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2019年9月21日 (土)

「介護後うつ」から抜け出して~安藤和津さんの話

今朝(2019/09/21)の朝日新聞「天声人語」。
「(天声人語)認知症の母のまなざし
 長崎市在住の詩人藤川幸之助さん(57)に「母の眼差(まなざ)し」という作品がある。「母が昔のままそのままの 認知症もどこにもない顔で 私を産み育てた母そのものの眼差しで じっと私を見つめるときがある」。言葉でなく目で母と対話する▼母キヨ子さんは60歳でアルツハイマー型の認知症と診断された。歩くこと、話すこと、食べることが徐々にできなくなる。小学校の教諭だった藤川さんは、認知症の進む母と末期がんだった妻を支えるため、教壇を去る。妻をみとった後、介護のかたわら、思いを詩につづるようになった▼「二時間もかかる母の食事に 苛立(いらだ)つ私を尻目に 母は静かに宙を見つめ ゆっくりと食事をする」。イライラや怒りも藤川さんは隠さない。「あなたは笑っていた 本当は泣きたかったのに 初めて紙おむつをはめた日」▼介護の日々はいつ終わるとも知れない。「(母は)息ができなくなって咳(せ)き込んだ 背中をたたきながら 私はこのまま母が死んでくれれば 母も私も楽になれるとふと思ってしまった」。胸にきざした暗い感情もうたう▼7年前の秋、キヨ子さんは84歳で旅立った。「介護を通じ、逃げずに考え抜く習慣が身についた。生とは何か、死とは何なのか。母が最期まで私を育ててくれました」と話す▼詩集を読みつつ、自分が同じ立場に置かれたとき、はたしてやり通せるのかと心配になる。同時に、介護には多くの「気づき」もあると学んだ。きょうは世界アルツハイマーデーである。」(2019/09/21付「朝日新聞」「天声人語」より)

今日は「世界アルツハイマーデー」だという。そんな日があることは知らなかった。
こんな記事を読みつつ、先日聞いた安藤和津さんの介護の話を思い出した。氏は安藤サクラさんの母親。夫は奥田瑛二さんだという。

<“介護後うつ”から抜け出して~安藤和津>

ここ)に、この話を文字化したサイトがあるので、転載させて頂く。

NHKラジオ深夜便 明日へのことば 2019年8月27日火曜日
「“介護後うつ”から抜け出して」エッセイスト・タレント…安藤和津

東京台東区出身、ニュースキャスターやエッセーイスト、タレントとして活躍されています。
1979年に俳優の奥田瑛二さんと結婚、長女は映画監督の安藤桃子さん、次女は安藤サクラさんという芸能一家です。
或る日安藤さんのお母さん昌子さんに大きな脳腫瘍が見つかり、自宅で介護を続けました。
昌子さんは平成18年に83歳で亡くなりましたが、介護中和津さんが介護うつになり、介護が終わった後にも介護後うつという状態になりました。
その苦しい状態から抜け出るのに13年も掛かったという事です。

ずーっと体も心も疲れ切っていてやっと今、心が元気になると体も元気になるという事を実感しています。
2年前まで苦しんできました。
私の目には真っ黒いものが口から出ていくのが見えたんです。
印象的には白黒TVから急にカラーTVを見るような感じでした。
自分がおかしい状況だとは思っていなかった。
介護うつが終わったと思っていたら、介護後も鬱になっていました。
介護鬱の時にはパタッと料理ができなくなりまして、人との会話もほとんどできなくなり外にも出かけることができなくなりました。
無理やり出かけて遅刻常習犯になり、人と会うのが怖かったです。
買い物に行っても買うものが流れているんです。
何とかいくつか購入して、料理するのに何を作っていいかわからない。
料理の作り方も忘れてしまいました。
文章の組み立てもできない。
コメンテーターができいない状態でした。

2時間おきに痰の吸引をしなければいけないので、睡眠不足がずーっと続いていました。
介護が終わって料理はポチポチできるようにはなりました。
人ともだいぶ会えるようになりました。
しかし、家族たちと会話していても、全員が笑っているが、私はなんで笑っているのかわからなかった。
TVみていても全員が笑ってるが私は笑えなかった。
桜が咲いて綺麗だと周りが言うが、感動が何にもなかった。
家族が変わったんだと自分では思い、自分だけ孤立している状態でした。
それが13年続いてしまいました。
人間にとって心からの感動、喜びを感じられないのは、押さえつけられている状況になっちゃうんだと思います。

