2025年6月16日 (月)

沢田亜矢子の「小さい花」と「アザミの花」

今日は、自分の知らない俳優・歌手の話である。
このところ、沢田亜矢子という人について「研究」している。どうも有名な俳優さんらしいのである。
朝起きて、カミさんに「沢田亜矢子って知っている?」と聞くと「俳優さんでしょ? 優しい顔の人・・・」と。カミさんは昔から知っていると言う。

きっかけは、夜中に聞いているNHKラジオ深夜便の番組を聞いたこと。

<NHKラジオ深夜便「75歳からの挑戦」女優・歌手 沢田亜矢子(2025/05/30)放送>

自分の知らない人の話はほとんど飛ばすのだが、この番組はつい聞いてしまった。それで最後に流れた「小さい花」という歌が気になって、翌朝再度聞いてみた。なるほど、これは親しみやすい歌。Jポップでもなく、演歌でも無く、非常に爽やかな歌だ。

<沢田亜矢子の「小さい花」>

「小さい花」
  作詞:沢田亜矢子
  作曲:合田道人

ちいさな路地に 咲いている
名もなき 白い花
茎は曲がって 花びらは色あせて
それでもそっと 咲いている
青空を見上げて 輝くあの頃を
知る人も いないけど
ただ 夢を求め今日まで生きてきた
あなたを愛するため 愛されるため
それが私の いのちの意味

ちいさな路地で揺れている
幼き 赤い花
いつか窓辺の ひだまりに飾られて
愛されたいと 揺れている
青空に架かった 輝くあの虹を
渡る日がくることを
ただ いつもそばで誰より 願ってた
幸せ祈りながら 見守りながら
それが私の生きてく意味

青空に架かった 輝くあの虹を
渡る日が くることを
ただ いつもそばで誰より 願ってた
幸せ祈りながら 見守りながら
それが私の 生きてく意味

250616sawada この歌詞の中で「意味」という言葉が重たい。「いのちの意味」「生きてく意味」という言葉。歌の歌詞ではほとんど使われない単語では無いか?ある意味、哲学的な言葉でもある。
先の対談の中で、「自分の歴史を歌で残そうと、歌詞を書いて自費でCDを作った」という。
なるほど、自分の人世を書いたとなると、誰にはばかること無く使える言葉。

このCDは「芸能生活50周年記念のディナーショー」を開いて、そのお土産の意味もあったらしい。
そしてググっていると、「徹子の部屋」にも出たという。

「<沢田亜矢子>娘は米バークリー音大卒で音楽に厳しい 念願のデュエットも怒られないよう必死で 「徹子の部屋」出演

 タレントの沢田亜矢子さんが、3月14日午後1時放送の黒柳徹子さんの長寿トーク番組「徹子の部屋」(テレビ朝日系)に出演する。現在76歳。1973年に歌手デビューし、芸能生活50周年記念のディナーショーを昨年開いた。
 ショーでは、米バークリー音楽大学を卒業したシンガー・ソングライターの娘と念願のデュエットをすることに。周囲や娘は感動して泣いていたが、音楽に厳しい娘に「音が外れてる」と怒られないように必死で、泣くどころではなかったのだという。

 最近は俳優や司会者として活躍していたが、1973年に歌手としてデビューした。50周年記念にオリジナル曲の自主制作CDを作ったところ、音楽チャートにランクインし、音楽番組で紹介され、意図せず歌手活動を再開することになった。歌手としての活動は全て自分でしているため、行ったことのない地方のショッピングセンターに一人で出かけてCD販売のキャンペーンをするなど、75歳からの新しい挑戦を楽しんでいる。」ここより)

そして今度はこの番組をググってみるとYouTubeに挙がっていて、見ることが出来た。やはりラジオよりも情報量は多い。

wikiを読んでみると、この人の人生は、底抜けに明るい話し方とは裏腹に色々あったみたい・・・。「シングルマザーとして長女(シンガーソングライターの澤田かおり)を出産」とか「DVによる4年に及ぶ泥沼離婚劇を繰り広げた」とか・・・
それでもあの明るさは貴重!

ついでに、デビュー曲だという「アザミの花」という歌も聞いてみた。やはり音楽大学出身だけあって、若い歌声は素晴らしい。この歌は1973年6月発売だという。この頃は自分も歌を良く聞いていた時期だが、自分の歌のライブラリーには引っ掛からなかった。
歌詞は良く分からないが、曲は軽快でなかなか良い。

<沢田亜矢子の「アザミの花」>

「アザミの花」
  作詞:岡田嘉子
  作曲:郷 伍郎

むかし むかし その昔
アザミの花の咲いたみち
アダムとイブの逢ったみち
*アザミ アザミ アザミ アザミ
 アザミ アザミの花
 アザミ アザミ アザミ アザミ
 アザミ アザミの花

