« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »

2018年3月の15件の記事

2018年3月30日 (金)

老人でも意外とスマホの「LINE」が便利

この所、スマホで「LINE」を楽しんでいる。老人でも結構楽しめる。
きっかけは、昨年(2017年)6月にあった、中学の同窓会。近くに座った人から「LINEやっている?」と聞かれたこと。聞くと、子どもからLINEをやれと言われているとか・・・
「そもそもLINEをやる相手も居ないのでやっていない」と答えたが、その後、10月に九州の孫と嫁さんが遊びに来たとき、留守番のパパとスマホでTV電話をしていた。それがあまりにリアルなので、ビックリ。wifiを使うと、無料で電話やTV電話が出来るという。
興味を持ったので、正月に長男が来た時に実験。息子もあまりLINEは使っていないと言うが、息子のリアルなヒゲ面(づら)が映ったときには感激。カメラをOFFにすれば普通の通話が出来る。なるほど・・・・

さて本題だが、何も調べもせずにLINEに登録したので、親しくもない相手にメールを乱発してしまう大失敗をしてしまった。今日は、それを避けるには・・・の備忘録である。
Lineregister006 結論は、初期登録時(アカウント新規作成時)、自分の名前を登録する画面で、「友だち(自動)追加」と「友だちへの追加を許可」の両方を「OFF」に設定しておいた方が無難(ここ)。
(後から行う場合は、LINEのアプリの「設定」(左上の歯車マーク)⇒「友だち」で、「友だち自動追加」と「友だちへの追加を許可」の両方を「OFF」に設定)

もし、登録時にデフォルトのまま「友だち(自動)追加」がONの場合は、LINEアカウントの登録完了とともに、自分のスマホのアドレス帳の情報(電Linefriendsadd20161018top 話番号と携帯電話のメールアドレス)がLINEのサーバーに送られ、アドレス帳に登録していた人がLINEユーザーだった場合は、自動的に「友だち」に追加され、その相手には「○○があなたを電話番号で友だちに追加しました。」という通知が発信されてしまう。つまり、会社の上司や顧客などの電話番号を連絡先に登録していたら、上のようなメールが相手に届いてしまう!(相手が「友だちへの追加を許可」設定をオフにしている場合を除く)(ここ
(逆に、自分のアドレス帳の誰がLINEを使っているかを知りたい場合は、「ON」にしておく。OFFにした場合は、友だちの追加は手動のみ可能)
そして「友だちへの追加を許可」がONの場合は、自分のアドレス帳に載っている相手がもし「友だち(自動)追加」がONの場合は、その相手のスマホで自分が「友だち」として自動で追加されてしまいます。

そしてこの場合は、「知り合いかも?」という通知が自分のスマホに表示されます。これは「あなたのことを友だちに追加しているが、こちらからは友だちに追加していない人」です。自分が友だちに追加している相手は「友だち」リストに表示されますが、相手が自分を友だちに追加しているが、こちらは追加していない人は「知り合いかも?」欄に表示される。(ここ

自分は最初、デフォルトのままアカウント登録してしまったので(両方ONのまま)、何かの為に・・・と思ってアドレス帳に記録したおいた人たちのうち、LINEを使っている人たち全員に「○○があなたを電話番号で友だちに追加しました。」という通知が発信されてしまった可能性があり、今考えても冷や汗が出ます・・・・(もしかすると自分の不勉強で、その設定では連絡が行っていないかも知れないが・・・)
ともあれ、手動での友だち登録の方法は、Net上に色々あるので、上の設定を「OFF」にしておいた方が“無難”ということ。

さて、LINEだが、たまに九州の嫁さんが、孫の動画を送ってくれる。なるほど、そんな事も出来るのだ。LINEの「トーク」は瞬時に相手に届くので、ちょっとした連絡は、メールなどよりも便利。
ふと、弟との連絡もLINEの方が簡単だと思って、弟に「LINEをやったら」と打ったら、早速登録したとのこと。それで、孫の動画を転送してあげたら、直ぐに朝の散歩の桜の風景の動画を送って来た。まったく弟も65歳の老人だというのに、もう使いこなしている。生意気に!!?
ともあれ、これからは便利。

この所、スマホを片時も手放したことがない。若い人なみ。格安スマホ(マイネオ)を使っているが、プロバイダー(nifty等)に来たメールも、icloudのアドレスに転送をかけているので、瞬時に分かるし(ここ)、ニュースサイトを覗いていると、世の中の動きも瞬時に分かる。それに、歩いた歩数や、何から何までの情報が得られるので、面白い。
何かを調べたくなっても、わざわざPCを立ち上げる手間も必要ない。使えば使うほど便利。

