2026年10月 2日 (金)

金田一秀穂の「謎解きうたことば」~橋本淳、なかにし礼

「謎解きうたことば」とは、「NHKラジオ深夜便」の不定期・特集コーナーで、日本語学者の金田一秀穂さんが、時代を彩る作詞家やアーティストなどのゲストとともに、制作秘話や歌に込めた思いを語る番組で、2017~2024年度に放送されたものだという。(ここ)

先日、深夜便アーカイブス【作詞家・橋本淳さんをしのんで】「謎解きうたことば アンコール」が放送されたが、聞いていて、まさに自分の音楽人世そのものをたどっているようで、録っておきたいと思ったので、下記に挙げてみる。

<金田一秀穂の「謎解きうたことば」橋本淳(前編)>(2017/09/25放送:2026/09/23再放送)


<金田一秀穂の「謎解きうたことば」橋本淳(後編)>(2017/11/27放送:2026/09/24再放送)


橋本淳さんの話は、「ラジオ深夜便で、作詞家 橋本淳の話を聞く」(ここ)という記事で、「NHKラジオ深夜便「明日へのことば『亡き筒美さんの曲を後世に残すために』作詞家 橋本淳」を前に挙げている。
そして、2026年5月21日に亡くなったとき、「菅原洋一の「愛のフィナーレ」~92歳で逝去」(ここ)という記事でその事に触れたことがある。

改めて、その時の記事を下記してみる。
「「作詞家の橋本淳さんが肝硬変で死去、86歳 ブルー・ライト・ヨコハマなど昭和の音楽界をけん引

 「ブルー・ライト・ヨコハマ」などを手がけ、昭和の音楽界をけん引した作詞家橋本淳(はしもと・じゅん)さん(本名与田準介=よだ・じゅんすけ)が2026年5月21日午前8時25分、肝硬変のため東京都港区の病院で死去した。86歳。東京都出身。告別式は近親者で行った。喪主は長男で、MISIAらを手がけた音楽プロデューサー与田春生(よだ・はるお)さん。
 与田さんは日刊スポーツの取材に応じ、橋本さんの近況を説明した。昨年4月に肝臓がんが判明。治療の結果、体調は回復したが肝硬変となり、年明けから入退院を繰り返した。死去の前日には妻や親族らと楽しいひと時を過ごしたという。人柄について「頑固で偏屈な昭和のオヤジです。でもとても話が上手で面白い。その温かい人柄もあって友人に恵まれた人生でした」としのんだ。

 橋本さんは父親が児童文学者(童謡「ことりのうた」を作詞の与田準一さん)だった影響もあって小説家を目指していたが、青学大在学中に作曲家すぎやまこういちさんと知り合い、独学で作詞を始めた。

 1966年(昭41)に藤浩一らが歌った「黄色いレモン」以降は青学高・大学の1年後輩だった作曲家筒美京平さんとのコンビでヒット曲を連発。いしだあゆみ「ブルー・ライト-」のほか、野口五郎「青いリンゴ」、郷ひろみ「あなたがいたから僕がいた」、小泉今日子「半分少女」などを世に送り出した。

 グループサウンズの代表的作家としても知られ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ「ブルー・シャトウ」は67年の日本レコード大賞に輝いた。

 時代に寄りそうヒットメーカーとして走り続け、アイドルソングからアニメ主題歌まで幅広いジャンルの約2000曲を作った。」

橋本淳さんの作品についての自分の思い出話は、上の記事で何度か書いたので、ここでは繰り返さない。

それと、HDDに記録していた昔のラジオ深夜便のmp3ファイルを検索していたら、同じ番組で、なかにし礼さんへのインタビューの番組が見付かったので、ついでに挙げておきたい。
後編は、前に書いた「なかにし礼の満州引き揚げの歌「恋のハレルヤ」「人形の家」」(ここ)という記事で挙げていたが、今回前編も見付かったので、一緒に挙げておく。

<金田一秀穂の「謎解きうたことば」なかにし礼(前編)>(2018/01/29放送)


<金田一秀穂の「謎解きうたことば」なかにし礼(後編)>(2018/03/26放送)

当サイトでは、同じシリーズとして小椋佳がゲストの時の放送も「82歳小椋佳の話「小椋佳的生き方」」(ここ)として挙げている。
いずれのお話も、学生時代以来の自分の音楽人世を思い出させるもの。

しかし、このコーナーは既に終わってしまっているらしいが、金田一秀穂さんは現在73歳。まだまだお若い。
氏の別のコーナー、ラジオ深夜便「くらしの中のことば」は、「「子供が使ってはいけない敬語」~金田一秀穂氏の愉快な話」(ここ)として、当サイトにも挙げたことがある。
どれもお話がうまい金田一秀穂さんの話。

また氏のお話を聞きたいものである。

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2026年9月29日 (火)

NHK「保阪正康が語る昭和人物史」作家 宇野千代と朝ドラ「ブラッサム」

NHKの朝ドラ「ブラッサム」が始まった。まだ2回目だが、なかなか面白そうだ。
250428hosaka_20260929173801 モデルは作家の宇野千代だという。
それにちなんでか、自分が愛聴しているNHK「保阪正康が語る昭和人物史」で、宇野千代が取り上げられていた。
宇野千代の話がなかなか豪快で、面白いので挙げてみる。

<「保阪正康が語る昭和人物史」作家 宇野千代①>(2026年9月5日放送)

