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2019年5月14日 (火)

「死を迎える覚悟、できていますか?」

今、仮に「死を迎える覚悟、できていますか?」と問われたら、自分はまだまだNOかも知れない。
近親者が亡くなり、身近で死を体験してくると、自分にとって他人事だった死が、段々近い存在になってくる。新聞を読んでも、そんなテーマは、つい気になる。

先日の朝日新聞にこんな記事があった。

「(with読者会議)死を思い、生を見つめる
 ■Reライフ 人生充実
 誰もが迎える死。私たちは、どこまで心の準備ができているのでしょうか。病気や身近な人の死など「覚悟」するようになったきっかけ、支えにしているものなど、様々な声が寄せられました。

 ■別れ重ね知る「毎日を大切に」
 「若い頃の苦労、そして大切な人の死が、育んでくれました」。兵庫県猪名川町の芦田冨美枝さん(59)は、自身の死生観を支えるものを、そう教えてくれた。
 17歳の時に父の会社が倒産した。陸上選手になる夢を諦め、千葉から福井の祖母宅に転居。学校を中退して毎日必死にスーパーで働いた。「『永遠』はない。目の前のことを、一つずつこなす大切さを学びました」
 包装会社で働いていた29歳の時、同僚だった夫(56)と結婚。パートもしながら子ども2人の育児に夢中になった。ところが今度はリーマン・ショックで夫の会社が倒産。48歳で介護資格を取り、認知症のお年寄りが暮らすグループホームで働き始めた。
 家族のように身近に感じていた利用者さんが、日常の中で亡くなった。「死は自然なことだと、怖くなくなった。思った通りに死ねるとも限らない。死ぬ時は、ひとりで逝くものだと思うようになった」。私生活でも、義理の父や実父、愛犬の死。友人のがん……。そのたびに、思いを強くした。
 今は子どもも独立。準備はできているつもりだ。いつ、その時がきても心残りがないよう、一日一日を懸命に過ごすことを心がけている。週4日働く、調理の仕事もそのひとつ。20代の同僚との会話に刺激を受け、客の「おいしかった」に元気をもらう。
 だが、ひとつだけ答えがでない死がある。理不尽な死だ。桜から新緑へと移り変わる4月25日。毎年この日が近づくと、考えこむ。
 2005年、107人が死亡したJR宝塚線(福知山線)脱線事故。友人の息子さんが犠牲になった。「ご飯食べてる?」「眠れてますか」と声をかけることしかできず、無力さを感じた。
 こうした事故で生を断たれることまでもが「自然」な死だとは、思えない。答えは出ないが、可哀想と思うことも不遜だと感じる。「生も死も、人の手の及ばぬもの。幸不幸の勝手な評価を与えるのは違うと思います」(山内深紗子)

190514kakugo  ■病を機に気づいた今の幸せ
 高校生の時に腎臓を患い、2年間療養した。悪化すれば人工透析の可能性もあり、死も想像した。若くして死ぬことは、かわいそうだと言う人もいる。でも私は、死ぬかもしれないけれど、行きたい場所、達成したいことがある自分は幸せだと思った。それ以来、与えられたものの中で幸せを感じるという「降りていく生き方」が定着した。すると、心は穏やかに。努力はするが、なりゆきに任せるという気持ちが大事だと思う。 <岡山県 女性(57)>

 ■心響いた「メメント・モリ」
 私立高校で倫理を教えている。父をみとり、死は怖くはなくなった。昨年、初期の胃がんで手術。術後、麻酔がさめて目覚めると、新しく生まれ変わったような感じがした。治療後、ラテン語の「メメント・モリ」という言葉が心により響くようになった。「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」というような意味。一日一日を、後悔なく生ききることを心がけている。生徒とも一緒に、生と死について考えている。 <埼玉県 男性(64)>

 ■最期はひとり、自立を選ぶ
 5年前に離婚した。扶養され、守ってもらえる安心感への期待も持って結婚し、主婦になった。だが、実生活では伴侶との信頼感、依存や甘えのバランスの難しさに直面した。子育てを経て、両親をみとり、死ぬ時は家族がいてもひとりだと気づいた。自立したい気持ちが強くなった。安心感を手放す葛藤もあったが、子どもが成人したのを機に離婚を選んだ。不安を直視できた時、自然と死ぬ覚悟ができていた。
 <神奈川県 女性(55)>」(2019/05/12付「朝日新聞」p18より)

この記事のアンケートによると、「死を迎える覚悟、できていますか?」という問に対して、「できている」は478人、「できていない」は532人だったという。ほぼ半々・・・
記事を読むと、やはり体験による“慣れ”によって、死への恐怖心が和らいでくるように思う。

先日、九州の孫が来た時に、最初に玄関に入るや、2歳半の孫娘が「時計の目が怖い」と言う。玄関ホールの掛け時計の、「6」の字にある“明るさのセンサー”が“目”に見えたらしい。何という感受性・・・
一方、5歳になる上の孫娘は、散歩から帰ったとき、玄関横の鉢植えから枯れて落ちた花の枝を見て「死んでいるみたい。怖い」と言う。私が拾って鉢の横に戻し、「もう怖くないね」と言ったらうなずいていた。
こんな幼児でも、死を意識するのか・・・

そう言えば、先日の兄の納骨の時、前の晩に、紙に花束を描いて切り抜き、それを持って行って、お墓に供えていた。これは自分で作ると言い出したという。今回の法事に対し、ママがどう説明していたのかは知らないが、幼児でも死への思いはあるのだと知った。

まあ、あと90年もの将来がある孫娘たちは別にして、我々は先が見えない。
この記事の中の、「生も死も、人の手の及ばぬもの」「なりゆきに任せる」「一日一日を後悔なく生ききる」という言葉が胸に迫る。

話は飛ぶが、先日、カミさんが友人との女子会で、相手の人が、ご主人が心配だと、1時間も話さないで、早々に帰って行ったという。聞くと、その奥さんは、ご主人の死が近いと感じており、その先のことを既に色々と考えているとのこと。
確かにご主人は病気を患っているらしいが、亭主への死への哀しみより、「死んだら・・・」が先行するとは・・・。何とも女性は強い!?

ともあれ、生死は人知の及ばないこと。
“その時”がいつ訪れてきても良いように、日々後悔無く暮らしましょ!


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