い終えた後の、充実感に溢れる合唱団の表情が印象的だった。そして、楽譜の持ち方ひとつを取っても、良く訓練された合唱団だと思った。

P10208432 ともあれ、女声と男声の人数の比は、どのコンサートに行っても同じだ。色々な第九を聞いても、中央に男声がいて、両脇にほぼ同数の女声。つまり男女比は1:2。でも今日は1:3だった。
これはまさに、平均寿命そのものではないか? 今日も先入観のせいか、男声合唱が“か弱い”ように聞こえた。何か“自信が無い男性(男声)”を聞いてしまったようで、つい「頑張れ!」と言いたくなるような・・・
それに、舞台の合唱団はベテランぞろいのように見えた。少なくても男性は、自分と同じで頭を見れば年代が分かるのでベテラン(歌でなく人生で・・)だ。でも、女性は化けるので年代が分からない。ベテランは男声だけかも知れないな・・・・。
加えて、今日のメダマは全員での合唱?「われは海の子」「みかんの花咲く丘」、そして“八王子特産”の「夕やけ小やけ」(この歌の舞台は八王子である)を、会場も含めて全員で歌った。しかし皆で歌うとなぜか一体感・・・・。これは良かった・・・。久しぶりで、自分も歌った。
でも、周りの歌声も女声だらけ・・・。会場も女性がほとんど??←これ被害妄想?
よって、今日のコンサートの結論は「やはり世の中、女性の天下だ!?」
(写真は、入場直後。放送では「開演中の撮影は迷惑になるので・・」とか言っていた気がするので、開演前という事で許してもらおう・・)

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映画「敬愛なるベートーヴェン」を見た

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2008年6月20日 (金)

我が家の風呂場の「日本地図」・・・

P10208271 カミさんが100円ショップで「日本地図」を買ってきて、風呂場に貼りやがった!
何をこのトシになって・・・・、と自分は文句を言った。そしたら「県名をこれから“確認”する」のだとか・・・。ったく!
でも、風呂に入ると意外と“ヒマ”なのだ・・。だから、目がどうしても貼ってある日本地図に向かう・・・
そのうちだんだんと「ヘエー」と思う・・・。
P10208261 「東北の県は意外と広いんだ・・。なるほど、県境を決める時に、人口で県割をしたのが良く分かる・・」「秋田と岩手を合わせると、関東地方と同じくらいの面積なんだ・・・・」(秋田+岩手=2.7万km²、関東地方=3.2万km²)「“北陸地方”が無い!・・」等々。
もちろん、全県どこにあるかは分かる。しかし、今更ながら感心(?)したのは、県の面積だ。場所や形はほぼ分かるものの、絶対&相対的な面積については、意外と分からない・・・。いやはや「県の面積」については、、風呂に入って大発見した。

それだけではない。何と鳥取と島根が逆になることがある・・・・。
前に新聞で、「宮崎県が一番知られていない県」とか書いてあったが、一度でも行ったことがあると覚えている・・・・。もとろん宮崎も・・・。

ふと自分が行ったことが無い県を挙げてみた。秋田、岩手、富山、岐阜、鳥取、島根、佐賀・・・・。待てよ?黒部ダムには行ったので、富山には行ったことになるな・・・。高山は岐阜だな・・・。佐賀も九州一周旅行の時に多分行っただろう・・・。と考えてくると、意外と皆行っている。でも印象が薄い・・・。行った事がないと自信を持って言えるのは、秋田、岩手、鳥取、島根位なか??

前にも書いたが(ここ)、「学生時代には旅をすべき・・」と、つくずく思う。学生時代に行った旅行は、今でも鮮明に覚えている。逆に、仕事の出張で行った所は、観光でないのでほとんど覚えていない。でも元気がある若いときは、仕事の打合せを(月)か(金)にして、土日を利用して付近をフラフラ観光した事もあったが、それは若いときだけ。トシを取ると、当然直行直帰・・・・。
だから、若い多感な時にこそ、外の世界を見て歩くべき・・・・。
でも最近の若い人は、我々の時代のようにユースホステルを泊まり歩くことも少ないと聞く。旅行などしないのだろうか? PCなどはトシをとっても出来るので、体力のあるうちに、広い世界を見たほうが良いのに・・・・
(我が家でも、もう息子共は遅いので、その下の世代がもし居たら、旅行代をたくさんプレゼントしたいものだ・・・)

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石橋正次の「夜明けの停車場」
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2008年6月19日 (木)

Kとブルンネンの「何故に二人はここに」

数年前まで、自分が今までに集めた歌の(音源の)デジタル化を進めて来た。(これは、必ずしも“CDから”という訳ではない。衛星デジタルラジオからの入手も含む)
そして、最後までデジタル音源が手に入らなかった曲の一つに、Kとブルンネンの「何故に二人はここに」という歌があった。
この歌については、特段の思い出があるわけではないし、また「Kとブルンネン」という歌い手さん(←五木寛之の言い方)に、特段の思い入れがあるわけでもない。
でも(やっと手に入れた)この素直な歌声を聞くと、何か懐かしさを感じる。

<Kとブルンネン「何故に二人はここに」>


「何故に二人はここに」
  作詞:山上路夫
  作曲:鈴木邦彦
  歌 :Kとブルンネン

何故にぼくたち二人 生まれてきたの
誰もこたえてくれず 海があおいだけ
何故にこうして二人 愛しているの
誰もこたえてくれず 波がよせるだけ
だけど二人いつの日も 若いからだよせて
生きてゆくの風の中も ささえあって生きる

何故に二人はここに こうしているの
誰もこたえてくれず 空があおいだけ
だけど指も唇も肩も腕も胸も
若い枝がからむように 求め合って生きる

何故に二人はここに こうしているの
誰もこたえてくれず 空があおいだけ

080619nezenifutarihakokoni 今、改めてNetで調べてみると、「Kとブルンネン」とは、鈴木豊明(K)とクリスタル・ブルンネンという人であり、1969年(昭和44年)年7月に、この「何故に二人はここに」でデビューしたという。
Net(ここ)によると、Kとブルンネンは、当時のヒデとロザンナやトワ・エ・モアなどに対抗して、当時発足間もないソニー・レーベル(1968年設立のCBSソニー)が売り出した歌手だという。なお、Kこと鈴木豊明はシンガー・ソングライターの小室等夫人の弟で当時明治大学の学生。ブルンネンことクリスタリン・ブランネンは1951年米国生まれで当時上智大学に通う学生だったとか。もちろんお二人の“その後”は分からない・・・。
しかし、この素直な“ハモッた”歌声が心地良かった。
でもあれから40年・・・。可憐な?ブルンネンさんも“もうすぐ還暦・・?”と考えると、ハッと我に返る。(失礼)

(2021/10/07追)
リクエストにより、「あの場所から」を追加。

<Kとブルンネンの「あの場所から」>

「あの場所から」
  作詞:山上路夫
  作曲:筒美京平

白いベンチに 腰かけながら
遊ぶ鳩を二人で見てた
できるならば 帰りたいけど
今は遠いあの日
こわれた愛を二人
やりなおしたいの あなたと

あそこから あの場所から
愛を始めたいの

白いベンチに 別れを告げて
二人どこに あれから行った
若い二人からだとからだ
求め合って生きた
忘れたものを二人
探してみたいのあなたと

あそこから あの場所から
愛を始めたいの

失くした愛を二人
みつめてみたいの あなたと

あそこから あの場所から
愛を始めたいの

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2008年6月18日 (水)

ネット時代の著作権法改定に期待

今朝(08/6/18)の日経朝刊に「著作権制限 年度内に結論~映像などネット流通促進で」という記事があった(P5)。この記事によると「知的財産推進計画2008」の骨子の一つとして「デジタル・ネット時代に対応した著作権の見直し」が盛り込まれるという。
曰く・・

「著作権制限、年度内に結論 政府知財計画」~日経(08/6/18)(ここ)から引用
 政府の知的財産戦略本部(本部長・福田康夫首相)が18日に決定する「知的財産推進計画2008」の概要が明らかになった。教育や研究など公正な理由があれば無許可で著作物を利用できるよう著作権を制限する「フェアユース(公正利用)規定」の導入検討など、著作権法の見直しについて2008年度中に結論を出す方針を明記した。インターネット上の海賊版対策も強化する。日本のコンテンツ産業の競争力強化を促す狙いがある。

 日本の著作権法にはフェアユース規定がなく、個人が私的に使う場合を除いて利用のたびに権利者の許諾を得る必要がある。著作物の二次利用のコストが大きく、映像の流通などコンテンツ市場の発展の妨げになる懸念が出ている。・・・[2008/6/18/日経朝刊]」

