2025年2月 4日 (火)

仲宗根美樹とボニー・ジャックスの「ユキコの灯」

先日、こんな歌を聞き、バックの男声コーラスが気に入った。
調べてみると、ボニー・ジャックスだという。なるほど、上手なわけだ。

<仲宗根美樹とボニー・ジャックスの「ユキコの灯」>

「ユキコの灯」
  作詞:横井 弘
  作曲:岩代浩一

白銀けむる アルプスの
小屋にやきしい 娘ひとり
その名はユキコ ともす灯に
夢もゆれるよ 夜空遠く

いとしい人の 眠る谷
泣かずまもって 生きる花か
その名はユキコ ともす灯に
夢もゆれるよ 夜空遠く

雪崩をきいて 目をとじて
山の幸せ 祈る娘
その名はユキコ ともす灯に
夢もゆれるよ 夜空遠く

250204yukiko この歌は1962年(昭和37年)の発売だという。63年前の歌。
3拍子の歌だが、これも自分の好きな叙情歌のジャンルに入るのではないか?
このサイトに自分の好きな叙情歌を幾つも挙げているが、抒情歌にはどうも3拍子の歌が多いような気がする。

仲宗根美樹のこの歌が、当時どのくらいヒットしたかは分からない。仲宗根美樹というと「川は流れる」(ここ)があまりに有名で、他の曲がこの歌に埋もれてしまったのかも知れない。
しかしwikiを開くと、「川は流れる」が1961年の発売だが、仲宗根美樹は1971年まで54枚ものシングルを出していた。
そして2024年(令和6年)2月24日、肺がんのため、東京都渋谷区の病院で死去したという。享年79。たぶん新聞にも載っただろうが、気が付かなかった。

wikiを読んでみると、その人生は、1971年に引退した後、ショッピングセンターを 出したり、銀座に美容サロンを出したり、倒産して自己破産したり、はたまた銀座でクラブを経営したりと、波瀾万丈の人生だったようだ。

そんな人生に比べると、自分の人生など可愛いもの?
さて、死ぬ時、自分の人生を振り返って、どんな感想を持つのか・・・
先日のアメリカでの飛行機事故。自分の人生を振り返る暇もなく終える人も居るが・・・

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2025年1月24日 (金)

帚木蓬生の短編「顔」

先日、NHKラジオ深夜便のラジオ文芸館で、帚木蓬生(ははぎきほうせい)の短編「顔」の朗読(2025/01/13放送)を聞いた。
その残酷な話にショック!

<帚木蓬生の「顔」>

この物語に出てくる病気は「致死性正中肉芽腫」というもの。
その病変をこの小説ではこう表現している。
「そして実際にそのとおりの光景が、彼女の顔のまん中に現出していた。
250124fuukabyoutou 炎症性の病変はまず鼻腔から始まり、その周辺の組織を次々と壊死させていったのだろう。耳鼻咽喉科、そして眼科でも、その病変の進行を止められず、組織の腐った部分を後手後手にデブリードマン(切除)していくしかなかったのだ。その過程で鼻が失われ、ついで両眼球までが剔出(てきしゅつ)されたのに違いない。
サングラスを掛ける耳、物を咀嚼する口、そして額だけは残されているものの、顔の中央が根こそぎえぐりとられていた。
ぽっかりあいた穴を見つめながら、解剖学的にどういう状況かを頭のなかで冷静に考え、また一方で、ここまで顔がなくなっても命には別条ないのだと妙な感慨にとらわれた。」(「風花病棟」「顔」p176より)

まだ52歳の女性の顔が腐って無くなっていく・・・
鼻も、頬も、そして眼球も除去された顔。
もはや頭蓋骨だけとなった顔は、怖ろしくもある。その患部のケアを一人でしている夫。

