2025年1月21日 (火)

三浦洸一の「流転」

歌手の三浦洸一さんが亡くなったというニュースを見た。

歌手・三浦洸一さん 死去 97歳 老衰のため 「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」などがヒット

「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」「踊子」などのヒット曲で知られる、歌手の三浦洸一さんが、1月11日、老衰のため亡くなっていたことが分かりました。97才でした。
日本歌手協会が公表しました。

250121miurakouichi 日本歌手協会の広報文では、「日本歌手協会の会員でビクター専属の最古参歌手、昭和20年代から歌い続けた三浦洸一(みうらこういち、本名桑田利康・くわた としやす)さんが、令和7(2025)年1月11日午前6時23分、都内の病院で老衰のため亡くなりました。97才でした。」と、報告。

続けて「通夜および告別式は、1月18日、19日にご遺族のご意向により、家族葬にて執り行いましたことをここに謹んでご報告申し上げますとともに、長年にわたって賜りましたご芳情に対し厚く御礼申し上げます。戒名は宝洸院釋浄響居士。」と、記しました。

三浦さんは、昭和3(1928)年1月1日に神奈川県三浦市三崎の浄土真宗本願寺派最福寺の三男として誕生。
幼少期より祖父のもと読経を学びましたが、戦後、東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進み、声楽科卒業後に日本ビクターレコードに入社。

作曲家の𠮷田正氏に師事し、昭和28(1953)年5月『さすらいの恋唄』でデビュー。
同年9月発売の『落葉しぐれ』が大ヒットし、「𠮷田学校の長男坊」として歌謡界をリード。
昭和30(1955)年の『弁天小僧』、31(56)年の『東京の人』、さらに32(1957)年には渡久地政信作曲の『踊子』と大ヒット曲を連発させ、一世を風靡。

この時期には春日八郎、三橋美智也とともに「御三家」と呼ばれ注目を集めました。

昭和30年の「第6回紅白歌合戦」から昭和38(1963)年まで出場を続け、39(1964)年落選のときは、所属のビクターレコードが「三浦を落とすならビクターの歌手全員が辞退する」と言わしめるほどの大スターだったということです。
昭和40年代、「なつメロブーム」が訪れたときにも請われると出演し、平成時代までなつメロ番組には欠かせない人気歌手として名を馳せました。
日本歌手協会にも設立時から入会、平成16(2004)年まで理事や監事を永年つとめ、「歌謡祭」にも全27回出場。

ほかにも昭和58(1983)年には、タモリの『笑っていいとも!』(フジテレビ)にレギュラー出演、平成12(2000)年には「日本レコード大賞 功労賞」、令和3(2021)年には「日本歌手協会 功労賞」を受賞。
平成23(2011)年には歌手協会主催の『東日本大震災被災地支援チャリティーライブ』、翌24(2012)年の「靖國神社みたままつり 奉納特別公演」に出演。

三浦さんは、1年半ほど前から都内の病院に入院していたということです。」(ここより)

三浦洸一の歌は、自分も好きで、前にも幾つか挙げていたが、今日は「流転」を聞いてみよう。この歌はあまり有名ではないらしく、Netで検索しても歌詞が出て来ない・・・

<三浦洸一の「流転」>

「流転」
  作詞:石浜恒夫
  作曲:大野正雄

泣くんか 泣くもんか
夢にみました ふるさとは
遠くはなれて 思うもの
男生命はひとすじに
男 男 俺はきまゝな
 あゝ流れ星

泣かなんだ 泣かなんだ
捨てて来ました ふるさとは
よるもさわるも 花いばら
男ごころの燃ゆるまゝ
男 男 胸に抱いた
 あゝ夢ひとつ

泣けてくる 泣けてくる
山のむこうの ふるさとは
幸せすむと 人はいう
男流転のさすらいは
男 男 あすはいずこぞ
 あゝ吹雪鳥
(コーラス ブライト・リズム・ボーイズ)

三浦洸一の歌で自分が好きだったのは、前に挙げた「恋しても愛さない」(ここ)、「青年の樹」(ここ)もあるが、やはり代表曲は「踊子」(ここ)。
この歌は親父も好きだった。何しろ声が良い。音楽大学の声楽科出身だけある??

