2023年3月27日 (月)

ホームセンターで値札が違っていて時間をムダにした話

今日は、近くのホームセンターで買い物をしたが、値札表示の誤りによって、ムダな手間がかかってしまった。というヒマ潰し?の話。

我が家では、洗剤などの継続的に使う物は、コストパフォーマンスのために、業務用の大きな物を買って、都度小さなボトルに継ぎ足して使っている。
今日は、ハンドソープの「キレイキレイ(液)業務用4リットル」の話。

前は、Amazonで買っていたが、前に近くのホームセンターに行ったとき、業務用の色々な洗剤が並んでいるのを見て、「業務用も一般で買えるんだ~」と思って、参考にスマホで写真を撮っておいた。
230327kirei_20230327214901先日、「キレイキレイ」の備蓄が無くなったので、再び買おうと思って調べたら、Amazonが2,856円に対し、ホームセンターでは2,618円とわずかに安い。
そもそも、4キロ以上と重い商品をわざわざ送って貰うのは、幾ら無料とは言え、資源の無駄遣いでは?と思って、先のホームセンターで買ってきた。他の買い物も含めて6千数百円。ちょっと高いな、とは思ったが、そのまま買って帰る。

自分はこういった買い物は、後学のために常にExcelに付けている。そこで改めて領収書を見ると、何と3,718円。何で千円以上も違う??改めて写真を見ても、やはり変だ・・・
手入力では無いPOPレジなので、間違っているハズは無いとすると、写真を撮った当時から値上がりした、としか考えられない。とすると、返品しようか・・・
と仕方なく、夕方、店に行った。改めて棚を見るが、やはり領収書と値札の値段が違う。
そして店員さんに「値札と領収書が違うんだけど・・・」。一緒に棚を見て、店員さんが少し考えてから「スミマセン、値札が隣の商品と逆に付いていました」という。
つまり、自分の買った商品の値札は、隣の商品の下に付いていた。ということ。自分が安いと思って買ったら、その値段は隣の商品の値段だった。というお粗末な話。

結局、返品して貰ったが、ホームセンターで見付けてから数か月。その間、値札は逆のままだった事になる。その間、若しかすると、安いと思って買ったが、実際には高いお金を払っていた人、またはその逆で、買った値段が思ったより安かった人がいたかも知れない。
今回は、車で数分の店だったので良かったが、遠かったらそのまま泣き寝入り??

それにしても、改めて通販は安い、と思った。
帰ってから、改めて通販で頼んだが、上の「キレイキレイ(液)業務用4リットル」は、このホームセンターで3,718円だったが、Amazonでは2,856円。ヨドバシの通販では2,890円の289ポイントで実質2,600円。結局今回はヨドバシに頼んだ。

店頭の値札は単に挟んであるだけ。よって実際と違う事も有り得る。よって、領収書はちゃんと見ないと危ない、ということか・・・

まあ、こんな事しか、非日常的な事件が無い今の生活は、岸田首相のウクライナへの「必勝しゃもじ」土産のように、平和ボケそのものかも知れないな・・・。トホホ・・・

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2023年3月23日 (木)

ひばり児童合唱団の「赤い靴」

このような歌声を名唱というのではないか・・・
ひばり児童合唱団の「赤い靴」である。

ひばり児童合唱団の「赤い靴」

「赤い靴」
 作詞:野口雨情
 作曲:本居長世

赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれられて
行っちゃった

横浜の 埠頭から
船に乗って
異人さんに つれられて
行っちゃった

今では 青い目に
なっちゃって
異人さんの お国に
いるんだろう

赤い靴 見るたび
考える
異人さんに 逢うたび
考える

この歌は独唱であるが、演奏は「ひばり児童合唱団」とある。団員の誰かの演奏であろう。
以前、この音源は「赤い靴(部分)」として自分のライブラリーにあった。つまり、半分ほどしか放送されなかった音源であったのだ。それが先日全曲を録音することが出来た。
楽曲の半分でも録っておこう、と思うのは、よほど自分が気に入った音源。つまりは、この歌唱にこころ引かれたのだ。
同様の“名唱”に塩野雅子の「花かげ」(ここ)がある。この歌唱も、自分が惚れた音源だった。

さて、この「赤い靴」にまつわる像や碑は、全国に4つあるという。
(1)横浜市中区・山下公園
(2)横浜市・JR駅の広場
(3)静岡県清水市(静岡市)・日本平
(4)東京都港区麻布・街頭