そして、その看病している夫は言う。「でも家内は、自分の顔が見えなくて、幸運といえば幸運でした」

この「致死性正中肉芽腫」という病気をNetで検索してみると、こんな記述がある。
「致死性正中肉芽腫症は、鼻腔や咽頭領域に発生する悪性リンパ腫の一種で、進行性鼻壊疽とも呼ばれていました。壊死を伴い浸潤性の発育を特徴とし、治療抵抗性の疾患とされてきました。
致死性正中肉芽腫症は、現在は鼻性NK/T細胞リンパ腫という名称で呼ばれています。

<病因>
ヘルペスウイルスの一種であるEBウイルス(Epstein-Barr Virus)の持続的な感染により発症する

<症状>
顔面正中部に沿って進行する破壊性、壊死性病変を主体とする

<治療>
放射線治療と細胞障害性抗がん薬を用いた薬物療法を同時に行うことや、複数の細胞障害性抗がん薬を用いて行う多剤併用療法が行われる
造血幹細胞移植が選択肢になることもある」

極めてまれな症例だと思うが、ある文献によると、鹿児島大学耳鼻科では6年間で14例を経験した、とある(ここ)。

この話を聞いて、昔の「愛と死をみつめて」(ここ)を思い出した。この話も実話として顔が無くなっていく病気で、21歳で亡くなった女子大生の話だった。
wikiによると、この時の病気は「軟骨肉腫」だという。

それにしても、このようなリアルな短編を書けるのは、著者が現役の医師であればこそ、ではないか。

話は飛ぶが「帚木蓬生」という名が読めない。
wikiによると「ペンネームの帚木蓬生は『源氏物語』の第2帖「帚木(ははきぎ)」と第15帖「蓬生(よもぎう)」から取ったものである」とある。
よくもまあ、こんな難しい名にしたもの・・・

「顔」のあまりのショックに、この短編が載っている「風花病棟」など数冊の「帚木蓬生」の本を買ってしまった。
さっき「風花病棟」を読み終わったが、収録されている10編のどの短編も、医師を主人公にした淡々とした小説。
ヘンにひねらず、いわゆる良医の素直な話が何とも好ましい。
初めて読んだ帚木蓬生だが、手に入れたあと数冊を一気に読んでみようと思う。

それにしても、人間は、いや生物は必ず死ぬ。
何が原因で死ぬかは分からない。自分で選ぶことも出来ない。
自分が死に直面した時、上のような残酷な死に方でないことをラッキーと思うことは、難病の人に失礼か!?

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2025年1月21日 (火)

三浦洸一の「流転」

歌手の三浦洸一さんが亡くなったというニュースを見た。

歌手・三浦洸一さん 死去 97歳 老衰のため 「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」などがヒット

「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」「踊子」などのヒット曲で知られる、歌手の三浦洸一さんが、1月11日、老衰のため亡くなっていたことが分かりました。97才でした。
日本歌手協会が公表しました。

250121miurakouichi 日本歌手協会の広報文では、「日本歌手協会の会員でビクター専属の最古参歌手、昭和20年代から歌い続けた三浦洸一(みうらこういち、本名桑田利康・くわた としやす)さんが、令和7(2025)年1月11日午前6時23分、都内の病院で老衰のため亡くなりました。97才でした。」と、報告。

続けて「通夜および告別式は、1月18日、19日にご遺族のご意向により、家族葬にて執り行いましたことをここに謹んでご報告申し上げますとともに、長年にわたって賜りましたご芳情に対し厚く御礼申し上げます。戒名は宝洸院釋浄響居士。」と、記しました。

三浦さんは、昭和3(1928)年1月1日に神奈川県三浦市三崎の浄土真宗本願寺派最福寺の三男として誕生。
幼少期より祖父のもと読経を学びましたが、戦後、東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進み、声楽科卒業後に日本ビクターレコードに入社。