とおい とおい あの星に
アザミの花が咲いている
アダムとイブが生きている
(※くり逃し)

あの星 めざして ひとすじに
きのうもきょうもあすの日も
命のかぎり歩きましよう
(※くり逃し)

むかし むかし その昔
アザミの花の咲いたみち
アダムとイブの逢ったみち
(※くり逃し)

俳優さんの顔は覚えても、名前はほとんど覚えない自分だが、チャンスがあったら、この人のドラマも一度見てみようと思った。既に見ているのだろうが・・・

| | コメント (1)

2025年6月 7日 (土)

中西龍アナウンサーの「にっぽんのメロディー」

夜中に目が覚めたとき、時間が惜しいので、録ってあった「ラジオ深夜便」を聞く事がある。昨夜もそれを聞いていると、「中西龍」という名が出て来たので、つい聞いてしまった。
それは2025年5月24日放送の「アナウンサー百年百話「語りの世界と向き合う~中西龍・語りの世界」(初回放送2024/12/11ラジオ第2)」ここ)という番組だった。

wikiを覗いてみると、この「アナウンサー百年百話」という番組は「2025年にラジオの放送開始100年を控え、歴代のNHKのアナウンサーの証言を基に放送の100年を振り返るもので、新たな音源に加え資料の掘り起こしに取り組むと共に、いろんなメディアと連携・展開すると共に、「NHKの貴重な財産」を社会還元するもの」という主旨らしい。

<「アナウンサー百年百話「語りの世界と向き合う~中西龍・語りの世界」(2025/05/24放送)>

この「にっぽんのメロディー」の流れるような中西節が何とも懐かしい。
「(♪「赤とんぼ」)
歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして、歳月は静かに流れていきます。こんばんは。にっぽんのメロディーです。
熊本県山鹿市の〇〇さん。こんばんは。おはがき、拝読いたしました。ありがとうございます。「毎日欠かさず15分間楽しく聴いておりますので、そばにいるようです」と。
私があなた様のおそばにいるという風にお感じになってくださっていて、本当に光栄に思っております。ご希望は和田弘とマヒナスターズです。この歌でございますよね、〇〇さん。松平直樹作詞、中山晋平作曲、「男の夜曲」。
(♪「男の夜曲」)」

「(♪「赤とんぼ」)
「含羞(がんしゅう)や 豪雪の屋根 夕焼けて」〇〇(ペンネーム)。
“含羞や”は、“はじらいや”と読むのかもしれません。豪雪地帯です。来る日も来る日も雪ばかり。なんだってこんなに降らなきゃいけないのかと、雪に向かってどなりつけたい思いに駆られるほど降っていた雪がすっかり止んで、今日は珍しく一日中良いお天気でした。美しい夕焼けが、何十センチにも積もった雪に美しく映えています。というより、それは「あまりに降りすぎてごめんなさいね。私恥ずかしくて」とそう言いながら、雪自身がはにかんでいるように見えます。どの家からも晩御飯の支度をするいい匂いが流れています。さて、このお宅はどんなお料理を作るんでしょうか。当マイクロホンがもしこの家の主婦でありましたなら、大根を薄く切り、それに白菜、白滝、しいたけ、豆腐、鶏肉、そうした水炊きにするかもしれません。もちろん、ご主人には熱かんのおちょうし2、3本の用意は忘れないと思います。
「含羞や 豪雪の屋根 夕焼けて」〇〇(ペンネーム)。
さようなら。」ここより)

中西龍の「にっぽんのメロディー」については、昔当サイトに書いた事がある。探してみると2008年8月3日付の「中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」」ここ)という記事で、もう20年近く前の記事だった。
この記事では、一緒に懐かしがってくれた人が多く、そのリクエストによって、自分が持っている音源を次々とアップしたもの・・・

250607nakanishi ググってみると、同じく中西龍の「ひるのいこい」の収録風景が見られる(ここ)。

「ひるのいこい」についても、音楽が懐かしく、前に挙げたことがあった(ここ)。
どれも、自分が実際にナマで聞いていた番組では無いのだが、でも懐かしい。
しかし今、中西さんの姿を見ると、ちょっと怖いので、ラジオ向きであってテレビ向きでは無いかも??(失礼!)

