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2007年12月28日 (金)

ミュンヘン五輪男子バレー金の監督「松平康隆」の言葉

今日聞いたNHKラジオ深夜便「こころの時代」は、07/12/27放送(07/6/1の再放送)の「今、金メダルが教えてくれるもの 日本バレーボール協会 名誉会長 松平康隆」の話であった。聞いていてなかなか面白い・・・

1972年のミュンヘンオリンピックの男子バレーボールで金メダルを取ったが、その道への始まりは、東京オリンピックでの屈辱・悔しさからだという。
松平氏は、東京五輪は男子バレーのコーチで参加。それが何と銅メダルを取る快挙。この東京五輪は、日本の男子バレーにとって、二つの大きな意味があったという。
東京オリンピックでは、大松監督の女子バレーが国民的熱狂の最中。女子バレーは五輪の前の3年前から22連勝中。だから五輪で“勝って当然”とは言わないが、勝って世界一を「確認した」。それに引き換え、男子バレーは、当時22連敗中。ヨーロッパの新聞に「世界のくず」とまで書かれていた状況。それが銅メダル。これは奇跡的な成果。
それなのに、「何だ銅メダルか・・・」が世間の評価。マスコミは仕方が無いとしても、内輪のバレーボール協会までが男子バレーのことを忘れて、祝賀会に呼んでくれなかった・・・。これは屈辱を通り越して、怒り心頭。金メダルを取って見返してやる・・・。これが一つ目。

もう一つは、銅メダルということは世界で3番目。世界一になれる“実感”が湧いてきた、という事。人間は現金なもので、夢や憧れはあっても、達成する実感が湧いて初めて頑張ろうと思うのだという。それで“8年後に金メダル”という目標を立て、自ら全日本男子の監督を名乗り出たという。そして、実際に東京五輪から4年後のメキシコ五輪(1968年)で銀メダル、ミュンヘン五輪(1972年)で金メダルを取る。
なぜ8年後かと言うと、東京五輪は「東京オリンピック」という「台風」が来るので、急ごしらえのプレハブで作ったチーム。しかし銀メダルが2階建て、金メダルが3階建てと例えると、土台がそれにとても耐えられない状況。だから8年間のプロジェクトで、一から作り直した。

目指したのは3つの柱。つまり「チームワーク」「世界一の技術・戦術」「世界一の体力」(~「体格」は生まれつきなので仕方がないが、「体力」は努力でどうにでもなる)
そして若手とベテランの調和の取れたチーム作り。1/3はベテランが必要。(若手だけではピンチに弱い。それは経験が無いから。調子の良いときはベテランは邪魔。足手まとい・・・。そのベテランがミュンヘン五輪の準決勝のときに生きた。対ブルガリア戦、0:2から3:2の大逆転劇)
それから、大男が横っ飛びをする非常識な練習が始まる・・・・。
「世界一になるというのは非常識。非常識を達成するために非常識な練習を積み重ねる事は常識。それ位の覚悟が無ければ世界一なんて言うな・・・・」

自分が金メダルと取れたのは運が良かった。努力すれば必ず報われるというのはウソ。どんなに努力しても「形」で報われない人は幾らでもいる。それを自分は「金メダル」という形で報われた。こんなに運の良い男はいない。人間はどんなに努力してもダメな時も人生にはある。だが、やらなければ絶対にそれは来ない。努力しない限り、果報は寝て待て、は絶対に無い。選手は確かに自分が選んだが、選手がもし居てくいれなかったたら選べなかった。
金メダルを取ったとき、政治評論家の藤原弘達が電話してきて「松平君おめでとう。これ以上の良い事は絶対に無いのだから、これからは余生と思えよ」。42歳で余生とは・・・と、ビックリしたが、それを機に“これからは感謝の人生を送らなければ・・・”と思った。
最後に、指導者・人を育てている人(母親とか先生とか先輩とか)に言いたい。「育てようとしている人から、今、話の分かるお母さんとか、良い兄貴とか言われたいと思ったら、(指導は)絶対に失敗する。教えるとか身に付けさせるというのは、いやな事がたくさんある。今は良い先生、良いお母さんと言われなくても、そのうち大人になってから、あの先生が居たからこそ今の自分がある、と後になって初めて感謝されるような先生であり、親であってほしい」が締めくくりの言葉。

長々と書いてしまったが、なかなか含蓄のある良い話だった。(だから再放送・・・?)
でも「ピンチの時にはベテランが必要」というのは心地よい言葉だ。自分(の年代)も、まだまだ“活躍の場”があるかもね・・・・??