作家・宇野千代は明治30年(1897年)山口県岩国市生まれ。明治・大正・昭和・平成と約1世紀を生き抜きました。大正3年高等女学校卒業後、17歳で地元の尋常小学校の代用教員になりますが、そこで「色の白い先生」に恋をします。その後ソウルに渡るものの、再びその先生に会いに行き...。昭和63年1月ラジオ第1放送の「わが故郷わが青春」では、実家の暮らしや恋の顛末、東京に出て働き始めたころを率直に語っています。(ここより)

<「保阪正康が語る昭和人物史」作家 宇野千代②>(2026年9月12日放送)

東京の西洋料理店で働き始めた宇野千代は、そこで当時の文学者と接し、自らも小説を書き始め、「ものを書くことで金が儲かる」ことを知ります。そして新聞の懸賞小説に応募し、一等に!しかも二等だった作家・尾崎士郎と出会い、一目惚れし、一緒に暮らし始めます。昭和57年8月ラジオ第2放送の「わが文学わが回想」では、人に好かれる尾崎士郎の印象や思い出、その背景にある自らの父親の「酷薄な性格」を大胆に語っています。

<「保阪正康が語る昭和人物史」作家 宇野千代③>(2026年9月19日放送)

作家・宇野千代は、大森海岸でのある出来事をきっかけに尾崎士郎と別れます。次に出会ったのは人気画家の東郷青児!しかも「ガス心中した男の気持ちを知りたい」と訪ね、そのまま一緒に暮らし始め、人気作「色ざんげ」を書くのです。昭和57年8月ラジオ第2放送の「わが文学わが回想」では、尾崎士郎との別れ、東郷青児との出会い、「追っかけていかない。別れてあげる」という恋愛観や、文学の定義を自信をもって語っています。

<「保阪正康が語る昭和人物史」作家 宇野千代④>(2026年9月26日放送)

作家・宇野千代は画家・東郷青児と別れた後、10歳年下の北原武夫と出会い。女性ファッション誌「スタイル」を創刊。表紙に藤田嗣治の絵を使った斬新なものでした。そして北原武夫と、生涯4度目となる結婚をし、戦後別れます・平成2年1月FM放送の「宇野千代 92歳の青春」では、エッセイスト・神津ナンナのインタビューに対し、「人を信じる。信じた通りになる」など数々の名言とともに、人生を振り返っています。(ここより)

NHKの朝ドラは、いつも視聴率が抜群。たぶん多くの人は習慣で見ているのだろう。
12年前に亡くなったお袋も、毎日見ていた。どこまで物語に付いて行ったかは分からないが、ウトウトしながらも見ていた。
自分は、習慣では見ない。でも最近では「あんぱん」「ばけばけ」「風、薫る」は見た。
先日まで放送されていた「風、薫る」は、正直面白くなかった。特に主人公の女優さんが苦手だった。でも何となく見てしまった。
いつもは見始めても「虎に翼」のように、自分にフィットしないのは、途中で「やめた!」と宣言して、見るのを止めるのだが・・・

それにしても、どの朝ドラも、テーマソングのナウいこと。いわゆるJポップなのだろうが、老人には付いて行けない。特に朝ドラは、老人の視聴率が高いので、もう少し「旋律のある」静かな歌だと良いのだが・・・

でもまあ今回の宇野千代の人生。上に挙げた本人の話のように、まさにナウい生涯だったわけだが、それがどうチョイスされた物語になるのか、まあ習慣で見てみようか・・・

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2026年9月15日 (火)

三原綱木さんが亡くなった~ブルー・コメッツ「黒いレースの女」

今日、三原綱木さんが亡くなったというニュースが流れた。

「三原綱木さん死去 80歳 腎臓がん NHK紅白歌合戦で指揮 「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」ギタリスト
 グループサウンズの「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のギタリストで、NHK「紅白歌合戦」の指揮も務めた三原綱木(みはら・つなき)さんが11日午前9時2分、腎臓がんのため東京都内の病院で死去した。80歳だった。所属事務所の坂本エンターテインメントが発表した。
260915mihara  所属事務所によると、三原さんは今年春頃に腎臓がんが発覚し、4月から入院。かなり進行した状態で、転移もあったという。適切な治療が行われたが、最期は家族にみとられながら息を引き取った。葬儀は既に家族葬で済ませた。最後の仕事は、3月に大阪で出演したコンサートだった。

 東京都出身。小学4年の時からクラシックギターを習い、高校生のときからジャズバンドで活躍。バンド「ファイヤーボール」で活動後、1964年にブルー・コメッツに加入し、ギタリストとして活躍した。67年の「ブルー・シャトウ」が日本レコード大賞を受賞した。

 ブルー・コメッツ解散後は郷ひろみバンドのリーダーやフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」のオーケストラ指揮を担当。1986年から「三原綱木とザ・ニューブリード」を率い、NHK「紅白歌合戦」「歌謡コンサート」などでバンドマスターとして長年活躍してきた。

 ブルー・コメッツは2001年に活動を再開。2020年にリーダーのジャッキー吉川さんが死去した際、三原さんは「別れは悲しいが、きっと天国でドラムをたたいてくれると思います。僕はまだまだこっちでギターを弾きますが、いずれ向こうへ行ったら再会して、一緒に演奏したい」とコメントしていた。」(2026/09/15付「スポーツ報知」ここより)

