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2018年4月14日 (土)

「親の介護を機に、自らの生活が崩壊」~今のうちの心構え

今朝の朝日新聞で、ちょっと気になった記事。
「(けいざい+)愛、よろしく:反響編 夫婦でうつ経験、働いて生き抜く
 3月15日から3回にわたり、この欄で「愛、よろしく」を連載しました。幼いころは夜逃げを繰り返す貧乏暮らし。借金を抱え、26歳で自死しようとするが思い直す。誰でも愛して助ける「ウルトラマン」のような人になろうと決意、IT会社をつくって元ヤンキーを雇い、「俺たちクズでも幸せになる権利がある」とがんばる――。そんな社長と元ヤン社員の物語でした。共感して思いを寄せていただいた夫婦を訪ねました。

 埼玉県にある、エレベーターのない5階だてアパートの5階に、その50代夫婦は住んでいる。
 「私たちは、勇気と力と未来をいただきました」
 夫婦は、何度も心中を考えてきたという。練炭やロープを買ったことがある。遺書を書き、死に場所を求めてさまよったこともある。
 ふたりは、14年前までは順調だった。
 夫は、有名私大の法学部を卒業し、信用金庫に勤めた。外回りをしていて妻に出会った。給料は悪くない。夫婦で東京・築地にいっては、すしを堪能した。いま住んでいる部屋も購入できた。
 勤めて十数年たった2004年。妻の父が病に倒れた。妻は介護をがんばった。夫は仕事と介護を両立しようとがんばった。妻がうつ病に。夫もうつ病になり、休職。夫婦は日々の買い物に行くだけの、ほぼ引きこもり生活をした。
 半年たって体調が回復してきたので、夫は仕事に復帰しようとした。職場に行くと、みんなに無視された。理由もなく怒鳴られることもたびたび。でも休職したことが負い目で言い返せない。仕事を減らされ、減らされ、ついに机を取り上げられた。
 退職を決めた。だれからも彼を気遣う言葉がなかった。送別会もなかった。退職の日。花束どころか、「お疲れ様でした」という言葉さえもなかった。
 子どもはいない。やさしい言葉をくれたのは妻だけだった。彼女を守らなくてはと、ある会社に再就職した。だが、社内いじめでうつが再発、数年で退職に追い込まれた。
 「子どもの頃から、いじめられてきました。社会人になっても、いじめられるとは」と夫。
 「夫は、仕事と介護に誠実に取り組もうとしただけです。心が繊細すぎるのが悪いのですか」と妻。
 わずかながらの貯金が、生活費で減っていく。バッグや家具など、売れるものは売った。稼がなくてはお金が底をつく。夫はあせる。バイトを決める。でも、すぐに辞めてしまう。その繰り返しで、バイト先を50ぐらい変えてしまった。そして、何度も自死を考えた。うつが治っていないのだ。
 生活はいつもギリギリだ。なのに、新聞は欠かさずに取りつづけている。新聞をやめると社会とのつながりが切れると思うから。
 夫は言う。「連載に巡りあい、記事に『クズでも幸せになる権利がある』とありました。私たちにも、その権利はあると思ったのです」
 この春、夫婦は同じ職場でバイトを始めた。時給はひとり900円ほどだが、週休2日で働けば暮らしていける。
 働いて、何があっても生きぬく。いつか、きっと、良いことがある。そう信じて。
    ◇
 バリバリ働いているみなさん、これはひとごとではないのです。うつを抱える日本人は100万人を超えるといわれます。かくいう私も、心療内科に通ったことがあります。自分に限って……、はありません。(編集委員・中島隆)」(
2018/04/14付「朝日新聞」p8より)

「有名私大の法学部を卒業し、信用金庫に勤めた」平穏な生活を激変させたのは、「妻の父が病に倒れた。妻は介護をがんばった。夫は仕事と介護を両立しようとがんばった。妻がうつ病に。夫もうつ病になり、休職。」・・・・
親の介護が、子どもの平穏な生活を崩壊させる、という現実。古希を超えた我々にとって、まさに人ごとではない。それは加害者として・・・

さすがに、「介護する」苦労話は、70歳を過ぎた我々の雑談でも少なくなってきた。100歳を超える父親の介護の話をしていたある人も、昨年だったか、とうとう亡くなったという。
親の介護を終え、現在はいっとき平和な時期だ。そして数年後には、自分自身が介護される側に立つ可能性。
“その時”の対応策は??

2~3日前、街でばったり昔の仕事仲間の先輩と会った。街を歩いていて知り合いに会うなど、ほとんど無い。相当な偶然だ。話は「お元気ですか?」「その後、皆さん(仕事仲間)は如何ですか?」という話になる。そして返ってくる返事は「**さんが亡くなったの、知っている?」という話。
そして「段々と、亡くなった話が多くなりますね。じゃあお元気で」と別れる。

そう、まもなく自分たちの順番。
そして思った。自分やカミさんが、余命宣告された時、及び突然死したときに“どうするか?”は、元気な今のうちに、メモとして残しておく事が必要なのではないか?
たぶん、“その時”は動転して考えがまとまらないので・・・

ふとこんなことを思い出した。
親父の何回忌のときだったか、法事の会食(お斎)のあとで、(菩提寺の継承者の)兄貴の発案で、我々3人兄弟そろって親父の一番下の弟(叔父)夫婦とテーブルを囲んで、「叔父さんの所は女の子ばかりなので、もしもの時は、この先祖代々の墓に入りませんか?」と相談した。
この時、兄弟が全員そろっていることが大事(全員賛成)、と兄貴は言っていたが、なるほどと思った。この時は、叔父夫婦も健康だった。しかし、その数年後、叔父は68歳で亡くなった。
こんな話は、健康の時でないと話せない。だから結果としては良いタイミングだった。たぶんガンが見つかった時も、叔父夫婦も墓のことは心配しないで済んだのでは?
そして一人残された叔母も、最近、お寺から生前の戒名をもらったと聞いた。自分が亡くなった後、何とか子どもたちへの迷惑が少なくなるように、との思いなのだろう。

自分たちも、やはりまだ健康な今のうちに、子どもたちへの影響が少しでも少なくなるよう、“そのとき”の対処方法をメモに残しておくことが必要かも知れない、と思った。


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