そう言えば、先日(08/5/27)の朝日新聞の朝刊トップにも、「著作物利用拡大へ道 知的本部 新規定を検討」という記事が載っていた。曰く・・・

「著作物利用拡大へ法改正 ネット配信向け政府方針」~朝日新聞(08/5/27)(ここ)から引用
 政府の知的財産戦略本部(本部長・福田首相)は著作権法を改正し、他人の著作物を利用しやすくするために新規定の創設を検討する方針を固めた。グーグルに対抗した次世代のネット検索エンジンの開発など、ベンチャー企業が新規事業を起こしやすくするのが狙いだ。
 具体的には米国の著作権法にある「批評、解説、報道、研究などを目的とする、著作物のフェアユース(公正な利用)は著作権の侵害とならない」という規定の日本版創設を検討する。米国ではこの規定によって、ネット検索エンジンの開発などがしやすくなったとされる。
・・・・・・・
 創設が検討されているのはこうした個別規定と別に、公正な利用をその形態にかかわらず広く認める規定だ。
 米国の著作権法では「公正な利用」かどうかの判断は、利用の目的が商業性を持つか、利用することで著作物の市場に影響があるかなどが考慮されている。日本版でも「著作権者の利益を不当に害さない」といった条件を付け、ユーザー側はその条件のもとで利用が許されることになりそうだ。
 公正利用規定が導入されると、一般ユーザーには、どんなメリットがあるか。遊園地でアニメキャラクターと一緒に撮った記念写真のブログ掲載や、他人の作品を利用したパロディーは、こうした利用を許す個別規定が現行法には無いため、著作権法に触れる恐れがある。しかし、公正利用規定があれば、合法となる可能性もある。
 また現在は、ウェブサイトの情報を複製・蓄積する「ウェブ・アーカイブ・サービス」も違法の恐れがある。新規定ができれば、企業はその適用を見込んで事業を始めることができるようになる。
 同本部は6月、「知的財産推進計画2008」に検討の方針を盛り込み、知財制度専門調査会(中山信弘会長)などでの審議を経て、09年以降の著作権法改正をめざす。(赤田康和)」

この記事で面白いのは「・・・著作権法に触れる“恐れ”がある」「・・・合法となる“可能性”もある」といった表現。つまり日本には、Netに絡んだ案件には、「違法」「合法」といった明確な基準が無いようだ。つまりこれは、日本の法制度が時代遅れだということ。
今回それが前進するのは良いことだが、「ダビング10」のように、停滞することだけは避けないと、日本が益々“世界に”、そして“時代に”取り残されてしまう。

しかし、何とも著作権の問題は難しい。
自分としては、この様な利権が絡む問題は、なかなか歩み寄りが難しいので、「多少の金は払っても良いので、もう少し自由を!」と思うのだが、日本にはその仕組みが無い。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は、個人でも年に1万円を払えば、ある条件のもとでNetでも利用できるが、著作隣接権を持つレコード会社等では、「個人との契約の前例はない」とバッサリ・・・。これでは、(blogの扱い等)個人ベースで遵法したくても、手も足も出ない。

今回“教育や研究など公正な理由があれば無許可で著作物を利用できるよう著作権を制限する「フェアユース(公正利用)規定」の導入検討”が実現すれば、Netの世界で、随分と自由度が増すので、この動きに期待したいものだ。

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著作権の70年延長は疑問だ

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2008年6月17日 (火)

伊藤久男の「イヨマンテの夜」

言うまでもなく「イヨマンテの夜」は伊藤久男の代表作だが、あのダイナミックな歌い方は、まさしく伊藤久男しか歌えない歌であろう。
伊藤久男については前にも書いた(ここ)。
既に高校の時にこの曲を愛聴していたので、大学2年の時に北海道に旅行した時は、「イヨマンテ」への期待(?)で一杯だった。でも・・・・
確か白老だったか・・・。ケーブルカーでどこかの山頂に行ったら、見世物のアイヌの踊りがあって、小さなクマが居た。ナヌ・・・??と帰ってきたのを覚えている。
この歌の歌詞・イメージと実際のイヨマンテとは大分かけ離れているらしい。「イヨマンテの“夜”」となっているが、実際の儀式は昼だったとか・・・
まあ、そんな“現実”とは違っていたとしても、歌の世界だけで楽しんでも(?)良いではないか・・・
伊藤久男の「イヨマンテの夜」は1949年(昭和24年)に発売になったが、それも含めて自分は3つの音源を持っている。一番好きなのはモノラルの再録音盤。昔、高校の図書館のレコードコンサートで流したのを今でも思い出すが、この歌声が一番ダイナミックでありアレンジも好きだ。

<伊藤久男「イヨマンテの夜」>~昭和39年7月?


「イヨマンテの夜」
  作詞:菊田一夫
  作曲:古関裕而

1)アーホイヨーア‥‥‥イヨマンテー
 熊祭り(イヨマンテ)
 燃えろ かがり火
 ああ 満月よ
 今宵 熊祭り
 踊ろう メノコよ
 タムタム 太鼓が鳴る
 熱き唇 我によせてよ

2)熊祭り(イヨマンテ)
 燃えろ ひと夜を
 ああ 我が胸に
 今宵 熊祭り
 可愛い メノコよ
 部落(コタン)の掟破り
 熱き吐息を 我に与えよ
 イヨマンテ
 (カームイホプニナアーホイヨ)
 イヨマンテ
 ア・・・・・・・ 

次に、昭和24年のオリジナル盤を聞いてみよう。SPからの復刻なので音は悪い。

<伊藤久男「イヨマンテの夜」>~昭和24年のオリジナル

オリジナル盤は、若い38歳の伊藤久男である。それに引き換え、最初の盤は脂の乗り切った伊藤久男であり、これはCD化されていないようだ。

そして(今CD化されている)ステレオ録音のLPを買ったのが、大学2年の時。この時に録音されたものだとすると、1968年伊藤久男58歳の時の録音だ。

<伊藤久男「イヨマンテの夜」(ステレオ再録盤)>

伊藤久男が亡くなったのが1983年4月(73歳)だという。前の年(1982年)の年末、日本レコード大賞の特別賞を受賞したが、その時は自宅からの生中継だった。スーツ姿のやつれた伊藤久男の姿に、TVで痛々しく見たのを今でもくっきりと覚えている。
ともあれ伊藤久男は、自分にとってみると、藤山一郎と同じく、知ったときから“懐かしのメロディー”だったが、忘れ得ぬ大歌手であった。

最後に、何と女性が歌った「イヨマンテの夜」を聞いてみよう。この歌は、てっきり「男声で歌う歌」と“憲法第九条”で決まっているとばかり思っていたが、何と女声・・・・
時代は変わった・・・・

<岩本公水(くみ)「イヨマンテの夜」>

(2012/08/29追)

この「イヨマンテの夜」はラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の中で、奥多摩の山の中で、木こりが木を切りながら歌う歌だったという。最初はハミングの歌だったが、後から歌詞を付けたという。

<古関裕而が語る「イヨマンテの夜」の誕生秘話>

(昭和54年8月26日NHK放送の番組「昭和歌謡大全集」より)

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伊藤久男の「ひめゆりの塔」

●本日、カウントが11万を越えました。G=5830、Y=15,400&420

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2008年6月16日 (月)

NHK「世界ふれあい街歩き」が楽しい

最近、NHKhiの「世界ふれあい街歩き」(HPはここ)という番組に凝っている。この番組は、多分一番番組作製費が安いだろう、と思われる(?)番組で、単にカメラが世界の街角を散歩するだけ。例えば、先日見た「世界ふれあい街歩き~ヴェリコタルノヴォ」(08/6/5放送)では、ブルガリアの首都ソフィアから車で3時間、山あいをヘアピンカーブのように流れる谷川の急斜面にびっしりと家が建ち並ぶ街で、大相撲・琴欧洲関の故郷だという。
その街のくねくねした道を、カメラが「散歩」する。そして、出会った人に気楽に声を掛け、立ち話をする。それがほとんどぶっつけ本番。町の人も気楽に応えてくれる。
「アムステルダム(再放送=08/6/15)」でも、運河の町を散歩する。しかし発見!街の中にこんなに運河があるとは・・・・

この番組の魅力は何だろう。多分、自分は絶対に行けない世界の街に、自分の代わりに行ってくれる。それをただ眺めているだけで、その街に行った気分・・・。(何と自分は、安上がりな旅行者・・・)
しかし、元エンジニアの端くれの自分からすると、この番組はなかなかと興味深い事がある。まさにカメラのこちら側から声を掛け、相手が直ぐに反応してくれるのだが、こちらからの声は全く聞こえない。単に吹き替えの日本語だけ。現地では当然現地語で会話をしているはずなのに、こちらの声が入っていない。という事は、ものすごい指向性のマイクを使って相手の声だけ録っているのか??
たまにガラス窓に写るこちらの取材者側は、ジャイロスコープの安定器に付けたカメラと照明・・・。マイクは何を使っているか分からない・・・。どのようにして自分達の声を消しているのか、興味があるな・・・。それに、相手の人の反応が実に素直。まるで、カメラ側に「これは日本のテレビの取材です」なんていう看板でもぶら下げて、相手は先ずその看板を見て状況を察知している??そう考えてしまうほどの道行く人の自然な対応・・。

話は変わるが、昔、子供が小さかった頃、東武ワールドスクウェア(HPはここ)に家族で旅行をした事がある。世界中の有名な場所(建造物・・)が全てそこにあり、一番喜んで、熱心に見ていたのが(子供ではなくて)オトーさんだった・・・。と今でも我が家の語り草・・・
それはそうだ。25分の1の、精巧なミニチュアがそこにはぎっしり・・。自分はその時こう言った。「いちいち現地に行かなくても、ここに来れば世界旅行をした気分になれるじゃないか。それに絶対に現地では見る事が出来ない建物の裏側も真上からも、見放題だ・・・・」

