「吾唯(われただ)足るを知る」
中村元著「仏典をよむ-1 ブッダの生涯」(P45)に、『吾唯(ただわれ)足るを知る』についての記載があった。なかなか面白いので書いてみる。
「慈しみの心」
『スッタニパータ』には、「慈しみの経」と呼ばれて、いまも南方仏教でとくに重要視されているお経があります。・・・(第一 蛇の章 八節「慈しみ」)
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直(なお)く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足(た)ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官(かんかん)が静まり、聡明で高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。
みずから「足ることを知り」というのです。わが国では昔から、「知足」「足るを知る」ということを申します。これは仏典にしばしば出てくる教えでございますが、もとは老子に出ているのです。「自勝者強、知足者富(みずからに勝つものは強し、足るを知るものは富めり)」。「富む」というのはうんとものを持っていることじゃない、足るを知ることが富んでいるのだというのですね。
また、西洋では、ことにストアの哲人が人生の理想として「足るを知る」「満足せよ」ということをよく説いております。
わが国では「知足石(ちそくせき)」という石があるのをご存じですか。真ん中に「口」という字を書きまして、文字の一部を四方に配すると、「吾唯知足(吾唯(われただ)足るを知る)」となるのです。「口」という字が共通ですからそれでおさまるのですね。わたしは起源はよく存じませんが水戸光圀が考え出したといわれています。・・・・
ネットで色々と見ていたら、京都の龍安寺が元祖らしい。このHPが凝っていて分かりづらいが、「案」→「境内図」→「②つくばい」と叩くと「知足石」の写真を見ることが出来る。(上の写真はクリックで拡大)
しかしこの「足るを知る」という事は、ことによると人間の永遠の目標かもしれない。
我々の日常の生活は、何と「満足」と関係の無い生活をしている事か・・・。
先日、NHKhiで「世界の小さな国(サモア独立国)」という番組をやっていたが、海に魚をとりに行っても「今日食べるには充分だ」と言って、明日の分をとらない。まさに「満足」している。
でも最近は我が家でも、カミさんと散歩しながら「まあ息子共も独立して自分達で食っているし、我々も病気もなく海外旅行などに行けるし、まあハッピーなのかもね?これ以上望んだらバチが当たるかも・・・」と話しているが、これは「足ることを知った」会話ではないのかな~
ナンテ思ったら元気が出てきた・・・
(このblogの主旨は何だ?『良い言葉を知ったので、自分も取り入れよう・・!』ではなかったのか?)
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コメント
はじめまして。この言葉は私も心によく気に留めている言葉です。「足るを知る」「満足」する。私はまだ若いので、そうあるために、妥協したり逃げに走ってしまうことが落とし穴になるかな、と思うことがありますが・・・若いときはヒーヒー戦わなくてはならない時もあるのかな・・・と思ったり・・・でも、欲張らず、日々生きていること、周りにあること一つ一つに、感謝の気持ちを持っていたいと思ってます。
投稿: Peach | 2007年6月27日 (水) 08:19
Peachさん
コメントありがとうございます。
世の中に色々な教訓はあるものの、何とか言い訳をして自分を正当化する「自分」を発見します。
どの様にしたら、客観的に自分を見られるのでしょうね・・・。
しかし年を取って来ると、段々と狙うもの(目標=出世含め)が低くなって行くのを感じます。
でも若い内は、高い目標で、満足する事無く驀進する事も必要かもしれませんね。
投稿: エムズの片渡れ | 2007年6月27日 (水) 12:30
足るを知らない。長年クラシックギターをやって来てどうも違う、と思い続け、リュートに手を出し、やがてこれも違う、と思い始め、いつぞや聴いたラトヴィアの合唱団歌う日本旋法による合唱曲が脳裏をよぎる。しかし、例えば除夜の鐘の音が殷々と広がり消えてゆくのをじっと聴き、思いに耽る、類のギター音楽を知らない。それを求めて長い年月と多くの金銭を浪費し、未だ足るを知らない。この話を誰にしても理解されない。音楽とは音がせわしく走ることか?朗々と歌うのが、それのみが音楽か?除夜の鐘のように遠い追憶に心を引きずり込むようなギター曲、ギターはないものだろうか。
投稿: 館1578 | 2011年4月16日 (土) 19:19