自分が学生時代に良く聞いた音楽の作者が次々と亡くなっていく。
まあ仕方が無いことではあるが、いつものように、故人にちなむ楽曲を挙げてみる。
ブルー・コメッツの歌で、今回は「黒いレースの女」である。

<ブルー・コメッツの「黒いレースの女」>

「黒いレースの女」
  作詞:橋本淳
  作曲:小田啓義

黒いレースを 編みながら
あなたは秘かに あの人を
つれない人を 慕っているんだね

黒いレースを 織りながら
どうして涙を 流すのさ
つれない人を 求めているんだね

とじた瞳に愛のかげ(愛、愛)
抱きしめたいな 可愛いすがた

結んだ小指に 恋のかげ(恋、恋)
乱れた髪を なおしておいでね

黒いレースを 編みながら
あなたはひそかに 祈ってる
つれない人の 幸せだけを

この歌は前に挙げた「雨の赤坂」(ここ)のB面に入っていた曲なので、メジャーではない。
まさに歌謡曲。ブルー・コメッツのこんな楽曲も自分は好きだった。

年月が経ち、ブルコメのメンバーの訃報が続く。残っているのは、上の曲の作曲者の小田啓義だけだという。
こんな歌を聞くと、学生時代の下宿を思い出す。ヘッドホンで何度聞いたことか・・・

ブルコメの多くの曲の作詞を担当した橋本淳もこの5月に亡くなった。(ここ)

昔よく聞いた音楽。次に誰の訃報を聞くかは知らないが、せめて、亡くなった人にちなむ音楽を聞いて、それぞれの方の冥福を祈ることにしたい。

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2026年9月 1日 (火)

映画「時には懺悔を」を観た

映画「時には懺悔を」を観た。これがなかなか良かった。
映画館に行ったのは2023年の「ゴジラ-1.0」以来3年ぶりのこと。
先日、近くに出来た「イオン八王子滝山」に行ってみたが(ここ)、もう映画以外では行かないな、との場所だったが、その時にカミさんがもらったチラシを見て、「時には懺悔を」(ここ)を見たい。8月28日の封切りが待ち遠しいと言う。
まあ、1度くらいは・・・とのことで、今日見に行ってきた。案の定、ガラガラで観客は10人だった。

それが、なかなかの作品だった。しかしテーマが重い。
チラシの「STORY」にはこうある。
「STORY
260901tokinihazannge 探偵が一人、殺された。
「死んだほうがマシな人間」と呼ばれた男・米本(佐藤二朗)。
調査することになったのは、元同僚の一匹狼・佐竹(西島秀俊)と、助手で修業中の聡子(満島ひかり)。調べを進めるうちに、二人は9年前に起こった誘拐事件にたどり着く-。殺された米本が死の間際に調査していたのは、9年前に失踪し今は父親の明野(宮藤官九郎)と二人で暮らす、重い障がいのある少年・新(しんすけ)。過去に傷つき、誰かを傷つけ、孤独に彷徨う大人たちが出会った「新」という小さな命。
家族から目を背けた男、娘に捨てられた女、子を生きる糧にした男、産んだ子を愛せなかった女。「生きているのが奇跡」と言われたそのひとつの小さな命が、逃げ場のない現実にもがき苦しむ大人たちの心を動かしていく。」

とにかくテーマが重い。
パンフレットの「INTRODUCTION」にはこんな解説。
「物語は、一人の探偵が殺された事件から始まる。その真相を探る中でたどり着いたのは、9年前の誘拐事件で連れ去られた、重い障がいのある少年・新。過去に傷つき、絶望の淵に生きる大人たちが、今を必死に生きる一筋の小さな命に触れたとき、凍りついた大人たちの心がかつてないほど激しく揺れ動くー。「生きているのが育跡」と言われた小さな命を巡り、本作は、障がい、介護、孤独といった現代の深淵を見つめながらも、そこに溢れる「惜しみない愛」と「生きる希望」を描き出す。

親であること。親になること。目を背けたいもの。目を逸らしてはならないもの。

人は間違える。狙した罪は消えない。それでも、どんな命にも、生まれてきた喜びがあると信じたい。あなたは一人ではない。そんな祈りにも似た想いに、この映画は耳を傾ける。」

二分脊椎症と水頭症という障がいを持って生まれた子ども、それを24時間介護で支える母親。現実から目をそむける夫。
そして誘拐されても、追おうとしない母親の現実。しかしその命が大人たちの心を揺さぶっていく。

何よりもこの映画は「スペシャルニーズ」と称する3人の実際の障害児が俳優として登場するのが珍しい。障害児が画像に現れるのは、TVドキュメンタリーがせいぜいで、映画ではあまり見たことが無い。
それだけにリアル。
チラシで「あなたが、人生で出会ったことがない映画」と謳うが、なるほどと思う。
そして劇中のセリフ「この子は生まれてこないほうが幸せでした」と親や周囲は思う。
それが現実。

原作の小説「時には懺悔を」の作者・打海文三は執筆した経緯について「二分脊椎症と水頭症を抱えて生まれた打海の次男について、小説にすることをその編集者が提案し、「妻が嫌だと言わなければ」という条件つきで打海が応じたのだという。編集者は、病院で「それほど長くは生きられないだろう」といわれた次男の生きようとする力、両親の介護の苦労などを打海の自宅で目の当たりにして「小説にしなければと考えた」としている。」(ここより)