先日挙げた小澤一家もそうだが(ここ)、やはり家庭での環境は子供に多大な影響を与えるもの。振り返ってみると、親父もお袋も歌が好きだったので、それが自分に伝わったのかも?
兄貴も好きだったが、弟は??良く分からない・・・

ともあれ、もうとっくに亡くなっていたと思っていた三浦洸一が(失礼!)、97歳の大往生を遂げたと聞いて、久しぶりにその歌声を懐かしく思い出した。
あと、昭和の大歌手でご存命なのはどなただろう?
やはり自分は昭和の人間なのであ~る・・・

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2025年1月19日 (日)

ウクライナ民謡「キャロル・オブ・ザ・ベル」

気になっていた曲の曲名が分かった。
先日、ニュースサイトを見ていて、バックに流れる音楽が耳に残った。
それで先日の記事(ここ)で「<付録:曲名を知りたい!>どなたか下記の曲名が分かったら教えて頂けますか?(ここより)自分でもこの音源を持っているような気もするが、曲名が出て来ない・・・」と書いたら、早速「デコスケさん」から返信を頂いた。

デコスケさんの返信(ここ)によると「曲名は「キャロル・オブ・ザ・ベル(carol of the bells)」ウクライナの民謡が元に作られたクリスマスソングらしいです。」とのこと。

Netで検索すると、色々な情報がヒットする。wikiにも載っていた。それによると、
「キャロル・オブ・ザ・ベル」(原題:Carol of the Bells)はウクライナの民謡を元に、マイコラ・レオントーヴィッチュが1914年に編曲したシュチェドルィック(英語版、ウクライナ語版)に、1936年にウクライナ人作曲家ピーター・J・ウィルウフスキーが英語の歌詞を付けたもの。曲はパブリックドメインとなっているが、詩はウィルウフスキーの著作権が保護されている。作曲から100年以上経った今日において、最もよく歌われるクリスマス・ソングの一つとなった。」
とのこと。

早速YouTubeで音源を検索すると色々とヒットした。
なるほど、かなり有名な曲らしい。同じタイトルの映画もあったらしい。

知りたかったオリジナルの音源はこれ。

YouTubeで上と同じ音源は見つからなかったが、気になった音源を幾つか採取してみた。

<John Williams - Carol of the Bells | Home Alone (Original Motion Picture Soundtrack)>

<Libera - Carol of the Bells>

<The St. Olaf Choir - Carol of the Bells (Ukrainian Bell Carol)>

<Shchedryk (Carol of the Bells) – Bel Canto Choir Vilnius>

そしてピアノ編曲バージョンもあった。
<Carol of the Bells (Christmas Piano Cover)>

これを聞いて、昔よく聞いたジョージ・ウィンストンのピアノ(ここ)を思い出した。良く似ている・・・

そして自分が持っているジョージ・ウィンストンの音源をチェックしてみたら、同じ曲が見付かった。
「ディセンバー」というアルバムに「Carol Of The Bells」という曲があった。

<ジョージ・ウィンストンの「Carol Of The Bells」>

これはジョージ・ウィンストンの編曲だが、まさに原曲は同じ。
やはり自分は音源を持っていた。しかし、ピアノ版を聞くまでジョージ・ウィンストンのアルバムにあるとは気が付かなかった。
いやはや面目ない!?

ところで、こんな聞いたことが無い海外の音楽の曲名がよくぞ分かったもの・・・!と感嘆していたら、「時流さん」から「音で曲検索は、Googleが結構有能です。この曲もPCで音出ししながらスマホを使って検索できました。」ここ)というコメントを頂き、さっそくGoogleを開くと、なるほど「♪」マークがある。これをたたくと見事曲名が表示された。

当方、iPadを買ってから、パソコンにはすっかりご無沙汰で、いつもiPadのsafariばかり使っていたので、Googleにこんな機能があるとは気が付かなかった。
Googleで画像の検索が出来ることは知っていたが、音源の検索も出来るとは・・・!