作曲家の𠮷田正氏に師事し、昭和28(1953)年5月『さすらいの恋唄』でデビュー。
同年9月発売の『落葉しぐれ』が大ヒットし、「𠮷田学校の長男坊」として歌謡界をリード。
昭和30(1955)年の『弁天小僧』、31(56)年の『東京の人』、さらに32(1957)年には渡久地政信作曲の『踊子』と大ヒット曲を連発させ、一世を風靡。

この時期には春日八郎、三橋美智也とともに「御三家」と呼ばれ注目を集めました。

昭和30年の「第6回紅白歌合戦」から昭和38(1963)年まで出場を続け、39(1964)年落選のときは、所属のビクターレコードが「三浦を落とすならビクターの歌手全員が辞退する」と言わしめるほどの大スターだったということです。
昭和40年代、「なつメロブーム」が訪れたときにも請われると出演し、平成時代までなつメロ番組には欠かせない人気歌手として名を馳せました。
日本歌手協会にも設立時から入会、平成16(2004)年まで理事や監事を永年つとめ、「歌謡祭」にも全27回出場。

ほかにも昭和58(1983)年には、タモリの『笑っていいとも!』(フジテレビ)にレギュラー出演、平成12(2000)年には「日本レコード大賞 功労賞」、令和3(2021)年には「日本歌手協会 功労賞」を受賞。
平成23(2011)年には歌手協会主催の『東日本大震災被災地支援チャリティーライブ』、翌24(2012)年の「靖國神社みたままつり 奉納特別公演」に出演。

三浦さんは、1年半ほど前から都内の病院に入院していたということです。」ここより)

三浦洸一の歌は、自分も好きで、前にも幾つか挙げていたが、今日は「流転」を聞いてみよう。この歌はあまり有名ではないらしく、Netで検索しても歌詞が出て来ない・・・

<三浦洸一の「流転」>

「流転」
  作詞:石浜恒夫
  作曲:大野正雄

泣くんか 泣くもんか
夢にみました ふるさとは
遠くはなれて 思うもの
男生命はひとすじに
男 男 俺はきまゝな
 あゝ流れ星

泣かなんだ 泣かなんだ
捨てて来ました ふるさとは
よるもさわるも 花いばら
男ごころの燃ゆるまゝ
男 男 胸に抱いた
 あゝ夢ひとつ

泣けてくる 泣けてくる
山のむこうの ふるさとは
幸せすむと 人はいう
男流転のさすらいは
男 男 あすはいずこぞ
 あゝ吹雪鳥
(コーラス ブライト・リズム・ボーイズ)

三浦洸一の歌で自分が好きだったのは、前に挙げた「恋しても愛さない」(ここ)、「青年の樹」(ここ)もあるが、やはり代表曲は「踊子」(ここ)。
この歌は親父も好きだった。何しろ声が良い。音楽大学の声楽科出身だけある??

先日挙げた小澤一家もそうだが(ここ)、やはり家庭での環境は子供に多大な影響を与えるもの。振り返ってみると、親父もお袋も歌が好きだったので、それが自分に伝わったのかも?
兄貴も好きだったが、弟は??良く分からない・・・

ともあれ、もうとっくに亡くなっていたと思っていた三浦洸一が(失礼!)、97歳の大往生を遂げたと聞いて、久しぶりにその歌声を懐かしく思い出した。
あと、昭和の大歌手でご存命なのはどなただろう?
やはり自分は昭和の人間なのであ~る・・・

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2025年1月19日 (日)

ウクライナ民謡「キャロル・オブ・ザ・ベル」

気になっていた曲の曲名が分かった。
先日、ニュースサイトを見ていて、バックに流れる音楽が耳に残った。
それで先日の記事(ここ)で「<付録:曲名を知りたい!>どなたか下記の曲名が分かったら教えて頂けますか?(ここより)自分でもこの音源を持っているような気もするが、曲名が出て来ない・・・」と書いたら、早速「デコスケさん」から返信を頂いた。