それと出演している俳優陣が素晴らしい。
主役の西島秀俊や満島ひかりはもちろん、主役を演じられる名俳優が集結して出来た映画。
ひょんな事でみた映画だが、なかなかのものだった。

合わせて、自分の人世を振り返り、あまり困難を抱えることもなく、これまで過ごせたのは、ラッキー以外の何物でも無いこと、と思った。

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2026年8月10日 (月)

「立花隆 がん 生と死の謎に挑む」を見て、読んだ

先日、「保阪正康が語る昭和人物史」の放送でジャーナリスト 立花隆の話を聞いたが(ここ)、それをきっかけに「立花隆 がん 生と死の謎に挑む」という単行本を入手し、付録のDVDで「NHKスペシャル 立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」(2009/11/23放送)を見た。

そしてその単行本も読んだ。その結果、「宝の山」を掘り当てたような気になってしまった。
260810tachibana1 何よりもNHKスペシャルの番組が素晴らしい。それがDVDとしてこの本の付録に付いている。
この本は2010/12/15発売というから、もう16年も前の話。でも番組も含め、今でも決して古くない。
なぜ古くないか?
この番組で紹介されているが、手強いがんの攻略は、そう数年や数十年単位ではとても出来ない現実があるから。

260810tachibanadvd まずこの番組だが、配信もしていないので、見るにはこのDVDを入手するしか無い。(なお、文庫本にはDVDは付いていない。単行本もDVDが付いていない中古本が多い)
本は、前半はこの番組の苦労話が主。少々くどい。あくまで番組を見てから読まないと、解説が分からない。
そして後半は、「文藝春秋」2008年4~7月号の「僕はがんを手術した」という、2007年の膀胱がん手術の体験ドキュメント。
これは面白くて一気に読んだ。

立花隆は、73分のNHKspだけでは言い足りないため、その補足としてこの単行本を書き、BSでも詳細版を放送したという。
それがNHK BS1で2009年12月27日から29日に放送された次の3番組。
「立花隆思索紀行人類はがんを克服できるのか①”がん戦争"100年の苦闘」
「立花隆思索紀行人類はがんを克服できるのか②生命の進化ががんを生んだ」
「立花隆思索紀行人類はがんを克服できるのか③生と死を越えて」

これも見たいのだが、調べてみると、今となっては見る手段は残念ながら皆無。

さて、本題だが、自分がこの番組と本で分かったことは、がんは非常に手強い相手であり、たぶん永久に撲滅は無理だということ。そして1/2の人ががんに罹り、1/3の人ががんで死ぬ現実があるので、がんとはどう折り合いを付けていくのかの話だということ。

本を読みながら付箋を付けたので、その部分を長々とコピペしてみる。

「このような問題は、がんの「薬剤耐性の問題」と呼ばれていて、がん研究でいま最もホットな領域になっています。要するに、抗がん剤は次から次へ新しいものが登場してくるのですが、使いはじめてしばらく時間がたつと、がん細胞は、その抗がん剤に対する薬剤耐性を獲得して、その薬が効かなくなってしまうのです。
この薬剤耐性の問題が片づかない限り、抗がん剤の世界は、新薬が次々に登場しても、薬剤耐性との間で、永遠のイタチごっこを繰り広げることになりそうだというのです。
なぜそれほど薬剤耐性の問題は解決が困難なのかというと、遺伝子が本質的に変異を起す能力を持っているからです。その能力によってすべての生命体は進化してきたということがあります。つまり変異を起す能力というのは生命体の本質みたいなところがあるのですが、この薬剤耐性の問題の根底にそれがあるのです。新薬を開発しても、すぐにがんのほうで変異を起して、新しい薬剤耐性能力を獲得してしまうのです。
別の表現を使えば、新しい薬に出会うと、がんはその薬の効果を消すような方向に進化していってしまうということなのです。新しい薬物とがん細胞の出会いにかかわる遺伝子の一つ一つに変異の可能性があります。かかわる遺伝子が多ければ多いほど新しい変異が生まれて、薬物の攻撃に対する新しい防御方法を獲得していってしまう可能性があるのです。」(p35)

「人間の体は、すべて新陳代謝していきます。六十兆の細胞がみな新しい細胞に置き換わることを日々につづけていく(すべての人において毎日平均数千億の細胞が新しい細胞に置き換っている)から、人間は生きているのです。細胞はみな細胞分裂によって新しい細胞になっていきます。それをおさえようとするのが抗がん剤ですから、抗がん剤は、人体のすべての細胞のナチュラルな働きを止めようとする薬だともいえるわけです。いってみれば、抗がん剤は生命の自然な働きに反する薬なのです。だからつらい副作用がいろいろ出てしまうのです。
人体の細胞の中にも、新陳代謝のスピードの速い遅いがあります。新陳代謝のスピードが速いところは、細胞分裂がそれだけ活発なところです。抗がん剤は細胞分裂が活発ながん細胞に働きかけてその細胞分裂を止めようとします。すると、がん細胞以外の、もともと細胞分裂が活発なところにもその働きかけが及んで、そこの細胞分裂を止めようとします。抗がん剤の副作用の第ーが頭がハゲることになるのは、そのためです。毛根は体の中で細胞分裂が激しいところだからです。副作用の第二は気持が悪くなり、吐き気がしたり、食欲がなくなったりすることです。これは胃腸など消化器の粘膜部分が体の中で最も新陳代謝が激しいところだからです。胃腸の粘膜は、数日の間に全部入れかわるほど、新陳代謝が激しい(細胞分裂がさかんな)ところなのです。
実はそのように細胞分裂がさかんに行われている場所は同時にがんができやすい場所でもあります。がんとは細胞分裂システムが狂うことですから、そのように、細胞分裂が常日頃から激しく行われている場所こそ狂いが生じやすいのです。」(p64)

