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2019年7月11日 (木)

「死すべき者」の生き方~人生とは何だ?

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(異論のススメ スペシャル)「死すべき者」の生き方 佐伯啓思
 先日、「NHKスペシャル」で、ある日本人女性が安楽死をとげるというドキュメントを放映しており、大きな反響をよんだようだ。私も見ていたが、かなり衝撃的であった。安楽死には基本的にふたつある。ひとつは消極的安楽死で、これは終末期にある患者に対して積極的な延命治療をしない、というもの。もうひとつは積極的安楽死で、こちらは、患者の意思が明確である、苦痛が耐えがたい、回復の見込みがない、代替治療がない、といったいくつかの条件のもとで、医療従事者が患者に対して積極的な死を与える、というものである。ここで問題なのは積極的安楽死であり、NHKの番組もこちらのケースである。
 日本では積極的安楽死は法的に認められていない。世界的にみた場合、これを法的に容認しているのは、スイス、オランダ、アメリカのいくつかの州などわずかである。ただ、潮流としては、少しずつ容認の方向へ動いているようである。スイスには「ライフサークル」という自殺幇助(ほうじょ)団体があり、この団体を通して、医師の指示と幇助のもと、致死量の薬品によって自殺することができる。広い意味で積極的安楽死といってよい。この日本人女性も、スイスでの事実上の積極的安楽死を選択した。
 この女性は、多系統萎縮症という難病を宣告され、徐々に身体機能を失ってゆく。回復の見込みはない。最後の選択は、まだしも自分の意思が明確に伝達でき、スイスまで移動できるだけの身体機能が残っている間に安楽死することであった。そうはいっても、家族である2人の姉は、簡単には受け入れられない。何度も話し合った結果、最終的に妹の意思を尊重し、スイスで妹の死の現場に立ち会う。その一部始終をNHKは記録していた。この経緯については、宮下洋一「安楽死を遂げた日本人」でも詳しく書かれている。
 点滴によって致死量の薬品をみずからの意思で投与し、ほんの数分で眠るように死んでいったこの女性と、彼女を見守るふたりの姉の映像を見ていて、私は、言葉は悪いが、何か妙に崇高な感動を覚えた。この場合、崇高というのは、すばらしいとか気高いという意味とは少し違う。とても涙なしに見られる映像ではない。だが、ここには、葛藤のあげくに「死」という運命をついに受け入れ、しかもそれを安楽死において実行するという決断にたどりついた姉妹たちの無念が、ある静謐(せいひつ)な厳粛さとともに昇華されてゆくように感じられたからである。      *
 私は、安楽死にはかねて肯定的であった。消極的安楽死は当然、積極的安楽死も、一定の条件のもとで容認されるべきだと思っていた。だが、同時にそれを「尊厳死」と呼ぶことには抵抗があった。なぜなら、「死」とは、人間の、いや生物であり生命体であるものの根源的な事実であって、死に方に尊厳もなにもないだろう、と思っていたからである。生命がこと切れれば死ぬだけである。イヌやネコに尊厳死も何もないであろう。死という意味では人間も同じだ、と思っていた。
 ではどうして積極的安楽死に対して肯定的だったのかといわれれば、理由は簡単である。この先、死を待つだけの生が耐え難い苦痛に満ちたものでしかなければ、できるだけ早くその苦痛から逃れたいからである。これは多分に利己的な動機であるが、おそらく多くの人が感じていることでもあろう。
 今でも、死というものについての私の基本的な了解はそのようなものである。生命体にとって死は当然の事実であって、あまりの苦痛に耐えがたければ自死も安楽死もひとつの選択である、と。
 しかしまた、この映像を見ていて感じたこともある。よくわれわれは「死」を経験することはできない、という。死んでしまったら意識もなにもなくなるからである。経験はあくまで生の側の問題であって、死は経験ではない。それはその通りであろう。だがまた、死に方、あるいは死の選び取り方は、ひとつの、いや決定的な経験である。死は生ではないが、死にいたる時間は生にほかならない。とすれば、死ぬことは、その最後までいかに生きるかということなのではないか。
 先日、ドイツの哲学者ハイデガーの書いたものを読んでいたら、次のような文章にであった。人間が「死すべき者」と呼ばれるのは、人間が死ぬことができるからである。死ぬのは人間だけである。動物はただ生を終えるだけである。
 なるほど、と思った。動物は死なないのである。ただただ自然に生命が消えるだけだ。「死」とはひとつの意識であり、意図でもある。人間は、死を意識し、死に方を経験することができる。
