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2019年3月17日 (日)

喪主として兄を送った言葉

2019年3月6日23時15分、兄が非結核性抗酸菌症のために74歳で逝った。

22年前に父が亡くなった時、兄が告別式で非常に長い遺族代表の挨拶をした。父の友人の名前を何人も挙げ、感謝の言葉を述べた。
兄に「何も見ずに、よくあんなに長い挨拶が出来るな」と言ったら、「目次だけを頭に浮かべて話すんだ」と言っていた。
今回の兄の葬儀は、近くに住む弟が全て仕切ってくれたが、その弟から「喪主は次兄(自分)に頼む」と言われ、自分もそれを真似して、何も見ずに挨拶をすることにした。

このメモは、まだ記憶があるうちに、その時に話した25分間の挨拶の内容を再現したものである。(2019年3月12日 PM1:00~ )

「これより喪主をお務めになりました、御次男の****様よりひと言ご挨拶がございます。いましばらくのお時間を頂戴致します」

「本日は、お忙しい中、故****の葬儀にご会葬頂きまして誠にありがとうございます。心より御礼を申し上げます。
ご挨拶としては大変異質ではございますが、この場をお借りして、故****の辿(たど)ってきた人生、生涯について、少しお時間を頂戴してお話をさせて頂きたいと思います。

190317sougi 故****は、昭和19年の12月の末、戦時中でありましたので、母の疎開先であった栃木県足利市で生まれました。昔は数え年でしたので、数日で二つになるのは可愛そうだ、ということで、戸籍上の誕生日は1月2日になっております。
戦後まもなく、父の会社の関係で埼玉県与野市、現在のさいたま市で大宮駅の近くですが、そこに引っ越し、兄は中学1年までここで過ごしました。私も弟もそこで生まれまして、兄と私は3つ違い、私と弟は5つ違いということで、兄と弟は8つ違いでした。
私も小学校低学年だったので、いつも兄弟げんかをしていました。それも取っ組み合いのケンカをしていました。母親は、もう手が付けられない、ということでケンカが始まるとどこかに居なくなってしまう。それで二人で取っ組み合い。兄の得意技は、頭の後ろの首を、後からねじ伏せる。こうなると私は太刀打ちできなくて、いつも負けて泣いていました。近所では武蔵野道場と言われ、ケンカが始まると近くの子どもたちが塀のスキマから覗いている、という状態でした。従って、幼少期は決して仲の良い兄弟とは言えませんでした。

転機が訪れたのが、兄が中学2年、昭和33年でした。私は小学校5年になったとき、やはり父の会社の関係で、茨城県竜ヶ崎市に引っ越しました。今は流通経済大学の敷地の中になっています。ここで兄は、大学に入るまでの5年間を過ごしました。
ここで大きく変わったのが、いわゆる勉強部屋という3畳の部屋が与えられ、私と兄はこの部屋に二つ机を並べて過ごすことになりました。私は兄となるべく離れるため、真ん中にロープを張って、シーツおろし、なるべく見えないようにして、兄は受験勉強、私は趣味のラジオ工作。ハンダゴテでジューとすると、いつも隣から「臭い!」と怒鳴られました。しかし、兄は勉強を教えるのが趣味で、私はそれがイヤで、いつも逃げ回っていました。
これもまた決して仲の良い関係とは言えませんでした。

ほとんど話もしなかった兄でしたが、状況が変わったのが、兄が大学に入ってからでした。当時兄は、横浜の馬車道とかいうところに下宿をしていて、なぜか手紙をくれるようになりました。それから兄との関係が変わってきたように思います。以後は、普通の兄弟の関係になりました。
兄は下宿では麻雀三昧だったらしく、麻雀をするとジャラジャラと音を出し、下の大屋さんからウルサイと怒鳴られる。仕方が無いので、パイを混ぜる時は、下に敷いた毛布を持ち上げて、毛布にパイを包んで混ぜた、という逸話も聞いたことがあります。