「がんには、肉の部分にできる肉腫、骨の部分にできる骨腫などもあります。しかし、圧倒的に多い(八割以上)のは、胃がんでも、大腸がんでも、肺がん、食道がん、勝胱がん、乳がんでも上皮がんです。がんを漢字で「癌」と書くことがありますが、「がん」と「癌」を専門家がどう使いわけているかといえば、「癌」はカルチノーマ(上皮がん)たるがんに用い、「がん」はすべてのがんに用いるというのが一般的な使いわけです。それくらいカルチノーマが一般的なのです。
なぜ圧倒的にカルチノーマが多いのかというと、人間の体で最も新陳代謝が激しいのは、体内の粘膜部分だからです。表皮の部分も新陳代謝は激しいのですが、もっともっと激しいのが体内の上皮です。表皮の新陳代謝は、風呂に入って石鹸で体をこすると、アカになってこそげ落ちてゆくので自分ですぐにわかりますが、体内上皮の新陳代謝されたものは、大便小便の中に入って排泄されてしまうので、普通の人はなかなか気がつきません。体内の上皮のいちばん大きな部分は胃腸の内皮で、それは全部広げると実に四百平方メートルにも及びます。表皮の総面積よりはるかに広いのです。それが二日に一回ペロリとむけて排泄されるのですから、大便の相当部分が実はそれであるのに、我々は気がつかないわけです。
抗がん剤を服用するようになると、頭がハゲるだけでなく、皮膚が輝きを失い、ボロボロになってヒビが生じたりしますが、それは皮膚の新陳代謝が妨げられるからです。皮膚がボロボロになる以上に、体内上皮部分(体内のあらゆる粘膜)がボロボロになっていきます。それが吐き気、食欲不振などあらゆる副作用現象のもとになっています。人間の日々の栄養吸収は胃腸の上皮が行っていますから、それがボロボロになれば、吐き気も食欲不振も起きて当然です。番組の中で、戸塚洋二さんが「消化管に穴が開く」といっているのは、まさにこの現象のことをいっているわけで、実際ひどくなると、抗がん剤は胃腸に穴を開けるところまでいくわけです。」(p66)

僕が中締めとして語っているのが次のモノローグです。
「なぜがんというのがそれほど恐るべき力を持っているのか、というか、とにかくがんというのは、いろんな手段でたたこうとしても、がんのサバイバル能力というのは圧倒的で、死んだと思っても死なない、そういうのががんで、その繰り返し繰り返し再発してさらにはどこかちがうところに飛んでいく。そういう転移という現象が起るわけですね。
ありとあらゆる手段を自ら作り出して困難を突破していくがんの能力というのが、ありとあらゆる困難な状況の中で、生命というものが生き抜いてきて、今日の生命全盛時代みたいな、そういう時代を生き抜いた、生命の歴史そのものががんの強さに反映しているということですね。
がんは自分の外にいる敵ではなくて、自分の中にいる敵というか、あなたのがんはあなたそのものでもあるという、そういうことなんですね。だからそういう二重の意味で、がんという病気は本当に一筋縄ではいかない。がんという病気そのものの中に生命の歴史何億年の歴史そのものがこめられた力が継続して生きている。そういうことが一つあるし、それからがんの強さは実はある意味では自分自身の強さというか、自分自身の中にある生命というシステムの強さでもあるわけですね。
だからがんをあまりにもやっつけることに熱中しすぎると、実は自分自身をやっつけることにもなりかねないという、がん治療のものすごく大きなパラドックスというのがそこにあると思うんですね」
このようにして獲得された転移能力こそ、がんの強さの根源みたいなところがあります。つまりがんは、六十兆の細胞が生存をつづけていく生命の通常の営みの中で不可避的に発生します。そのように不可避的に生まれた最初のがんの細胞巣は原発巣と呼ばれます。がん患者の多くは、原発巣のがんが発展して死に至るのではなく、それがどこかに転移して、転移した先のがんが原発巣よりずっと悪性化したしぶといがんになって、転移先のがんで死に至るほうが多いといわれます。」(p112)

「転移の経路は、基本的に原発巣のがんが血管の中に入って、血流によって、遠いところに運ばれるのだと考えられています。しかし、そこのところも、実はまだよくわかっていないところなのです。がん細胞は基本的にどこかに足場を確保して、そこで育っているかぎりは生きていられるけど、足場から離れてしまうと、とたんに生命維持が難しくなると考えられているからです。そして、心臓まわりの血流の速さががん細胞にとってあまりにきつすぎる(秒速百メートル以上)ので、がん細胞が全身循環系の主要な動脈に入って、何度もたたかれると、たいていまいってしまうといわれています。がんがいろいろな臓器に転移するのは、その中で血流がゆるんで、がん細胞がそこに漂着してあらたなコロニーを作りやすいところが見つかるからだといわれています。」(p113)