「デコスケさん」そして「時流」さん、この度はありがとうございました。
おかげさまで、気になった曲の源流に近付くことが出来ました。
改めてお礼を申し上げます。

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2025年1月17日 (金)

小澤幹夫氏(指揮者・小澤征爾の弟)の話「母の遺した我が家の歩み」

先日、NHKラジオ深夜便で「明日へのことば「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優・エッセイスト 小澤幹雄」(2025/01/08~09放送)を聞いた。
小澤征爾の若い頃の武勇談は有名だが、その家族の話であり、なかなか興味深かった。

<NHKラジオ深夜便「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優 小澤幹雄(1)>

<NHKラジオ深夜便「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優 小澤幹雄(2)>


小澤征爾の父親である小澤開作は、wikiによると「小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日-1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。妻・さくら(1907年-2002年)との間に四男をもうけた。長男・克己(1928年-1984年、享年56)は彫刻家、次男・俊夫はドイツ文学者、三男・征爾は指揮者、四男・幹雄は俳優。」とある。

何よりも驚くのは、この4兄弟が、別々の道でそれぞれの道を拓いているということ。
改めて書くと
長男・小澤克己(1928 (S3)年生まれ 1984年没 享年56) 彫刻家

次男・小澤俊夫小(おざわ としお、1930(S5)年4月16日-)は、日本のドイツ文学者、昔話研究者。筑波大学名誉教授。有限会社小澤昔ばなし研究所・社長。

三男:小澤征爾(おざわ せいじ、1935(S10)年9月1日-2024年(R6)2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間務め、2002年-2003年のシーズンから2009年-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

四男・小澤幹雄(おざわ みきお、1937(S12)年10月24日-)は、日本の俳優、エッセイスト。小澤征爾の実弟であり、兄・征爾に関する仕事が多い。

この話を聞きながら、改めて「家庭」「家族」「親と子」について考えさせられた。

親と子は、もちろん生物としての遺伝の要素もあるだろう。しかしそれ以上に、親の子に対するスタンスが大きい。
この家族では、母親の「いつも家庭に賛美歌がある」という雰囲気。そして子供からねだられもしないのに父親が自分の高級カメラを売って手に入れたピアノ。
それらの存在が音楽家小澤征爾を生んだのだろう。しかし、征爾以外の3兄弟は音楽以外の道で大成し、活躍した。
どうもこれは「子供のやりたい道を自由に」という親のスタンスにあったようだ。

言うまでもなく、江戸時代までは全てが世襲。子は親の仕事を覚え、そしてまた子に伝える。確かに社会の構造としてはバランスが維持される。しかし子の個性は無視される。
現代では、もちろん子は親の言うことなどは耳に入らない。でも良い意味での親の影響という面ではどうだろう?
ふと、自分に対する親の影響を振り返ってみた。もちろん自分は全てを勝手にやった。選ぶ学校も会社も・・・
しかしひとつだけ親父から言われたことを覚えている。
就職のとき、ある企業を選んだ自分に対して「電電公社(現NTT)が良いんじゃないか」。
もちろん無視したが、自分の進む道に対して、唯一のアドバイスだった。

自分の場合、親父とは生涯に亘ってとてつもない軋轢があったので、この事はいまだに覚えている。
しかし今考えると、子供が殴られて育った時代とはいえ、それを大人になっても引きずった自分はやり過ぎだったのかも・・・

我が家は男3人兄弟。3つ上の兄とはいつもパック。夕食の後は正座して一緒に「お説教」。対して5つ下の弟は可愛い「ちびちゃん」としていつも親父の膝の上。
弟だけは、たぶん親父から殴られた記憶など無いのでは??

小澤家のこんな話を聞きながら、ふと我が3兄弟と親父との関係を対比して思い出してしまった。色々な家族の風景ではある。

<付録:曲名を知りたい!>
どなたか下記の曲名が分かったら教えて頂けますか?(ここより)
自分でもこの音源を持っているような気もするが、曲名が出て来ない・・・

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2024年12月28日 (土)

石丸幹二の「ダンスはうまく踊れない」

先日、こんな歌を発見!?した。
石丸幹二の「ダンスはうまく踊れない (feat.塚越慎子)」という歌である。

<石丸幹二の「ダンスはうまく踊れない」>


「ダンスはうまく踊れない」
  作詞・作曲:井上陽水

ダンスは うまく 踊れない
あまり 夢中に なれなくて
ネコは 足もとで踊り
私 それを ながめている
夏の夜は すでに暗く蒼く
窓に見える 星の光近く
誰も来ないし 誰も知らない