昔、野口雨情記念館に行ったときに買った「いしぶみ・雨情の童謡」から引いてみる。

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「大正十年十二月「小学女生」に発表された「赤い靴」は、異国的な雰囲気がこもり、本居長世の付曲と相まって今も愛唱されている。
 「赤い靴」のブロンズ像等が公開されているのは、四ヶ所と思う。
(1)の横浜市山下公園の像は、海に面して建っている。埠頭が見え、船が走り、海鳥が群れる。それをじっと見つめている女の子、円柱形の台座の下部には「赤い靴はいてた女の子」と陽鋳があり、英訳の横文字も見える。像の近くには、終戦後引揚船として活躍した氷川丸が、任を終わり観光船としてすえつけられている。
(2)のJR横浜駅通路の一角に「赤い靴広場」があり、三十センチ余りの小さな鋳鉄の像が1メートル余の御影石の円柱台座にすえられ、行く人来る人をじっと見守っている。この像は、山下公園の銅像のミニチュア版で、公園の像を建てた時に一千体を作り、関係者に配布したものの一体でNo.999である。しばらく駅に保管されていたが、現在地に復建したのは平成二年一月である。

(1)と(2)の像は大小の差こそあれ同心と考えられるので、駅頭の説明文に目を向けよう。
「大正十年、詩人野口雨情は美しい横浜の情景に魅せられて、この詩を詠み、本居長世の曲によって人々の感動を呼び起し、今に歌い継がれております。
 私たちは、これを横浜の心として形にとどめ、大人にはありし日の郷愁を、そして青少年には夢と希望を与えたいと願い、市民運動を展開しました。
 幸い日本全国はもとより海外からも多くの方々が参加され、直接協力者は42,922名にのぼり、昭和五十四年十一月、この永遠の小さな恋人は誕生し、いま横浜の新しい顔として、山下公園での人気を一身に集め、語らずしてロマンを伝えております。
 私たちはこの像を、コペンハーゲンの人魚姫や、ブリュセルの小便小僧と共に世界三大メルヘン像として、不朽の名詩名曲をいつまでも讃え続けて行きたいと思います。 童謡/赤い靴を愛する市民の会」
 ちなみに、この会の代表者は「人形の家」の主宰者松永春氏であり、像の作成は彫刻家山本正道氏である。

(3)の日本平山頂の像は、北海道テレビの菊地寛氏が苦心の末あきらかにした事実により、清水市が「赤い靴の毋と子の像」として建立したものである。それによると、この童謡のモデルとなった女の子の名は「岩崎きみ」。明治三十七年七月十五日、清水市営加三 (旧不二見村)の生まれ、母親の名は「かよ」。故あって母子は北海道に渡るが、まだ二歳になったばかりの「きみ」をアメリカの宣教師夫妻に託することとなった。宣教師はやがて母国へ帰ることになるが、このとき「きみ」は不治の病に冒されており、孤児院でわずか九歳の生涯を終わるのであった。母を慕いつつ……。いま「きみ」は六本木の鳥居坂教会の共同墓地に眠っている。
 この幸せ薄い母と子を、ふるさとの地に再びあいあわせようと、全国の浄財を得て日本平の展望のよい地に、等身大の像が建てられた。昭和六十一年三月三十一日の建碑である。清水市では「雨情の碑ではない。赤い靴の母子の像である。」といわれるが、台座には「赤い靴」の歌詞も刻まれている。敢えて本書にとりあげたことを諒とされたい。

(4)の港区麻布の像の台座には「詩に聞く、少女の微笑、想をはせて。“きみちゃん”一九八九・二」とある。麻布十番商店街振興組合の建立であり、高さ約六十センチの可愛い立像である。“きみちゃん”の墓が近くの六本本にあることは前に述べたところであり、説明文の最初には「赤い靴はいていた女の子は今、この街に眠っているのです。」とある。」

誰もが知っている「赤い靴」。
そんな歌にも故郷があり、そして心に残る名唱がある。

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2023年3月17日 (金)