 西洋のキリスト教文化のもとでは、人間は「死すべき者」といわれる。これは死なない「神」と対比されたものであるが、人間を死すべき者と定義したところに西洋文化のひとつの人間理解があるといってもよいだろう。もしも人間が永遠に生き続ければ、人間は「生」について考えることもないだろう。また動物のように自然に生命がこと切れるだけなら、これもまた生について考える必要もなかろう。ただただ獲物を求めて生きるだけのことである。
 人間だけが、「死すべき者」であるがゆえに「生」を考える。どうやって生を充実させればよいか、と考える。そこから、「よき生」という考えもでてくる。古代のギリシャでは、ただ生きるのではなくよく生きることが問題だ、とされた。キリスト教文化のもとでも同じである。どのような生き方がよい生であるか、が問われた。そして、もしも「死に方」も「生」に属するのなら、どのような死に方がよい死に方か、という論議も可能となる。「安楽死」はそのもととなったギリシャ語では「エウタナーシア」というようだが、これは「よい死」という意味であった。
 「尊厳死」という言い方は私にはまだ違和感があるが、いわんとすることはわかる。人間は死を経験することはできないが、「死に方」は経験する。それはまだ「生」なのである。そして、「尊厳」とは英語で「ディグニティ」であり、それはもともとラテン語の「ディグニタス」からきており、「……に値する」という意味であった。私なりに解釈すれば、「よき生」に値するような生を送ることが「ディグニティ」の基本であろう。何をよき生と考えるかは時代により文化によっても違うだろう。人によっても違うだろう。だが、この言葉の響きには、ただ生きているのではなく、何らかの意味で生きるに値するような生き方をする、つまり「よい生」を追求し、実現する、という意味合いが含まれている。
     *
 これは大事なことだと思う。なぜなら、近代社会では、「生きるに値するような生き方」つまり「よき生」は問わずに、まずは生きることが至上の価値とされたからである。万人の生命の尊重が近代社会の最高の価値となり、そのもとで20世紀には経済成長と福祉が求められ、21世紀になると、さらに医療技術と生命科学の進歩とともに、あらゆる病気を克服して寿命を可能な限りに延ばすことが人類の目標となった。人生100歳の時代かどうかはわからないが、健康寿命をはるかに超えて延命が可能なことは間違いないだろう。だが、それと対比すれば「死に方」の方はほとんど論議の対象にもならない。私は、別に寿命の延長が悪いとは思わないが、それでも、「生」へ向けて巨額の予算をつぎ込んだ国をあげての関心と、「死」への、冷ややかというべき社会の無関心のアンバランスが気になる。
 だが、それも理由はないわけではなく、安楽死の問題を俎上(そじょう)にあげた途端に、われわれはあるどうしようもない壁にぶつかってしまうからだ。つまり、無条件の生命尊重という近代社会の価値との衝突である。具体的にいえば、殺人罪や殺人幇助の罪に問われかねない。いや、法的問題はともかく、近代社会の基本的な価値と衝突するのである。
 これに対して、安楽死推進派は、個人の意思決定の自由や幸福追求の自由をいう。だがこれもまた近代的権利であって、こちらが決定的に言い分をもつわけではない。要するに、近代社会の価値観とは、生命尊重にせよ、個人の自由意思や幸福追求にせよ、もともと「生」に関わる価値なのである。近代的な権利の問題としては想定外であった「死」に直面したとき、生命への権利と、自己決定や幸福追求の権利は衝突することになる。近代的な権利や法の枠組みでは容易に解決できないのだ。
     *
 ではどうすればよいのか。私に妙案や対案があるわけではないのだが、まずは、先にも述べたきわめて常識的な地点にまで戻りたい。「死」は近代だけの問題ではない。「死」は人間の基本的な条件であって、「死」を前提とするからこそ、われわれは「生」を問いかける。どのような「生」が満足のゆくものであり、意義のあるものかと問う。その時、「よき生」の延長上に「よい死」がでてきても不思議ではない。そして、そこにひとつの社会の死生観があった。死生観は、その国や文化や宗教的精神によってかなり違ってくるにせよ、かつては、それぞれの社会がそれなりの死生観をもっていた。
 少し前には、「死に方」はかなり多様であった。日本の姨捨(うばすて)のようなやり方は少し極端だとしても、消極的安楽死はかなり存在したであろう。いわばケース・バイ・ケースなのである。人の生も死も多様であり、人によって違っている。それを、漠然と、大きな死生観や霊魂観という広義の宗教意識が支えていた。近代社会は、すべてを合理的に、法的に整理しなければ気が済まない。曖昧さを排除し、一律に管理しようとするが、それでは問題は解決しない。多様な死に方を認めるほかなかろう。われわれは、近代社会の極限で、死というもっとも人間的で根本的な問題に改めて突きあたってしまったのである。
     ◇
 さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「死と生」など。思想誌「ひらく」の監修も務める。」(2019/07/06付「朝日新聞」P15より)