大学1年の夏休みだったと思いますが、初めて横浜の下宿に泊まりに行きました。そのときに、せっかく来たからと言って、横浜の山下公園とか、外人墓地とかに連れて行ってくれました。そのとき、遅く起きて、昼飯を食べようと、近くのラーメン屋に行き、そこで食べたのが野菜炒めライスでした。私はその頃、まったく外食など知らなかったので、それ以来の大好物になってしまいました。そんな訳で大学に入り、ここにお花を頂いているように、合唱団に入っていました。当時うたごえ運動が盛んだったので歌声喫茶などに連れて行ってもらいました。

大学は工学部電気工学科でエンジニアを目指していたわけですが、大学を卒業して東芝に入社しました。これには伏線がありまして、父は長男でしたが、下の弟が皆電気会社だったことがあります。父のすぐ下の弟がNEC、その下が東芝、一番下の弟が日立製作所でした。そして真ん中の東芝に行った叔父が、私たちが大宮に住んでいた時に、兄が小学校2年の時まで、一緒に同居して、大宮から早稲田に通っていた。ということがあって、非常に近しかったということがあります。その叔父が東芝の経理に居たということで、兄も東芝に入りました。
兄は最先端のコンピュータエンジニアを目指して電算機事業部に配属されました。当時は、東芝も電算機ブームで力を入れていて、コンピュータ専用の青梅工場が新設され、68年に立川の先の青梅に転勤しました。しかし兄は、こんな田舎やイヤだとダダをこね、東京の本社に転勤しました。
私も兄につられて70年に東芝に入ったのですが、そのときは兄は青梅工場から東京に移っていました。

私が東芝に入った年、1970年の年末に、友人に紹介された美智さんと結婚しました。美智さんとは同じ年だったので、二人とも当時26歳でした。そして川崎の子母口の団地に新居を構えました。
結婚して1年後、兄は人に使われたくない、ということで、司法試験を受けるために東芝を辞めることになります。そもそも人に使われるサラリーマン稼業は向いていなかったのだと思います。
美智さんは当時、小学校の先生をしていて、兄は結局、72年の1月の27歳のとき、5年間勤めた東芝を辞め、美智さんの稼ぎで、司法試験の勉強を始めました。これも大学の友人が司法の道に行った、という影響だと思います。
そして1年半勉強をして、2度目の試験で73年9月に司法試験に合格しました。最終発表には、兄に言われて私も一緒にカメラを持って見に行ったことを覚えています。本人はギリギリやっと合格できたと言っていました。それから2年間の司法修習を経て、76年4月の31歳の時から、いわゆるいそ弁として6年間**事務所のお世話になりました。
そして、82年4月の37歳の時に西新橋で自分の事務所を構えました。その時は、奥さんの美智さんが小学校の先生を辞めて、事務員として夫婦二人で事務所を立ち上げました。
それ以来、震災の年の2011年3月の66歳の時まで、35年間の弁護士生活でした。新橋の事務所では29年間でした。
110704michi 美智さんはその後、**さん、**さんという事務員さんを迎えることが出来たので、趣味の人形作り始めました。数十年やっていましたので、日本伝統工芸展の常連となり、
いつも入賞して三越の展示会に出ていました。特に2004年には「華」という作品で、「第44回日本工芸会東日本支部 伝統工芸新作展(平成16年)」の「朝日新聞社賞」を受賞し、カタログの表紙を飾りました。

そして、もはや人形作家として、展覧会で審査される側から、審査する側に変わった時、震災の年の2011年正月に美智さんの胃がんが見付かりました。結局その年の7月に66歳で美智さんは亡くなるわけですが、この年が兄にとって人生が激変する年になりました。
2011年の正月、毎年集まる実家の竜ヶ崎で、美智さんが喉の通りが悪いと言い出しました。それで正月明けに自宅近くの病院に行った所、胃カメラが胃まで届かない。胃の入り口にガンがあって、もはや手が付けられない状況だ、という診断があって、それが兄にとってものすごいショックだったということでございます。