NHK「JAPANデビュー」を見てみた~偏向番組とは

先日、Netで「【放送法問題】安倍元首相がTBS「サンデーモーニング」より問題視していたNHKの“偏向番組”とは」ここ)という記事を読んだ。

「デイリー新潮」の記事だが、その中に「総理がいちばん問題意識を持っているのはNHKの「JAPANデビュー」だが、これはもう過去の話。今はサンデーモーニングには問題意識を持っている。・・・」という部分があり、「JAPANデビュー」というのがどんな番組だったのか知りたくなって、Youtubeで見たみた。

wiki(ここ)によると「NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」は、2009年4月から6月にかけて日本放送協会 (NHK) のテレビ番組230317nhk 『NHKスペシャル』で放送された4回分のシリーズを括る題名で、NHKが自社の取り組む「プロジェクトJAPAN」の一環として制作した日本のドキュメンタリー番組である。

日本が西洋列強に対抗する際に命運を握った「アジア」 「天皇と憲法」 「貿易」 「軍事」に世界史上から焦点をあてた特別番組として4回がNHK総合、NHKの海外放送、子会社NHKグローバルメディアサービスが行うNHKワールドプレミアムを通じて放送された。

第1回放送をめぐっては、日本と台湾の視聴者や番組出演者を含めた約1万300人(台湾人約150人を含む)による集団訴訟が起こされたが、原告側の逆転敗訴で幕を閉じた。」とある。

番組は、第1回 「アジアの“一等国”」(2009年4月5日放送)、第2回 「天皇と憲法」(2009年5月3日放送)、第3回 「通商国家の挫折」(2009年6月7日)、第4回 「軍事同盟 国家の戦略」(2009年6月28日放送)だったらしいが、Youtubeで第1,2,4回の3回分を見ることが出来た。
wikiに「第1回放送をめぐる騒動・訴訟」という項目があるが、当時相当に騒ぎになったらしい。自分は覚えていないが・・・
ここに「視聴者、地方議員、自民党国会議員、産経新聞・週刊新潮・日本文化チャンネル桜などの保守系メディア、市民団体、有識者、更に、番組に出演した台湾人(パイワン人を含む)や台湾や日本の民間団体など日台双方から抗議や批判が続出した。」とあるように、上にある「デイリー新潮」の記事も、批判した週刊新潮の延長として読む必要がありそうだ。

第2回と4回は特に違和感は感じなかったが。やはり第1回 「アジアの“一等国”」(ここ)を見終わった後は、後味の悪さを感じた。
見た後で、wikiの騒動の記事を読むと、何が問題になったかが良く分かる。

wikiに「番組で証言した柯徳三は、「(NHKには)八田與一のことや後藤新平のことなどもいろいろ話したのに、そこを全部カットした。同窓会の改まった席で誰かが火ぶたを切って不満を話した部分だけが放映され、あたかもあそこにいた人全員が反日的であるかのように宣伝された」と批判。」
「また朝日新聞の取材によると、柯徳三が日本の台湾への貢献を語った部分はすべてカットされたと発言していることも伝えられた。」とあるように、取材を受けた人が、自分の発言が部分的に切り取られ、自分が意図しない姿として番組で使用されたことが非難のひとつらしい。

この事は、新聞をはじめ、メディアのニュースや番組で日常的に有り得ること。
前に何度か書いているが。学生のときにたまに読んでいた「朝日ジャーナル」という週刊誌で「テレビの画面で、学生が機動隊の警棒で打たれている場面を写すと、視聴者は“学生が可哀想”と思い、学生の投げた火炎瓶に逃げ惑う機動隊の姿を写すと“機動隊が可哀想”と思う。」という記事を読み、それが未だに頭に残っている。

編集者=番組の作成者の意図によって、自分の都合の良い所だけを切り取って番組を作ることはよくある話。
逆にそれは避けられない事なのかも知れない。誰もが、自分の意志を持っているので・・・
だから法のいう「政治的に公平であること」を「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」という事になっていた。
それが2016年に当時の高市総務相が「一つの番組でも極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」と答弁。そして、停波の可能性まで言及したことを、今回の事件で皆は思い出してしまった。

それにしても、「政治的公平性」を政府が判断するというこの姿勢は怖ろしい。まさに政府による各番組の検閲であり、世の中が大本営発表に戻りかねない。
今回、“かつてのNHK”が偏向番組として問題になったという番組を見て、問題になったという部分を俯瞰してみたが、世の中の事象で、何が真実か、見る側の難しさを改めて認識した。

