松井秀喜の「運命論」
今朝(6/27)の日経(P32)に「ヒデキマツイ2006」というコラムが載っていた。曰く・・・
「・・・前回の紙面で「けがは運命だから仕方ない。あとはけがをどうプラスに持って行くか」という言葉を紹介した。「運命」という2文字に、ある種の松井的精神スタイルを解くカギがあるような気がした。
「運命という以上、けがは起きるべくして起きたと思っているの?」
「最初からそう決まっていたんだって思う以外ない。神様がそういう風にコントロールしたのかもしれないって思えば、いいわけであって。・・・」
野球場という空間には幸運と不幸が無数に散らばっている。「もし」と100万回考えても、「解」のない方程式に挑むようにむなしい。ならば現実をさっさと受け入れてしまおう。大切なのは次に何をするか。「ある意味、運命論者なのかも知れない。すべてがそうなるべきだったというか、そうなるようにできてたっていうか、そう考えるのが一番簡単。そうすれば受け入れやすい。あのときこうすればよかったとか、そういう風に僕は考えない」
松井の運命論とは運命の流れに身を任せるという受動的なものではなく、逆に野球の戦略上欠かせない積極的な創意に思えた。・・」(2006/06/27付「日経新聞」p32より)
仏教(般若心経等)では、「空(くう)」の思想で「こだわるな」「執着するな」を徹底して教えている。いわば固定概念の否定である。
(確かに数億年レンジで考えると、全てが“無”であることは理解できるが・・・。~ 幾ら立派な“鉄筋コンクリート作り”であっても数億年たてば崩壊して無くなってしまう・・・)
大きな声では言えないが、実は小生はこの松井選手と、ある“縁”で結ばれている・・??
それなのに、なぜ自分は全ての事に大いに“こだわって”毎日を過ごしているのか?
これは永遠のナゾである。
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コメント
こだわり。
「空」仏教、「悟り」禅
ないがまま「ない」無意味、ニュートラル、
「無為自然」
あるがまま「ある」 虚構性
人は無意味な人生を「ただ」生きることに耐えられない。
だから「ないがまま」の心に一貫性を求め様様な「ある」を統合しながら生きてゆく。
何かの役に立ったり、何かを成し遂げる事に人生の意味を感じる。
という「仮の目標」が重要になる。(仏教で言う「方便」)
幼いころに持っていた自然と一体化した能力を失い、「理解」という脳機能を授かってしまった。(煩悩)
自然も我々もその本質は流動し続ける命そのもの。理解しようと思ってもつかめない。
絶えざる流動
根本の充実:瞑想 自然に戻る
発想する力:慈悲 一隅を照らす。
暗くて良くわからない場所だが
否定しないで受け入れる。
同じるでなく和する。
等と釈迦に説法より感じています。
人生の様様なゆらぎを風流と味わえると良いですね。
投稿: 小鹿ちゃん | 2006年6月29日 (木) 12:18