デコスケさんの返信(ここ)によると「曲名は「キャロル・オブ・ザ・ベル(carol of the bells)」ウクライナの民謡が元に作られたクリスマスソングらしいです。」とのこと。

Netで検索すると、色々な情報がヒットする。wikiにも載っていた。それによると、
「キャロル・オブ・ザ・ベル」(原題:Carol of the Bells)はウクライナの民謡を元に、マイコラ・レオントーヴィッチュが1914年に編曲したシュチェドルィック(英語版、ウクライナ語版)に、1936年にウクライナ人作曲家ピーター・J・ウィルウフスキーが英語の歌詞を付けたもの。曲はパブリックドメインとなっているが、詩はウィルウフスキーの著作権が保護されている。作曲から100年以上経った今日において、最もよく歌われるクリスマス・ソングの一つとなった。」
とのこと。

早速YouTubeで音源を検索すると色々とヒットした。
なるほど、かなり有名な曲らしい。同じタイトルの映画もあったらしい。

知りたかったオリジナルの音源はこれ。

YouTubeで上と同じ音源は見つからなかったが、気になった音源を幾つか採取してみた。

<John Williams - Carol of the Bells | Home Alone (Original Motion Picture Soundtrack)>

<Libera - Carol of the Bells>

<The St. Olaf Choir - Carol of the Bells (Ukrainian Bell Carol)>

<Shchedryk (Carol of the Bells) – Bel Canto Choir Vilnius>

そしてピアノ編曲バージョンもあった。
<Carol of the Bells (Christmas Piano Cover)>

これを聞いて、昔よく聞いたジョージ・ウィンストンのピアノ(ここ)を思い出した。良く似ている・・・

そして自分が持っているジョージ・ウィンストンの音源をチェックしてみたら、同じ曲が見付かった。
「ディセンバー」というアルバムに「Carol Of The Bells」という曲があった。

<ジョージ・ウィンストンの「Carol Of The Bells」>

これはジョージ・ウィンストンの編曲だが、まさに原曲は同じ。
やはり自分は音源を持っていた。しかし、ピアノ版を聞くまでジョージ・ウィンストンのアルバムにあるとは気が付かなかった。
いやはや面目ない!?

ところで、こんな聞いたことが無い海外の音楽の曲名がよくぞ分かったもの・・・!と感嘆していたら、「時流さん」から「音で曲検索は、Googleが結構有能です。この曲もPCで音出ししながらスマホを使って検索できました。」ここ)というコメントを頂き、さっそくGoogleを開くと、なるほど「♪」マークがある。これをたたくと見事曲名が表示された。

当方、iPadを買ってから、パソコンにはすっかりご無沙汰で、いつもiPadのsafariばかり使っていたので、Googleにこんな機能があるとは気が付かなかった。
Googleで画像の検索が出来ることは知っていたが、音源の検索も出来るとは・・・!

「デコスケさん」そして「時流」さん、この度はありがとうございました。
おかげさまで、気になった曲の源流に近付くことが出来ました。
改めてお礼を申し上げます。

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2025年1月17日 (金)

小澤幹夫氏(指揮者・小澤征爾の弟)の話「母の遺した我が家の歩み」

先日、NHKラジオ深夜便で「明日へのことば「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優・エッセイスト 小澤幹雄」(2025/01/08~09放送)を聞いた。
小澤征爾の若い頃の武勇談は有名だが、その家族の話であり、なかなか興味深かった。

<NHKラジオ深夜便「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優 小澤幹雄(1)>

<NHKラジオ深夜便「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優 小澤幹雄(2)>


小澤征爾の父親である小澤開作は、wikiによると「小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日-1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。妻・さくら(1907年-2002年)との間に四男をもうけた。長男・克己(1928年-1984年、享年56)は彫刻家、次男・俊夫はドイツ文学者、三男・征爾は指揮者、四男・幹雄は俳優。」とある。

