自分には縁のない「三輪清浄」
「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」という言葉はどこかで聞いた事があったが、このような意味とすると、自分には全く縁がない言葉だということが分かった。
中村元の「仏典をよむ(3)~大乗の教え(上)」も第12回になった。「空の思想~般若心経・金剛般若経」である。
「般若心経」は別に考えるとして、「金剛般若経」である。これは空の思想にもとづいて、我々の心構えを説いている、という。
ここで次の紹介がある。(P30)
「菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし」
(中村元訳=求道者はものにとらわれて施しをしてはならない)
「菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし」は、特に重要な言葉です。何かにとらわれることなくして、人にものを与えることを行えというのです。この場合に「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」ということを仏教ではいいます。つまり、施し与える主体と、それを受ける人、そのあいだに渡されるもの、その三つが清らかでなければならないのです。
現代の生活にもとづいて申しますならば、「おれがあの男にこういうことをしてやったんだ」といった思い上がりやこだわりがあると、与えたものとか、援助とかいうものは清らかではない。清らかな、屈託のない境地で、人のために尽くすべきである、こういうことを説いていまして、これはその後、大乗仏教の実践の基本となります。この「三輪清浄」の教えは現代でも大きく意味を持っていると信じます。
参った。反省した。
さっきの夕食で、俺はメイコ(愛犬)に「三輪清浄」で食べ物をあげたか?
確かにメイコは、実に“けなげ”にじっと俺から何かをくれるのを待っていた。これは純粋であり清らかである。
夕食のサラダも、現在も俺は生きているので“清らか(毒は入っていなかったようだ)”である。
問題は自分である。俺はメイコのけなげさに打たれてサラダを少し“施した”が、実は俺の心には「お前、一度で良いから帰ったときに玄関に迎えに来いよ」(実は生まれてから一度も俺を迎えに来たことが無いのである~自分に寄ってくるのは食事の時だけ)みたいな下心が無かったか? いや確実に“あった”。
やはり自分にとって、「三輪清浄」は縁のない言葉のようだ。
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