この番組も同じだな・・・・
でもカミさんに言わせると、「匂いが無い・・・・」。しかし、TVで居ながらにして・・・、というのも、金が掛からなくて良いのでは?
でもたまにキズは、45分の番組を見ていると「時間が惜しい」と思ってしまうこと・・・・。まあ我が家は、どちらかが腰痛?になるまでは、当分は“本当の外国”に行く気配だが・・・

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2008年6月15日 (日)

第45回ギャラクシー賞 大賞「裁判長のお弁当」を見て

NHK BS2で放送された「ザ・ベストテレビ“全部”見せます グランプリ作品」(08/6/14放送)という番組で、「第45回ギャラクシー賞 大賞「裁判長のお弁当」(東海テレビ放送)」を見た。
NHKで民放の番組が放送されるのは珍しい。今回は、この1年にNHK・民放を問わず、日本を代表する7つのTV番組コンクールが、最優秀と推したドキュメンタリー番組を集めたのだという。
最初に放送されたのが、「裁判長のお弁当」というドキュメンタリー番組。だいたい「ギャラクシー賞」というのを、自分は知らなかったが、これは「日本国内のテレビ番組作りの最高の栄誉となっている」そうである。そして、第45回の作品は、ほんの先日(2008/6/3)発表になったばかりとのこと。

「裁判長のお弁当」という作品は、予想に反して許可された“裁判所の向こう側”の取材。「裁判所も変わろうとしているのか・・・」とナレータ。そして半年の取材。場所は名古屋地裁・・・。
密着取材は、じゃんけんで負けた名古屋地裁刑事1部 天野登喜冶裁判長(56歳)。しかし取材を始めて困った。裁判官室は、毎日単調で、何の変化も無い。3人の裁判官は、法廷以外は、ただただ机で、黙々と記録を読み、判決文を考えてワープロに向かうだけ。取材する画面で変わるのは毎日2回(昼食と夕食)のお弁当だけ。だらか“象徴”がお弁当になった、という。
それについて、番組放送後にプロデューサ阿武野勝彦氏が(取材されて)言う。「市民にとって裁判官は離れた存在。それを身近なものとして感じられたものは、我々が見つけた“弁当”だった」。それで画面に毎日の弁当が登場する。非日常的な唯一のものとして・・・

裁判官の日常は、出来るだけ地域との関わりは避けるという。もし親しくなった人が被告人になったら・・・。その可能性があるからだという。だから、世間の感覚から離れる事があるという。例えば、「なまちゅう」が分からなかった・・。

もう一人の取材は、元裁判官 下澤悦夫さん(65)。昨年、裁判官を定年退職して、やっと自由にものが言える立場になった。
判事の世界は、人事権を握っている最高裁を頂点とするピラミッド。その構成は、①最高裁(15人)、②高裁長官、地・家裁所長(84人)、③高裁裁判長、地裁裁判長(398人)、④地裁・家裁・支部裁判官(2038人)。そのなかで、下澤さんは若い頃、「青年法律家協会」に所属し、退会・退官勧告に従わなかったので、地方を転々と転勤させられ、定年まで一裁判官で終わったという。

しかし裁判官の仕事量の多さ。地裁の事件数は倍増し、弁護士もそれなりに増えているが、裁判官は増えていない。それは国の予算が限られているため。天野裁判長が同時進行で抱えている裁判は、06年度1年で新たに400件の裁判が持ち込まれた。
裁判官の評価は、こなした判決の数で決まるという。だから裁判官は、残業・休日出勤は当然で毎日忙しく、判決の質も低下しているという。もちろん、現場に行っている時間も無い・・・。
年間160万件の刑事裁判の有罪率は99.9%。裁判所は、検察庁から送られた資料と法律のみにより判断するしかない。それが仕組み。この事は、前にこのblogでも書いた(
ここ)。

元裁判官 下澤悦夫さんが言う。「裁判官というのは、情に流されない。浪花節になったりウェットになるのには批判的。法律家というのは、冷静であり客観的であるべき」
番組最後のナレータ:「初めてTVカメラが映し出した裁判所。そこには弱音を吐くこともできず、膨大な事件を裁き続ける裁判官の姿があった」

自分もまさに初めて裁判官の日常を見た。昔、NHK特集で「最高裁判所」という作品があったが、この作品はナマの裁判官を扱っている。
法曹のうち、弁護士は普通の市民とまったく同じであり、特に尊敬する対象ではないと思っているが(これだけは自信を持って言える)、検察官と裁判官は分からなかった。まさに壁(日常の市民生活)の向こう側。

来年(H21年5月)、裁判員制度が始まることもあり、このようなTVドキュメンタリーとして(市民感覚から遠い)裁判官の世界を国民に開くのも意味があるな・・とも思う。次は、検察官の世界をドキュメンタリーとして見たいものだ。

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映画「それでもボクはやってない」を観て

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2008年6月14日 (土)

映画「山桜」を見て

藤沢周平原作の映画「山桜」を見た。(公式HPはここ
しかし、短編小説の映画化をどう捉えたら良いのか、釈然としないままに映画館を後にした。

080614yamazakura 今までに映画化された藤沢周平のものは全部見て来たので、この「山桜」も、小説は読んでいなかったものの、何の考えも無く見た。しかし、初老!の自分にはなかなか難しかった。
主題歌を一青窈が歌っているが、まさに全体が若向きというか、Jポップの世界に見えた。
つまり還暦の自分には、主役の名前も知らないこともあり、何の感慨も無く、淡々と物語が進んでしまった。

そして、この様な映画をどう見たらよいのか、正直戸惑った。と言うのは、事前に公式HP(ここ)を見たら、そこにストーリーが載っていた。その記載の最後に“余韻”があったので、最後に何か起きるかな?・・・とも思ったが、結局、HPに載っていたストーリー通りに映画が進んだだけで、HPで読んだスジの“おさらい”をしているようだった。
原作が20ページの短編だというので、原作に忠実だとすると、まあこんなものかも知れない。まさに短編を映画化する時の難しさだろう。

しかし篠田三郎の父役には目が留まった。実は自分が若い頃、この人とは相性が合わなかった。(つまり、あまり好きでなかった) しかし、久しぶりに見てみると、お互いに年を取ったせいか、いわゆる初老の父親役が合っていた。それに比べて、壇ふみは若過ぎ??

たまたまこの映画は「文部科学省選定」になっている。
カミさんが言うように、“他人の目ではなく自分の目で判断”が正しいのだが、一回も見ていない映画の価値を、事前にどう判断したら良いのか・・・。結局、自分で実際に見てみないと、良いか悪いか分からないではないか・・・。
毎週金曜日の夕刊には映画の評が載っている。しかしつくずく、“良い映画(=自分にフィットした映画)”を見つけるのは難しい事だと感じた。

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2008年6月13日 (金)

サンゴ礁の世界・・・東大 茅根創氏の話

NHKラジオ深夜便「ないとエッセー・アンコール「サンゴ礁は海の命の宝庫」東京大学大学院教授 茅根創(H20.3.17-20の再放送)」(08/6/3放送)を聞いた。
この話は、今まで聞いたことが無いほど、実に整理された展開の話し方で、人に話をするときは“こうあらねば・・・”と思った。
この理路整然とした話で、サンゴについて、「今まで漠然としていて、不思議に思っていたこと・・」が、目から鱗で良く理解出来た。話されていた事について、記憶を辿ってみると・・

「サンゴ礁はクラゲやイソギンチャクと同じ仲間の動物。茶碗を伏せて回りに紐を幾つもぶら下げたのがクラゲで、元に戻したのがイソギンチャク。それがたくさん集まったのがサンゴ。元は一匹だったのが、たくさん分裂して大きく群生したのがサンゴ礁。サンゴは白い骨格を持っており、1ミリの1/100位の植物を体の中に住まわせている。サンゴの様々な色は、その植物の色。だから動物の他に、骨格という鉱物と、共生植物という性質を併せ持っている。なぜ植物と共生しているかと言うと、サンゴは植物が光合成で出す有機物を栄養として取り入れている。サンゴは死ぬと骨格は残るので段々大きくなる。生きているサンゴは表面だけ。白い砂浜は、半分はサンゴ。サンゴは、自分で浅瀬を作って太陽光を受け易いようにしている。
サンゴ礁は、美しいたくさんの動生物に住みかを与えている。サンゴ礁には多くの利点がある。一つは外洋の波から島を守る役目。大きな波も、サンゴ礁が防波堤になって島まで来ない。津波が来ても、被害が少なくなる。二つ目が水産資源の宝庫。三番目が観光資源。サンゴは年に1回産卵をする。たくさん放出される一つのカプセルの中に、卵子と精子を持っており、それが破裂して他の卵子・精子と出会う。しかしその確率は非常に小さい。
それを、最近はサンゴ礁を破壊している。人が多くなって埋め立てたり、港を作るために浚渫したり・・・。それ以外の直接的な被害としては、東南アジアでのダイナマイトでの漁業や、青酸カリを流しての漁業をしている。
それに、人口増加で栄養分が海に流れ、サンゴ礁が大腸菌に汚染されて病気になったり・・。サンゴ礁は栄養の無い海でしか生きられない。栄養があると藻が繁殖してサンゴ礁を覆ってしまう。
昨年夏に石垣島のサンゴ礁が白化した。サンゴ礁の色は共生草の色だが、ストレスで共生草がサンゴから抜け出したため、白いサンゴの色が透けて見えるので白くなる。そうするとサンゴが死んでしまう。ストレスは高海水温もある。28~29℃から30℃を越えると、サンゴは共生草を放り出してしまう。サンゴは海のカナリアである。つまり地球環境の変化を、最も敏感に感じ取る。それをまず色の白化で警告する。
サンゴの再生の研究も進んでいる。サンゴを一本一本植える技術は確立した。しかし、一体となった木を植える技術、つまり森林の造林の技術はこれから。
オーストラリアのグレートバリアリーフでは、30年前は海底の半分くらいをサンゴが覆っていたが、今は20%位になってしまった。このサンゴ礁の破壊の危機は、海の底の話なのでの皆の目に触れない。だからぜひ美しいサンゴとその破壊の状況を見に行って欲しい。・・・」