2025年の今年は、ラジオが始まって100年だという。
「ラジオ放送の開始は1925年3月22日、NHKの前身である東京放送局(JOAK)が、東京芝浦の東京高等工芸学校の仮スタジオから「ああ、あー、聴こえますか。」と第一声を発信しました。この第一声は、当時主流だった鉱石ラジオの調整を促すものでもありました。NHKは、この日を放送記念日としています。」

自分の人生は、小学校低学年のブリキのオモチャの「ロボット」、そして高学年の鉱石ラジオから始まったと言って良く、いまだに「通信型受信機」(ここ)と聞くと心がうずく。

しかし「ラジオ第2」が来年2026年3月末で停波することが決まっているように、ラジオの時代も終焉に向かっている。
こんな番組を聞きながら、懐かしさと共に、自分の人生もそろそろ終焉かな?と思うこの頃である。

(関連記事)
中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」 

| | コメント (0)

2025年6月 3日 (火)

小野寺時夫著「私はがんで死にたい」を読んで

もし人間が死を選択出来るのであれば、医師はがんを選択するらしい。という話は前から聞いていた。
今日は、そんな医師が、その主張通りの死を迎えられるのか?という話である。
結論は、やはり「その時々の状況で、判断は変わってくる」ということか・・・

250603gande0 先日(2025/05/31)新聞の広告で「私はがんで死にたい」という本が出ていることを知った。ちょっと興味をそそられ、Amazonで買って読んでみた。
この本は2012年6月に出た本の新装版。データは古いにしても、考え方は今でも通じる。

250603gande 本の帯の解説にはこうある。
「がんだけは絶対に嫌だ、という人は多い。だが2人に1人がこの病気になり、3人に1人が亡くなる。
著者は長年、外科医としてがん拠点病院で活躍。その後ホスピス医として3000人の末期がん患者と接した経験から医療の過剰な介入(幾度もの手術、抗がん剤)に疑いを持ち、むしろ「がん死」こそが人間に相応しいと考えるに到る。
がんでも穏やかに最期を迎えるには、何をどう準備すべきか。
がんで亡くなった愛妻の最期を告白し、「人ががんで死ぬ」25の実例を挙げ、死に方、終末医療のあり方を示す。名著、待望の復刊。序文・久坂部羊。」

筆者は、40年以上に亘って都立駒込病院、都立府中病院(現多摩総合総合センター)などで消化器がんの外科治療に携わり、その後10年以上に亘って、日の出ケ丘病院で死の前年までホスピス医として働いていたという。
氏が言いたいことは、本の目次に並んでいる。

250603gande1 250603gande2 250603gande3 250603gande4

そこで語られていることは、
●高度進行がんになったら手術は受けません
●抗がん剤治療も受けません
●体力のある間に、自分のやりたいことをします
●在宅で最期を迎えるのが第一希望ですが・・・
●入院するならホスピスにします
●痛みなどの苦痛は十分とってもらいます
●食べられなくなっても点滴輸液は受けません
●認知症になる前に依頼しておくこと
●臨終に近づくときは、そっとしておいてもらいたい、
●安らかな死を妨げるのは最終的には心の痛み

著者はこの本を書いた7年後の2019年に亡くなったが、その時の状況を本書の最後に、娘さんが「あとがき」として記している。少し抜粋すると・・・

「そんな父にとって一大転機となったのは、57歳のとき咽頭がんになったことだと思います。幸いこのときは完治したのですが、父にとってはそれまでの仕事漬けの生活を考え直す機会になったようです。管理職になって受け持ちの患者がいなくなり、時間に余裕ができたことも大きかったかもしれません。
・・・
父は87歳のとき、再びがんになりました。今度は大腸がんで、肺転移と間質性肺炎を併発していました。父は消化器外科が専門ですが、不審に思っても、「医者の不養生」の言葉どおり自分の体のことは二の次だったようで、最後はみずから直腸を触診して気が付いたようです。後輩にあたる駒込病院の高橋慶一先生に検査を依頼したところ、やはりがんが見つかりました。
この本には「がんになっても手術はやりすぎてはいけない」と書いた父ですが、後輩であり、駒込病院の消化器外科で大腸の部長をなさっていた高橋先生のことはたいへん信頼していましたので、開腹手術をしていただき1週間ほど入院しました。予定より早めに退院し、自宅に戻ってからは庭の手入れをしたりし、病院の仕事にも復帰しました。
がんで3度目の入院をする88歳のときまで、父は週1度、やはり後輩の医師が経営していた静岡県富士市の病院まで新幹線で通勤していました。また、日の出ヶ丘病院のホスピスでも週に2日勤務しており、ビジネスホテルで1泊して戻って来るという生活を続けていたのです。開腹手術の後はCTなどの検査を行いつつ経過を見ましたが、1年後に両肺野部に転移が見つかり、胸腔鏡の手術を3度に分けて行いました。
父自身、肺転移があった段階で死の覚悟をしていたと思います。自宅でモーツァルトの「レクイエム」を大きな音量で聴いていたこともありました。
・・・
父の最後の日々は、すべてがこの本に書いたとおりというわけではありませんでしたが、抗がん初は最後まで投与を受けませんでしたし、「葬式はするな」とも言われたので、そのとおりにしました。」

抗がん剤はやらなかったものの、手術は受けたという。
やはり健康なときに考えていたことでも、いざその時になると、周囲条件も変わり、判断は変わるもの。
それはそれで良いのだと思う。
全ては自分の命。それへの判断は、いつどう変わっても良いのだと思う。