何よりも驚くのは、この4兄弟が、別々の道でそれぞれの道を拓いているということ。
改めて書くと
長男・小澤克己(1928 (S3)年生まれ 1984年没 享年56) 彫刻家

次男・小澤俊夫小(おざわ としお、1930(S5)年4月16日-)は、日本のドイツ文学者、昔話研究者。筑波大学名誉教授。有限会社小澤昔ばなし研究所・社長。

三男:小澤征爾(おざわ せいじ、1935(S10)年9月1日-2024年(R6)2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間務め、2002年-2003年のシーズンから2009年-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

四男・小澤幹雄(おざわ みきお、1937(S12)年10月24日-)は、日本の俳優、エッセイスト。小澤征爾の実弟であり、兄・征爾に関する仕事が多い。

この話を聞きながら、改めて「家庭」「家族」「親と子」について考えさせられた。

親と子は、もちろん生物としての遺伝の要素もあるだろう。しかしそれ以上に、親の子に対するスタンスが大きい。
この家族では、母親の「いつも家庭に賛美歌がある」という雰囲気。そして子供からねだられもしないのに父親が自分の高級カメラを売って手に入れたピアノ。
それらの存在が音楽家小澤征爾を生んだのだろう。しかし、征爾以外の3兄弟は音楽以外の道で大成し、活躍した。
どうもこれは「子供のやりたい道を自由に」という親のスタンスにあったようだ。

言うまでもなく、江戸時代までは全てが世襲。子は親の仕事を覚え、そしてまた子に伝える。確かに社会の構造としてはバランスが維持される。しかし子の個性は無視される。
現代では、もちろん子は親の言うことなどは耳に入らない。でも良い意味での親の影響という面ではどうだろう?
ふと、自分に対する親の影響を振り返ってみた。もちろん自分は全てを勝手にやった。選ぶ学校も会社も・・・
しかしひとつだけ親父から言われたことを覚えている。
就職のとき、ある企業を選んだ自分に対して「電電公社(現NTT)が良いんじゃないか」。
もちろん無視したが、自分の進む道に対して、唯一のアドバイスだった。

自分の場合、親父とは生涯に亘ってとてつもない軋轢があったので、この事はいまだに覚えている。
しかし今考えると、子供が殴られて育った時代とはいえ、それを大人になっても引きずった自分はやり過ぎだったのかも・・・

我が家は男3人兄弟。3つ上の兄とはいつもパック。夕食の後は正座して一緒に「お説教」。対して5つ下の弟は可愛い「ちびちゃん」としていつも親父の膝の上。
弟だけは、たぶん親父から殴られた記憶など無いのでは??

小澤家のこんな話を聞きながら、ふと我が3兄弟と親父との関係を対比して思い出してしまった。色々な家族の風景ではある。

<付録:曲名を知りたい!>
どなたか下記の曲名が分かったら教えて頂けますか?(ここより)
自分でもこの音源を持っているような気もするが、曲名が出て来ない・・・

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2024年12月28日 (土)

石丸幹二の「ダンスはうまく踊れない」

先日、こんな歌を発見!?した。
石丸幹二の「ダンスはうまく踊れない (feat.塚越慎子)」という歌である。

<石丸幹二の「ダンスはうまく踊れない」>


「ダンスはうまく踊れない」
  作詞・作曲:井上陽水

ダンスは うまく 踊れない
あまり 夢中に なれなくて
ネコは 足もとで踊り
私 それを ながめている
夏の夜は すでに暗く蒼く
窓に見える 星の光近く
誰も来ないし 誰も知らない

ひとりきりでは ダンスはうまく踊れない
遠い なつかしい あの歌
私 夢色のドレス
あなた 限りない 笑顔で
足を前に 右に 後 左
風の様に 水の様に ふたり
時を 忘れて 時の間を
La La・・・・・・

