通夜の法話の事
昨夜、同僚のお父さんが亡くなったとのことで、通夜に行った。藤岡の菩提寺、曹洞宗のお寺さんが執り行っていたが、いつもの“通り一遍”の機械的な通夜と違って、なかなか印象深い通夜ではあった。
曹洞宗とのことで、何か聞いたことのあるお経が読まれるかと聞いていたが、前半は殆どが和讃。後半では、予め紙が配られていた「無常御和讃」が読まれた。これがまさに演歌(大変に失礼)である。旋律があり、初めて聞いた・・・。
その後の法話が良かった。
亡くなったお父さんが、長い間その菩提寺の世話役をやっていたとかで、一緒に永平寺まで行ったときの逸話や、日頃色々と野菜などを持ってきてくれたことなどの話から始まり、死の意味、通夜・葬式の意義等、語尾がはっきりした明快な言葉でお話しをされ、自然とそのお話に聞き入ってしまった。
曰く、死は誰にでも来るが、人間はそれを“知識”としては持っていても、日頃事実として“認識”してはいない。(このお父様も長い間病気をされていたので、何時の頃か認識されたのだろう。)
世界60億人の誰もが、「明日がある」とは誰一人約束されてはいない。誰もが“明日がある前提”で生活している。よって日々大切に・・・・
そして通夜・葬儀は、“亡くなった方を皆で仏の世界に行けるように祈ること・・・”といった事をお話しされていた。
もちろん会った事もない同僚のお父上ではあるが、地方都市での良い意味での「檀家とお寺の信頼関係」をかいま見た気がして、心が温かくなった。
自分も、お通夜の事など左の耳から右の耳に通り抜けるのが常だったが、この様に心に留まるという事は、年のせいだろうか。それとも、このお寺さんのせい?
また自分にも、近くにこの様に生活に密着した菩提寺があれば、日々の生活も少しは変わったものになったかも・・・、と思ったりもして・・・・。
(一方、この斎場の受付には参った。持参した香典(通夜に行けない会社の同僚分もあり)の一つひとつに対しカードに記入しろという。個人情報がウルサい昨今、住所氏名から電話番号、故人との関係まで細かく・・・。芳名帳に書く事はいつものことだが、カードを渡されて管理されるのも、どうかと思った。まさに視点が通夜に来た人の視点ではなく、斎場の事務合理化の視点である・・・)
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