グレートバリアリーフといえば、4年前にオーストラリアに行ったとき、帰りの飛行機から見た、その息を飲む美しさにビックリしたものだ・・・・。まさにこれが、サンゴが作った美しさだったのだ・・・(下は、2004/8/11のその時撮った写真)

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話が変わるが、先週(2008/6/6)、NHK総合で「僕の島/彼女のサンゴ」というドラマを放送していた。たまたま最後の数分を見ただけだったが、そのドラマで、死んで白化したサンゴ礁と、それを再生させるために「サンゴを植える」という場面を見た。その記憶が残っていたためか、この茅根創氏の話は、スッと体に入ってきた。
地球温暖化とか自然破壊とか言うが、世界のサンゴ礁の破壊状況は目を覆うばかりらしい。

さて、それに対して自分が今出来ることは何か・・?(先ずはゴミの分別でも真面目にやろうか・・・? 「隗より始めよ」という諺もあるので・・)

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2008年6月12日 (木)

藤山一郎の「長崎の鐘」+永井隆博士の短歌

藤山一郎は“懐かしのメロディーの大御所”という前に、まさに“国民的大歌手”だった。だから、この人が歌った歌の数は、歌手の中でも最大級ではなかろうか。先に書いた「白鳥の歌(ここ)」もそうだが、「長崎の鐘」という歌は、本当の初期、つまり自分が中学生の頃に聞いた歌だった。先ずは、昭和24年(1949年)6月発売のオリジナルから・・・。

<藤山一郎「長崎の鐘」>~昭和24年(1949年)6月発売

「長崎の鐘」

  作詩:サトー・ハチロー
  作曲:古関裕而
  歌 :藤山一郎

1)こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

2)召されて妻は 天国へ 別れて一人 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの 鎖に白き 我が涙
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

3)つぶやく雨の ミサの音 たたえる風の 神の歌
 耀く胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

4)こころの罪を うちあけて 更け行く夜の 月すみぬ
 貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

(永井隆博士詩)
「新しき朝の光の さしそむる荒野にひびけ 長崎の鐘」

(この歌詞の3番は、ほとんど聞いたことが無いな・・・・・)
そして、藤山一郎が病床の永井隆博士のもとを訪れた時に博士から贈られた短歌「新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘」を、その後、藤山一郎が旋律をつけて歌っている。

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その部分も歌っている音源はこれしかない。(追:五郎部俊朗のCDにも入っていた)その録音も聞いてみよう。これは1959年6月発売のレコードである。(高校2年だった昭和39年7月7日に購入)(よって、Wikipediaの「長崎の鐘」の項にある「その後、1983年ごろに藤山の作詞・作曲によるサビ部分が付け足された。」という記述は間違い)

<藤山一郎「長崎の鐘」>~昭和34年(1959年)6月発売のLP

国民的大歌手だった藤山一郎だが、この記事を書くに際してWikipediaに目を通したら、知らないことがたくさん書いてあった。まず専属レコード会社はコロムビアだとばかり思っていたが、ビクター、テイチク、コロムビアを経て、昭和29年からはNHK専属だったとか・・・。
そういえば、前に愛宕のNHK放送博物館に行った時、藤山一郎コーナーがあり、そこに遺品が展示されていた。その中にNHKの駐車場の許可証があったが、てっきり番組に出るためだと思い“何時でも使える駐車場許可証を貰う位だから、出演回数が多かったのだろう”と考えた自分は、間違いだった。藤山一郎はNHKの“職員”だったのだ。

話が変わるが、学生の頃、長崎に旅行したことがある。バスの中から「この家が永井博士の家で~す」とガイドに言われて、バスの窓から首を出して、何の変哲も無い家を覗いた事を思い出した。(写真はクリックで拡大)

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しかし何故か長崎の原爆は、広島の原爆に比べて影が薄い・・・。広島の死者14万人に対して長崎が7万人と少なかったからだろうか?
自分はこう思う。「次男は長男に比べて影が薄いのさ!」←ちなみに自分は次男である。

(追:2009/4/4)
<古関裕而「長崎の鐘」を語る>
  ~NHK人生読本「旅と歌~古関裕而」(昭和54年4月4日放送)から

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藤山一郎・松田トシの「白鳥の歌」を聞いた

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2008年6月11日 (水)

八王子とワシントンD.C.とタクシー

八王子市が、天下のワシントンD.C.と並び称されるとは何とも珍妙だが、八王子市とワシントンD.C.は、面積及び人口でほぼ同じなのだそうだ。(これで、ワシントンD.C.は“かなり田舎?”または“かなり余裕のある地域”だという事が分かったな・・?)

NHKラジオ深夜便。08/6/4の「ワールドネットワーク」は、ワシントン(山崎一民さん)からの話題だった。そこでワシントンD.C.のタクシー事情の話があり、ヘエーっと聞いてしまった。何ともつまらない話だが・・・。曰く・・

・ワシントンD.C.の面積は177km²位で、人口は59万人位。八王子市の面積がちょうど186km²位で、人口は57万人位なのでほぼ同じ。
・そのワシントンD.C.のタクシーは、つい最近までメーター制ではなくてゾーン制を取っていた。ゾーン制というのは、市内を23のゾーンに分けてゾーンを跨ぐ毎に料金が加算される仕組み。だから観光客などが高い料金を請求されて、不満や苦情が多かった。タクシーの客席にゾーンの地図は貼ってあっても、今どこを走っているかなど普通は分からない。
・この制度は1930年代から続いているが、ワシントンD.C.のタクシー約6500台は全て個人タクシーで、その組合が強い。その組合が政治家に献金などをして、この制度を維持してきた。
・全米にはメトロポリタン(大都市圏)が20あるが、こんな制度が残っているのはワシントンD.C.だけ。
・しかし、ここに強敵が現れた。ミシガン州出身のカール・レヴィンという議員(20年以上も上院議員を務めているベテラン)が、「これではアメリカの首都ワシントンのイメージを傷つける」と言い出して運動してきたが、つい2、3年ほど前に「ゾーン制導入を決めた法律をやめて、メーター制に移行すべきだ」という法案を提出して、今年の初めに連邦議会で成立した。
・その時に、このカール・レヴィン議員がやったのは、まさにゾーン制のおかしさを自ら証明しようと、特定の2つの区間を決めて、10回自分でタクシーに乗った。そうしたら10回とも料金が違った。これはいかに利用者が騙されているという証拠ではないかと、その記録も踏まえて記者会見をして、法案を出し、それをなんとか通した。それに、去年の秋にワシントンD.C.に30才代の若い市長が誕生したが、その市長もワシントンの改革を公約に当選したので、この新市長も新しいメーター制導入に積極的で、あと押しをした。
・この新メーター制は08年5月の1ヶ月間は試行で、6月から全面実施。メーターが付いていないタクシーには1000ドルの罰金を課すとか・・・・。
・アメリカは「Transparency」要するに、透明度が高いかどうかということを非常に重要な基準としているので、当然利用者には評判が良い。

いやはや、この話にはビックリ。
1970年代に起こったウォーターゲート事件では、現職大統領(ニクソン)のクビを切るほど「透明度」が高い国で、このような利権が、先月まで国の首都で許されていたなど、信じられない・・・。
しかし、日々報道される「事件」とは別に、日常の「(当たり前でないけど)当たり前」の事については、誰も目を向けないのだろうか・・・? 否、たぶんここでも話が出ていた通り、目を向けても「NO」となる何か(政治献金・・)が存在していたのだろう。

昔、出張で初めてアメリカに行ったとき、“何てアメリカは「リーズナブルな思考をする国」なのだろう・・”とビックリしたものだ。つまりその時、アメリカは多民族国家のためか、全ての考え方が「(誰でも納得する)当たり前の考え方」をする国だと知った。しかし、この話題は、自分のその認識を簡単に崩してしまった。
自由の国アメリカにも、まだまだ理不尽な(利権が残った)部分が存在するらしい・・・。

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2008年6月10日 (火)