今夜ひとりで ダンスをうまく踊りたい
丸いテーブルのまわりを
私 ナイトガウンのドレス
歌は なつかしい あの歌
部屋の中で 白い靴をはいて
ゆれる ゆれる 心 夢にゆれる
夜を忘れて 夜に向って
La La・・・・・・


言うまでも無く、この歌は井上陽水の作品であり、wikiによると「井上陽水の妻となる石川セリと付き合い始めの頃、気を引くために目の前で30分ほどで作ってプレゼントした曲」だという。

241228friends 1977年のその名曲を石丸幹二がカバーしたのがこの楽曲。
恥ずかしながら、実は自分は石丸幹二という「歌手」を知らなかった。しかし、Netでググってみてビックリ。その顔はいつもテレビのドラマで見慣れた顔・・・。
そもそも自分は俳優の名前もなかなか覚えられないし、覚えようともしていない。しかし顔だけは何とか覚えている・・・
石丸幹二の経歴を読むと、芸大の声楽科出身とのこと。いやはや本格的なプロだった!

この歌を聞いた時、なぜ自分にフィットしたかというと、その伴奏。編曲。
(feat.塚越慎子)とあるので、塚越慎子をググってみると、マリンバの世界的名手だという。

曲を聞いて分かる通り、縦横無尽に走り回るマリンバと、これも自由なドラムス。それをしっかりと支えるベース。それで楽曲が成り立っている。
この心が躍るようなリズム感は天才陽水の真骨頂だが、特に惹かれたのがドラムス。

前にも書いた記憶があるが、自分は音楽大好き人間だが、楽器の演奏はからきしダメ。子どもの頃のハーモニカがせいぜい??
その楽器の中で、最も惹かれているのがドラムス。
これは多分にピンク・フロイドの影響だと思う。
ピンク・フロイドのアルバム「ライヴ・アット・ポンペイ」の「吹けよ風、呼べよ嵐」を演奏するドラマーのニック・メイスン。
YOUTUBEにも(ここ)にアップされているが、この1972年の若き日のメイスンの演奏は、すごかった。途中持っていたスティックが飛ぶ・・・(下記の動画の4:46)

話は飛ぶが、実は小5の孫娘が、小学生の小編成のバンドでドラムスを担当しているとか。そして音楽教室でドラムスを習っているとか・・・
自分の憧れの楽器を小学生の孫娘が演奏している、というこの夢のような?話。
それも相当のレベルらしい。自分は何もしていないで、噂を聞くだけの存在だが、なにやら誇らしい気がする。
この孫の”生の演奏”は聞いた事は無いが、ビデオでは見ている。

こんな歌を聞きながら、楽譜がどうなっているのかは知らないが、自在にあやつるドラマーの演奏に感心した一曲ではあった。

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2024年12月24日 (火)

小澤征爾の「100年インタビュー」より

あれよあれよという間にもう年末である。
先日、いつも聞いている「カルチャーラジオ 保阪正康が語る昭和人物史」を聞いていたら、小澤征爾を特集していた。
その中で、2009年6月25日にBSで放送された「100年インタビュー 小澤征爾~西洋音楽と格闘した半世紀~」を取り上げていたが、指揮についての興味深い話だった。

<「保阪正康が語る昭和人物史~小澤征爾」2(2024/12/09放送)>

指揮者の小澤征爾は昭和34年フランスのブザンソン指揮者コンクールで優勝したあと、カラヤンやバーンスタインに学び、26歳でニューヨーク・フィルの副指揮者に就任。日本では山本直純とともに新日本フィルを立ち上げ、国内外で目覚ましい活躍をしていきます。平成21年6月にBSで放送された「100年インタビュー 西洋音楽と格闘した半世紀」では指揮者の役割とは何か、また人を育てることの大切さについて語っています。ここより)

