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2008年2月16日 (土)

中村元訳「般若心経」の『小本』と『大本』の比較

自分が「般若心経」を知ってから、ちょうど4年になる。深遠なる心経はまだまだ分からないが、今までで一番ビックリしたのは、『大本』というものがある事を知った時だった。通常我々が目にしているのは『小本』。「般若心経」の『大本』は、本来の仏典の様式にのっとり、説法の状況がより詳しく説明されている。

Image00421 話が飛ぶが、中村元氏は言うまでもなく東洋哲学(仏教)の世界的権威であり、日本の第一人者であった。その中村元氏が「般若心経」を、玄奘三蔵訳からではなく、サンスクリットの原典から日本語に約した邦文は、まさに『日本人の般若心経』であろう。岩波文庫の中村 元、紀野 一義訳註「般若心経・金剛般若経」にその訳が載っている。
今日は、中村元(紀野 一義含む)訳の「般若心経」を味わうと共に、『小本』と『大本』の違いを比較してみる。
以下の「太文字」は小本・大本の「共通」の言葉である。逆に「太文字」でない部分は、それぞれのオリジナルの言葉である。
(当然だが、サンスクリット語から直接の日本語訳なので、対比する漢字は無い。つまり、サンスクリット原典⇒漢訳⇒日本語ではなく、サンスクリット語⇒日本語なので・・・)

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<中村元:訳「般若心経」の『小本』>

全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

シャーリプトラよ、

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。
眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目覚めた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
ここに、智慧の完成の心が終わった。

中村元・紀野一義訳註「般若心経・金剛般若経」P11~15より)

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<中村元:訳「般若心経」の『大本』>

「このようにわたしは聞いた。あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともにラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)に在した。そのときに世尊は、深遠なさとりと名づけられる瞑想に入られた。そのとき、すぐれた人、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な智慧の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、――存在するものには五つの構成要素がある」――と。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。「もしも誰か或る立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。「シャーリプトラよ、もしも立派な若者や立派な娘が、深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、次のように見きわめるべきである――『存在するものには五つの構成要素がある。』と。そこでかれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、すべて物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。
眼の領域もなく、乃至、意識の領域もなく、心の対象の領域もなく、意識の識別の領域もない。
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。かくて、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、苦しみをなくす道もない。知ることもなく、得るところもない。得ないということもない。
それ故に、シャーリプトラよ、得るということがないから、求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目覚めた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。
その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。

シャーリプトラよ、深遠な智慧の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶべきである」――と。
そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。深い智慧の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。あなたによって説かれたその通りに目覚めた人々・尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。世尊はよろこびに満ちた心でこのように言われた。長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆、および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に歓喜したのであった。
ここに、智慧の完成の心という経典を終る。

中村元・紀野一義訳註「般若心経・金剛般若経」P193~196より)

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般若心経は、短いこともあり、暗唱して唱えるのは簡単だ。でも逆に短いだけに、その言葉一つひとつに凝縮された意味というのは、あまりに深遠だ。
自分など、死ぬまでその意味は分からないだろうと思う。でも何年かかったとしても、少しでもその深遠なる世界に近付きたいものではある。

(関連記事)
「般若心経」勝手帖-03 全文

「中村元―仏教の教え 人生の知恵」を読んだ

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コメント

中村氏の訳を初めて知りました。参考になりました。
そして、ひろさちや氏の訳の方が的確だと思いました。
般若心経は、大乗仏教の経典であり、それは小乗仏教の教えを批判し、大乗の教えの根幹である「空」を説いている、というものです。
サーリプトラは、小乗では智慧第一とされる、小乗仏教の象徴です。
そして観音(観自在)は、大乗仏教の象徴たる菩薩です。
小乗が大乗に教えを請い、大乗がそれに答え、それを側で聞いていた釈尊が、それで正しいと、お墨付きを与えます。
漢文の経典の中で、無〜と羅列されるところがありますが、それは全て小乗の教えです。
大乗は、言葉で語られた教えさえ、空である、と説きます。
その大乗の「空」の意味を理解しないと、般若心経は理解できない、そう思います。
その空を説明しようとすると、何ページにもなる、と学者は言うようです。
「実体がない」というだけでは、ちょっと分からないですよね。
現時点で私が理解したものも、私も短い文章ではうまく説明できません。
それから、般若心経の後半部は、言わば呪文(真言)の重要性を説いたものですから、それは深遠な「空」の教えとは、ちょっと方向が違って、俗っぽくなります。
般若心経は、寄せ集めの経典、呪文を重要視するようになった時代に寄せ集めで作られた経典と言えるようです。

とはいえ、その解釈の仕方によって、寄せ集めの欠点を補うことがなされるので、その経典は、とても重要視されるようです。

【エムズの片割れより】
確かに、ひろさちやさんは一般人に分かり易い解釈をしていますよね。中村元先生はあくまでも学者。
広大な心経の世界です。

投稿: たかはし | 2011年11月 5日 (土) 17:35

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