同じような話で、10年ほど前に「「どうせ死ぬなら『がん』がいい」中村仁一×近藤誠著」(ここ)という記事を書いた。
近藤誠氏は「がん放置療法」で有名だったが、73歳で虚血性心不全で亡くなったという。
がんでは無かった・・・

またまた話は飛ぶが、前に「「死にともない」の仙厓和尚」(ここ)という記事を書いた。
そこにこんな言葉が・・・
「仙厓和尚は、禅僧としてすばらしいキャリアをつみ、当時としてはスーパー長寿の88歳で臨終を迎えたのだから、最後のお言葉をと申し出た弟子たちは立派な遺偈(ゆいげ)がきけるものと思ったにちがいない。そこへ「死にたくない」の一言。弟子たちは驚いたが、いかにも仙厓和尚らしい。」

生前、どんな理屈をこねていても、自分がいざその時になったら、理屈などどこかにいってしまうもの。
前に書いた「訪問診療医 岡山容子さんの話」(ここ)もそうだが、この所、妙にこのような話が気になるこの頃である。

(付録)
この2月に七回忌をした兄。
生前こんな事を言っていた。「検査をして治るならするが、治らないなら調べない」
今になって、やはりこのスタンスが気になる。
この本の著者も、がん検査を受けないスタンス。
結果として、ガンになって発見されたときは既に手遅れ。
つまり、抗がん剤治療などをしないで死んでゆく。
後期高齢者になったら、自然に任せ、がんを調べない、という考え方も有りでは無いかとも思う・・・

| | コメント (0)

2025年5月24日 (土)

今さら思い出す「バカなことをした!」記憶

前に、自分が3ヶ月おきに通っている近くの大学病院の主治医の先生が、自分の「よく悪夢を見るんですよ。内容は現役時代の仕事のこと」という雑談に対して、こんな事を言っていた。

「トシを取ると記憶力が下がるとか言うんだけど、記憶ってあんまり残んない方が良い事だと僕は思う。
と言うのはね、考えすぎて残るよりは消えて行ってくれた方が人間は楽なんですよ。だから物は考えようなんですよ。
良いことの夢はほとんど見ない。記憶って全部残ったら大変のことになっちゃう。トラウマになっちゃう」

自分はよく夢を見る。
覚えているのは目が覚めた直前の夢なのだろうが、その夢の中身が問題。イヤな夢ばかり。現役時代の仕事の事、イヤな上司との軋轢のエピソードなど。
リタイアしてもう20数年。それを、いまだに現役時代の記憶にいたぶられている。
たまに会う同期の友人にその事を話すと、夢など見た事は無いという。もう現役時代の事は忘れたという。
なぜ自分はもう忘れて良いことに、いまだにさいなまれているのか・・・

また、「バカなことをした!」という事件(エピソード)もよく思い出す。
それが沢山あるのである。それほどバカなことした!と思う事をしてきた。
その時は、良かれと思って行動したはずだが、今になって思えば、何とバカなことをしたのか!と、思い出すだけで恥ずかしい。
相手が多分忘れている、と思える事がせめてもの慰み・・・

学生時代などの若いとき、「行動すべきかどうか迷ったときはどうする?」というのは重大な命題だった。(例えば愛の告白など!?)
当時、そんな話を兄と話していたら、「迷ったら進め!」と言われた。何もしなければ何も変わらないが、行動することによって何かが変わるから。と言う。

しかし、今になって思えば、「迷ったら止めとけ」が正解だったと思う。
仕事上でも、ある重大な決断をして行動しても、結果はろくなことにはならなかった。
引き返せない事態を招き、その事がずっと尾を引いたことは多かった。

思っても行動しなければ、少なくても自分だけは傷付かない。その方が、トラウマも少なく、被害!は少ない。
目新しいことはするな。が自分の悟りの到達点かも???

今日の夕方、いつものようにTBSの「報道特集」という番組を見た。改めて兵庫県知事の問題を特集していた。
忘れっぽい日本人の中にあって、「まだやってるの?」という風評に惑わされず、問題を掘り起こす姿勢には共感。
この「内部告発」も、ある決断をして行動したのだろう。しかし、その結果が自殺とは痛ましい。

最近よくカミさんに言う。「自分の葬式はしなくて良い。直葬で良い。誰も呼ばなくて良い」
しかしカミさんは「そういうわけには行かない」という。
トシと共になぜこんなに厭世的になったのか?
確かに、お互い葬式などは行かなくなった。それよりも、連絡すら来なくなった。
現役時代ならともかく、リタイアして数十年経った今、本当に付き合いのある人は少なくなった。年賀状ももうほとんど無くなり、人間関係も狭くなった。
よって、自分の葬式に来てくれと言える人は家族と兄弟くらい。
そろそろ人生を閉じるトシになって、やはり人間、生まれるときも死ぬときも裸一貫、と思う。
「バカなことをした!」が多かった自分の人生だが、閉じるときに全てはリセットされる。
だから早くリセットしたい??