それに比べ、第2回 「天皇と憲法」では、立花隆さんや御厨貴さんが登場。こんな番組は安心して見ていられる。理由は簡単。自分は、立花さんたちは信用しているので、その発言も信頼する。
問題になった第1回 「アジアの“一等国”」も、立花さんのような誰もが信頼している人を登場させて発言させていれば、バランスが良くなって問題が噴出しなかったかも知れない。
ともあれ、番組の「政治的公平性」について、勉強して?しまった。

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2023年3月 3日 (金)

林部智史の「恋衣」

先日、こんな歌を見付けた。
林部智史の「恋衣」という歌である。この歌手の名は知らない。でも、なかなか透き通った声で好ましい。

<林部智史の「恋衣」>

「恋衣」
 作詞:阿木燿子
 作曲:来生たかお

ふと目を窓にやれば
花水木の葉が揺れてる

いつでもあなただけを
見つめてたい僕なのに不覚だね

幼いという文字の斜めの一筆
ためらい傷のように隠せば幻

恋をして 素顔のあなた
守らなきゃ そう思う
恋衣 身に纏うたび
透き通る 白い肌

まだ目を覚まさないで
僕が描く絵心のない似顔

儚いという字にも人と夢が棲む
ならば恐くはないさ すべて越えてゆく

恋ゆえに あなたの笑みは
薄紅の花霞
恋心 日毎に募り
指で梳く 長い髪

恋焦がれ やっと逢えても
大粒の砂時計
恋衣 そっと脱ぐ日は
痛いほど 抱き締める

恋をして 虹を見た朝

この歌が気になったのは、最初のフレーズ。
「ふと」「目を」「窓・にやれば」という切り方が気に入ったのである。
この不自然な?区切り方で、ふと徳永英明の「青い契り」(ここ)を思い出した。

「あ・るこうとしてたの?」「でも今はき・みの全てを」という切り方がユニーク。
小椋佳だったか、さだまさしだったか忘れたが、日本語のアクセントを考えると、自然に旋律が出来るという。つまり、日本語のアクセントを無視した旋律はNGだという。
でも「歩こう」が「あ・るこう」という旋律になったとき、自分にとっては印象が強くなり、聞きたくなる。

作詞:阿木燿子、作曲は来生たかお。まさにゴールデンコンビ。
そんな作品を、自分が知らなかった林部智史という歌手が歌っている。
ともあれ、この歳になると、聞きたいと思う新しい歌はなかなか見つからない。
そんな中で、久しぶりに開拓した?歌であった。

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2023年2月27日 (月)

立体駐車場で車を失った話~スマートキーの活用

今日は、(メモを見ると)12年ぶりに聖蹟桜ヶ丘SCに行った。実はそこで自車を失ったのである!?
この歳になると、時間が経つのが早く、毎日事件が無い。(よってblogネタも無い!)
事件がない事は大変に良いことなのだが、今日は事件!?があった。
何と、立体駐車場で自車を(見)失ったのである。

久しぶりのモールだが、駐車場の入口は何となく覚えている。前に走る1台の車・・・。良く分からないからそれに付いていくか・・・と付いていくと、発券機があり、その先に駐車場。
周囲を見回して、駐車位置を頭に入れ、入口からエレベーターで1階に・・・

買い物が終わって、3階の駐車場の入り口に戻る。車を探すが、何となく風景が合わない。でも、大丈夫。自分には1年前に起きた車紛失事件の再発防止策として、スマホに「駐車中車両」の位置が表示されるのだ!(ここ
ヘヘヘ!大丈夫!大丈夫!

所が、その位置に行っても車が無い。その辺りを歩くが無い。「確か3階だったよな」と言いながら・・・
日本人は親切である。ウロウロしている自分たちに、帰ろうとしていた1台の車の窓が開き、「ボタン押しました?あちらで音が鳴っていましたよ」という初老の人の声。そして親切にも助手席の奥さんがわざわざ降りてきて「あっちです」と場所を教えてくれる。カミさんは「ありがとうございます。」??
ボタン?? ン? 自分はスマホは見ているがボタンなど・・・無い・・・
そしてまたウロウロ。階が違うのかと、4階に行っても無い。5階も。そもそも周りの景色が違う。
そして2階に降りて、やっと有った!景色も同じ!(バカ者め!どこに行っていたんだ!!)