「先に、がんが高齢者に多いのは、がんのもとである「遺伝子への変異の蓄積」が、高齢者になればなるほど進むからだといいましたが、もうひとつ、免疫力の強弱という点からも、がんが高齢者に多い理由になっていることがわかるでしょう。
260810tachibanagraph 次頁のグラフを見てください。これは、年齢別のがん死亡の統計です。四十歳以下のがん死者はきわめて少く、五十歳以下のがん死者もあまりいないということがすぐ読みとれます。
四十代、五十代前半までのいわゆる働き盛りの年代の人々は、まだ充分に強い免疫力を持っているから、あまり病気もせず、たとえ時に病気に襲われても(初期のがんを含め)、それをはねのけることができる(死にいたらないですませる)ものだということがこのグラフからも読みとれます。
ただ、ここで気をつけていただきたいのは、がんというのは、ゆっくり進行する病気であり、だいたい、一つのがん細胞が生まれてから、それが宿主の生命を奪うようになるまで平均して二十年くらいかかるということです。それが目に見える大きさになり、最初の検査にひっかかるまで、およそ十年から十五年の時間がかかり、それから、がんがさらに生長して、宿主の生命を奪うまで、最低でも五年はかかるということです。」(p116)

「がんに敗北しても人生では勝てる
連載手記を通して、また、番組の取材を通してわかったことは、人間は、生きるととそれ自体によってがんを育てており、がんから逃れられないということです。
そして、近未来にがんの画期的新療法が生まれることはありません。
ですから、がん患者はいずれ必ずがんに敗北します。肉体的には敗北率100パーセントです。しかし、敗北するといっても、そもそも人間は死亡率100パーセントの動物です。あなたがたは必ず死にます。がんであってもなくても死ぬのです。
 ただし、勝ち目がないわけではない。闘病という場では敗北しますが、闘病イコール人生ではありません。人生という場では勝てる可能性がある。「がん」になったが、がんに敗北しなかった人々はいくらでもいます。」(p165)

<「立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」エンディング>

「僕はそのことを、番組のエンディングで次のように話しました。
「この取材をしてきて、私が確言していることが二つあります。
一つは、私が生きている間に人類ががんを医学的に克服するということはほとんどないだろうということです。
 で、もう一つは、だからというか、自分がそう遠くない時期に非常に確実に死ぬだろうけれども、そのことが分かったといって、そうジタバタしなくて済むんじゃないかということなんです。
がんというものはしぶとすぎるほどしぶとい病気なんです。
 というか、生命そのものがはらんでいる『一つの避けられない運命』という側面を持っているということなんですね。
 そうであるなら、全てのがん患者はどこかでがんという病気と人生の残り時間の過ごし方について折り合いをつけねばなりません。
 僕の場合、残り時間の過ごし方はいたずらにがんばって人生のQOLを下げることではないだろうと思うんです。
 徳永先生のところで学んだことは人間は皆死ぬ力を持っているということです。
 死ぬ力というといい過ぎかもしれません。
 死ぬまで生きる力といった方が良いかもしれません。
 単純な事実ですが、人間みな死ぬまで生きるんです。
 ジタバタしてもしなくても、死ぬまでみんなちゃんと生きられます。
 その単純な事実を発見して、死ぬまでちゃんと生きることこそ、がんを克服するということではないでしょうか」
これはNスペのエンディングなのですが、実はBSのほうにはこれとは別のエンディングがあります。・・・」(p168)

いやはや長々とコピペしてしまったが、このようにがんと向き合ってみると、がんになっても仕方が無い。やはり自分もか・・・と思うかも??

しばらく立花隆の世界に浸ってみようかと思う暑いお盆のこの頃である。

●メモ:カウント~1490万

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2026年8月 5日 (水)

「保阪正康が語る昭和人物史」の「ジャーナリスト 立花隆」

いつもPCで録音しておいた「保阪正康が語る昭和人物史」(NHK AM土曜昼0時15分~)を聞いている。
先日放送された「ジャーナリスト 立花隆」が印象に残ったので挙げておきたい

<保阪正康が語る昭和人物史 ジャーナリスト 立花隆 第1回>(2026/7/4放送)

ジャーナリストの立花隆は、昭和15年に長崎市で生まれ、東京大学を卒業後文芸春秋社に入社。2年半で退社し、その後はフリーのライターとして様々な仕事をします。平成23年8月にBSPで放送された「100年インタビュー」の前半では、政治運動家・橘孝三郎のいとこで、戦後出版業を営んでいた父親や、哲学的なテーマで議論をしてくる母親、さらにフリーになってから取り組んだテーマ、取材の仕方などについて語っています。(ここより)

<ジャーナリスト 立花隆 第2回>(2026/07/11放送)

立花隆は昭和58年(1983年)に出した「宇宙からの帰還」がベストセラーになり、その後も「生命」や「脳」に関して取材をすすめます。平成23年8月BSP放送「100年インタビュー」の後半では、科学が発展し情報量が爆発的に増える中で、人間はどうすればいいか語っています。「人類」「ヒト」など、大きな視点から考える稀有な著述家として、未来を考える時、社会全体の知識量を増やしていくことが大事だ、と訴えます。(ここより)

<ジャーナリスト 立花隆 第3回>(2026/07/18放送)

