死ぬときは阿弥陀さまに“SOS”
中村元の「仏典をよむ(4)~大乗の教え(下)」も第19回「阿弥陀経」である。
観音経と同じく、これも非常に分かりやすい。西暦1世紀頃に北インドで成立したという。
現世を「穢土(えど=汚れたところ)」と考え、彼岸の世界に「浄土」を求める信仰が生まれ、その中で一番影響の大きかったのが阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念だという。
阿弥陀仏はサンスクリット語で、アミターバまたはアミターユスと言い、アミタは「限られていない」、アーバーは「光」という意味なので「無量光(むりょうこう)」と訳し、アーユスは「寿命」という意味なので「無量寿(むりょうじゅ)」と訳すという。結局、阿弥陀(アミダ)とは当て字(音を写した)だ。
阿弥陀経の内容は極楽浄土の見事な姿を端的に述べたものとかで、具体的で分かりやすい。
では極楽世界とはどの様なところか?
これより西方、十万億の仏国土を過ぎたところに阿弥陀という仏がいて説法をしている。その国の衆生は、もろもろの苦しみがなく、楽しみだけを受けるので、その国の名を極楽と名付けたという。
その世界とは、・・・
・七重の欄干のような石垣、珠玉で飾った網、並木が巡らされており、四宝(金、銀、瑠璃(青玉)、玻璃(はり=水晶))で飾られている。
・七つの宝で飾られている池がある。そこには八つの功徳(澄んでいる。冷たい。甘美。軽く柔らか。潤沢。安らか。飲むと飢渇などのわずらいを除く。飲み終わっては身体の健康を増す)のある水が満ちている。池の底には金の砂を敷きつめている。池の周りの階段は四宝から作られている。(真四角なスタジアムを連想)
・階道の上の方には高い建物がある。これも金銀瑠璃・・・で飾られている。池のなかには蓮華が咲いていて、花の大きさは車輪のようである。青い蓮華には青い光が、黄色い蓮華には黄色い光が、赤い蓮華には赤い光が、白い蓮華には白い光がさしている。どれも微妙でかぐわしい香りがする。
・極楽ではいつも天の音楽を奏している。地面は黄金よりなる。
・昼夜六時(一日に六回)に、マンダーラの美しい花をふらせる。
・その国で生きている人は、いつも清々しい朝に、めいめいが花を飾る器を持ち、フウッと他の世界に飛んでいって十万億の仏さまを供養して、朝食の時に帰ってくる。それから食事をして、そぞろ歩き(経行)する。
・また極楽には、珍しい色とりどりの鳥がいて、昼夜六時に和やかな雅やかないい声を出している。
では、なぜこの仏さまは阿弥陀というのか? かの仏さまの光(光明)は無限であり、十万の国を照らす。それに妨げが無い。また極楽の仏さまの寿命、ならびにそこに住んでいる人の命も無量無辺で限られることがない。それで阿弥陀と称されるのだ。そして数え切れない多くの弟子がいる。菩薩方も多くいる。極楽とはこのように素晴らしい所だ。
従って、願を発してあの国に生まれようと願うべきである。なぜならば、このような優れた方々と同じ所で会うことが出来るからである。
これはまことに有り難い事であって、功徳を積んだからといってなかなか直ぐに生まれることは出来ないはずである。しかし信仰を持っている人は、阿弥陀さまの名号を一心不乱に心で思っているならば、その人の臨終の時に、阿弥陀さまは清らかな方々と共にその前においで下さる。そして命が終わってから阿弥陀さまの極楽浄土に行って生まれることが出来るのである。・・・・・・
なるほど・・・。
前に「阿弥陀堂だより」という映画を見たが、亡くなった人の名札を村の阿弥陀堂に納め供養していた訳が、これで分かった。(今頃・・・・)
昨年12月10日にNHKで「夢の美術館 うるわしのアジア仏の美100選」という番組をやっていたが、その中で平安時代の「臨終行儀」の紹介があった。
それは屏風の「山越阿弥陀図」に描かれている阿弥陀さまの合掌している指先の所に孔をあけ、そこから五色の紐を引いて臨終の人が握り、 口で南無阿弥陀仏と祈れば極楽に行ける・・・という。
この場面は、妙にリアリティがあって印象的だった。
まあ自分は、死ぬときには大騒ぎをすることは確実。たぶんその時は阿弥陀さまも何もかも吹っ飛んで大騒ぎ・・・・。
うちの冷たいカミさんは「自分の方が必ず先に逝く。そんなウルサイ人の面倒は見られないから」という。まったくその通りでグウの音も出ないが、今から少しずつでも唱えれば、静かに死ねるのであろうか? いやいや幾ら考えてもまったく自信はない。
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