<「保阪正康が語る昭和人物史~小澤征爾」3(2024/12/16放送)>

指揮者の小澤征爾は昭和48年、38歳の時にボストン交響楽団の音楽監督に就任し29年に及ぶ任期を務めました。その後平成14年67歳で東洋人初のウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任して、世界のオザワとして名声を広めていきました。平成21年6月にBSで放送された「100年インタビュー 西洋音楽と格闘した半世紀」では、音楽の真髄を追求する指揮者の勉強や、人間の感情を表現する音楽の方法について語っています。ここより)

小澤征爾が亡くなったのは今年の2月6日。当時自分も「小澤征爾さん死去~1972年の日フィルとの「復活」」(ここ)という記事を書いた。

上の12月9日の放送で、小澤さんが「運命」の冒頭の“ダダダダー”を例に、説明されていたが、自分も最も分かり易い例として、「運命」の冒頭が指揮者によって、また同じ指揮者でも時期によって、こんなにも違う!と、71の音源を集めて、記事を書いたことがあった(ここ)。
我ながら凝ったものだ。

年末といえば、上野の東京文化会館で大晦日に行われる「ベートーヴェンは凄い!全交響曲連続演奏」を思い出す。
自分も2012年と2013年の大晦日の2回行った(ここ)。翌日の2014年1月1日にお袋が亡くなったので、鮮明に覚えている。あれからもう11年も経ったが、それ以来行っていない。この名物コンサートも、今年は第22回だという。よくも続いているものだ。
本当は自分も、一年の総決算で毎年行きたいところだが、何せ片耳がダメなので、行かなくなってしまった。

年末といえば「第九」。それも最近は聞かなくなってしまった。
ふと、クラシック音楽で自分が一番よく聞いているのは何かな?と思い出してみると、いわゆる「ウラニアのエロイカ」だ。
他の演奏、たくさんの音楽の音源はあるが、なぜかこの演奏ばかり聞いている。
まさに小澤さんの言っていた、音符の奥にある何かが、自分にフィットしているのだろうと思う。

この放送を機に、今年亡くなった小澤征爾を思い出した年末ではある。

上の放送の1回目の「「わたしが子どもだったころ スペシャル 指揮者 小澤征爾」(2009年6月3日放送)からの番組も下に置いておきます。

<「保阪正康が語る昭和人物史~小澤征爾」1(2024/12/02放送)>

 

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2024年12月 3日 (火)

マイナ保険証のひも付け解除をせずに「資格確認書」を貰う手続きをした話

昨日の12月2日から、新規の紙の健康保険証の発行が停止され、TVではそれに伴う話題が多い。
自分もマイナンバーカードに健康保険証を紐付けしてあるが、都度マイナンバーカードを持ち歩きたくないので、健康保険証と同じ機能だという「資格確認書」をもらうつもりでいた。
なぜなら、今の保険証は月1回病院で確認して貰うことで済むが、マイナ保険証は受診の都度毎回認証させる必要があるし(ここ)、3回パスワードを間違えると、ロックがかかってしまい、市役所まで行って、解除をして貰う必要がある。つまり、いつも持って歩くことが求められる。
また、受入側の病院も、例えば近くの500床の大学病院でも、カードリーダーは4台だけだという。これから増強されるだろうが、現時点では1日千数百人の外来患者の全員に、建前としてカードリーダーに通せと言う。どうも現実的では無い。

それで、自分はカードと保険証の紐付けの解除をすると「資格確認書」が送られてくるというので、解除するつもりだった。
しかし、解除をしなくても「資格確認書」が貰えることが分かり、市のHPからダウンロードした申請書を書いて、さっき市役所に持って行ったら、何の問題も無く受け付けて貰え、「今持っている健康保険証の期限が切れる前に資格確認書が送られてくるので、それまでは今の保険証を使っていて下さい」と言われてチョン!
マイナ保険証はそのままなので、今後ずっとマイナカードでの受診もできるし、政府の言っているマイナ保険証のメリットも享受できる。そして日常は、今後「資格確認書」という名の今まで通りの「紙の保険証」で受診する事が出来ることになった。

