「あきらめ」と「空(くう)」
五木寛之の「こころ・と・かだら」という本に、次のような文章があった。第4章「あきらめる人間」から・・・
・・・・だから、病気というものが目の前に立ちはだかると、あきらめることなくそれと闘って、打倒して健康を取り戻すという考えかたになるのでしょう。
しかし人間には寿命というものがある。それは、宇宙そのものが有限であるということと同じように、絶対に動かしようのない事実なんです。
自分たちの存在が有限で、無限の命などというものはないんだということを、ぼくらはこのへんではっきり知るべきでしょう。これがいい意味での「あきらめる」ということだと、ぼくは思います。
「あきらめる」というのは、じつは「あきらかに究める」ということだと言われています。物事を明らかにし、その本質を究めること。勇気をもって真実を見つめ、それを認めることが、本当の「あきらめる」ということであるらしい。・・・
・・・人間というものは、くり返し生まれ変わりながら、この宇宙のなかを漂い流れていく、塵芥のような存在であるという事実を、ぼくらは受け入れる必要があるのです。・・・
・・・それよりも、むしろ、人間の命は有限であると、まずしっかりあきらめることです。そして、いま、生きていることへの感謝の気持ちをもったり、生きているこの瞬間を十分に味わう。そのようなしなやかな心をもつことのほうが、・・・・
・・・こんなひどい環境のなかで、からだは本当によくやっているなあ、こんな状況のなかでよく自分を支えてくれているなあと、自分のからだに謙虚な感謝の気持ちをもったとき、からだのほうも心に向かって、微笑みを返してくれるかもしれません。・・・・
自分の体に語りかける・・・・。
そうなんだ。自分の体は自分のもの、という勘違い・・・。自分の体は自分の思い通りになる、という勘違い・・・。そこから色々なアンバランスが生じてくるのは事実。
五木寛之という人は、「百寺巡礼」でも知られているように、仏教に非常に造詣の深い人だが、ここで言っていることはまさに仏教、そして空(くう)の心を説いているように感じた。
久しぶりに良い本と出会えた。
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