昭和7年の歌「天国に結ぶ恋」
今日は、すごく古い“心中の歌”の話である。
1932年(昭和7年)発売の「天国に結ぶ恋」という歌をご存知だろうか? 歌っているのは、東京音楽学校出身のバリトン歌手「徳山璉(たまき)」と四家文子という歌手である。(あまりに古くて良く分からない・・・)
自分がこの歌を初めて聞いたのは、中学生の頃(昭和30年代)だったろうか・・・。旋律が物悲しく、そして「ふたりの恋は清かった・・」という歌詞が気になり、“英語学習用”のテープレコーダにあわてて録音したものだった。(だから3番の「ふたりの恋は清かった・・」という歌詞が頭に残っているのである)
とにかく聞いてみようか・・。何と76年も前の録音である。
<徳山璉/四家文子「天国に結ぶ恋」> ~1932年(昭和7年)
「天国に結ぶ恋」
作詞:柳水巴(=西條八十)
作曲:林純平
唄 :徳山璉・四家文子1)今宵名残りの三日月も
消えて淋しき相模灘
涙にうるむ漁火に
この世の恋の儚さよ2)あなたを他所に嫁がせて
なんで生きよう 生きらりょか
僕も行きます 母様の
お傍へ あなたの手を取って
3)ふたりの恋は清かった
神様だけが御存知よ
死んで楽しい天国で
あなたの妻になりますわ4)いまぞ楽しく眠りゆく
五月青葉の坂田山
愛の二人にささやくは
やさしき波の子守唄
当時の新聞を賑わした「坂田山心中」についてはNetで詳しい事情が読める。
簡単に言うと・・・、昭和7年大磯で心中事件が発生した。男の方はある男爵の甥で、東京市芝白金三光町に住む慶応大学理財科3年の調所五郎(24)、女の方は静岡県駿東郡下に住む湯山八重子(22歳)。調所家に残されていた五郎の遺書から、八重子の両親から交際を反対されたのを悲観しての自殺と分かった。
どうして若い男女の一心中事件が日本中の話題をさらったのかというと、心中女性の死体が仮埋葬してある寺から盗まれ、服を剥ぎ取られて海岸で発見されるという猟奇事件に発展したこと、そして心中女性の死体が検視の結果、処女であったと発表された事。
しかし、全ては東京日日新聞の「純潔の香高く、天国に結ぶ恋、多摩に営む比翼塚、大磯心中の麗しい結末」という見出しや、「天国に結ぶ恋」という名文句が一人歩きして、新聞・マスコミが非常にロマンチックな物語に仕立て上げてしまったのだという。
そして間髪入れずに、この「天国に結ぶ恋」という歌や同名の映画が作られたのだという。
なぜこの記事を書く気になったのかというと、静岡から出てきた湯山八重子が入学した東京の学校(頌栄高等女学校)が、何と自分の通勤駅と同じ所にあるため、何となく他人の気がしないのである・・・(← 幾ら何でも無理スジ・・・・)
まあ二人が出会うきっかけとなったのが、通勤している会社の近く・・・、と言うだけなのだが・・・・
今では「心中」という言葉そのものが死語。しかし、「自分も、実は若いときに“心中”するような熱い恋があった・・・」なんて言い出すと面白いかも・・・?
でもウチのカミさんは「そんなワケ無いでしょ!」でチョンだな・・・。言うだけムダなので止めておこう・・・
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コメント
昭和31,2年ごろ、私の高校に四家文子さんがお弟子さんを一人お連れになって来られました。カルメンを演じて下さいましたが、
ホセを演じて下さった男性のお弟子さんが、すらりとした美青年で、黒目がぱっちりしていて、それは素敵な方でした。ヴァリトンの声も素晴らしく、女学生全員うっとり聞惚れました。お名前を野田京二さんと覚えておりましたが、何十年も経ってから、それが五十嵐喜芳さんとわかりました。まだお弟子さんになって間もないころだったのでしょう。忘れ難い思い出です。
投稿: 白萩 | 2009年10月26日 (月) 20:47
白萩さん
思春期の頃の出来事は置く覚えているのもですね。自分も、高校か大学か忘れましたが、田部井淳子さんが講演に来られて、登山の時、食品をいれる容器としてマヨネーズの袋が便利だったという話をして、それを未だに覚えています。でも音楽関係は、高校の時に狂言が来て、それを覚えている位かな・・
投稿: エムズの片割れ | 2009年10月26日 (月) 21:39
狂言は私も学校で本物を観ました。狂言師が恵まれない生活をされていたころのようです。四家さんが来られた2年ぐらい前に湯川秀樹氏ご夫妻が来校されて講演して下さいました。中学3年生でしたので、お話の内容はさっぱりわかりませんでしたが、その後、奥様が「ただ今の主人の話は眠くなる話で」と言われた事だけ覚えております。静かで優しいこの人がノーベル賞をと私の横を通られた時感激したものです。若い時は出来るだけ色々な人に出会っておくといいですね。田部井さんは多分私と同じ年だと思いますので、エムズさんは随分お若い頃の田部井さんにお会いしたのですね。
投稿: 白萩 | 2009年10月26日 (月) 22:10
白萩 さん
狂言は確か高校の時だったと思います。二度と見ることは無いかもしれないが・・・と、先生が紹介したことを今でも覚えています。確かにその後、見る機会はありません。
そして狂言師の方が「動作を簡略化して行ったらこうなった」という能の所作の話をされ、それも覚えています。
若い頃の経験は、何と効率の良い(忘れない)ことでしょう・・。
投稿: エムズの片割れ | 2009年10月29日 (木) 21:35