三浦洸一の「流転」
歌手の三浦洸一さんが亡くなったというニュースを見た。
「歌手・三浦洸一さん 死去 97歳 老衰のため 「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」などがヒット
「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」「踊子」などのヒット曲で知られる、歌手の三浦洸一さんが、1月11日、老衰のため亡くなっていたことが分かりました。97才でした。
日本歌手協会が公表しました。
日本歌手協会の広報文では、「日本歌手協会の会員でビクター専属の最古参歌手、昭和20年代から歌い続けた三浦洸一(みうらこういち、本名桑田利康・くわた としやす)さんが、令和7(2025)年1月11日午前6時23分、都内の病院で老衰のため亡くなりました。97才でした。」と、報告。
続けて「通夜および告別式は、1月18日、19日にご遺族のご意向により、家族葬にて執り行いましたことをここに謹んでご報告申し上げますとともに、長年にわたって賜りましたご芳情に対し厚く御礼申し上げます。戒名は宝洸院釋浄響居士。」と、記しました。
三浦さんは、昭和3(1928)年1月1日に神奈川県三浦市三崎の浄土真宗本願寺派最福寺の三男として誕生。
幼少期より祖父のもと読経を学びましたが、戦後、東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進み、声楽科卒業後に日本ビクターレコードに入社。
作曲家の𠮷田正氏に師事し、昭和28(1953)年5月『さすらいの恋唄』でデビュー。
同年9月発売の『落葉しぐれ』が大ヒットし、「𠮷田学校の長男坊」として歌謡界をリード。
昭和30(1955)年の『弁天小僧』、31(56)年の『東京の人』、さらに32(1957)年には渡久地政信作曲の『踊子』と大ヒット曲を連発させ、一世を風靡。
この時期には春日八郎、三橋美智也とともに「御三家」と呼ばれ注目を集めました。
昭和30年の「第6回紅白歌合戦」から昭和38(1963)年まで出場を続け、39(1964)年落選のときは、所属のビクターレコードが「三浦を落とすならビクターの歌手全員が辞退する」と言わしめるほどの大スターだったということです。
昭和40年代、「なつメロブーム」が訪れたときにも請われると出演し、平成時代までなつメロ番組には欠かせない人気歌手として名を馳せました。
日本歌手協会にも設立時から入会、平成16(2004)年まで理事や監事を永年つとめ、「歌謡祭」にも全27回出場。
ほかにも昭和58(1983)年には、タモリの『笑っていいとも!』(フジテレビ)にレギュラー出演、平成12(2000)年には「日本レコード大賞 功労賞」、令和3(2021)年には「日本歌手協会 功労賞」を受賞。
平成23(2011)年には歌手協会主催の『東日本大震災被災地支援チャリティーライブ』、翌24(2012)年の「靖國神社みたままつり 奉納特別公演」に出演。
三浦さんは、1年半ほど前から都内の病院に入院していたということです。」(ここより)
三浦洸一の歌は、自分も好きで、前にも幾つか挙げていたが、今日は「流転」を聞いてみよう。この歌はあまり有名ではないらしく、Netで検索しても歌詞が出て来ない・・・
<三浦洸一の「流転」>
「流転」
作詞:石浜恒夫
作曲:大野正雄
泣くんか 泣くもんか
夢にみました ふるさとは
遠くはなれて 思うもの
男生命はひとすじに
男 男 俺はきまゝな
あゝ流れ星
泣かなんだ 泣かなんだ
捨てて来ました ふるさとは
よるもさわるも 花いばら
男ごころの燃ゆるまゝ
男 男 胸に抱いた
あゝ夢ひとつ
泣けてくる 泣けてくる
山のむこうの ふるさとは
幸せすむと 人はいう
男流転のさすらいは
男 男 あすはいずこぞ
あゝ吹雪鳥
(コーラス ブライト・リズム・ボーイズ)
三浦洸一の歌で自分が好きだったのは、前に挙げた「恋しても愛さない」(ここ)、「青年の樹」(ここ)もあるが、やはり代表曲は「踊子」(ここ)。
この歌は親父も好きだった。何しろ声が良い。音楽大学の声楽科出身だけある??
先日挙げた小澤一家もそうだが(ここ)、やはり家庭での環境は子供に多大な影響を与えるもの。振り返ってみると、親父もお袋も歌が好きだったので、それが自分に伝わったのかも?
兄貴も好きだったが、弟は??良く分からない・・・
ともあれ、もうとっくに亡くなっていたと思っていた三浦洸一が(失礼!)、97歳の大往生を遂げたと聞いて、久しぶりにその歌声を懐かしく思い出した。
あと、昭和の大歌手でご存命なのはどなただろう?
やはり自分は昭和の人間なのであ~る・・・
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