伊藤久男の「山のけむり」~懐かしのメロディーの色々

今日は「懐かしのメロディー」の話・・・・
自分が伊藤久男や藤山一郎といった「戦後歌手」の大御所たちを知ったのは、中学生の頃(昭和30年代後半)だっただろうか。そのとき既に、彼らは「懐かしのメロディー」だった。(死んだ親父は、東海林太郎の大ファンだった。「とうかいりんたろう」と読んだら、バカと言われた・・・←これ蛇足)
伊藤久男の歌は、「イオマンテの夜」「オロチョンの火祭り」等に代表されるダイナミックな男らしい歌と、この「山のけむり」や「あざみの歌」に代表される叙情歌に分けられる。
自分はどちらも大好きだが、その中でもこの「山のけむり」は、自分が最初に伊藤久男と出合った曲のひとつだ。ステレオの新録音ももちろんあるが、今日は昭和27年(1952年)発売のオリジナルの音源で聞いてみよう。56年前の録音である。

<伊藤久男の「山のけむり」>~昭和27年(1952年)8月発売


「山のけむり」
  作詞:大倉芳郎
  作曲:八洲秀章
  歌 :伊藤久男

1)山の煙の ほのぼのと
 たゆとう森よ あの道よ
 幾年消えて 流れ行く
 想い出の ああ 夢の一筋
 遠く静かに 揺れている

2)谷の真清水 汲み合うて
 ほほえみ交わし 摘んだ花
 山鳩の声 聞きながら
 行きずりの ああ 君とともに
 下りた峠の はろけさよ

3)山の煙の たそがれに
 別れた人の うしろ影
 あと振り返り 手を振れば
 薄れ行く ああ 淡い夕日が
 染めた茜の なつかしく

この歌はNHKラジオ歌謡。このラジオ歌謡には良い歌がたくさんある。Netでラジオ歌謡について調べてみたら、“ラジオ歌謡は、家族みんなで歌えるホームソングという戦前の「國民歌謠」と同じコンセプトのもと、昭和21年5月から37年3月まで、毎週5日各10分、16年間放送された”・・とか。

しかし、Netで「NHKラジオ歌謡」と検索をかけてもヒットする数が少ない。しかし、何と「ラジオ歌謡研究会(ここ)」なるものがあるではないか。そこを見てビックリ。ラジオ歌謡が、845曲(ここ)もある・・・・
つまり、軽々しく「ラジオ歌謡には良い歌が多い・・・」なんて言ってはいけないのである。自分が知っているのは、本当にひとカケラの範囲だけ・・・・
でも良い歌は色々とあるので、このサイトでも今後何曲かは取り上げてみたい。(既に「さざんかの歌」は取り上げた)
そうだ、もしかするとNHKラジオ深夜便に、〔深夜便アーカイブス〕というコマがあるので、そこで昔の「ラジオ歌謡」の録音が放送されるかもね・・・? 先日放送されていた中西龍アナの「にっぽんのメロディー」は昔聞いた記憶があるが「ラジオ歌謡」は聞いた記憶がない。でも例え放送されたとしても、「ラジオ歌謡研究会」の記録からすると、殆どは聞いたことが無い曲ばかり・・・。
どの世界も深く、広い・・・(そして、自分の知っているのは、ほんの表面だけ・・・)

(関連記事)
NHKラジオ歌謡「さざん花の歌」
伊藤久男の「ひめゆりの塔」
八洲秀章の「毬藻の歌」

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2008年6月 9日 (月)

「終身刑 是か非か」~朝日新聞から

昨日(08/6/8)の朝日新聞(P9)の“耕論”に「終身刑 是か非か」という記事があり、立場の異なる3氏の論を興味深く読んだ。
先ずは、「死刑廃止を願う立場からの賛成」「死刑であれ終身刑であれ賛成できない」「終身刑の創設には賛成できない」という各氏の論の、自分が気になった所を抜粋してみると・・・・

「死刑廃止に必要な受け皿」~菊田幸一氏(明大名誉教授)
「死刑廃止を願う立場から、死刑に代わる「受け皿」として90年代初めから終身刑導入を訴えてきた。当初は仮釈放のない終身刑は死刑と同様に残虐な刑罰であり、導入は重罰化に加担するもので死刑廃止運動に逆行すると批判され、集会で口に出すのも難しい雰囲気だった。・・」
「死刑廃止論者が理論上、死刑は違憲であり、その存在は世界の流れに反すると訴えるだけでは、前進は着実なものとならない。・・・大切なのは、死刑制度の存続を支持する80%以上の世論を抱え込んで活動していくことだ。・・」
「・・・ある死刑囚は「死刑囚が精神を病むのは、いつ処刑されるか分からない状況に置かれるためだ。3畳一間に死ぬまで閉じ込められていても、死刑執行がないとわかっていれば、その中の生活もまた人生だ」と述べている。・・」
「仮釈放の希望のない終身刑は、受刑者の処遇を困難にするという反対意見もある。だが、私が米国でした調査では、長期よりも短期の受刑者の方が出所の可能性があるだけにむしろ、強い不満を抱いたり激しく権利を主張したりと処遇が難しい傾向があった。・・」
「・・終身刑があれば、・・・死刑ではなく終身刑を選んだと推定される事例が2割あった。」
「・・米ニュージャージー州では死刑と終身刑が早くから並存していたが、死刑が長いこと執行されず、ついに昨年、廃止に至った。日本がそういう段階を踏んでいくためにも、「受け皿」としての終身刑が必要だと考える。」

「排除すれば安全」は幻想~坂上香氏(映画監督)
「・・米国の「アミティ」という民間団体が行っている更正プログラムでは、受刑者同士を1日に何時間も語り合わせ。「なぜ罪を犯すことになったのか」という問いに、とことん向き合わせる。・・」
「・・・だから私は、「仮釈放の望みを絶たれた終身刑受刑者は生きる屍となり、更正は不可能になる」とは、考えない。刑務所の中だろうと外だろうと変わるチャンスがあれば人は変われると思うからだ。だが、だからこそ、社会に戻る可能性を絶つ刑罰には、それが死刑であれ、終身刑であれ、賛成できないのだ。」
「・・・欧州の多くの国では、終身刑といっても一定の期間で仮釈放の申請が出来るし、米国でも仮釈放の可能性がないのは終身刑の3割に満たない。一方、日本の無期懲役は10年たてば仮釈放が可能になるが、07年に仮釈放されたのは受刑者1670人のうち3人。ここ数年の収監期間は平均25~30年に及ぶ。「人を殺しても10年で出てくる」というのは誤解にほかならない。・・」
「・・いまの日本の刑務所は働かせることが中心で、受刑者を「なぜ罪を犯したのか」という問題に向き合わせる機会はほとんどない。人間として変わる機会がないままに刑務所を出た人は、罰せられたことへの復讐心でいっぱいになっており、再び社会に危険な存在になっていく。そうして暴力の連鎖が繰り返される。
私たちがいま議論すべきなのは、罪を犯した人がいずれは社会に帰ってくることを前提に、「彼らが変わるために。刑務所の中で、そして外で、何をしたいいのか」なのではないか。」

「処遇困難な受刑者増やす」~坂本敏夫さん(作家・元刑務官)
「終身刑の創設には賛成できない。27年間にわたって刑務所や拘置所で勤務してきた経験から、終身刑の受刑者は処遇が困難になることが容易に想像できるからだ。・・・死刑囚は拘置所の独居房に収容される。刑務作業はない。最初の数年間は荒れることが多いが、刑務官は「殺さず:狂わさず」を基本に時間をかけて信頼関係を醸成し、執行までに償いの気持ちを抱かせようと力を注ぐ。私の実感としては、1人の死刑囚を担当する労力や精神的な負担は、一般者の被告や受刑者50人分と同等かそれ以上になる。・・」
「・・希望の存在は人を前向きにするし、立ち直るきっかけにもなる。終身刑ができると、受刑者は何を支えに生きていくのだろう。これ以上良くも悪くもならないのだから懲罰は怖くない。仮釈放になりそうな受刑者をけんかに巻き込むなど嫌がらせをするかもしれないので、ほかの受刑者と一緒にもできない。・・」
「・・費用の面も無視できない。受刑者には1人あたりで、食費や光熱水費など年間50万円ほどの予算が使われている。高齢になれば医療費もかさむし、・・・」
「・・終身刑の創設を望む人の中には、死刑と無期懲役との差が大きいので、中間的な刑罰が必要だという意見がある。これは、仮釈放を認める条件や期間を見直すという運用面の改善で十分に応えられる。・・」
「・・そもそも、私は終身刑が死刑に代わり得るとは考えていない。死刑囚の多くは、自らの死に直面することで命や罪の重さを認識し、更正への道を歩み始める。終身刑ではそうした立ち直りの機会が失われてしまうからだ。
死刑制度は残しつつ、心から反省に至った死刑囚は恩赦などで積極的に刑の執行を停止する。そうした形で現状を改善する方が先だろう。」

この議論は、結局人間を性善説で捉えるか、性悪説で捉えるかの違いのような気がした。坂上氏のように“人間は必ず更正できる”と思えば、死刑にも終身刑にも反対する。しかし世論の80%以上が死刑存続だとすれば、世論は性悪説のような気もする。