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コメント

素晴らしいインタビュー紹介をありがとうございます。松平さんもオントシ78歳だと思います。健康に人一倍留意され一病息災でお元気に過ごされますように・・・16年ぶり北京五輪への男子バレー出場に関して、何かコメントがありましたら教えて下さい。

投稿: turbo60 | 2008年6月23日 (月) 15:27

turbo60 さん

コメントありがとうございます。しかし有言実行は難しいですよね。
しかし「努力すれば必ず報われるというのはウソ」という言葉にはドキッとします。松平さんもご健勝らしいので、北京を楽しみにされているかも・・・。
(そのうち「北京オリンピック出場余話・・・」ナンテいう記事がどこかに出るかも知れませんね)

投稿: エムズの片割れ | 2008年6月23日 (月) 22:24

背番号1:南
背番号2:猫田かつとし(広島・崇徳高校卒)
背番号3:中村ゆうぞう
背番号4:西本
背番号5:木村けんじ
背番号6:深尾
背番号7:野口(変速スパイク)
背番号8:森田じゅんご
背番号9:横田ただよし
背番号10:大古
背番号11:佐藤てつお(福島県相馬市出身)
背番号12:嶋岡けんじ

みんな尊敬する選手たちでした。
バレーボール・プレーヤーとして。
ありがとうございました。

投稿: しん | 2011年2月20日 (日) 21:11

お邪魔します。
私もTVを食い入るように見ていました。
アニメ”ミュンヘンへの道”感動的でしたね。

僭越ながらデータの追加を・・・

背番号1 :南 将之 192cm 旭化成
     ブルガリア戦大逆転の立役者。
     ブルガリアのズラタノフのAク      イックに苦戦したとき、負けず     にAクイックを決めて持ちこたえ     た。

背番号2 :猫田勝敏 179cm 専売広島
     世界一のセッター
     右腕骨折の負傷にもめげず 
     全日本を世界一に導いた 

背番号3 :中村祐造(主将) 183cm新日鉄
     リーダーシップNo.1
     ミュンヘン後は新日鉄を日本      リーグ優勝へ導いた 

背番号4 :西本哲雄 190cm 専売広島
     ラッキーボーイ。国内での試合     中に猫田選手と交錯し骨折の原     因となったが、災い転じて福と     なり、ミュンヘンで活躍した。

背番号5 :木村憲治 185cm 松下電器
     通称”デッカン”
     Bクイックの発明者
     練習方法にしても創意工夫の多     様さを監督に評価される。

背番号6 :深尾吉英 196cm 東レ九鱗会
     真面目な性格を見込まれて全日     本入り。気の弱さを嶋岡選手に     励まされて名アタッカー/ブロッ     カーに成長。

背番号7 :野口泰弘 185cm 松下電器
     腰を痛めた横田選手の対角線
     として抜擢された。ムードメー     カー 

背番号8 :森田淳悟 194cm 日本鋼管
     センタープレーヤー。抜群のセ     ンスで”一人時間差”を考案。
     強烈なランニングドライブサー     ブで敵チームを圧倒した。
 
背番号9 :横田忠義 194cm 松下電器
     努力と根性の人。腕っ節が強く
     ソ連の選手と腕相撲をしてごぼ     う抜きにした逸話を持つ。
     腰を痛めながらもミュンヘンで     は最後まで戦い抜いた。

背番号10:大古誠司194cm 日本鋼管
     世界一の大砲。全日本のエー      ス。ブルガリア戦での終盤
     「難しいボールはオレにまわ      せ!」と叫んで松平監督を感動     させた。

背番号11:佐藤哲夫198cm 富士フィルム
     気は優しくて力持ち。横田、大     古に続く第三の大砲。全日本の
     層の厚さを見せ付けた。ミュン     ヘンでの出番は少なかったが
     その後の日ソ戦で抜群のスパイ     ク力を発揮した。


背番号12:嶋岡健治185cm 日本鋼管
     オールラウンドプレーヤー。
     ピンチサーバー要員だったが、
     レシーブ、スパイク、ブロック
     そしてセッターと全てこなす。
     ブルガリア戦では猫田選手に
     代わってトスを上げ、逆転の      キッカケを作った。


そして忘れてならないのが、
池田尚弘コーチ(のち中野尚弘監督)
斉藤勝トレーナー
(アクロバット体操の考案者、のち監督)
・・・・ですね。

またまた忘れてならないのが
選からは漏れましたが、

レシーブの達人  三森泰明 選手
大古選手を育て、木村選手とBクイックを考案した      小泉 勲 選手

この両選手も、ミュンヘン金メダルの陰の功労者と言えましょう。

【エムズの片割れより】
いやはや良くご存じで・・・
しかしこの話は、「なにくそ!」が素晴らしいですね。

投稿: ピーメン | 2011年7月24日 (日) 08:09

”エムズの片割れ”さん

いきなりお邪魔して失礼しました。
ことが松平監督となると、スポーツ音痴の
くせに血が騒ぎますもので・・・

松平さんは、選手ひとりひとりに歩み寄って熟知していたそうですね。だから日本リーグの試合の解説も松平さんだと一味もふた味も違いましたね。

「今、守備に付いている深尾くんね、彼は手が鼻に行く癖が出るときは調子が良いんですよ。」
「西本くんは駆け足するときに足が”ベタベタ”と床に張り付くように走るときは調子が良いんですよ。」