でも運転免許の更新はするぞ!!
先日来た免許更新のお知らせ。今度更新すると80歳までOK。
前に、たまたま一緒になった自分より10歳年上の会社の先輩が「先日、免許の更新をした」と言っていた。90歳まで運転OKだという。
ま、自分も、「バカなことをした!」という数々の思い出を引きずりながら、免許だけは自分も負けずに、ずっと継続するつもりなのであ~る。

| | コメント (0)

2025年4月28日 (月)

「やなせたかし」のインタビューと宮城まりこ子の「手のひらに太陽を」

長い間愛聴していたNHKラジオ第2の「カルチャーラジオ 保阪正康が語る昭和人物史」が4月から「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」に変わり、進行役も14年間担当した宇田川清江アナから、ノンフィクション作家の梯久美子さんに替わった。プロのアナでないのが興味深い。

250428hosaka 4月は4回に亘って「やなせたかし」を採り上げているが、梯さんは20代の頃、雑誌『詩とメルヘン』の新人編集者として、編集長のやなせたかしさんのもとで働き、晩年まで親交があったという。
また梯さんは最近、「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」という評伝を出されたそうで、梯さんが最初に採り上げる人物としては最適だった。

言うまでも無く、この4月からはNHKの朝ドラで、「やなせたかし」と奥さんをモデルとした「あんぱん」がスタートして、我が家でも何となく夫婦で見ている。
しかし、松嶋菜々子が演じる、嵩と千尋という兄弟を棄てて再婚した生みの母親が、再婚先から戻ってきて、そのしゃしゃり出る態度に、不快で見る気がしなくなったが、幸いにも?家を出てその姿を見なくなったので、ホットしてまた見ている・・・

もちろん、やなせたかしの実像とドラマとは違うが、このドラマを機に、「やなせたかし」とい人物を眺めてみたのも事実。
この番組では、2006年(H18年)1月4日のNHKラジオ深夜便「明日へのことば」で放送された、86歳のやなせたかしさんへのインタビューを元にした番組だが、、なかなか面白かったので下に挙げてみる。

<「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」やなせたかし(1)>(2025/04/06放送)

漫画家のやなせたかしは、大正8年に生まれる。高知県内の小中学校で学び、昭和12年18歳の時に東京高等工芸学校の図案科に入学。その後様々な仕事をし、54歳の時に「あんぱんまん」を刊行、その後の大ヒットに繋がります。平成18年1月にラジオ第1で放送された「ラジオ深夜便、明日へのことば」の前半では、代表作のアンパンマンが誕生するまでの経緯や、なぜ漫画に興味を持ち始めたのかについて話しています。ここより)

<「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」やなせたかし(2)>(2025/04/13放送)

やなせたかしは、昭和15年東京高等工芸学校の図案科を卒業した後、製薬会社の宣伝部に就職。翌年の昭和16年には陸軍第十二師団に配属された後、中国へ派遣され実際の戦争を体験します。平成18年1月にラジオ第1で放送された「ラジオ深夜便、明日へのことば」の前半では、中国での戦争体験や、同じ中国で仕事をしてそこで亡くなった父親の事、また戦争体験から生まれた代表作のアンパンマンのことなどを語っています。ここより)

<「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」やなせたかし(3)>(2025/04/20放送)

やなせたかしは、戦後復員したあと新聞記者や雑誌の編集者などを体験。また昭和35年41歳の時には「見上げてごらん夜の星を」の舞台装置や、「手のひらを太陽に」の作詞など、漫画以外の仕事にも取り組みます。平成18年1月にラジオ第1で放送された「ラジオ深夜便、明日へのことば」の後半では、デパートの包装紙の制作や舞台装置の取り組み、またテレビや絵本の仕事が後の漫画制作に大いに役立ったことなどを語っています。ここより)

<「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」やなせたかし(4)>(2025/04/27放送)

やなせたかしは、漫画以外の様々な仕事のあと、昭和63年69歳の時からテレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放送が始まります。その後、日本漫画家協会賞の大賞を受賞し、2011年の東日本大震災の後「アンパンマンマーチ」が震災の復興ソングにも。平成18年1月にラジオ第1で放送された「ラジオ深夜便、明日へのことば」では、アニメやシナリオの仕事、そして80歳にして挑戦したミュージカルについて話しています。ここより)

この番組を聞いて、「手のひらを太陽に」がやなせたかしの作詞であることを知った。
オリジナルだという宮城まり子の歌で聞いてみよう。

<宮城まり子の「手のひらを太陽に」>

「手のひらを太陽に」
  作詞:やなせたかし
  作曲:いずみたく

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんなみんな生きているんだ
ともだちなんだ

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって
ミツバチだって
みんなみんな生きているんだ
ともだちなんだ