ひとりきりでは ダンスはうまく踊れない
遠い なつかしい あの歌
私 夢色のドレス
あなた 限りない 笑顔で
足を前に 右に 後 左
風の様に 水の様に ふたり
時を 忘れて 時の間を
La La・・・・・・

今夜ひとりで ダンスをうまく踊りたい
丸いテーブルのまわりを
私 ナイトガウンのドレス
歌は なつかしい あの歌
部屋の中で 白い靴をはいて
ゆれる ゆれる 心 夢にゆれる
夜を忘れて 夜に向って
La La・・・・・・


言うまでも無く、この歌は井上陽水の作品であり、wikiによると「井上陽水の妻となる石川セリと付き合い始めの頃、気を引くために目の前で30分ほどで作ってプレゼントした曲」だという。

241228friends 1977年のその名曲を石丸幹二がカバーしたのがこの楽曲。
恥ずかしながら、実は自分は石丸幹二という「歌手」を知らなかった。しかし、Netでググってみてビックリ。その顔はいつもテレビのドラマで見慣れた顔・・・。
そもそも自分は俳優の名前もなかなか覚えられないし、覚えようともしていない。しかし顔だけは何とか覚えている・・・
石丸幹二の経歴を読むと、芸大の声楽科出身とのこと。いやはや本格的なプロだった!

この歌を聞いた時、なぜ自分にフィットしたかというと、その伴奏。編曲。
(feat.塚越慎子)とあるので、塚越慎子をググってみると、マリンバの世界的名手だという。

曲を聞いて分かる通り、縦横無尽に走り回るマリンバと、これも自由なドラムス。それをしっかりと支えるベース。それで楽曲が成り立っている。
この心が躍るようなリズム感は天才陽水の真骨頂だが、特に惹かれたのがドラムス。

前にも書いた記憶があるが、自分は音楽大好き人間だが、楽器の演奏はからきしダメ。子どもの頃のハーモニカがせいぜい??
その楽器の中で、最も惹かれているのがドラムス。
これは多分にピンク・フロイドの影響だと思う。
ピンク・フロイドのアルバム「ライヴ・アット・ポンペイ」の「吹けよ風、呼べよ嵐」を演奏するドラマーのニック・メイスン。
YOUTUBEにも(ここ)にアップされているが、この1972年の若き日のメイスンの演奏は、すごかった。途中持っていたスティックが飛ぶ・・・(下記の動画の4:46)

話は飛ぶが、実は小5の孫娘が、小学生の小編成のバンドでドラムスを担当しているとか。そして音楽教室でドラムスを習っているとか・・・
自分の憧れの楽器を小学生の孫娘が演奏している、というこの夢のような?話。
それも相当のレベルらしい。自分は何もしていないで、噂を聞くだけの存在だが、なにやら誇らしい気がする。
この孫の”生の演奏”は聞いた事は無いが、ビデオでは見ている。

こんな歌を聞きながら、楽譜がどうなっているのかは知らないが、自在にあやつるドラマーの演奏に感心した一曲ではあった。

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2024年12月24日 (火)

小澤征爾の「100年インタビュー」より

あれよあれよという間にもう年末である。
先日、いつも聞いている「カルチャーラジオ 保阪正康が語る昭和人物史」を聞いていたら、小澤征爾を特集していた。
その中で、2009年6月25日にBSで放送された「100年インタビュー 小澤征爾~西洋音楽と格闘した半世紀~」を取り上げていたが、指揮についての興味深い話だった。

<「保阪正康が語る昭和人物史~小澤征爾」2(2024/12/09放送)>

指揮者の小澤征爾は昭和34年フランスのブザンソン指揮者コンクールで優勝したあと、カラヤンやバーンスタインに学び、26歳でニューヨーク・フィルの副指揮者に就任。日本では山本直純とともに新日本フィルを立ち上げ、国内外で目覚ましい活躍をしていきます。平成21年6月にBSで放送された「100年インタビュー 西洋音楽と格闘した半世紀」では指揮者の役割とは何か、また人を育てることの大切さについて語っています。ここより)

<「保阪正康が語る昭和人物史~小澤征爾」3(2024/12/16放送)>

指揮者の小澤征爾は昭和48年、38歳の時にボストン交響楽団の音楽監督に就任し29年に及ぶ任期を務めました。その後平成14年67歳で東洋人初のウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任して、世界のオザワとして名声を広めていきました。平成21年6月にBSで放送された「100年インタビュー 西洋音楽と格闘した半世紀」では、音楽の真髄を追求する指揮者の勉強や、人間の感情を表現する音楽の方法について語っています。ここより)