これは私に言わせると、昔孫悟空の話がありまして、孫悟空が一生懸命に逃げても、お釈迦さまの掌(てのひら)からは出られなかった。結局、お釈迦さまの手の中にあった。という話です。
兄も美智さんという掌の中で動いていた、という風に思います。もちろん仕事は別ですが、家庭においては美智さんの手の中で動いていた。この手が無くなったときに、兄は居場所を失いました。そして拠り所を失った兄は、残念ながらうつ病に罹りまして、このうつ病は半年ほどで治ったのですが、一人で自活するのが難しい、ということで2011年の11月に老人ホームに入りました。それ以来8年間、近くに住む弟夫婦がずっと面倒を見てくれた訳ですが、外に出る機会が少なく、体力が徐々に減っていきました。

それからは病気もせず、平穏な生活が続いた訳ですが、ずっとコンタクトレンズを使っていた影響からか、白内障が進んでしまい、目がほとんど見えなくなってしまいました。同時に耳も遠くなってきたこともあり、早く死にたい、ということも言うようになりました。その時に弟が色々動いてくれまして、近くの大学病院で白内障の手術をする事が出来ました。それによって目が見えるようになりましたので、すっかり元気を取り戻し、弟の話によりますと、朝は5時半に起きて、朝日新聞と読売新聞を隅から隅まで読み、昼は昔読んだ小説の読み返し、新田次郎、司馬遼太郎、山崎豊子。テレビでは好きな囲碁、将棋を見たり、大相撲では白鵬、野球はDENAを応援したりの生活をしていました。特に凝ったのが数独という数字のパズルで、常に弟に最新版の難しい本を買ってこいと言っていたそうで、このお棺の中にも入れてありますが、これに凝っていました。

そんな平穏な生活が激変したのが、今年(2019年)の2月3日でした。ホームに入って7年間、白内障以外は、ほとんど病気はしなかったものの、いつも寝ていて体力が無いので、一旦病気になると怖い、と心配していました。結果として、それが現実になりました。
ホームから弟への電話で、「最近食べる量が少なく、この1年で体重が48キロから43キロに5キロも減ったので、ホームの健診でよく診て貰う」という連絡がありました。
最近よくツバをしてティッシュで取っていましたが、2月4日のホームでの健診の時、ツバに血が混じっているとのことで、医師から、念のため病院で診て貰うように、と言われました。
それで2月6日に弟が近くの総合病院に連れて行って検査をすると、喀血しており、CTの結果は肺が白くなっている状態でした。
その病院では、結核を否定できない、つまり口から結核菌を出している可能性が否定できないので、人に感染させる可能性がある。ということで、この病院には入院出来ない。ちゃんとした感染病の部屋がある病院でないと入院出来ない、ということでずっと転院先を探し回って、夜10時過ぎにようやく遠い病院で引き取って貰える、ということになり、夜中に救急車で1時間以上かけて転院しました。
弟が病院に行くぞと言うと、兄は「どこも悪くないので病院に行くのは疲れるからイヤだ」と言っていたそうです。

その専門病院で、CTやその他の検査の結果、結核菌は検出されず、非結核性抗酸菌症だと言われました。これは常在菌でどこにでもある菌らしいですが、それが数年かけて徐々に悪くなって肺を侵していく。空洞になった菌の巣には、なかなか薬が届かない。従って治すのも数年かかる。菌を吐いていないので、外来でも良いと言われたが、ここは遠いので近くの病院を探そうという事になりました。

それが入院から2週間が経った頃(19日)に医師から電話がありました。再度CTを撮ったら肺が悪化して肺水腫が進んでおり、ここ3~4日がヤマと言われました。同時に「気管支切開をしますか?」と聞かれました。これは即刻断りました。そして酸素吸入が開始されました。そしてステロイドの投薬が開始されました。

次の20日に医師に面談した時、本人が署名した延命治療拒否の尊厳死協会のリビングウィルを持って行って渡しました。これは6年前に本人がチューブにつながれて死ぬのはイヤだと言っていたので書いて貰ったものでした。医師には本人の意志はこれですから、一切の気管支切開等の延命治療はしないくれ、とお願いしました。医師も、どう治療して良いか迷っていたらしく、「これがあると助かります。参考にします」と言っていました。このとき兄は「今度来る時にヤクルトを持って来い」とまで言っていました。