(ぼくらはみんな 生きている
 生きているから おどるんだ
 ぼくらはみんな 生きている
 生きているから 愛するんだ)
 手のひらを太陽に すかしてみれば
 まっかに流れる ぼくの血潮
 スズメだって イナゴだって
 カゲロウだって
 みんなみんな生きているんだ
 ともだちなんだ)

保坂さんの番組で、この歌詞についても言及があり、面白い。
しかし、やなせたかしの滑舌の良いことには驚かされる。実に多才な人だったらしい。

またwikiを読むと、病魔との戦いも凄まじい。
「60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていた。膀胱癌は10度以上再発している。」とのこと。

子どもに圧倒的な人気だという「アンパンマン」だが、自分は読んだことが無い。自分の子育て時代にも多分無かった。当時はもっぱら「およげたいやきくん」の時代だった・・・

毎年、朝ドラや大河ドラマで、クローズアップされる人や地方。今年はやなせたかしらしい。
そう言えば、朝ドラの主人公の朝田のぶが入学した女子師範学校のロケ地は、自分の母校だった。ま、これも何かの縁か??
朝ドラにほとんど興味を示さない我が家だが、今年はやっと人並みになったようである。

| | コメント (0)

2025年4月22日 (火)

ある市議の市井の声を聞く姿勢に感動

我が家の、先日の心が明るくなったエピソードである。市議会議員にも、こんな人も居るのだ・・・という話。

先日の昼前、ドアホンがピンポーンと鳴った。カミさんが出ると「市議会議員の玉正ですが、この辺を回っていて、市政に対するご要望とかご意見があったら伺いたいのですが」と言う。
普通は訪問営業が多いので、直ぐに切るのだが、市会議員の本人と聞くと出ないわけにはいかない。カミさんが出て行って、家の前の歩道の落ち葉掃除の苦労話をしていた。

毎年秋になると11月中旬から1月中旬までの2ヶ月間、家の前の道路の向こう側にある小山の木々から降ってくる落ち葉と、歩道の街路樹からの落ち葉の掃除が大変なのである。
250422ochiba 歩道を落ち葉が覆うので、歩行者が滑るかも知れない。よって、どの家も、自宅の前の歩道の落ち葉の掃除をする。隣の家がキレイにすると、自分の家だけ放っておく訳にもいかず、結局老骨むち打って清掃してしまう。しかし、ここに引っ越してきてから37年近く。どの家の住人も70代から80代。
もう皆、トシを取っているので、毎日の落ち葉掃除が大変な重労働なのである。

普通は朝一番にするのだが、隣の80代のおばあさんは、毎晩夜に街頭を頼りに落ち葉集めをしていた。
ある日、落ち葉掃除をしていて顔を会わせた時、「もうトシを取って皆大変なので、歩道の清掃は止めたいですね。皆が一緒に止めれば目立たないよね」と話したが、結局、やはり隣がきれいになっているのに、自分の家の前だけ落ち葉だらけでは目立つので、結局掃除してしまう。
何せ、前の小山の繁っていた木々の葉が全て落ちて、空がスケスケに見えるまで全部散るので、その量は膨大。

そんな話を市議さんに話していたら、明日市役所に行くので担当者に聞いてみて、状況は電話で報告します。と言う。
そして次に日にちゃんと市議さんから電話があって、市の担当者に聞いた状況を説明してくれた。詳細は省略するが、直ぐに現地に見に行ってくれるとのこと。
そして、その調査結果をまた電話で報告してくれた。
相手が落ち葉なので、市としての対応には限度がある。それでも、今出来ることと、季節ごとに対策できることがあるので、引き続き見守ってくれるとのこと。
そして数日前、木の収集車を伴って業者が前に山の枯れた木の伐採と下草の清掃をしてくれた。

さて、ここからが本題。
我が家で、市会議員の訪問を受けたのは初めて。まず、選挙が近いのかと思ったが、次の選挙は2年後であり、選挙目当てでは無い。
素直に受け取ると、そもそも議員は国や市民の代表者である。つまりは、選挙区の民の声を行政につなぐのが仕事であるはず。
そんな当たり前の動きを、我々は忘れていた。議員は「家業」。議員は出身利益団体のためだけに動く存在。よって、一般の民には関係の無い存在。そんな風に思っていたが、今回の「事件」によって目からウロコ。

何よりも、議員本人が一軒一軒を回って、「何かありますか?」と聞いて回る努力と姿勢に敬服。
そもそも今回の我が家からの苦情は、林近くの道路に面している家では、たぶんどの家も経験している事象であり、道路管理者にとってもオワリの無い「仕方が無い」事なのだが、それでも市役所の担当者にアクションを起こし、行政としてやれることを探して行動してくれる。
そしてその動きをちゃんと市民に報告し、フォローしてくれる。これは議員が自分でわざと自分を忙しくする行動に他ならない。何もしなければ楽なのに・・・