小澤征爾が亡くなったのは今年の2月6日。当時自分も「小澤征爾さん死去~1972年の日フィルとの「復活」」(ここ)という記事を書いた。

上の12月9日の放送で、小澤さんが「運命」の冒頭の“ダダダダー”を例に、説明されていたが、自分も最も分かり易い例として、「運命」の冒頭が指揮者によって、また同じ指揮者でも時期によって、こんなにも違う!と、71の音源を集めて、記事を書いたことがあった(ここ)。
我ながら凝ったものだ。

年末といえば、上野の東京文化会館で大晦日に行われる「ベートーヴェンは凄い!全交響曲連続演奏」を思い出す。
自分も2012年と2013年の大晦日の2回行った(ここ)。翌日の2014年1月1日にお袋が亡くなったので、鮮明に覚えている。あれからもう11年も経ったが、それ以来行っていない。この名物コンサートも、今年は第22回だという。よくも続いているものだ。
本当は自分も、一年の総決算で毎年行きたいところだが、何せ片耳がダメなので、行かなくなってしまった。

年末といえば「第九」。それも最近は聞かなくなってしまった。
ふと、クラシック音楽で自分が一番よく聞いているのは何かな?と思い出してみると、いわゆる「ウラニアのエロイカ」だ。
他の演奏、たくさんの音楽の音源はあるが、なぜかこの演奏ばかり聞いている。
まさに小澤さんの言っていた、音符の奥にある何かが、自分にフィットしているのだろうと思う。

この放送を機に、今年亡くなった小澤征爾を思い出した年末ではある。

上の放送の1回目の「「わたしが子どもだったころ スペシャル 指揮者 小澤征爾」(2009年6月3日放送)からの番組も下に置いておきます。

<「保阪正康が語る昭和人物史~小澤征爾」1(2024/12/02放送)>

 

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2024年12月 3日 (火)

マイナ保険証のひも付け解除をせずに「資格確認書」を貰う手続きをした話

昨日の12月2日から、新規の紙の健康保険証の発行が停止され、TVではそれに伴う話題が多い。
自分もマイナンバーカードに健康保険証を紐付けしてあるが、都度マイナンバーカードを持ち歩きたくないので、健康保険証と同じ機能だという「資格確認書」をもらうつもりでいた。
なぜなら、今の保険証は月1回病院で確認して貰うことで済むが、マイナ保険証は受診の都度毎回認証させる必要があるし(ここ)、3回パスワードを間違えると、ロックがかかってしまい、市役所まで行って、解除をして貰う必要がある。つまり、いつも持って歩くことが求められる。
また、受入側の病院も、例えば近くの500床の大学病院でも、カードリーダーは4台だけだという。これから増強されるだろうが、現時点では1日千数百人の外来患者の全員に、建前としてカードリーダーに通せと言う。どうも現実的では無い。

それで、自分はカードと保険証の紐付けの解除をすると「資格確認書」が送られてくるというので、解除するつもりだった。
しかし、解除をしなくても「資格確認書」が貰えることが分かり、市のHPからダウンロードした申請書を書いて、さっき市役所に持って行ったら、何の問題も無く受け付けて貰え、「今持っている健康保険証の期限が切れる前に資格確認書が送られてくるので、それまでは今の保険証を使っていて下さい」と言われてチョン!
マイナ保険証はそのままなので、今後ずっとマイナカードでの受診もできるし、政府の言っているマイナ保険証のメリットも享受できる。そして日常は、今後「資格確認書」という名の今まで通りの「紙の保険証」で受診する事が出来ることになった。

厚労省の「資格確認書について(マイナ保険証を使わない場合の受診方法)」ここ)というページにこんな記述がある。

「当分の間、マイナ保険証を保有していない(マイナンバーカードの健康保険証利用登録をしていない)方全てに、現行の健康保険証の有効期限内に「資格確認書」が無償で申請によらず交付されます。