駐めたときの風景は頭に残っていたので、認知症・・・とは思わなかったが、スマホの「駐車位置」で安心していたのに・・・残念。

後で考えると、原因が当たり前のごとく分かった。
そもそも何階に駐めたか、という認識が足りなかった。つい前を走っていた車に付いて行ったものだから、駐めた場所が何階か、という確認をしなかった。
そしてスマホの地図の位置は、縦方向(階)は教えてくれないということを、分かっていながら、他の階に行くのが遅れた。2階だったのに3階に固執した。
それに、行くときのエレベーターホールの風景を、後からは思い出せるが、その時はじっくり思い出さなかった。行くときは、エレベーターホールから直接通路は付いていなかったのに(2階)、帰りは通路からそのまま駐車場(3階)に入ってしまった。

帰りの車の中でカミさんが言う。「ここだよ~って車が言ってくれると良いのに・・・」
ここであの親切な人が言っていた「ボタンを押す」という言葉がよみがえった。
そうだ。車のワイヤレスキー(スマートキー)のロックボタンを押せば、車がピーッと言ってランプが点滅するんだった。
その事に気付いていれば、ウロウロしないで、一回りするだけで見付けられたのに・・・

よって今回のドジの再発防止策。
(失った!)車を探すときはスマートキーのロックボタンをオンオフしながら、車から出る音と点滅で探すことにしよう。
何ともドジな、30分、2000歩の散歩ではあった。

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iPhoneで駐車場所を記録!!

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2023年2月17日 (金)

母校の龍ヶ崎市立愛宕中学校の閉校

ひょんな事から母校の中学の閉校を知った。その中学は茨城県龍ヶ崎市立愛宕中学校。
非常に個人的な話だが、思い出すままメモしておくことにした。
中学の3年間、自分が得意だった数学を教えてくれたのは「山さん」。栗山友治先生。その後元気にしているかな?と「竜ヶ崎 栗山友治」でググったら、こんな記事がヒットした(ここ)。何と1年前の2022年3月で愛宕中は閉校し、新たに城南中と共に龍ヶ崎中学として統合されたという。

前に書いたが(ここ)、自分が入学したのは昭和35年4月。龍ヶ崎市立竜ヶ崎中学校。各クラス56~58人で1年の時には10クラスあった。ベビーブームで1学年で約570人。
230217adagochuu 場所は、現在の流通経済大学の敷地にあった。
それが、昭和36年4月から半分に分かれ、それぞれ別の中学と統合されて、愛宕中学となった。3校が2校になったわけだ。しかし新校舎が建設中のため、卒業までの2年間は元の校舎のまま。よって、自分たちには新しい校舎とは無縁で、何の思い出も無い。
その後、校舎は取り壊され、新設(昭和40年開校)の流通経済大学になった。
この写真は、昭和37年1月27日に撮ったもの。渡り廊下でつながった校舎の、西半分が愛宕中、東半分が城南中だった。しかし愛宕中の教室が足りないので、下の写真の城南中側の1階部分2クラスも愛宕中で、自分が2年の時は、右端の5組に居た。担任は栗山先生だった。

先日、旧友から突然の電話がありビックリしたが(ここ)、地元の街はさびれ、店も閉まっているのが多いという。当然児童の数も減っていたのだろう。ググってみると、2021年度の児童数は、1年生55人、2年生63人、3年生68人でそれぞれ2クラスとのこと。自分の居た当時の60年前の1/10。これでは統合されても仕方が無いか・・・
それで、統合された新制・龍ヶ崎中学校の児童数は?というと、2022年度の1年生は3クラス94人、2年生は3クラス104人、3年生は4クラス115人だという。
龍ヶ崎と竜ヶ崎。相変わらずややこしい。
前に「龍ケ崎の表記バラバラ 市は「龍」でも県の施設は「竜」」(ここ)という記事を書いたが、「龍」と「竜」、「ケ」と「ヶ」。
自分が入った当時は「竜ヶ崎中学」だった。今回発足したのは「龍ヶ崎中学」。まあ、元に戻ったワケではない。ということか・・・

龍ヶ崎市の「愛宕中閉校記念誌」(ここ)という記事を読むと、愛宕中の60年の歴史が良く分かる。しかし、自分は新校舎を知らないので、あまり懐かしくない。唯一、先の栗山友治先生については、色々思い出す。
先生が何歳かは、今まで知らなかったが、第12代校長の平沢大吉郎という方の文を読むと、昭和29年4月の入学時に、「10歳年上のピカピカの1年生教師」とある。自分が昭和35年の入学なので、16歳年上。ということは、現在91歳か・・・。
「今でも時々山さんの所へは、教えを乞うために伺っている」とあるのでまだまだお元気らしい。

思い出すのは、栗山先生の1回目の授業の時、「自分の愛称は山さん。“さん”が付くのは敬称なので良いことだ」と言っていたこと。もちろんそれ以来はみんな「山さん」。たぶんこれでずっと呼ばれていたのでは??