立花隆が「田中角栄研究」を発表したのは昭和49年。そしてロッキード事件が発覚したのが昭和51年(1976年)。今年はロッキード事件から50年の節目の年になります。平成8年7月に教育テレビで放送された「NHK人間大学『田中角栄研究』が切り開いた世界」の前半では、自らが切り開いた「調査報道」について詳しく語り、この手法によって政治家・田中角栄の人脈や資金の流れに鋭く切り込んでいったことを語っています。(ここより)

<ジャーナリスト 立花隆 第4回>(2026/07/25放送)

立花隆の著作「田中角栄研究」は、田中金脈問題を明らかにし、大きな反響を呼び、首相退陣のキッカケになりました。平成8年7月に教育テレビで放送された「NHK人間大学『田中角栄研究』が切り開いた世界」後半では、立花が解明した田中角栄の人脈や資金の流れについて詳細に語っています。また時の政府を動かす「調査報道の手法」がアメリカでは“マックレーカー”と呼ばれ、報道人への褒め言葉になっていると話しています。(ここより)

「知の巨人」と言われた立花隆。あまりにも有名な人だが、その人の作品を実は自分は1冊も読んでいない。
しかしTVなどでは立花隆の出演した番組を色々と見たこともある。ふと思い出すと、何かの番組で「大量の本を読んでいるが、最初と最後だけ読めば分かる」と言っていた。それが氏の知のインプットの極意か?

司馬遼太郎も大量の本を読んで頭に入れ、頭で消化し、それを元に小説の文字が出てくるという。書いている机のそばに、一切の本や資料は置いていないという。
やはり頭の構造が普通の人とは違うのだろう。

話は飛ぶが、自分の司馬遼太郎の読破?も終盤戦に差し掛かっている。出来もしないのに全部読むぞ!と意気込んではみたが、まあまあそれなりには読んだ。
メモを見ると、2022/07/24に「国盗り物語」から読み始めて(ここ)、今日現在249冊目を読んでいる。

あと30冊ほどあるが、もうすぐシバリョウも卒業。その後は、立花隆も読んでみるか?
とりあえず、「田中角栄研究」は手に入れた。しかしこの記事は1974年11月号だという。
もう半世紀も前。今読んで、フィットするかどうか?
Img_93021 それと「宇宙からの帰還」「臨死体験」「がん 生と死の謎に挑む」などのタイトルは興味をそそる。
特にがんについては、左の保阪正康の記事によると、自身の膀胱がんについて、「検査、治療、リハビリ当を拒否したことを知った」とあった。

wikiにはこんな解説もある。
「抗がん剤専門医の集まる「がん治療学会」から依頼された講演では、抗がん剤の延命効果があったと有効性を伝える講演が続く中、冒頭から「私は全然頑張るつもりがないがん患者です。QOLを下げてまで数ヶ月の寿命を延ばしたくはない」と発言。番組の放送前には、絶望的な内容を放送して良いのかとNHK内部で議論になった。番組の最後で立花は、「人には死ぬ力がある、死ぬまで生きる力がある。そのことががんを克服することではないでしょうか」と言った。この発言に対しては、その反響の多くは「勇気づけられた、決意ができた」というものであったという。」

今からでも、「がん 生と死の謎に挑む NHKスペシャル」(2009年放送)という番組を見たいと思ったが、運良くDVD付の中古本が手に入りそう。
司馬遼太郎が終わったら、少し立花隆に凝ってみようかと思う、酷暑の日々ではある。

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2026年7月28日 (火)

イオン八王子滝山・・・

今日は、夕方4時半に発生した熊本の震度7の地震で、TVは大騒ぎ。高速道路は落ち、神社は崩壊。なかでも6時頃に発生した「イオンモール熊本」の爆発による崩壊で、TVからはイオンモールの名前が連呼されている。
建物の崩壊状況から見ると、相当な被害がある模様で、心配。

おっと今日は、ちっちゃな「イオン八王子滝山」の話。
このイオンは2026年6月26日にグランドオープンしたものだが、一か月経って、そろそろ空いたかな?と思って、八王子に行った帰りに寄ってみた。

振り返ってみると、「八王子にイオンモールが出来る!?」という記事を書いたのが2008年12月23日だった(ここ)。以来17年半。
以来何度か記事を書いた。「八王子・イオンモールがいよいよ着工~2016年3月オープン」という記事を書いたのが2013年4月24日(ここ)。以来13年。
その時に新聞には「駐車場台数は平面駐車場も合わせて計3500台。店舗面積は約5万㎡となっている。」とあり、店舗は自分がよく行っている「イオンモール多摩平の森」130店舗の2倍、駐車場は3.5倍の規模とのことだった。

それが、蓋を開けてみれば店舗数22、駐車場は390台。名称も「イオンモール八王子インター北」から「モール」が取れて「イオン八王子滝山」。
バッカにすんな!と「X」には不評とガッカリの投稿ばかり。
それで、自分もまったく行ってみる気がせず放っておいたのだが、たまたま今日はその前を通ったので、「一度位は・・・」と、ちょっと寄ってみた、というワケ。

「South」エリアに行ってみたが、中央に小さな広場。その周囲に店舗の建物が点在。

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イオンシネマだけは10のスクリーンがあって、まあまあ。昔たまに行ったMOVIX昭島は、12。
シネマの階に行ってみたが、広く、まともなのはここだけ。