話は変わるが、人の立場・経験等で意見が異なることは当然だが、この記事を読んで、なかなかと考えさせられた。つまり、立場・考え方の違いでこうも意見が違う・・・という事を。
我々は日常生活で、色々な立場の意見を平等に聞くチャンスは、意外と少ない。
この終身刑の議論でも、正直いって自分は「無期懲役と死刑との落差」や「無期懲役は10年で出る可能性もある」との理由で、終身刑の創設が良いと思ってきた。しかし、こうして色々な立場の意見を聞くと、そのどれも説得力がある。
ここで、終身刑の是非を論ずるつもりはない。しかしつくずく、全ての議論において「全てが分かっての“自分の意見”というのは、極めて難しい・・・」ということが分かった。
そう認識してみると、急にいつもの“口から出任せ”の自分の言葉に対して「本当にその意見は正しいのか・・?」と、自信が無くなる。
(取りあえず、明日の会議では黙っていようか・・? たぶん直ぐに忘れて元に戻ると思うけど・・・)

(関連記事)
光市母子殺害事件の死刑判決に思う

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2008年6月 8日 (日)

映画「約束の旅路」を観て~文部科学省選定の映画

映画「約束の旅路」を観た。(公式HPはここ) この映画は、07年3月に岩波ホールを皮切りに劇場公開され、07年10月にはDVDも発売された映画。今更・・・なのだが、実は自分は、こんな映画があることを知らなかったので、“今頃になって観た・・・”という訳。

080608yakusokunotabiji この映画の本題は「行け、生きろ、(何かに)なれ*生まれ変われ」だという。途中では、少し難しい映画だなと感じたが、終わってみると「ウーン」だ。その「ウーン」の中身は・・・・?
この映画の最大のテーマは「母と子の絆」、それと国境を超えた人類愛・・・。なかなかこの世界は、日本人からは遠い世界かも・・・?
1984年11月~85年1月にかけて。イスラエルと米国の指揮のもと、エチオピア系ユダヤ人をイスラエルに帰還させるという作戦が展開された。それを許可しないエチオピア当局の目を盗んで人々は徒歩で数百キロを歩き、スーダンに脱出。8000人がそれで救われたが、スーダンに着く前に、疲労や襲撃で4000人が死んだ。
物語は、このスーダン難民キャンプから、ユダヤ人だと偽ってイスラエルに脱出して生きた主人公の、4人の母とのかかわりを中心に進む。4人の母親とは、一人は息子を救うために、「行け。生きて生まれ変われ。そして何かになれ」と息子を突き放つ強い実母。2人目は、そのスーダン難民キャンプで主人公のシュロモを預かり、危険を犯しながら彼をイスラエルに送り届けて直ぐに死んでしまうエチオピア系ユダヤ人の母。3人目は、白人の家族であるにも拘らず、シュロモを愛し育てる養母。そして最後が良き理解者の白人の恋人のサラ。

この映画は、ユダヤ教などの宗教や、イスラエルにまつわる政治的背景が絡んでいるために、少し難しいが、それを超えた「愛」の力が全体を包み込む・・・。
結果として、優秀なシュロモは「何かになれ」を、パリに行って医師になる。そしてスーダンの難民キャンプで「国境なき医師団」として働く。そしてそこで実母との再会・・・・
この実母との再会のラストシーンでは、松本清張の「砂の器」で、加藤嘉の演ずる主人公の親が、「そんな人、知らねえ!」と絶叫するシーン思い出した。(関連記事はここ) 両方とも、子を思う親の愛であろう。

話は変わるが、このような「見応えのある映画」というのを、どこで知るかである。新聞などの評判が一番身近だが、興行成績とは観点が別だ。たまたま先日観た「マンデラの名もない看守(ここ)」で、「文部科学省選定」という表示に気が付いた。それで、Netでそれを調べてみたら、文部科学省のHP(ここ)に「特選」または「選定」の映画リストが載っていた。このblogで書いた映画を思い出してみると、「潜水服は蝶の夢を見る」「明日への遺言」「サラエボの花」「しゃべれども しゃべれども」「不都合な真実」「フラガール」・・・ほとんど全が載っている。
・・・という事は、自分が何か見応えのある映画を観たくなれば、「文部科学省の選定を受けた映画」を“取りあえず観たら・・・??”という事になる。まさに“ミーハー”の自分らしい発想ではある?(←ウチのカミさんが最も嫌いな考え方だが・・)
ちなみに最近の「文部科学省“特選”」の映画は、・・・・

「クライマーズ・ハイ」(08年4月30日)
「あの空をおぼえてる」(08年3月28日)
「西の魔女が死んだ」(08年3月10日)
「明日への遺言」(07年11月6日)
「サラエボの花」(07年10月1日)
「この道は母へとつづく」(07年8月27日)
「河童のクゥと夏休み」(07年5月22日)
「しゃべれども しゃべれども」(07年5月10日)
「約束の旅路」(06年12月22日)
「不都合な真実」(06年12月22日)
「雪に願うこと」(06年5月25日)
「紙屋悦子の青春」(06年4月28日)

・・・だという。まだ観ていない映画もあるので、今回のようにDVDレンタルがあるものは、そのうち一応観ておくことにしようか・・・・。

・・・というのが自分の感想なのだが、カミさんの反応がまったく違う。つまり「なかなか見応えがあったから、見たら?」と、後からカミさんにDVDを貸して見せたら、反応が全く逆。これほど評価が分かれる映画も珍しい・・?
まず、主人公の努力度が映画に表現されていない。だから、せっかく恵まれた環境を与えられながら、自分のカラにこもって心を開かないのが好かない・・と言う。
確かにそうだが、9歳の子供が「自分の過去を一切口にしてはいけない」と言われて、全く違う環境に放り込まれた状況では、誰でも黙り込むしかないのでは?
それに、イスラエルに向かう時、女性(2番目の母)に子供を託す時も、何の根回しもなく、何のお願いも無く、結果として押し付けるやり方はあまりに無謀・・・とカミさんは言う。それも確かだが、もしかすると2人は知り合いで、目と目のサインで分かったのかも知れないし・・・・。映画は全てを映してはいないので、分からない状況は想像するしかない。

ともあれ、白人の家庭で、自分達の子供が居るのに黒人の養子を迎える事など、宗教が絡まないと凡人では到底出来ないこと・・、という認識だけはカミさんと一致したが、同じ映画でも価値観が人によって異なることを、今更ながら実感させられた映画ではあった。

(関連記事)
映画「砂の器」のサントラ「宿命」

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2008年6月 7日 (土)

「四球が示す福留哲学」~朝日新聞から

今朝(08/6/7)の朝日新聞のスポーツ欄(P23)の「自由自在」というコラムに「四球が示す福留哲学」という記事があり、なるほど・・・と思った。曰く・・・

「四球が示す福留哲学」~朝日新聞(08/6/7 P23)より
「カブスのルー・ピネラ監督は、福留に絶大な信頼を寄せている。「彼はリーグ最高の右翼手だ」
かつて指揮を執ったマリナーズでもイチローに同じ賛辞を送った。守備範囲の広さ、肩の強さ、送球の正確さ。2人の守備能力は確かに両リーグの双璧と言っていい。
ただ、打者としての2人には決定的な違いがある。それは野球に対する哲学の相違と言ってもいいだろ。
「ファンは僕の四球を見るために球場にくるのではない」と話すイチローは、安打を放ち続け、先人の記録を塗り替えることに意義を見いだす。一方の福留は「いかにアウトにならずに、チームの攻撃を長く続けさせられるかを考える」と語る。
イチローが大リーグ入りした01年の年間四球率は30。福留は5日現在(61試合目)で既にチームトップの38を記録している。イチローが首位打者に輝いた同年の出塁率は3割8分1厘。福留は5日時点で4割8厘と上回る。
優勝争いの激しさを経験した中日時代、主軸でありながら、常につなぎ役の意識も持ち続けたからだろう。結果は凡退でも、打球を右方向へ飛ばし、走者を前の塁に進める打撃は、チームの得点力を陰で支える。
近年のカブスは、98年に66本塁打を放ったサミー・ソーサに代表されるように、大味さとと背中合せの豪快さがチームカラーだった。
福留の獲得を強く希望したピネラ監督は「シーズンを通して粘り強く我慢できる打者がいれば、このチームは変わる」と予言していた。62年間、リーグ優勝から遠ざかっているカブスは今、ナ・リーグの中地区で首位を快走している。(畑中謙一郎)」

良い悪いではなく、この二人の世界観に対して、ついサラリーマン世界を鳥瞰してしまった。イチローは自分の成果が結果としてチームの勝敗に繋がるし、また観客の動員に繋がると考える。そして個人としての結果を出す。一方福留は、自分個人の成績よりもチームの勝敗が全て、と考える。

実はサラリーマン世界(=組織の全て)はこれと全く同じだ。優秀な個人が、個人として結果を出せば、組織としての結果も付いて来る。しかし、組織運営上は難しい面もある。他人の「僻み」という点だ。
一方、個人の成果を棚に上げて、常に全体(チーム=組織)の結果だけを念頭に置いて動く・・という事は、実は大変な事だ。なぜなら、「自分を認められたい」という欲求は人間本来のもの(自己の存在意義・・・)。それを超越して(自己への勲章を二の次に?)、“全体最適”で考えているという福留選手に、この記事を読んで、非常な興味を覚えた。