しかしこれからは、我々家族と病院とのせめぎ合いという状態になっていきました。しばらくステロイドが効いて、小康状態でしたが、亡くなる4日前(3月2日)の医師との面談で、入院して3週間経った2月28日に撮ったCTで、3つ目の病気の気胸が大きく進んでいることがわかりました。つまり最初の非結核性抗酸菌症と肺水腫に加えて気胸ということです。
これは呼吸器外科の先生と相談したらしく、普通は肺にチューブを入れて空気を抜くと肺が膨らんで肺の孔が治る。という治療するが、兄の場合は体力が無いため、チューブを一旦入れると取れない可能性がある。それでもやりますか?という話でした。
この判断は本人の意志が最優先、ということで、本人は最後まで意識はあったので、医師と一緒本人に確認しました。医師は兄の耳元で、「これから苦しくなるので、チュ-ブを入れたいが良いですか?」と聞きました。すると、兄は明確に首を振りました。拒否の書類もあるし、聞いても本人は拒否している。何よりも本人は苦しんでいない。苦しいですか?と聞いても苦しくないと言っている。ということで「状況は分かりました。」と医師は言いました。
その時にビックリしたのは、「どんな理由で拒否するんですか?」と医師が本人に聞いたことです。その時は、すでに兄は口をきけない状況になっていたので、何でそこまで聞くのだろうと思いました。主治医は若い先生だったのですが、その人は納得しても、その後に居る4人のチームの先生方が、病院としては標準治療をしたい。という意志が強くあるんだな、と感じました。
その時も、医師に対しては、時間は短くなっても良いので、とにかく苦しみだけは取ってくれ。ちょっとでも苦しみが見えたら、どんどんモルヒネを入れてくれと、言い張りました。

最後の話として、亡くなった6日の昼に医師と面談した際、皮下点滴を提案されました。血管から点滴が出来ない状況で命を永らえるために、皮下に点滴を入れる。これをしますか?と言われました。これも断固拒否をしました。そして5年前に亡くなった母のときの経験談を話しました。その時は、色々な延命治療を断ったが、皮下点滴は受け入れました。これは体が必要な分だけしか吸収しないから大丈夫、と言われて始めました。しかし亡くなったときは、風船と言いますか、皮膚の下が水ぶくれと言いますか、手足がパンパンに腫れていました。しかしお通夜の時は水が抜けてガリガリに痩せていました。
水分があったので痰を取らなければいけない。看護士さんが来て、鼻からチューブを入れて痰を取るのですが、その時にものすごく苦しんでいました。そんな経験があるものですから、絶対に兄にはそれを繰り返したくない。このまま枯れるように逝かしてくれ、ただし苦しみだけはモルヒネで取ってくれと、繰り返し、繰り返し言いました。それが亡くなる9時間くらい前の話でした。
その時は兄はもう口がきけませんでした。しかし意識はあり、兄はいつもツバを吐くティッシュを気にしていたのですが、その時も、何か手振りをするので、ティッシュか?とティッシュの箱を見せると安心した表情をしていました。

話は戻りますが、2週間ほど前でしたか、弟の話によると、既に死を覚悟していたらしく、ホームを解約して中の物を処分しろ、と言っていたそうです。そして、私が聞いた兄の最後の言葉は、ちょうど1週間前にやっと聞いた、「前の部屋を」「施設」という言葉でした。そのとき、前に弟が聞いているから大丈夫だよ、と言いましたが、今考えると、これが最後の会話でした。

そして最後の亡くなった6日の昼に弟夫婦と行った時にも、直ぐに手振りをします。早く帰れ、と。これはいつも同じでした。会った瞬間から直ぐに帰れ。この時も、「分かったよ。帰るよ。また来るからね」とバイバイをすると、兄も手を振ったような気がしました。部屋を出るときに振り返ると、胸の所に両手を丸く組んでいました。美智さんが迎えに来たのかどうかは分かりませんが、一人でじっと死を待っていたのかな、と感じました。その9時間後に亡くなったわけでございます。