「100メートル走の県記録保持者」ということは知らなかった。当時は野球部の指導をしており、6年前の同窓会の時には(ここ)、健康のために毎日ジム通いをしていると聞いた。
そして、この冊子で山さんが、第8代校長になっていたことを知った。平成2年と言うから1990年4月から1993年3月まで、愛宕中の校長だったとは、もう30年も前の話ではあるが、自分まで今ごろ嬉しくなった。
自分の結婚式の主賓までお願いした山さんだが、賀状も途絶えて久しい。
自分も一時期、教師になろうかと思った事もあったが、今思い出すに、多分に山さんの影響では無かったかと思う。

教師は教え子に多大な影響を与える。人生を差配することもある。考えようによっては、怖い仕事。
そんな“人を作る仕事”の教師も、最近は人気が無いという。
自分の人生も終盤に差し掛かり、今さらながら教師という怖い仕事を選ばなくて良かったと思う。到底他人の人生を左右するかも知れない仕事など、自分では無理だった・・・
色々と思い出にふけった一日ではある。

(2023/02/21追)
探したら、当時の帽子の記章が見つかった。下の写真は、上から「昭和35年度までの龍ヶ崎中学校」「昭和36年度~2022年度までの愛宕中学校」「昭和33年当時の龍ヶ崎小学校」の記章。

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2023年2月 9日 (木)

司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」

相変わらず、司馬遼太郎に凝っている。相変わらず、中古の本を買い漁っている。
「街道をゆく」をベースに、担当編集者の著作や、「司馬遼太郎記念館会誌」まで手を伸ばしている。
そんな乱読の中で、司馬さんが小学生の教科書用に書かれた一文があるというので探してみた。

21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)
私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。
両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは --- もし君たちさえそう望むなら --- おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「やさしさ」
「おもいやり」
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。
その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。
もういちど繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分には厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていく。そして、“たのもしい君たち”になっていく。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
(平成元(1989)年「小学校国語六年下」大阪書籍)」

この一文は、1996年3月10日に大阪で行われた「司馬遼太郎さんを送る会」で配られ、古屋和雄NHKアナが15分かけて朗み通したという。

しかし、奥さまのみどりさんにとっては、この一文にさびしい件があるという。
「街道をゆく」の最後の6年間の担当だった村井重俊氏の著「街道をついてゆく」にこんな一文がある。

「・・・
秋になった。
 『本郷界隈』の連載は快調に進んでいた。
 十月、ふたたび司馬さんは東京に滞在していた。十月二十二日には、この年のもうひとつの重要な講演があった。立川市の朝日カルチャーセンター立川での講演で、タイトルは「私の漱石」である。私は司馬さんが亡くなったあとに、週刊朝日で「司馬遼太郎が語る日本――未公開講演録」という連載を長い間続けたことがあるが、その一回目がこの講演だった。連載では「漱町の悲しみ」というタイトルをつけている。
 朝日カルチャーセンター立川社長の畠山哲明への友情から生まれた講演だった。
・・・
・・・
230209kaidou  それにしてもこの講演会は楽しかった。三百五十人の聴衆も、司馬さんの人柄によくふれることができたと思う。もっとも、講演会が終わっても、この日の司馬さんの仕事はまだ終わらなかった。
 赤坂で食事をしたあと、ホテルに戻り、記者会見にのぞんでいる。この年の文化功労者に選ばれていたのだ。
 「私の小説はすべて、二十二歳の私にあてだ手紙なんです」
 と、記者会見で語っている。二十二歳の夏、陸軍の戦車隊に所属し、栃木県佐野市で終戦を迎えた。
 「どうしてこんな馬鹿な戦いをしたのか、日本はそんなにつまらない国だったのかと絶望した二十二歳の自分に対し、日本にもこんな歴史があって、こんな男たちがいたということを伝えたかった。でももう、その義務は果たしましたね」
 と、司馬さんは語っていた。
 私はみどりさんと一緒に、記者会見場の隅で聞いた。記者会見の司馬さんはいつもにもましてまぶしく見えたが、だんだんとさびしくも見えた。さっきまで話していた漱石の悲しみが重なって見えた。
 もっとさびしかったのはみどりさんだっただろう。祝いの記者会見なのに、「もう義務は果たしました]という言葉は聞きたくはなかったと思う。みどりさんは司馬さんの『二十一世紀に生きる君たちへ』もあまり好きではない。未来を生きる小学生のため、もともとは教科書用に書かれたもので、多くの人々に愛読されている。しかし、みどりさんにとってはさびしい件がある。