だいぶん前に「松井秀喜の「運命論」(ここ)」という記事を書いた。
実は自分はまったくの野球オンチ。もちろん大リーグの中継など、ニュースで見る事はあっても、試合を通しで見たこともない。
しかし、先の松井を始め大リーグで活躍する選手は、そのスポーツ選手としての活躍の裏に、大変な人間的魅力が備わっており、“その活躍は偶然ではないな・・・”と思った。
まあ、定年延長戦中の自分は、“もう「個人成果」を出す時期は終わった・・“と達観して、裏方に徹している積もりだが、それがどこまでホンモノか・・? この記事は、自省する良い機会を与えてくれたのかも・・・・

(関連記事)
松井秀喜の「運命論」

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2008年6月 6日 (金)

野上弥生子の「母の歌」と上落合小学校

突然の校名で恐縮だが、上落合小学校とは、もう遥か昔に自分が入学した小学校の名前である。昔の校名は埼玉県北足立郡与野町立上落合小学校。そして自分がこの小学校から茨城に転校したのが、昭和33年3月。小学校4年が終わった時だった。その直後の昭和33年4月に市制施行により与野市立上落合小学校になり、平成13年にはさいたま市立上落合小学校になっている。
Image00971 しかし、自分の記憶の中では相変わらず「与野町立上落合小学校」である。当時の写真がある。これは昭和32年(1957年)当時の学校の全景である。(もちろん今は鉄筋コンクリートのビル教室)
そういえば、自分が高校を卒業した昭和38年に、一度訪問したことがあった。その時の写真もあるはず・・・。
Netで見ていたら、何と上落合小学校にHPがあるではないか(ここ)。小学校のHPとは・・・。いやはや、時代は変わったものだ。

小学生の頃、音楽の授業が楽しみだった。そして、上級生の教室から流れてくる歌が“うらやましく”、早くその歌を歌いたいと思ったものだ。その曲は何だったか・・・? 今思い出すのは「故郷(兎追いし・・)」そして「思い出(かきに赤い花さく・・)」・・だったと思う。
その頃憧れていた曲(歌いたかった・曲、好きだった曲)が何かあったはず・・・と、昔の音楽の教科書を見てみたい思いに駆られ、Netで見ていたら「なつかしの音楽教科書」という本があり、最後の一冊を通販で何とか手に入れた。でも期待外れ。昔の教科書そのものの復刻版を見たかったが、この本は単にその頃の曲の抜粋だった。
次いで、Yahooオークションを見たら「昭和30年頃の小学校の音楽教科書」があり、つい買ってしまった。
Image01101 それは、昭和30年12月発行の教育出版社の「標準 小学生の音楽(4年生)」(定価45円)と、昭和34年12月発行の同じく5年生用だった。まさに自分が教わった頃だ。それをめくってみて、発見がひとつ・・・。何と野上弥生子の「母の歌」が5年生の教科書に載っているではないか・・・。1年ほど 前に「唱歌「母の歌」が見つかった・・・(ここ)」という記事を書いた。しかしこれで、この歌をどこで聞いたかが分かった。前の記事の転載だが、少し聞いてみよう。

<桑名貞子「母の歌」>


「母の歌」
  作詞:野上弥生子
  作曲:下総皖一
  歌 :桑名貞子

母こそは 命のいずみ
いとし子を 胸にいだきて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿

母こそは 千年(ちとせ)の光
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり
大いなるかな 母の姿

この「野いちご」という歌も覚えているが、あれ以来聞いていない。どこかでもう一度聞いてみたいもの・・。
しかし、この小学校の教室・・・。まだ目に浮かぶ・・・。多分ここが、自分の音楽の歴史のスタートだったのだろう。何とも昔を“思い出”で旅するこの頃ではある。

(関連記事)
唱歌「母の歌」が見つかった・・・

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2008年6月 5日 (木)

井上陽水「傘がない」と沢田研二「許されない愛」は似ている?

井上陽水の「傘がない」と沢田研二の「許されない愛」・・・。この2曲がなぜ並ぶかというと、自分にとっては、それは「ロック調」という共通点があるように思えるから・・・。
もちろん、井上陽水の「傘がない」はフォークからの流れだし、沢田研二の「許されない愛」はグループサウンズからの流れ・・・? でも何故か自分には、この二つの曲に共通点があるように聞こえる。つまり、このロック調のリズムが・・・。

<井上陽水「傘がない」>
 作詞・作曲:井上陽水 編曲:星 勝

<沢田研二「許されない愛」>

 作詞:山上路夫 作曲:加瀬邦彦 編曲:東海林修

しかし改めて今聞いてみても、特に「傘がない」は名曲だ。特にバック(星 勝の編曲)が素晴らしい。年月を経ても色あせていない。まさに70年代の代表作だな・・・。

しかもこの「傘がない」はオリジナル以外の録音(演奏)を聞いたことがない。逆に聞きたくもない。要は、それほどこの録音(編曲=演奏)が完成されている・・・ということだろう。

ちなみに、井上陽水の「傘がない」は1972年7月発売、そして沢田研二の「許されない愛」は1972年3月の発売で、これは沢田研二の2枚目のシングルだという。よってこの二つの曲は、ほぼ同時期の歌という事になる。(今、初めて知ったが・・・)
それに二人とも昭和23年(1948年)生まれで、誕生日は6月(沢田)と8月(井上)の2ヶ月しか違わないというのも奇遇だ。

何れにせよ、やはりこの時代の歌が自分にはフィットするな・・・。(まあ、最近のJ-POPについては、縁の無い自分には論ずる資格が無いが・・・)

しかし、PINK FLOYDのニック・メイスンといい、このバックといい、ドラムスが好きだな~。前にも書いたが、もし来世に生まれ変わったら「ドラムス」をやりたい・・・・・
両手両足がバラバラに動くあの“芸当”は、現世(今)の自分には到底マネが出来ない。だから、来世でもしオギャーと人間に生まれ変わったら、赤ん坊の時から練習するぞ!!(60の手習いナゾ有り得ないので・・・~でもヨーキーに生まれ変わったらどうする?←これ意味のない記述)

(蛇足):この記事をカミさんに読ませたら、「オトーさん、今日のは無謀。全然似ていないじゃない!題の?を二つ付けたら・・」と言いやがる・・。トホホ・・)

(関係記事)
井上陽水「傘がない」~3種

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2008年6月 4日 (水)

NHK東京放送児童合唱団の唱歌「鎌倉」

もう6月・・・。梅雨と聞くと鎌倉のアジサイ寺(明月院)を思い浮かべる。今年もさぞ賑わうのだろう。
先日(08/6/2)、NHKラジオ深夜便を“再生”していたら、「鎌倉」という歌を放送していた。この演奏は、今までに聞いた中で、一番気に入った。全部で8番まである「鎌倉」だが、転調したりテンポを変えたり・・・、飽きさせないように?編曲者が苦労している。
少し聞いてみよう。澄んだ声の素晴らしい斉唱である。(しかし言葉が少しはっきりしないのが残念ではあるが・・・。なお、自分が持っている同じNHK東京放送児童合唱団のCDとは、違う録音だ)

NHK東京放送児童合唱団の「鎌倉」>

小学唱歌「鎌倉」 
  尋常小学読本唱歌(明治43年7月) 
  作詞:芳賀矢一
  作曲:不詳
  歌 :NHK東京放送児童合唱団

1)七里ガ浜の磯伝い
 稲村ケ崎名将の
 剣投ぜし古戦場

2)極楽寺坂越え行けば
 長谷観音の堂近く
 露坐の大仏おわします

3)由比の浜べを右に見て
 雪の下村過行けば
 八幡宮の御社

4)上るや石のきざはしの
 左に高き大銀杏
 問わばや遠き世々の跡

5)若宮堂の舞の袖
 しずのおだまきくりかえし
 返せし人をしのびつつ

6)鎌倉宮にもうでては
 尽きせぬ親王のみうらみに
 悲憤の涙わきぬべし

7)歴史は長き七百年
 興亡すべてゆめに似て
 英雄墓はこけ蒸しぬ

8)建長円覚古寺の
 山門高き松風に、
 昔の音やこもるらん

「鎌倉」で思い出すことは多い。まず中学2年生の時の修学旅行が鎌倉・江ノ島だった。大仏の前で撮った写真が残っている。そして大学1年の夏に、高校の同級生と巡った鎌倉。それ以降も、度々訪れた。そして我が家の大事件は、昭和51年(1976年)6月6日。場所は鎌倉妙本寺。あれから32年か・・・。まあ、この事件の事は、ここでは書かない・・・。

何度行っても飽きない鎌倉だが、最近仏教を少しかじっているので、もし今度鎌倉巡りをしたとすると、昔の若いときの鎌倉のお寺巡りに比べて、少し意味合いが違って来るような気がする。
そのうちまた、鎌倉のお寺巡りをしたいものである。(もちろん、カミさんが付き合えば・・・だが)

(関連記事)
NHK東京放送児童合唱団の「鎌倉」~再び 


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2008年6月 3日 (火)

映画「マンデラの名もなき看守」に感動

Image01041 今日は、カミさんと一緒に、久しぶりに良い映画を見た。「マンデラの名もなき看守」という南アフリカ初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの、獄中27年間のある看守との交流を描いた映画である。(公式HPはここ

しかし、このような優れた映画に、なぜ観客が少ないのだろう。東京で上映中の映画館はたったの4つ。東京以外では14・・・・。しかも自分が見た立川では、6/6には終わってしまう・・・・。確かに今日も、平日のせいか、観客はシルバーが少しだけ・・・・
確かにテーマは重い。しかしその事実の重さに心は圧倒される・・・。