そんな事で、今回の市議の動きについて、我が家としては感動した。
Netで、もらった名刺から活動の背景を覗いてみた。
「玉正さやか」と検索するとHPがあった(ここ)。

冒頭に
「「小さな声に丁寧に耳を傾ける」
これを出発点に市民に寄り添った政策をすすめていきます!」
とある。なるほど、このスタンスの一環だったか・・・

名刺と一緒のチラシにもこうあった。
250422tamasyou 「こんにちは。
本日は市政へのご意見をお伺いし、生活者ネットワークの活動をご紹介したく、資料を置かせていただきました。
生活者ネットワークは市民の声を税金の使い方に反映させるため、はつらつレポートや、はつらつタイム (ミニ集会)を通じて情報を届け、ご意見をいただきながら活動しております。
レポートをお読み頂き、ご意見やご感想をお寄せ頂ければ幸いです。
八王子・生活者ネットワーク 市議会議員 玉正さやか」

そしてこの議員は「八王子・生活者ネットワーク」(ここ)という団体に属しているらしい。
そのHPにあったこの団体の姿勢にビックリ。

<八王子・生活者ネットワーク3つのルール>
ルール1:議員は原則2期8年でローテーション
交代制で議員を職業化・特権化せず、世代交代を進めることで参加の層を広げます。
任期を終えた議員は、市民政治を広げるための活動や地域活動などに、その経験を活かします。

ルール2:議員報酬は市民の政治活動資金に
生活者ネットワークの活動はカンパで支えられています。議員も報酬に応じた寄付(カンパ)を行い、市民の政治活動資金に活かします。
お金の流れは公開し、政治資金の透明化をはかっています。

ルール3:選挙はカンパとボランティアで
選挙は、政治に参加する入口です。みんなでお金(カンパ)と、知恵や労力(ボランティア)を出し合い、選挙を行います。」ここより)

つまり、議員は個人としての地位ではなく、あくまで同じ志を持つ団体の代表者、という位置付けらしい。
議員報酬も個人では受け取らない・・・。
参った。こんな議員活動もあるのだ。

今まで、単に政党の名前だけで投票していたが、今後は、このような実際の活動をみて投票しようと強く思った。(議員の実名を挙げるかどうか迷ったが、選挙の時期でも無いので記載した)

| | コメント (0)

2025年4月19日 (土)

訪問診療医 岡山容子さんの話

今朝のNHKラジオ深夜便で、「明日へのことば「ゆれる心にとことんつきあって」訪問診療医 岡山容子」(2025/04/19放送)を聞いた。

トシのせいか、自分は途中覚醒が多い。平均毎晩3回は目を覚ましているのではないか・・・
今朝も、フト目を覚ますして、スマホのradikoでNHKを再生すると、4時のニュースをやっていた。何気なくそのまま聞いていると、今日の「明日へのことば」は訪問診療医の岡山容子さんの話だった。

<「ゆれる心にとことんつきあって」訪問診療医 岡山容子>

当サイトの記事は、この頃ラジオからの話ばかりである。
新聞を読んでも、不愉快なニュースばかり。TVも見なくなった。NHKスペシャルや、ETV特集など、前は欠かさず見ていたが、内容が重く、段々疎遠になってしまった。

今回の岡山容子さんの話も終末医療の話なので重たいが、何か心に残った。
180188 現在、岡山さんのクリニック「おかやま在宅クリニック」(ここ)では120人もの人を診ているという。HPを見ると医師は4人居るらしいので、1人当たり30人か・・・
しかし、やはり終末期の人が多いので、この放送の最後にナレーターが言っていたが、収録はクリニックで、そしてその途中にも電話が入り、途切れ途切れの収録だったらしい。よって、話が中断し、ナレーションによってまた再開するというインタビュー。

しかし内容は極めて明快で、分かり易い。
そして、母親が亡くなる時のエピソードが面白い!?
1度目に危篤に陥ってまさに呼吸が止まりそうになった時、父が「よし子~! 死ぬなよ~!」と叫んだという(上の放送の17分頃)。この期に及んで何でやねんと思って、「お母さん~! 逝って良し!」と叫んだという。しかしそれで呼吸が戻って意識も戻ったという。
その2週間後に再度脳出血が起こって、言葉も出なくなった。その死の間際、今度父が言ったのは「よし子~! 愛してんど~!」。母もちゃんとその言葉に応えたという。

人は死に際し、耳だけは聞こえているという。自分も両親の死に立ち会ったが、看護婦さんから「何か声を掛けて下さい」と言われても、誰も何も言えなかった。
人は寝ていても耳は生きている。不思議なことだ。でも耳が遠い人は、それなりにしか聞こえないのだろうが・・・