この一文は、自分にとって実に納得できた一文であった。
特に印象的な文言は、
・「死」という運命をついに受け入れ・・・
・死を待つだけの生が耐え難い苦痛に満ちたもの・・・
・死ぬのは人間だけである。動物はただ生を終えるだけである。
・近代社会では、「生きるに値するような生き方」つまり「よき生」は問わずに、まずは生きることが至上の価値とされたからである。

7月21日の投票日に向けて、参院選が闘われているが「安死」という政党があると知ってビックリ。「安楽死制度を考える会」というのだそうだ。(話はそれるが「NHKから国民を守る党」というものあるようだ。)

カミさんが入っている「日本尊厳死協会」。会員が10万人からなかなか増えないそうだ。この背景は何か?
そして放映されたNHKの死の瞬間まで捉えた番組。NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(2019/06/02放送)(ここ)。考えさせられた。
「死」は誰のものか・・・と。
言うまでも無く、死は自分自身のもの。家族のものではない。尊厳死における延命治療拒否のように、自身が決めるもので、誰もそれを犯すことは出来ない。
そんな点で、この番組は非常に考えさせられた。

40年近く昔の話。当時住んできた団地のそばに、小児科で良く通った医院があった。その医者が、ある日自殺した。ウワサによると、治らない病気になり、自分で命を絶ったという。
その後、息子さんが継いだが、医者だけに許された特権かと思った。しかし、今になって見ると分かる気がする。

我々もそろそろトシ。「死」は大きなテーマだ。
上の文で、「生きるに値するような生き方」という言葉が重い。
人生とは何だろう。長寿が目的か?いや、「生きるに値するような生き方」が出来るうちが人生ではないか。
いつも思い出す光景が2つある。ひとつはある老人病院の病室。男女区別なく並べられたベッドに老人たちが寝ている。中央の柱にはコチコチと音を出す柱時計。そしてある時間になると、一斉にオムツ替え。
もう一つが、特養のホール。車椅子に座った老人たちが、ただただテレビを見つめる。
前に「死を待つ家」という言葉があった。

こんな文を読んで、「人生とは単なる長さだけでは無い。如何に充実した時間を過ごせたか」が人生だと、改めて思った。


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