人の死は二つあると言われています。ひとつは肉体的な死。そしてもうひとつが忘却の死。全ての人の記憶から、この兄の記憶が失われたとき、人間は本当の死を迎えるといいます。
今回、残念ながら兄は肉体の死を迎えてしまいましたが、できれば皆さんの頭の中に兄の記憶が長く止まって、記憶における命だけは、何とか長生きして欲しいな、と思っている次第でございます。

本日は長々と、ありがとうございました。」

非常に異質ではあるが、これは喪主挨拶の場を借りた、自分なりの兄への「送る言葉(弔辞)」である。

「天龍院憲曉宣法居士」 合掌。

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コメント

 心からお悔やみを申し上げます。3月6日は半世紀まえに亡くなった父と同じ日です。

  一人一人の人生は語る人がいないと、時とともに思い出となりそれぞれの胸の内にしまわれてしまいます。でもエムズの片割れさんがお話してくださり、またこうしてこのブログで語られたことによって、お兄様はこのブログの読者の思い出に刻まれたことと存じます。

  市井の人々の思い出は関わった人たちの中に時とともに埋もれていきます。それが普通ですが、今回エムズの片割れさんがブログで語ってくださった事により多くの方たちに残っていくのですね。

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。
特に意識したわけではないですが、メモとして残したのは、自分の心のけじめでした。

投稿: patakara | 2019年3月18日 (月) 12:21

お兄さんのご趣味の記念切手収集。集めた切手を処分するのをお手伝いなさいましたよね。ヤフオクとかメルカリをつかって。その記事を読んだ記憶があります。1年以上前でしたか。
こころからご冥福をおいのり申し上げます。

【エムズの片割れより】
頂いたコメントを読んで、猛烈に後悔?しています。
お棺の中に、切手帳を入れてあげれば良かったと・・・
まさに、兄が子ども時代に集めた切手は、シート類は処分出来たのですが、記念切手の各1枚ずつ集めた切手帳はそのまま残っています。
この処分が難しくて、それを思い出していれば、お棺の中に入れていたものを・・・と。
今になっては、遅いので、孫か誰かが興味を持ってくれるまで、持っています。

投稿: kmetko | 2019年3月18日 (月) 15:00

心よりお悔やみ申し上げます。

お兄様の奥様、美智子さん素晴らしい方でしたね。
今頃はお二人で心優しい弟さん達の事など語り合ってるのではないでしょうが。
合掌

【エムズの片割れより】
ありがとうございました。

投稿: りんご | 2019年3月18日 (月) 18:31

読ませてもらいました
友人の一人です
彼の奥さんとの出会いにも一役かった
彼のいい写真はありますか
なければ一緒に旅行に行った時の写真があります

葬儀にはいけなかったけれども
彼を想い なぜか山口百恵の「さようならの向こう側」を聴いていました
冥福をお祈りいたします

【エムズの片割れより】
ありがとうございました。

投稿: k.nagata | 2019年3月18日 (月) 19:23

エムズの片割れさま、
森田由美恵の検索をして読ませていた
だき、最新の記事を読もうとして
お兄さまのこの記事を読ませていた
だきました。
 比較的長い文章ながら長さを感じ
させぬ胸に迫るものがありました。
 兄弟愛であると同時に兄弟として
生まれた男同士の強い友情のような
ものを感じました。
 心からご冥福をお祈りします。
 私も昭和23年生まれですのでエムズの片割れさまとはほぼ同年齢ですね。
 今から森田由美恵の記事に書き込まさせていただきます。
 よろしくお願いします。

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。
そんなに美しいものではありませんが、死者に鞭打つことも無かろう、ということです。
(ココログがシステムのリニューアルに伴って3/19から大混乱しており、頂いたコメントが反映されなかったようです)

投稿: ドジー | 2019年3月21日 (木) 13:11

エムズの片割れさま
 そうだったんですか、ひょっとしたら
許可のない人の投稿は受け付けない
システムかと思いあきらめておりまし
た。
 念のため今日(4/7)訪問したら投稿
がUPされており驚くと同時に嬉し
かったです。
 改めて森田由美恵のところに
投稿させていただきます。

投稿: ドジー | 2019年4月 7日 (日) 18:58

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