岡山さんのクリニックのHPを覗くと、訪問診療についての解説がある。
「・訪問診療の実際について
医師がご自宅で患者様の体調をチェックし、処方をいたします。定期的にまたは必要時に血液検査をし健康状態をチェックします。
診療の中で、専門的な医療=レントゲン検査、超音波検査、その他画像診断など=が必要になれば専門の医師に紹介します。必要であれば入院を勧めます。
ご入院された場合も退院後は入院中の主治医と連携して治療を継続します。
ご高齢者は、その虚弱な状態から、「ときどき入院・ほぼ在宅」というリズムになりがちです。そのご高齢者の特性をよく理解し、入院と在宅療養が切れ目なく行われるように支えていきます。」ここより)

上の放送の収録がクリニックで行われた事でも分かるように、常に気を抜けない。いつ何が起こるか分からず、直ぐに対応する事が求められる大変な仕事。そして、まさに麻酔科医が活かされる仕事。
そう言えば、自分の近くのかかりつけ医でも、昼休みは訪問診療をしていると聞いたことがあるが、詳細は知らない。

話は飛ぶが、今日、一通のメールが飛び込んだ。昨日、現役時代の会社の役職者の親睦会が開かれたといい、その写真が送られて来た。自分はその会に入っていないが、その会のHPを覗くと、物故者のリストがあった。ほとんどが80代で亡くなっているが、60代で亡くなった人も数人居る。自分の知っている人、同じ課だった人も・・・

自分にも、そろそろ順番が回ってくる頃。さてその時は、やはり自宅で死にたいと思う。
しかしそれには誰か世話をしてくれる人が必要。
よくあるように、夫が先に逝けばOKだが、こればかりは分からない。

クリニックのHPを見ると、岡山さんには「それでも病院で死にますか」という著書があるという。手に入れて読んでみようかと思った。
自然の営みである「死」。それを自分にも実感させてくれたお話であった。
(それにしても、自分の家が京都でないのが、返す返すも残念!!)

追)
この番組は、2025年3月24日に放送されたETV「こころの時代」「ゆれる心にとことんつきあって 訪問診療医・岡山容子」(ここ)から再編集した番組だったらしい。
Youtubeに載っている番組を見たが、やはり画面付は分かり易い。(ただし、TVの画面を直接撮影したものなので、音質は悪い)

 

 

 

| | コメント (0)

2025年4月 8日 (火)

脚本家・中園ミホさんのインタビュー/朝ドラ「あんぱん」

NHKラジオ深夜便で脚本家・中園ミホさんのインタビューを聞いて、先日始まったNHKの朝ドラ「あんぱん」を見始めてしまった。

中園ミホという名は、なぜか覚えていたが、「ドクターX~外科医・大門未知子~」で聞いた名前だった。なるほど・・・
「ドクターX~外科医・大門未知子~」は、これも全部見てしまおうと、昨年の10月頃にAmazonでシリーズの全編を見た。初期の作品には、今自分が通っている大学病院がロケに使われている事もあって、何か親近感??
この番組で知った中園ミホという名だが、今調べてみると中園ミホがこの作品の全編を書いたわけでは無かったらしい。全体の7~8割??

そして、このNHKラジオ深夜便を聞いて改めて中園ミホさんを確認した。
この番組は、今年の1月1日に放送された「新春インタビュー」のアンコールだった。

<NHKラジオ深夜便「脚本家・中園ミホさんのインタビュー(前)」>(2025/01/01放送・2025/04/01再放送)

<NHKラジオ深夜便「脚本家・中園ミホさんのインタビュー(後)」>(2025/01/02放送・2025/04/23再放送)

言うまでもなく、NHKの朝ドラは、歴史もあり、視聴率も高いNHKの看板番組。特に老人世代での視聴率はかなり高いのではないか?
でも我が家ではあまり見ていない。最近見たのは2024年前期の「虎に翼」。日本で最初の女性法曹の話だが、2ヶ月ほど見て、臭く感じたので止めてしまった。

250408ampan さて今回はどうだろう?
たまたまウチのカミさんがマンガ(イラスト)を描くのが好きなこともあり、モデルが「やなせたかし」という漫画家なので、カミさんも一緒に見るという。
放送が始まってもう2週目に入っているが、そこはTVのタイムシフトの便利さ。最初から見ることが出来る。

今年の大河ドラマも、出演者がどうもフィットしないので見ていない。昨年の「光る君へ」は、本当に久しぶりに最後まで見たが、自分的には珍しい。
毎日の15分。時間がもったいないと感じることもあるが、まあ、たまには何も考えずに見てみるか・・・?
改めて認識した「ドクターX」の中園ミホさんの話である。

| | コメント (0)

«いしだあゆみさん死去~「あなたならどうする」