1948年から法制化された南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)。その弾圧下の1968年の南アフリカ、ロベン島から物語は始まる。当然の人種差別主義者の看守グレゴリーが、ロベン島の看守として配属される。そこには、黒人解放闘争の中心人物マンデラが収監されていた。子供の頃に黒人の友人と遊んだグレゴリーは、白人で数少ないコーサ語(南アフリカ原住民の言語)を話すことから、マンデラの担当を命ぜられる。
マンデラは、半年に一回しか許されない郵便や、接見時に、コーサ語で伝えられる暗号の言葉で仲間に活動を指示。グレゴリーは忠実に指示内容を上司に伝え、そして出世していく。
しかし、自分の伝えた情報からアジトが当局によって襲撃され、殺されて行く事態に、段々と目覚めていくグレゴリー。そして、マンデラの息子の死亡・・・・。マンデラともコーサ語を通じて段々と心が通っていき、いつも堂々としたマンデラの態度・信念に感化されていく。
しかしマンデラの妻に、マンデラから託されたチョコレートを渡した事から、黒人びいきと罵られ、グレゴリーは孤立化してロベン島を去る。
1982年、何事も無く過ごしていたグレゴリーは、ロベン島から別の刑務所に移送されたマンデラの看守を、再び命ぜられる。そして今度は、同じ看守として働き出した息子が・・・
そして1990年、世界の経済制裁もあり、マンデラは釈放。南アフリカの新たな前進が始まった。

Image01053 Image01071

映画の中では、マンデラとグレゴリーが、花の栽培用の棒を手に黒人固有の剣術をする場面で、つい目頭が熱くなった。(上の写真) 子供の頃に黒人の友人と一緒にやった剣術・・・・。 結局、人と人の心を繋ぐのは、上辺の言葉だけでは無いのである。お互いに認め合った文化・・・・
しかし、誰も子供の頃の体験・経験というのが、人生に大きな影響を与えるものだ。この映画の看守も、子供の頃の黒人の友人との体験(コーサ語)があればこそ・・・・

ともあれ、ひょんな事でアパルトヘイトの裏側を垣間見ることになった。確かに楽しい映画ではないが、アッという間の2時間だった。このような映画に、若者がたくさん行くような日本だと、今後が楽しみなのに・・・

それとこの映画の主題のひとつが「家族」の重さ・・・。全てを投げ打っても、家族を守るのが第一という価値観・・・。
日本のサラリーマンは、現役時代は「仕事第一・・・」で、定年になって家族から棄てられるのとは大違い・・・。(まあウチは関係ないけど・・・・)

●本日、カウントが10万を越えました。(信じられないカウント数です。本サイトを訪れてくれた方に、心より感謝します)

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2008年6月 2日 (月)

超人・ラリー・ドライバー能城律子氏の生き方

いやはや、このような人のことを、まさに「超人」と言うのだろう。
NHKラジオ深夜便(08/5/30)『こころの時代』で、「いつも現役、力の限り生きる ラリー・ドライバー 能城律子」を聞いた。今年72歳。世界最高齢のラリー・ドライバーだという。しかも、病気で満身創痍・・・・・。その凄まじい生き方に、ただただビックリ・・・

ナレータ:080602nojyo_2 「能城さんは1935年(昭和10年)生まれで今年72歳。20代から貿易関係の仕事に就き、これまでに世界140ヶ国を訪れた。38歳の時に、海外旅行の経験を活かして都心のホテル(ホテル・ニューオータニ)に託児所を開く一方、58歳で車の国際A級ライセンスを取得。60歳で、パリ・ダカールラリーに挑戦し完走を遂げ、59位に。これまでに15回国際レースに挑戦し、12回完走した経験を持ち、世界最高齢のラリードライバーと言われている。・・・」

まず、その張りのある声にビックリ。これが72歳の“おばあさん”(失礼!)の声だろうか・・・。少し聞いてみよう。

080602nojyo1

ここで言っているように、ラリーは、ナビゲータとの一瞬の呼吸が勝負、と聞く。しかしここでは、外人男性ナビゲータと呼吸を合わせる事の大変さを吐露している・・・。
さぞ、大変な体力の持ち主だろう・・・と想像すると、小柄で満身創痍の身とか・・・。小学校5年生の時、病気で1年間休学。その後20代で胃潰瘍。35歳の時に子宮がんの手術。38歳の時に乳がん。43歳の時に、乳がん再発のため両乳房を失う。その手術の後遺症で、胸郭出口症候群(心臓からの太い血管がつぶれて両手まで血液が届かなくなる病気)になり、10本の指は未だにしびれたまま。今でもほとんど感覚が無いという。65歳の時に、マスターラリーでコースを逆送してきた車と正面衝突で重症。それ以外にも、様々な病気・・・・・。それでも現役でラリーをしている・・・・。

日常では、生活のために一日100K、車で走っている。それが練習・・・。
なぜこんな体でも出来るのか・・・? 毎日楽しく生きること。それに、目標を持って生きること。肉体は老いるが、精神に老いは無い。だから目的を実行するために、精神を健康にして身体を引っ張りあげて、一日一日を積み重ねて生きる。
今の目標は、パリ発、陸路(北極経由)ニュー・ヨーク。世界中に行ったが、北極だけは行っていないので・・・。費用は、自分でスポンサーを探すという。車、タイヤ、オイル・・・・。
そして「国際宅配おばさん」という、アフリカなどの世界の子供達に物資を届けるボランティア活動もしているという。そして、子供達から生きる喜び・幸せをもらっているという。詳細(ここ

しかし、一貫した「今のこの瞬間に生きる」という人生観は、まさに仏教の教えにも似ている。
世の中は広い・・・。余命3年というガン宣告を受けても、こんな生きざまをする人も居る。まだまだ自分などは小さいな・・、と感じた時間ではあった。

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2008年6月 1日 (日)

我が家の最長老家電「松下電工の腋毛剃り器」33才~付加価値を考える

実は、本日(08/6/1)は当blogの2歳の誕生日なのである。最近は、まさに「備忘録」になってきた。何か思い出すと、blogにメモしている感じ・・・
このようなblogが、いつまでネット上で存在し得るかは分からないが、色々と想像すると楽しい・・・・。例えば、自分の子孫がもし存在したとすると、「100年前はこんな歌があったんだって・・」ナンテ言いながらこのblogを読んでいる・・・。な~んて考えると、楽しいよね・・・
(まあ当家の場合は、ヨメさんが見付からないので、その可能性は限りなくゼロに近いが・・・)

という訳で、今日は「寿命」の話。
世の中の家電製品の寿命というのは、どの位が平均なのだろう?法律では、生産打ち切り後7年間は保守部品を供給する事になっているが、・・・・
自分の持っている家電での最長老は、パイオニアのC-77というプリアンプ。1976年だからもう32年で、未だに現役だ。それに同時期に買った英QUADのメインアンプも同じ年だ。
Img_21731 しかしタッチの差での1位は、カミさんの嫁入り道具(=結婚前から持っていたという意)の一つであった「松下電工の腋毛剃り器(松下電工製シェーバー「ラブラブ」ES163)」である。1975年以来使っているので、もう33年だ。
Img_21741 機能は単純。乾電池でモータが回るだけの仕組みだが、それがなかなかと壊れない。まあ毎日使うものではないが、いつの頃からか、未だに現役なので「スゴイ!」という事になって、今日取り上げたというわけ。

何に対しても、「費用対効果」という考え方がある。この製品の場合、買ったときは、たぶん高くても2千円位だろう。2000円÷33年÷12ヶ月=5円。つまりこのシェーバーの「使用料」は、「1カ月当たり 5円」という事になる。

それに引き換え、先日壊れたブラウン管のハイビジョンTVは02年2月に13万円で購入した。それが08年3月に壊れたので、6年1カ月で13万円という事になる。とすると、130,000円÷6年1カ月=1780円。TVなので毎日見る。よって1日だと60円。まあ安い方か??
建てて20年経った「家」は、月に2.5万円(金利含まず)・・・・。前乗っていたチェイサーという車は、月に1.8万円か・・・・。
しかし一番価値があったのは、何と言っても03年4月に左下奥歯に入れた3本のインプラント(ここ)。もうあれから5年か・・・・。90万円を5年で割っても月1.5万円。20年持つとすると、月に4千円弱、1日では120円だ。これで毎日の“入れ歯の違和感”から開放されるのであれば、とてつもなく安い。
・・とまあ、考えているとこの議論は底無し沼に入るので、この辺で止めておくが、物を買うという事は、それが生み出してくれる“価値”を買うこと。

一方、「旅行」のように、その価値を金銭では評価しきれないものもある。それに「時間」の価値も人・時期によってさまざま。人生の活動期には時間単価は高いし、引退後は安い。自分も還暦を過ぎて、近い将来「毎日が日曜日」になった時、自分のその「時間」を高価なものにする為に、そろそろ何をするか考えなければいけない時期なのだが・・・・

ともあれ、blogは「さて今日は何を書くかな・・」と、日常の生活が“意識的”になる事だけは確かだ。これは俳人も同じらしい。
こんなblogを勝手気ままに書くことによって、健忘症?の発症が遅れれば、それはそれで良いではないか。

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