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2007年6月16日 (土)

著作権法上の「引用」を考える

著作権法の第三十二条(引用)について考えてみた。本記事は、本サイトを運営するにあたって、著作権法及び判例から見た本サイトの遵法への検証である。

著作権法に以下の条文がある。
第五款 著作権の制限
(引用)
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

では、具体的にどの様にすれば「引用」になり、遵法となるのかを改めて検証した。

当サイトにアップしているMP3のような音声はどうか・・・

(社)著作権情報センター
このホームページは、社団法人私的録画補償金管理協会(SARVH)の助成を受け、著作権制度の普及を目的とする共通目的基金をもとに開設しています。」と謳っている「(社)著作権情報センター」によると、引用の要件は、以下の4点である
1)「引用の目的上正当な範囲内」で行われるものであり
2)引用される部分が「従」で自ら作成する著作物が「主」であるように内容的な主従関係がなければならない。
3)かぎ括弧を付けるなどして引用文であることが明確に区分される必要があります
4)引用部分を明確にした上で、その後に誰のどの著作物であるかを表示するなど、少なくとも引用された著作物の題号や著作者名が明らかに分かるような表示が必要です。

では、新聞はどうか・・・?
(社)日本新聞協会
1) 引用には、報道、批評、研究その他の目的に照らして、対象となった著作物を引用する必然性があり、引用の範囲にも合理性や必然性があることが必要で、必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません。
2) また、通常は質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という主従の関係にあるという条件を満たしていなければいけないとされています。つまり、まず自らの創作性をもった著作物があることが前提条件であり、そこに補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。
3) 表記の方法としては、引用部分を「」(カギかっこ)でくくるなど、本文と引用部分が区別できるようにすることが必要です。
4) 引用に際しては、原文のまま取り込むことが必要であり、書き換えたり、削ったりすると同一性保持権を侵害する可能性があります。また著作権法第48条は「著作物の出所を、その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる方法及び程度により、明示しなければならない」と定めています。新聞記事の場合、「○年○月○日の□□新聞朝刊」などの記載が必要です。

ウィキペディア
最高裁昭和55年3月28日判決によると、「引用とは、紹介、参照、諭評その他の目的で著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録すること」である。
1)文章の中で著作物を引用する必然性があること。
2)質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」の関係にあること。引用を独立してそれだけの作品として使用することはできない。
3)本文と引用部分が明らかに区別できること。例『段落を変える』『かぎかっこを使用する』
4)引用元が公表された著作物であること。
5)出所を明示すること。(著作権法第四十八条) 
 」

では、判例は??
<判例-1>S55.03.28 最高裁判所 第三小法廷・判決 昭和51(オ)923 損害賠償[1] - 「パロディ裁判
この判決文を見ると、
「 法三〇条一項第二は、すでに発行された他人の著作物を正当の範囲内において自由に自己の著作物中に節録引用することを容認しているが、ここにいう引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録することをいうと解するのが相当であるから、右引用にあたるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならないというべきであり、更に、法一八条三項の規定によれば、引用される側の著作物の著作者人格権を侵害するような態様でする引用は許されないことが明らかである。」
これは判例であり、一番権威がある。
(なお「判例」は著作権法の保護の対象ではないので自由に引用可能である)

<判例―2>藤田嗣治絵画複製事件(東京高裁昭和60年10月17日判決)
両著作物の関係を、引用の目的、両著作物のそれぞれの性質、内容及び分量並びに被引用著作物の採録の方法、態様などの諸点に亘つて確定した事実関係に基づき、かつ、当該著作物が想定する読者の一般的観念に照らし、引用著作物が全体の中で主体性を保持し、被引用著作物が引用著作物の内容を補足説明し、あるいはその例証、参考資料を提供するなど引用著作物に対し付従的な性質を有しているにすぎないと認められるかどうかを判断して決すべき

また第三十二条についての文献も多い。例:「引用の適法要件

<「エムズの片割れ」としての結論と反省>
1) 言うまでもなく、50年以上経っている著作物(定義に注意)は、保護期間が切れているので掲載自由。
2) その他は、著作権法第三十二条の「引用」を適用するしかないので、法でいう上記の「要件」を満たしている必要がある。
3) その眼で改めて本サイトを振り返ると、上記の「パロディ裁判」の判例で「右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合」という部分、藤田嗣治絵画複製事件判例にある「分量」という解釈がどうか? 例えばこの記事にしても、本文よりも引用部分が「量的」に多い。しかし、「著作権の基礎知識」というサイトには「特に主従関係については判断の難しい部分があり、何をもって主従となすのか必ずしも明確ではない」ともあり、あくまで本サイトで言う論旨が「主」であり、(分量は多いものの)引用部分は論旨を補完している「従」であるという解釈である。

もし将来、本サイトの記事に対して著作権侵害で訴えがあれば、当サイトの解釈を裁判所に改めて判断して貰うしかないな・・・・。
今までも注意してきたつもりだが、改めて遵法を前提に書いて行きたい。

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