ブッダの教える「友人関係」
中村元の「仏典をよむ」の2冊目、第9回。「シンガーラへの教え(2)~生きていく道」
「仏教」は死んだ人の為にあるのではなく、生きている人が、“いかに生きて行くべきか”を教えているが、パーリ語(インドの古典語)の仏教聖典の中に伝えられている「シンガーラへの教え」は、在俗信者の実生活の指針を述べたものとして有名とか?
ここでは「人間一般が心がけねばならない事」についても教えている。
そこでブッダは「友人関係」についてどう教えているか?
次の四種は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。
すなわち、(1)何ものでも取って行く人 (2)ことばだけの人 (3)甘言(かんげん)を語る人 (4)遊蕩の仲間 は敵であって、友に似たものに過ぎないと知るべきである。(15)
さらに詳しく述べている。
(1)何ものでも取って行く人
「何でも品物を選ばずに取って行く」「わずかの物を与えて多くの物を得ようと願う」「自分の利益のみを追求する」
(2)ことばだけの人
「過去のことに関して友情を装う」「未来のことに関して友情を装う」「利益になることを言って取り入る」「なすべき事が眼前に迫ってくると、都合が悪いと言って逃げてしまう」
(3)甘言(かんげん)を語る人
「相手の悪事に同意する」「善事には同意しない」「その人の面前では称賛し、その人の背後、その人のいないところではその人を悪く言う」
(4)遊蕩の仲間
「もろもろのお酒など、怠惰の原因にふけるときの仲間」「時ならぬのに街路をぶらつき回る仲間」「祭礼・舞踏などの賑やかな集まりがあるときに入り込んでいる仲間」「賭博など遊惰な事がらにふける仲間」
(これが本当なら、会社の同僚など、全員「(4)遊蕩の仲間」ではないか・・・!)
では、ほんとうの友とはどういうひとであるか?
これらの四種類の友人は親友であると知るべきである。
すなわち、(1)助けてくれる友 (2)苦しいときも楽しいときも一様に友である人 (3)ためを思って話してくれる友 (4)同情してくれる友 は親友であると知るべきである。あたかも母がおのが子をいつくしむがごとく(26)
さらに詳しく述べている。
(1)助けてくれる友
「友が無気力なときに守ってくれる」「なすべき事が起こったときに必要とする二倍の財を寄付してくれる」
(2)苦しいときも楽しいときも一様に友である人
「彼に秘密を告げてくれる」「彼の秘密を守ってくれる」「彼が困窮に陥ったときも彼を捨てない」「彼のためには生命をも捨てる」
(3)ためを思って話してくれる友
「悪を防ぐ」「善に入らしめる」「まだ聞かないことを聞かせてくれる」「天に至る道を説いてくれる」
(4)同情してくれる友
「その人の衰えるのを喜ばない」「その人の繁栄を喜ぶ」「他の人が彼をそしるのを弁護してくれる」「他の人がその人を称賛するのを広めてくれる」
ブッダは前563年生まれと言われているが、この時代は日本でいうと縄文時代から弥生時代である。この時代に既にこのような事を教えているのはオドロキである。(もっとも仏典はその後相当経ってからの成立だが・・)
ちなみにブッダの教えで、自分を反省してみると、
・自分はとうてい誰の友でもない(特に自分は「遊蕩の仲間」以外の何者でもない)という事が分かった。
・逆に、自分の周りは「親友だらけ」だという事が分かった。
(~と同時に、つくづく自分はサラリーマンで周りを意識してしまい、本当のことが言えない人間だ・・・という事も分かった)
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