さだまさしの「空蝉」
さだまさしは、本当に天才だと思う。歌の素晴らしさと共に、あのような哲学的な歌詞を書く才能は何処から来るのか・・・・。小椋佳も中島みゆきも同じだが、いわゆるシンガーソングライターは、誰の助けを借りる事なく、自分で自分だけの世界を作れる・・・。
天才さだまさしには幾らでも名曲があるが、今日は(帰りのバスの中で聞いた)「空蝉」という曲を紹介しよう。これは「夢供養」というアルバムに入っている。
<さだまさし「空蝉」>
「空蝉」
作詩・作曲:さだまさし名も知らぬ駅の待合室で
僕の前には年老いた夫婦
足元に力無く寝そべった
仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに
小さな肩寄せ合って
古新聞からおむすび
灰の中の埋火おこすように
頼りない互いのぬくもり抱いて
昔ずっと昔熱い恋があって
守り通したふたりいくつもの物語を過ごして
生きて来た今日迄歩いて来た
二人はやがて来るはずの汽車を
息を凝らしじっと待ちつづけている
都会へ行った息子がもう
迎えに来るはずだから
けれど急行が駆け抜けたあと
すまなそうに駅員がこう告げるもう汽車は来ません
とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました
哲学者“さだまさし”は、非常に難解な歌詞を書くが、この曲はその中でも分かり易い。でも、この詩をどう解釈するか・・・・
「空蝉」は蝉の抜け殻。この老夫婦を抜け殻と言っているのだろうか?息子を待って「弁当」を持って毎日通う駅・・・。あまりにむごい光景・・・。
この詩を良く読むとぞっとする場面があり得る・・・。都会に行った息子が、不慮の死を遂げ、空蝉(死体)になった「ボク」が霊魂となって故郷に戻ってきた・・・。そして年を取った両親を見ている・・・。
両親は、息子の死を認める事が出来ず、毎日息子が帰ってくるのを待っている・・・・
そして駅員が、「“とりあえず”今日は来ません」と優しい言葉をかける・・・・
団塊の世代の我々も、これから「生老病死」の「老病死」の世代に入って行く。
その状況のなかで、果たしてこの老夫婦を笑い飛ばす事が出来るのだろうか?
この歌詞の、両親と息子との関係はどうだったのだろう? 自分もそうだったが、息子は特に父親との関係が難しい。なぜなら、人生で“最初の唯一絶対のテキ”は父親だから・・・。(だからウチの息子どもとの関係も、そんなものだろうと達観している)
もし最後の別れが良いものでなかった場合、この老夫婦には何かの後悔があって駅に通っているのかも・・・?
考えれば考えるほど気持ちが沈む・・・。
この歌詞で、もう少し明るい解釈は無いものだろうか・・・。
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コメント
名作「夢供養」の中でも、この曲と「まほろば」が特に私のお気に入りです。
投稿: ardbeg1958 | 2009年6月14日 (日) 05:43
http://www.youtube.com/watch?v=QjuB1zdzkMo&feature=autoplay&list=QL&index=11&playnext=3
空蝉の歌詞の意味が気になって検索したところ、こちらのブログを見つけました。
youtubeに、さだまさしさん自身が「空蝉」について語ったものがあがっているのをご存じでしょうか?
(上のアドレスになります)
しかも、空蝉を初めて歌ったときのもののようで、考える上では非常に価値が高い物かと思います。
別の方のブログの考察でも、まず「僕」を亡くなった息子であると解釈していますが、さださんのトークを聞くと、もっとシンプルな(つまりただそこに居合わせた第三者=さださん自身)といった解釈も特に無理はないかと思います。
どう判断されるにしろ、さださん自身のトークがなかなか興味深いので、ぜひ聞かれてみて下さい。
投稿: ユウキ | 2011年2月26日 (土) 08:01
http://www.youtube.com/watch?v=QjuB1zdzkMo
失礼しました。上はアドレスのミスで、こちらが正しい物になります。
【エムズの片割れより】
情報ありがとうございました。聞きました。作者本人の弁ですのでホンモノですね。色々な場面を想像出来る歌詞です。
投稿: ユウキ | 2011年2月26日 (土) 08:05
不整脈で大変だった由、お体大切にしてください。健康な人の体調が一時変になることを『鬼の霍乱』とか言うそうですが、意識してゆっくりされるのはどうでしょうか。小生御ブログ2010年5月18日、も拝読し、降圧剤と併用させていただいています。
さて、「空蝉」の駅には老夫婦が、待っていたのですね。夜が来て別の線を走る列車には森田童子が乗っていて、「海を見たいと思った」とか、呟いていたようです。「空蝉」の二人の前を急行列車は駆け抜けた。だとしたら、まだ、終列車には間に合う近くの別の線の駅に行って、「夜汽車」に乗るように勧めてはどうでしょう。悲しい者同士、話すことができれば不思議と光明が見えてきて、もしかして息子にも会えるかも知れません……
夜汽車
大木 実(1913-1996)
いつの旅であったろう
となりあわせた女のひとが
窓にむかって泣いていたのは
その背なで安らかそうに幼な子が眠っていたのは
またいつの旅であったろう
むかいあわせた老人が
手紙をしめして行く先をたずね
哀しい身のうえを語ったのは
燈火も暗く すちいむも通わぬ
田舎の小さな町から町へゆく終列車
ああ あのひと達
一時間ほどいっしょに過しただけなのに
おそらく生涯 二どと会わないであろう
何でもないあのひと達なのに
【エムズの片割れより】
なかなか難しいコメントをありがとうございます。
「夜汽車」・・・旅は郷愁を誘いますね・・
投稿: 植松樹美 | 2011年3月10日 (木) 18:46