・・・ここまで部下を熟知している指導者は少ないと思いますね。

Bクイック(小泉勲、木村憲治)
・・・小泉選手は一時期セッターとして
   猫田選手のライバルだったことも
   あるんです。

一人時間差(森田淳悟)
・・・これを編み出すとき、考えすぎて
   頭に円形脱毛症のハゲができてし    まったとか・・・

Z攻撃(大古誠司)

と、多彩な攻撃は選手自ら考案したもの。

厳しい中にも、創意工夫する面白さを選手たちに味わわせてあげていたんですね。

辛口評論で有名だった医師の
(故)石垣純二先生も、
「松平監督こそが最高の指導者!」
と賞賛していましたね。

>>しかしこの話は、「なにくそ!」が素晴らしいですね。
・・・そうそう、松平さんの著作が
   ”負けてたまるか!”でしたね。

ミュンヘンの優勝後、心無い人々に、解散式後の宴会で芸者さんと談笑している選手たちの姿が公表されて、松平さんは責任を取ってバレーボール協会を離れられたのですが、その後松平さんがブラジルに指導に行かれて、ブラジルが強くなってしまい、複雑な思いをしたことがあります。

この後も”負けてたまるか!”だったんですね。松平さんなしに日本のバレーボールは語れないでしょう。大松博文監督と双璧ですね。

投稿: ピーメン | 2011年7月26日 (火) 00:18

初めてお邪魔いたします。私もミュンヘン前からのファンで、モントリオール前はあちこち試合や練習を観に行ってました。猫田さんに千羽鶴をお渡しした際に「僕でいいの?」とおっしゃったのを忘れません。私は「是非、猫田さんに受け取って頂きたいので」と言いましたが「若いやつに渡した方がいいよ」と。でも強引に受け取って頂きました。人をたて自分は裏方に回るそんな猫田さんのお人柄を感じた出来事でした。当事の選手のことを話し出したら尽きませんが、懐かしさの余りコメントを入れさせていただきました。

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。そうですか・・・。自分と違ってかなりこの道の“プロ”のようで・・・。
でもそのようなエピソード、体験は自分にとって「宝」ですね。

投稿: ファンシー | 2011年8月23日 (火) 16:52

http://www.youtube.com/watch?v=HCPnJ7nfEpM&feature=related

エムズの片割れさん
ファンシーさん
↑動画で楽しみましょう

猫田選手はホント人格者だったそうですね。若いスパイカーがミスすると・・

「スマン!俺がもっと良いトスを上げてやれば良かった・・・」

スパイカーがスパイクを決めると、

「よくやった!!」

松平さんが言われた通り”世界一のセッター”だったんですね。

・・この話は猫田さんが癌で亡くなったとき、松平さんがTVで話していたことです。

【エムズの片割れより】
・・・まあそこまでは凝っていませんが・・

投稿: ピーメン | 2011年8月30日 (火) 23:10

ミュンヘン五輪、私が中学入学した年です。母がママさんバレーをしていた影響もあって、私もバレー部に入り、“当然”、ミュンヘンの試合も熱い気持ちで観戦していました。日本男子が金メダルを決めたとき、私たちはその日に行われる地域のバレー大会に出るため、母校の用務員室に集合し、テレビで応援をしていました。日本男子が金メダルを決めた瞬間、私たちは「やったー!」と、異口同音に喜びの叫びを上げました。あれから39年、今でも思い出すたびに心が熱くなります。乏しい小遣いの中から“ミュンヘンへの道”のレコードも買いました。この歌、どこかカラオケに入れてくれないかなぁ、と、今でも思っています。今はバレーボールのルールも大きく変わってしまい、私らのころのルールとは別物の競技になってしまった感があります。でも、確かに日本男子バレーボールが、世界一だった時代が有ったんですよね。

【エムズの片割れより】
確かに今はサッカー一辺倒のような・・
昔が懐かしいな・・。何か素朴で・・・。

投稿: Chang Chang | 2011年11月25日 (金) 16:19

古い記事ですが、拝見して亡くなった松平先生の思い出がよみがえりました。
バレーボールをやっていた私にとって、メキシコ五輪、ミュンヘン五輪時の全日本男子チームは、永遠のヒーローであり、松平監督はまさに神様です。
ところで貴ブログの文中、ベテランがメキシコ五輪のブルガリア戦で活きた、とありますが、正しくはミュンヘン五輪の準決勝でのことですので、失礼ながらご指摘申し上げます。
悪しからず。

【エムズの片割れより】
ご指摘ありがとうございました。早速、修正しました。

投稿: 後藤英一 | 2015年1月19日 (月) 14:38

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