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それ以外は、ペット屋さんばかり?の雰囲気。
食べるところも、ラーメン屋と焼き肉屋、そしてロイヤルホストしかないので、ロイヤルホストに入ってみた。ここだけはちょっと混んでいたが、平日の昼なので、もちろん駐車場もどこもガラガラ。
たぶん「X」で皆が書いているように、一度は行ってみるが、特別な映画を見に行く人以外は2度と行かないのでは?と、やはり自分でもそう思う。
カミさんが、8月に封切りの映画を見たいというので、その時にまた行ってみるつもりだが、まあ「X」での皆の評価通りの「イオンモール」ではない「イオン」だった。

でも経営的に考えると、これが正解なのだろう。ここに「イオンモールむさし村山」や「イオンモール日の出」のような、当初計画の大規模モールを作っても、たぶん人は集まらなかっただろう。「多摩平の森」の駐車場990台も、いつも上の階はガラガラなので。

それにしても、期待してから17年。八王子市民を裏切った「イオン」ではある。
ま、道路の渋滞を引き起こさなくて良かった!けどね(^o^)

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2026年7月15日 (水)

公正証書遺言を作った話

先日、近くの公証役場で公正証書遺言を作った。
今日は、そんな体験談。

あと1ヶ月で親父の30年目の命日。
そろそろ自分も、親父が亡くなった80歳に近付きつつある。そんなこともあり、自分の死んだ後の事を考えるようになった。
3年ほど前に一度盛り上がって、遺言の下書きを作ってみた。そして2年ほど前に市の司法書士の無料相談に行って、その下書きを見て貰った。
まあ、特に後見人についてなど、色々あった。
それで、取りあえず手書きの遺書をカミさんと二人で書いて、金庫の中にしまっておいた。

それから放ってあったのだが、新聞などで制度の改定などの変化があったのを知り、またアクションを起こしてみた。

同じ市の公証役場に電話。「Netなどで、公正証書遺言を作るとき、メールでやりとりが出来るとあったのですが?」「残念だが、当公証役場では対応していません。近くの他の役場に問い合わせたら、やってくれる所があるかも知れません。当役場では、予約が2ヶ月先まで埋まっており、そこから公正証書が出来上がるまでに2ヶ月ほどかかります。」とのこと。
それで近くの別の公証役場に電話で聞いてみた。するとメールのやりとりがOKとのこと。メールで必要書類を送ってくれたら、対応すると言う。

「日本公証人連合会」(ここ)というHPにその手続きが詳しい。

そこに必要な書類の一覧があるので、その書類のPDFと一緒に、前に作った遺書の下書きを付けて、「夫婦の公正証書遺言を作りたい」とのメールを打った。
すると翌日に早速携帯に電話があった。
「大体分かった」とのことで、こちらの意図を説明した。すると下書きを作って送ってくれるという。その3時間後に、早速下書きが届いた。
なるほど。プロによると、下書きがこうなるのかと感心。
「思い」の付言は、本人が書けというので、夜にその案を送る。するとその翌々日に修正案が届き、その翌日には完成。メールを初めて打った日から完成まで4日。
その後、「キャンセルが入ったので、もし対応出来れば3日後の*日に、対面が出来るが・・・」とのメールが入り、ちょうどアクションを起こしてから10日目に、公証人と対面して、サイン・完成・登録が出来た。

その過程で知ったことを書いてみる。
・遺言は全て手書き、からWORDでも良い。に変わったのが25年10月(下記動画参照)。それで、メールでのやりとりが可能になったらしい。
・実際に会ってみると、公証人さんは、元弁護士さんだった。2年ほど前に公証人に就任したので弁護士を引退されたらしい。
・この公証人さんは、PCを自由に操っていたので、もしかするとメールでのやりとりが出来ない、という公証役場の公証人さんは、PCが苦手なのかも?
・自分が勝手に書いた遺言書が、プロの目でチェックして、ちゃんとした公正証書遺言として案が送られてくるので、とにかく安心。
・証人の2名は、役場で紹介して貰える。実際には「公益社団法人家庭問題情報センター」という組織の方で、家庭裁判所の調停員をされていた方とか。お礼は、遺言書一人6000円、夫婦同時だと9000円の2名分。直接現金での支払。今回は18千円だった。
・言うまでも無く、遺言には自筆証書遺言やその保管制度も出来て、家裁での検認を省略する事も出来るが、その利用者数は、公正証書遺言の5~6分の1程度だという。やはり公正証書はその有効性をあらかじめ確認できるので安心。
・しかし、公正証書遺言はそれなりに費用はかかる。しかし、検認のために相続者が地方から集まる費用と手間や、遺書が無い時に故人の銀行口座解約のために必要な遺産分割協議書を司法書士に頼んだときの費用などを考慮すると、決して高くない。
・銀行の解約手続きの時は、公正証書遺言、故人の除籍謄本、執行者本人の印鑑証明があればOKらしい。法定相続情報一覧図も不要らしい。これは執行人にとって楽だ。
・下記の動画(ここ)のように、その場で全員が電子署名をして、番号を取り、サーバー?にアップする。それで100年は保管されるという。

今回の自分の目的は、遺言執行人に手間を掛けさせたくない。そのために事前にやっておくことは?だった。
生老病死。この先、自分に重い病気が見付かった時には、たぶん気力が無くなる可能性もあり、元気な今のうちに出来ることは・・・?は、とりあえず終わった。
この先、何年生きるか、そして財産も幾ら残るかは分からないが、銀行に塩漬けの「死んだ金」を何とか「生きた金」として使えると良いな・・・と思う80歳前の老人ではある。

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