【交付対象者】
<申請によらず交付する方>
・マイナンバーカードを取得していない方
・マイナンバーカードを取得しているが、健康保険証利用登録を行っていない方
・マイナ保険証の利用登録解除を申請した方・登録解除者
・マイナンバーカードの電子証明書の有効期限切れの方
・令和6年12月2日以降に新たに後期高齢者医療制度に加入された方や、転居等により有効な後期高齢者医療被保険者証をお持ちでない方(令和7年7月末までの暫定措置)※

<申請により交付する方>
・マイナンバーカードでの受診等が困難な配慮が必要な方(ご高齢の方、障害をお持ちの方など)であって、資格確認書の交付を申請した方<更新時の申請は不要>
・マイナンバーカードを紛失・更新中の方」

つまり、「マイナ保険証の利用登録解除を申請した方・登録解除者」でなくても「マイナンバーカードでの受診等が困難な配慮が必要な方(ご高齢の方、障害をお持ちの方など)であって、資格確認書の交付を申請した方」であれば、登録解除をしなくても申請で「資格確認書」が送られてくるということ。

(前提として、実は大きな声では言えないが、我々夫婦は二人とも、病院で受診する際、物忘れが激しいので、暗証番号を正確に入れる自信が無いのであ~る!?)

カミさんは国民健康保険。自分は高齢者健康保険である。それぞれ手続きの申請書用紙が違う。

市(一例)の「国民健康保険」のHPを見た。するとこんな記述があった。
「国民健康保険 資格確認書交付申請について
 マイナ保険証を保有している方であっても、マイナンバーカードでの受診等が困難な要配慮者は、申請により資格確認書を交付します。

241203kokumin2 【申請できる方】
**市国民健康保険に加入中の74歳以下で以下のいずれかに該当する方
・マイナンバーカードを紛失したまたは更新中で、有効なマイナンバーカードが手元にない方
・マイナンバーカードを返納する予定である方
・介助者等の第三者が高齢者または障害者である被保険者本人に同行して本人の資格確認を補助する必要があるなど、マイナンバーカードでの受診が困難である方
・その他マイナンバーカードによるオンライン資格確認を受けることができない事情がある方」

そして「後期高齢者医療制度」では、
「マイナンバーカードの保険証利用について(後期高齢者医療制度)
241203koureisya2 ・・・
<資格確認書の交付申請について>
 マイナ保険証を保有している方であっても、マイナンバーカードでの受診等が困難な要配慮者(高齢者、障害者等)は申請により、令和7年7月中旬頃、資格確認書を郵送します。
 令和7年7月31日までは、現在お持ちの後期高齢者医療被保険者証をご利用ください。」

市役所で何か聞かれた時は、「忘れっぽくて」と言おうと思ったが、何も聞かれず、ただ自分のマイナンバーカードで本人確認をしただけ。
あっけなく終わってしまった。
カミさんのマイナカードも不要だった。

実は前段階として、昨日役所に聞いてみた。「物忘れが・・・」と言うと「申請書を出してくれれば資格確認書を発行できます」と言ってくれた。
他の件でも経験したことだが、役所はキチンとした書類が提出されると、いちいち疑ったり尋ねたりしない。提出された書類に基づき、淡々と処理するだけ。

ともあれ、これで我が家は実質紙の保険証である「資格確認書」が自動的に送られてくることになったし、何かあった時は、マイナカードでの医療情報の共有もOK。
カミさんには「もうこの手のニュースは見なくて良いから」と言ってある。

今後も従来通りの受診が出来る事になり、ホットした。やれやれ・・・

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2024年11月29日 (金)

「欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか」

いつもヒマさえあれば覗いている「Yahoo!ニュース」。
今朝も覗いていたら「マイナ保険証利用の患者、電子カルテを病院間で共有へ…病歴や検査結果も把握可能に」ここ)という記事があった。

241129netakiri やれやれ、やっと導入か・・・と思った。
今のマイナンバーカードのシステムでは、1ヶ月経たないと最新情報は得られないという。緊急の時などに医師が知りたいのは、今現在の患者の情報。よって、たぶん利用する病院は皆無だろう。
しかし改善が進み、今回の「電子カルテ情報共有サービス」なるものがリアルタイムで稼働することになると世界は変わる。
思い出すと、2年ほど前に近くの大学病院で心臓のカテーテル手術を受けたが、その時の履歴の聞き取りは細かかった。薬手帳はもとより、アレルギーの状態やあらゆる過去の病歴を聴取された。それらが今後、カルテで即時に確認できれば、患者にとっても安心。