 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

 三浦浩さんも、この部分が好きではなかった。みどりさんが書いた『司馬さんは夢の中 1』(中公文庫)によると、三浦さんは、
 「いやなことを書くひとだな。そのとき、司馬さんは、まだ七十七歳だろう」
 と、みどりさんに電話をかけてきている。
 元気で当たり前の年なのに、である。
 司馬さんは私と歩いているとき、よく後ろを振り返った。駅や空港で後ろを振り返り、 「いや、みどりがね」
 といって、みどりさんが追いつくのをよく待っていた。そのまなざしは常に優しかったことをよく覚えている。そのわりに、唐突に悲しいことを言っては、みどりさんを憂鬱にさせる。これもまた司馬さんだった。」(村井重俊著「街道をついてゆく」p72~77より)

司馬さんの、1996年の突然の死の4年半前のことだ。
上の文で「七十七歳」とあるが、正確には68歳のときだった。
この1991年の文化功労者の後、1993年には文化勲章を受章している。

まさか60代で死を予感していたとは思えないが、「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。」という言葉や、「もう義務は果たしました]という言葉は、家族は聞きたくない言葉だっただろう。

とにかく読めば読むほど、司馬遼太郎という人が72歳で亡くなってしまったことが残念でならない。
それと、漱石が「三四郎」で広田先生をして「日本はだめになる」と言わしめた日本の将来。先の敗戦に続いて再度「ダメに」なりつつある日本を再生させるのは、上の教科書を読んだ子どもたちに託すしかないか・・・(もちろん自分たちは既に居ないが)

(2023/02/15追)
1999/9/7~2000/5/28に全国各地で開かれた「司馬遼太郎が愛した世界展」のカタログの、「初版本一覧(P180~P189)」によると、司馬遼太郎が残した作品は、初版本(単行本)レベルで115冊、延べ213巻だという。

また「司馬遼太郎記念館」の「文庫リスト」(ここ)によると、本日(2003年2月)現在の文庫の小説は69作品、141巻。エッセイなどは60作品、92巻。そして「街道をゆく」が43巻+2巻の45作品。合わせると174作品、278巻とのこと。

●メモ:カウント~1400万

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2023年1月29日 (日)

司馬遼太郎の「空海の風景」が面白かった

司馬遼太郎の「空海の風景」が面白かった。面白い、というより“良かった”と言うべきか?
言うまでも無く、「空海の風景」は「中央公論」の1973年(昭和48年)1月号から1975年(昭和50年)9月号に連載された小説。
しかし、自分が今まで読んだ小説とは少し違う。文庫の解説(p412)にこうある。
「書きあげられた『空海の風景』は、まさしく小説にちがいなかったが、伝記とも評伝ともよばれうる要素を根柢に置いているがゆえに、空海を中心とする平安初期時代史でもあれば、密教とは何かに関する異色の入門書でもあり、最澄と空海の交渉を通じて語られた顕密二教の論でもあり、またインド思想・中国思想・日本思想の、空海という鏡に映ったパノラマでもあり、中国文明と日本との交渉史の活写でもあるという性格のものになった。」
まさにこの通りの「小説」なのである。
しかし読んでいると引き込まれる。いつもの“司馬節”に・・・

