「患者と医師の関係」
五木寛之の「こころ・と・かだら」という本を読んでいる。帰りのバスの中で、第九章「患者と医師の関係」の所を読み、深く頷いたので、またまた転記したくなった。曰く・・・(原文通り)
“病院へ行きたくない本当の理由”
・・・突然、いわゆる下血というやつに見舞われたのです。・・・どうしても病院で正式の検査を受ける気になりません。・・・・ぼくは決して病院嫌いでもありませんし、・・・・・友人には医師が多く、・・・・それにもかかわらず、自分で病院に行きたくないというのは、一体いかなるコンプレックスのしわざでしょうか。・・・・
たとえば、病院にいけばその瞬間から自分が自分でなくなるような予感がある。じゃあなにになるかと言えば<患者>になる。・・・・<患者>になる、ということは、どことなく<囚人>になる、という語感と共通のところがあります。・・・・弁護士を必要とする人は<依頼人>と呼ばれます。<囚人>とは呼ばない。
<患者>のことを英語で<ペイシェント>と呼ぶのは暗示的です。<耐える人>というのは、病気やケガの苦痛に耐える人という意味でしょうが、病院に来た以上、本来は<ペイシェント>であってはいけないのではないかと思うのです。
私たちが医師に治療を依頼するのは、病気やケガによる肉体的・精神的苦痛から解放してもらうためであって、苦痛を耐えるためではないはずです。痛みを医師に訴え、それから楽になることを依頼するのです。
しかし、実際には病院内の患者の立場は、<苦痛に耐え>、また<治療に耐え>、<患者としての立場に耐える>人、というのが実体ではないでしょうか。
・・・・<依頼人>にはなってもいいけれど、どうも<患者>にはなりたくない、という気がするのです。<患者>という言葉自体に、一般社会における人間関係から切り離された存在の匂いがする。
また治療や検査に際しては、医師と患者の信頼関係が必要です。・・・・しかし、患者の方から考えてみますと、古い友人の医師ならともかく、初対面の医師をどう信頼すればいいのでしょうか。
・・・・せめて<依頼人>として扱ってくれるような病院があれば、などと勝手なことを夢想するのです。
十八世紀にパリ病院が発足したとき、若い医師たちは・・・・・・「病人を診るより、まず病気を診よ」というスローガンを・・・
・・・「人間を忘れて病気を診る」というまちがいが、自然に広がってきていはしないか。・・・
長々と書いてしまった。
前に、近くの大学付属病院に行ったら、初診での症状を書いたアンケートを看護婦さんに渡すとしばらくして「これとこれの検査をしてきてくれ」と言われ、苦痛を伴うかなり大がかりな検査をして、その結果が出てから初めて診察となった。
その時、患者の一言の言葉も聞かず、顔も見ないで、単に症状を書いたメモだけで検査を指示し、出てきた検査データだけで診療している医師であることにガッカリして、二度と行かなくなった事があった。
これはまさに「人間を忘れて病気を診る」典型だったな、と今更ながら思った。
先日の大腸内視鏡での穿孔の医療過誤の記憶も新しかったため、まさにこの本は現在の医療の課題を実に良く言い当てていると思った。
これから自分も病気になったときにどうするか、考え込んでしまいそう・・・・
しかしだからと言って、(歯科は別として)病院と五十数年も縁がなかった(具合が悪くても病院に行かなかった)という五木寛之もスゴイ。
しかし久しぶりに自分にフィットする本に出合った。
たまたま本屋で手に取って、何となく買った本だったが・・・・
しかし、この本の最初を読んだだけでフィットすると感じたため、昨日同じシリーズの別の本を買おうかと思ったが、手にするとフィットしなかった・・・・・。
医師と同じく、本も“出会い”だな、と思った。
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コメント
最近雇用創出の話から、同様の話題を耳にした。
医療費32兆円が25年後には倍の65兆円と予想され医療改革が叫ばれていますが、
今まで医者の特権というか、患者の立場上からか、
良く考えると日本の病院の顧客サービスはあまりにひど過ぎる。
わずか5分の診療に一日がかり、
入院すると団体ベットでつましい病院食となる。
刑務所の方がまだましといわれている。(実経験した事ないが。)(笑い)
入院するならバンコックやバーレンの病院がよいそうです。
病院評価がなされていない。
これからは医療番付、医療仲人、医療説明者等、どんどん情報開示をして患者へのサービスのを向上して行くべきですね。
また、治療医学でなく予防医学に変わって来るのでは。
それにしても世界一の高齢化社会になって、色々と考えさせられる今日この頃です。
投稿: 小鹿ちゃん | 2006年10月 3日 (火) 21:05