「安全過信 最も危険」~新潟県中越沖地震の教訓
先日(07/7/24)の日経産業新聞に、東北大学の円山重直教授という人が、「原発、事前対策万全に ~安全過信 最も危険」というコラムを書いていた。これを読んで深く頷いてしまった。
曰く、
「イタリア人は交通信号を守らないといわれている。ナポリの友人は『赤信号は止まることを単に推奨しているのだ』といっていた。しかし、交差点での事故は意外と少ない。自動車も歩行者も信号を守らないことを前提に注意して渡るからだ。日本では青信号で横断している際に事故に遭うことがある。信号を守れば絶対に安全だと教えられ、無防備に渡るからだろう。
技術や工業製品に『絶対安全』は存在しない。電力会社や政府は、原子力発電所が『絶対安全』であるという前提に立つと、重大な事故が発生した場合に被害を最小限に抑える対策の検討も十分出来ない。また、重大事故につながる不具合事例を発表できず、炉心損傷などの致命的事故を起こす可能性も否定できない。『絶対安全』に『本当の危険』が潜んでいる。・・・・・」
まったくその通りだと思う。当事者が言うと言い訳になるが、この指摘は大学の先生という第三者が言うので説得力がある。
日本人にアレルギーのある原子力に限らず、いったん事故が起きると、人は(地元は)相手に「安全宣言」を要求する。しかしこれは単なる言葉だけだ。「宣言」という“言葉”よりも、(タブー無しに)まさに“真にどう手を打つか”が重要ではないか?
よって、世の中に(原理的に)“100%は有り得ない”(宇宙の彼方だって、粒子の一カケラ位ある)という前提で物事を考えることは出来ないだろうか?
この指摘の通り「100%安全」を前提にすると、「もし事故が起きた場合は・・・」という議論・検討が出来ない。その議論は「タブー」になってしまう。そして結局、(確率の問題で)事故が起きると、その対策方法が検討されていないので、処置が後手後手になる。まさに、相手にプアーな対応をさせているのは、世論その物かもしれない。
よってこれを避けるには、「絶対安全(100%)は無い」事を、我々が許容するしかない。そして「もし起きたら」の対策も一緒に考えるしかない。
文頭の信号機の話も“なるほど”と合点した。
今まで行った海外旅行で、国々による交通信号の守り方の千差万別さ、にはビックリしてきた。オーストラリアの“青の時間のあまりに短いこと”や、中国での“誰も守らない信号”等々・・・・
でも先進国のイタリアでも同じだったのだ。つまり「信じるかどうか」の問題だったのだ。信号機という機械を信じるか、自分の身を守るため自分の目を信じるか・・・。言われてみれば、これは当たり前の事なのだろう。
しかし本当は世の中、何事も、出来ることなら疑らないで“信じて生きたい”もの。しかしそれには、その期待が裏切られても自分の責任だと思う覚悟も必要だろう。
(自分は昔、それを何度も味わった・・・・。でも子供だけは信じたいよね・・・)
理屈では分かるが、信じて生きたいと思う“初老の”この頃ではある。
(追加)
昨夜(07/7/24)、このblogをアップしようと思ったら、「メンテナンスのため18時間使えません」と出やがる。HPを良く読むと、何と3週間も前に予告されている。自分はそれを読んでいなかった訳だ。
つまり「Cocologは100%完全だ」と思っていたわけだ。まあ自分も「一般ピープル」であって、予防保全の出来ない並の人間だということが良く分かった。
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コメント
「絶対安全」が「想定外」に弱いのは、起きてみれば簡単な理屈でした。刈羽原発の被害が、この程度で済んだのは好運と言うべきでしょう。これを教訓に、「人間は原子力に頼ってもいいか」を、根本から考え直す必要がありそうです。
投稿: 志村建世 | 2007年7月26日 (木) 16:15