「街道をゆく」もそうだが、読んでいくと、まさに木の幹をから枝が分かれるがごとく世界が広がって行く。まさに勉強になる。

話は飛ぶが、昔現役の頃「電気工事施工管理技士」という国家資格を得るために受験勉強をしたことがある。その時、数十年ぶりに机に向かった。試験勉強のためのテキストを読むと、まさに今まで乱雑に頭に放り込まれていた知識が、体系的にスッキリと頭の中で整理されていく実感があった。
その時の事を思い出した。
この「空海の風景」も同じで、自分の仏教、密教、空海、最澄、桓武天皇等々の断片的な知識が、頭の中で結合していく・・・
信義真言宗という名もそうだ。我が家の菩提寺は信義真言宗だという。昔の過去帳を見ると、浄土系のお寺から、自分の祖父の時代に今の所に移したらしい。過去帳の法名、戒名で分かる。
その信義真言宗の始まりも、この本に出て来たので、和歌山の根来寺について、つい勉強してしまった。

空海の真言宗については、(天下り)会社に勤めていた2006年、事務所が品川の近くの高輪台に移転した。そこに通っていた約2年間、昼休みに良く近所を散歩した。そこに高野山東京別院というお寺があり、よく行ったものだ。当時は、当サイトにも書いたが、仏教に興味があり、色々と仏教関係の本を読んでいた。

空海の舞台の長安(西安)に旅行したのが2009年5月(ここ)。
大雁塔や青龍寺にも行った。その光景がまだ頭に残っているので、この物語を読んでも、非常に身近に感じられた。特に青龍寺は、ツアーのコースには入っていなかったが、別途料金を払って、連れて行ってもらった。もちろんこのお寺は、1000年もの間、土に埋もれていたので、当時の面影はないが、でも行っておいて良かった。

220129kuukai 1984年(昭和59年)公開の映画「空海」も前にDVDを借りて観たことがある。空海は北大路欣也、最澄は加藤剛だったが、この本を読むと、“やり手”空海の北大路と、“マジメ人間”最澄の加藤は、まさにはまり役だった事が分かる。

wikiで「空海の風景」を読むと、2002年に「NHKスペシャル 空海の風景」がNHKテレビで放送された、とある。これも見たいな、と思ってググったら、何とYoutubeで見ることが出来た(ここ)。
広告で時々中断するが、全編を見ることが出来、いやはやスゴイ時代だ。

「街道をゆく」と同じで、本に出てくる場所が、TV画面に出てくるので、実に理解しやすい。
本番組の制作スタッフによる歴史紀行「『空海の風景』を旅する」という本も出ているという。これも買って読むしか無いな・・・

話は戻るが、司馬遼太郎がこの本の制作意図?をあとがきで書いている。これを読みながら、自分が5点満点の6点を付けた「空海の風景」の話のオワリとする。

「千数百年も前の人物など、時間が遠すぎてどうにも人情が通いにくく、小説の対象にはなりにくいものだが、幸いにして空海はかれ自身の文章を多く残してくれたし、それに『御遺告』という、かれの死後ほどなく弟子たちが書いた空海の言行が、多少は真偽の問題があるとはいえ、まずまず空海に近づくためのよすがにはなりうるのである。この点では、上代人としての空海は右の事情からの例外であるといえる。
 しかし、何分にも遠い過去の人であり、あたりまえのことだが、私はかれを見たことがない。その人物を見たこともないはるかな後世の人間が、あたかも見たようにして書くなどはできそうにもないし、結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光を当ててその起伏を浮かびあがらせ、筆者白身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できはしないかと期待した。
 この作品は、その意味では筆者自身の期待を綴って行くその経過を書きしるしただけのものであり、書きつつもあるいはついに空海にはめぐりあえぬのではないかと思ったりした。もし空海の衣のひるがえりのようなものでもわずかに瞥見できればそこで筆を擱こうと思った。だからこの作品はおそらく突如終ってしまうだろうと思い、そのことを期待しつつ書きすすめた。結局はどうやら、筆者の錯覚かもしれないが、空海の姿がこの稿の最後のあたりで垣間見えたような感じがするのだが、読み手からいえばあるいはそれは筆者の幻視だろうということになるかもしれない。しかし、それでもいい。筆者はともかくこの稿を書きおえて、なにやら生あるものの胎内をくぐりぬけてきたような気分も感じている。筆者にとって、あるいはその気分を得るために書きすすめてきたのかもしれず、ひるがえっていえばその気分も、錯覚にすぎないかもしれない。そのほうが、本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。
 昭和五十年十月  司馬遼太郎   」(「空海の風景」p407より)

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