おっと、ここからが本題。
上の記事の下部に、関連記事として「欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか」という文字が目に付き、たたいてみた。すると2012年6月20日付けの10年以上前の記事だが、なかなか唸る記事が載っていた。曰く・・・

欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか
 ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています。他の国ではどうなのかと思い、学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと、「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない」とのことでした。一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。
 不思議でした。日本の医療水準は決して低くありません。むしろ優れているといっても良いくらいです。

 「なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?」
 答えはスウェーデンで見つかりました。今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。
 その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
 ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。

欧米が良いのか、日本か
 さて、欧米が良いのか、日本が良いのかは、わかりません。しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ません。
 家内と私は「将来、原因がなんであれ、終末期になり、口から食べられなくなったとき、胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は一切希望しない」を書面にして、かつ、子供達にも、その旨しっかり伝えています。(宮本顕二)」ここより)

自分終末期については、当blogにも過去何度も書いてきた。
結論はいつも同じ。延命治療はしない。

よく言われるように、日本の病院は延命が使命。何が何でも延命のための処置をする。
脳溢血で倒れた時、救急車を簡単に呼ばないで!ともよく言われる。救急車、及び運び込まれた病院では、何が何でも延命をするのが仕事だから。

年末が近くなってきて、欠礼ハガキが届くようになってきた。世代的に、どれも90歳を超えて亡くなったと思われる。しかしどのような状態で亡くなったかは分からない。
自身を考える。
90歳を超えても、なおベッド縛られて命を長らえることに何の意味があるのかと、改めて思う。
やはり人生は、自分のちゃんとした意識があるうちが自分の人世では?
意識が無くなって、ただただ心臓が動いている植物人間の状態は、もはや自分の人生ではない。つまり、上の記事の欧米の考え方に心から賛同してしまう。
まだ喜寿なのでもう少し人生を楽しみたいとは思う。しかし、いつかは「もういいか」と思える時期が来る。その時、突然「ウッ!」と心臓が止まることを期待しているのだが・・・

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2024年11月19日 (火)

北原ミレイの「白い花」

だいぶん前だが、近くの道の駅で駐車の順番を待っている時、カーステレオから流れてきた歌に「オッ!これは・・・!」と思った。

家に帰って調べてみると、その歌は北原ミレイの「白い花」だった。そして自分もその音源を持っていた。前に録音していた音源も、久しぶりに聞くと、改めて“見直す”こともあるのだ。

<北原ミレイの「白い花」>


「白い花」
  作詞・作曲:山崎ハコ

私の目の前の白い花
人目にもつかず 咲いているけれど
幸せそうに ほほえんで
香りを漂わせる
できることなら この指で
お前を摘んでしまいたい
あの人の心に 誇らしく
咲いてる お前を

白い花びら はにかんで
とてもきれいに見えるわ
お前のように 咲きたかった
あの人の心の中に
ひそかに きれいに咲くがいい
美しい白い花よ
あの人といっしょに生きて行け
あの人をなぐさめながら

お前をみつめて 生きて行く
私の気持ち知らないで
私にやさしいほほえみを
かえす 白い花
ひそかにきれいに 咲くがいい
ほほえむ 白い花よ
あの人といつまでも生きて行け
あの人をなぐさめながら

241119shiroihana この歌は、ちょうど15年前にも「山崎ハコの「白い花」と「こころの花」」というタイトルで挙げている(ここ)。
山崎ハコ盤が1976年5月の発売というから、この北原ミレイ盤の1976年12月発売は、オリジナルの半年後の発売ということになる。
JASRACのデータベースを見ると他に研ナオコが歌っているようだ。

山崎ハコ盤はギターの伴奏だが、この北原ミレイ盤は、オーケストラ。
自分はギターの伴奏は基本的に好きだが、この歌については、この北原ミレイ盤の編曲が好ましい。
竜崎孝路の編曲。どうと言うことの無い編曲だが、何か自然で心に沁みる。
また歌い方が、山崎ハコ盤は厳しいが、この北原ミレイ盤は自然な歌い方。
単純なメロディーではあるが、なぜか心に残る北原ミレイの「白い花」ではある。

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