厚労省の「資格確認書について(マイナ保険証を使わない場合の受診方法)」ここ)というページにこんな記述がある。

「当分の間、マイナ保険証を保有していない(マイナンバーカードの健康保険証利用登録をしていない)方全てに、現行の健康保険証の有効期限内に「資格確認書」が無償で申請によらず交付されます。

【交付対象者】
<申請によらず交付する方>
・マイナンバーカードを取得していない方
・マイナンバーカードを取得しているが、健康保険証利用登録を行っていない方
・マイナ保険証の利用登録解除を申請した方・登録解除者
・マイナンバーカードの電子証明書の有効期限切れの方
・令和6年12月2日以降に新たに後期高齢者医療制度に加入された方や、転居等により有効な後期高齢者医療被保険者証をお持ちでない方(令和7年7月末までの暫定措置)※

<申請により交付する方>
・マイナンバーカードでの受診等が困難な配慮が必要な方(ご高齢の方、障害をお持ちの方など)であって、資格確認書の交付を申請した方<更新時の申請は不要>
・マイナンバーカードを紛失・更新中の方」

つまり、「マイナ保険証の利用登録解除を申請した方・登録解除者」でなくても「マイナンバーカードでの受診等が困難な配慮が必要な方(ご高齢の方、障害をお持ちの方など)であって、資格確認書の交付を申請した方」であれば、登録解除をしなくても申請で「資格確認書」が送られてくるということ。

(前提として、実は大きな声では言えないが、我々夫婦は二人とも、病院で受診する際、物忘れが激しいので、暗証番号を正確に入れる自信が無いのであ~る!?)

カミさんは国民健康保険。自分は高齢者健康保険である。それぞれ手続きの申請書用紙が違う。

市(一例)の「国民健康保険」のHPを見た。するとこんな記述があった。
「国民健康保険 資格確認書交付申請について
 マイナ保険証を保有している方であっても、マイナンバーカードでの受診等が困難な要配慮者は、申請により資格確認書を交付します。

241203kokumin2 【申請できる方】
**市国民健康保険に加入中の74歳以下で以下のいずれかに該当する方
・マイナンバーカードを紛失したまたは更新中で、有効なマイナンバーカードが手元にない方
・マイナンバーカードを返納する予定である方
・介助者等の第三者が高齢者または障害者である被保険者本人に同行して本人の資格確認を補助する必要があるなど、マイナンバーカードでの受診が困難である方
・その他マイナンバーカードによるオンライン資格確認を受けることができない事情がある方」

そして「後期高齢者医療制度」では、
「マイナンバーカードの保険証利用について(後期高齢者医療制度)
241203koureisya2 ・・・
<資格確認書の交付申請について>
 マイナ保険証を保有している方であっても、マイナンバーカードでの受診等が困難な要配慮者(高齢者、障害者等)は申請により、令和7年7月中旬頃、資格確認書を郵送します。
 令和7年7月31日までは、現在お持ちの後期高齢者医療被保険者証をご利用ください。」

市役所で何か聞かれた時は、「忘れっぽくて」と言おうと思ったが、何も聞かれず、ただ自分のマイナンバーカードで本人確認をしただけ。
あっけなく終わってしまった。
カミさんのマイナカードも不要だった。

実は前段階として、昨日役所に聞いてみた。「物忘れが・・・」と言うと「申請書を出してくれれば資格確認書を発行できます」と言ってくれた。
他の件でも経験したことだが、役所はキチンとした書類が提出されると、いちいち疑ったり尋ねたりしない。提出された書類に基づき、淡々と処理するだけ。

ともあれ、これで我が家は実質紙の保険証である「資格確認書」が自動的に送られてくることになったし、何かあった時は、マイナカードでの医療情報の共有もOK。
カミさんには「もうこの手のニュースは見なくて良いから」と言ってある。

今後も従来通りの受診が出来る事になり、ホットした。やれやれ・・・

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