年末に掃除をしていました。
TVで漫才をやっていて、介護鬱が抜けてしばらくたったら、抜け落ちていた記憶が全部徐々に繋がってくるんです。
獅子てんや・瀬戸わんやさんの昔の漫才をやっていました。
パッと笑いがお腹から噴出して、真っ黒な塊が飛び出して行って我に返ったときに、今笑ったよねと思って周りを見渡すしたら、白黒TVから急にカラーTVに変わったように全部が違うんです。
私は鬱だったとその瞬間気が付きました。
二人目の孫が生後半年で、孫の存在は大きかった。
母の介護にやっていた事と孫にやる事はおむつ、食事などの作業は全く同じわけです。
おむつ、離乳食と介護食、など、母の介護は無理やり明るく元気にさせながらの介護だったが、最終的には見送る介護だった。
孫は未来へ命が繋がっている、命が受け継ながれているんだと実感しました。
母がここに生きているんだと思えたこともすごく大きかったです。

母の行動言動がおかしいと思ったのが1998年ごろ、本当にたどってゆくとサクラが生まれた時なんです。
長女を母に預けて入院していましたが、母が長女を連れて病院に来ました。
退院するまで長女の下着の袖口が汚れていくんです。
1週間毎日同じワンピースを着せてきたんです。
母は毎日着替えるタイプでしたが、娘が私の病院食を目の色を変えて食べるんです。
考えてみるとあの時から段々そうなって行っていたんです。
原因が脳腫瘍だと判明するのは、だいぶ後の事でした。
親のおかしな言動を医師に相談しても、知り合いに相談しても、あまり親の悪口を言わない方がいいとたしなめられてしまいました。
いろいろ変な言動があり、どうしたらいいかわからなかった。
本当は母は嘘をついていてごまかしていて、本当は行儀が悪くて、悪態をつく嫌な人間だと思うようになりました。
母のことがどんどん嫌いになって行きました。
家族が母のおかげでどんどん憂鬱になってしまいました。
母が腕を骨折してしまい、病院で診察を受けることになり、病院に脳のMRIができたばっかりだったので先生に絶対に撮ってくださいと言って、海外の仕事に行くことになりました。

帰ってきたら巨大な脳腫瘍ができていましたと言われました。
手術もできないレベルでした。
糖分と油分の代表的なような食生活だったので、和食風に私が手作りでやっているうちにあなたのおかげねと母が初めて褒めてくれました。
認知症と老人性うつ病も発症していて、この状態で家族がそばにいることが珍しいといわれました。
非常に攻撃性の強い認知症でした。
普通は付き合いきれない状況だといわれました。
母のやっていることを全部先生にお話したら、本当によくこれまでご一緒にいられましたねと言ってくださって全部救われたと思いました。
共感してくれる人が必要だと思いました。

仕事関係の友達が家に来ていた時に、母が手におむつを持って下半身すっぽんぽんで現れたときには私は腰を抜かしました。
母がおむつを使用していたことは知らなくて、「これ替えて」と言ったんです。
次の瞬間床に転がり落ちて私はおんおん泣いていました。
一生乗り越えられないという思い、みんなに愛情をかけていた母が、あーあ親子逆転この瞬間したなと思って切なかったです。

下の世話をすることは家族が良くやってくれました。
母がトイレでお尻が汚物だらけでしたが、血は繋がっていない夫が素手で手が汚れましたがおんぶしてくれました。
介護は育ててもらったお返しをしているだけなんだなと思った時に、凄くスイッチがOFFからONになるんですね、その時に気が楽になりました。
介護は何のためにするか「親に笑顔でさよならを言うためなんですよ」とありましたが、良い言葉だと思います。

自宅で看取ることになって、酸素濃度が20ぐらいに下がってきて危なそうだという事で先生も呼びました。
その間天ぷら、中華の話をして聞かせているうちに酸素濃度が30、40と上がってきて、洋食やら屋台のそばまで話をして、酸素濃度が80まで上がって、持ち直して先生も帰ってそれからほどなく、息がしていないのに気が付きました。
施設などでも○○さんありがとうと、テープに入れてパチパチとみんなで拍手で送ってあげたら魂が幸せに旅立っていくのではないかと思います。
母をあのように送ってあげてよかったと思います、母は本当に優しい顔をしていました。
介護はどうしても女の人が背負いがちなので、頑張っている奥さんにねぎらいの言葉とか、肩をたたいてあげたりしてもらえればと思います。
どういう人が思い出に残っていく人になるかというと、どれだけの愛情を人にかけたかという事になるかと思います。
そういう思いを持ってこれからも生きていきたいと思います。」ここより)

さっき、NHKのドキュメント72時間「訪問看護師 街をゆく」(2019/09/20放送)を見た。訪問看護師が各家庭を回る。それぞれの家庭に、脳性麻痺の子や、長期療養の親など、色々な人を抱えて介護をしながら暮らしている人たちがいる。
何も無い家庭など、たぶん無いのだろう。平穏無事な家庭など、たぶん無いのだろう。

上を向いてもキリが無い、下を向いてもキリがない、とは良く言う。
改めて自分の人生を振り返ると、自分の辿ってきた人生など、まだまだ・・・だったのかな、とフト思う。


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