若い人が夢中になるはずだ。まさに奥が深いスマホ、そしてLINEの世界ではある。

(関連記事)
auのiPhone6で、格安スマホ「マイネオ」に乗り換えた話 

| コメント (1)

2018年3月28日 (水)

「過ち犯した人はだめ?」

今朝の朝日新聞にこんなコラムがあった。
「(後藤正文の朝からロック)過ち犯した人はだめ?
    アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文さん

 「何かした人は絶対にだめだとは、人権教育の上でもしたくない」
 前川喜平・前文部科学事務次官が講演した名古屋市内の中学校の校長が、記者会見で発した言葉だ。
 文部科学省は名古屋市の教育委員会に対して、前川氏を招いた狙いや、講演の内容について問い合わせ、録音データの提供を求めていたという。
 それを受けた記者の「問題を起こした人を教育現場に招くのは妥当か、と文科省は質問しているのでは」という指摘に、校長は先に書いたように答えた。
 人生における失敗や過ちは、どんなものであれ取り返しがつかないと考えながら生きてゆくのはつらい。普段、何げなく歩いている道が断崖絶壁の間に架けられた細い板だとしたら、僕は足がすくんで動けなくなるだろう。
 石でも汚い言葉でも、罪を犯した人間にはなんでも投げつけてよく、人間として扱う必要がないと考えている社会を想像すると、背筋が寒くなる。
 自分はこれまでにひとつの罪も犯しておらず、清廉潔白でない他者は許さないと考える人たちによる社会は、とても息苦しい。
 また、権力を持つ者たちが、思いのままに人々の権利を抑え込むことができる社会を望んでいるとしたら、とても恐ろしい。
 教育は、そうした社会を拒むための、ひとつの手段であることを願う。(ミュージシャン)」(
2018/03/28付「朝日新聞」p34より)

「自分はこれまでにひとつの罪も犯しておらず、清廉潔白でない他者は許さないと考える人たちによる社会は、とても息苦しい。」という指摘はその通りだと思う。
そもそも、長い人生の中で、「消したい過去の行為」がひとつも無いという人はいるのだろうか?
もしいたら、そんな人は、“自分が絶対で、全てで自分が正しい”という考え方の人なのだろう。それとて、他人から見れば「何だあいつは・・・」となって、「過去を悔いて消したい」と考える人よりも、もっと始末が悪い。

Net社会が発達して「忘れられる権利」という概念が生まれている。もちろん自分にも忘れたい過去はある。もしそれが現代のように、Net上で掲載されていたら、と考えると背筋が寒くなる。
もちろん「取り返しが付かない行為」というのはある。貴乃花部屋の暴力事件もそのうちのひとつだろう。
しかし「自分(だけ)の愚かな過ち」、しかも他人に害を与えないような行為は、忘れ去られて良いと思う。もしそれを永久に皆が知る可能性があり、それを知られることによって自分が軽蔑される可能性があるとすれば、その秘密がバレるのではないかと、ヒヤヒヤの毎日を送ることになる。そんな息苦しい生活はたまらない。
大昔の数回の自分の愚かな行為が、幸いなことにNet上にも上がらず、自分以外の記憶から消えているという有り難さ・・・。
Netに簡単に情報が上がってしまい、それがなかなか消せない今の社会は、自分個人的には息苦しい社会であると思う。

201803282020260b8 <付録>「まんがイラスト ぼうごなつこのページ」(ここ)より

| コメント (0)

2018年3月26日 (月)

中島みゆきの「砂の船」

最近、この歌に凝っている。中島みゆきの「砂の船」という歌である。

<中島みゆきの「砂の船」>

「砂の船」
  作詞・作曲:中島みゆき

誰か 僕を呼ぶ声がする
深い夜の 海の底から
目を 開ければ窓の外には
のぞくように 傾いた月

僕はどこへゆくの 夢を泳ぎ出て
夢を見ない国をたずねて
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく

望むものは何ひとつない
さがす人も 誰ひとりない
望むほどに 消える夢です
さがすほどに 逃げる愛です

月は波に揺れて 幾百 幾千
古い熱い夢の数だけ
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく

月は波に揺れて 幾百 幾千
古い熱い夢の数だけ
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく
いま 誰もいない夜の海を
砂の船がゆく
ただ 誰もいない夜の海を
砂の船が ゆく

中島みゆきの歌は、激しく叫ぶような歌が多い印象だが、この歌は何と優しいのだろう。
優しいイントロ、そして最後の「いま 誰もいない夜の海を 砂の船がゆく」という上下に動く印象的な旋律。

180326kansuigyo この歌は、1982年3月21日に発表された「寒水魚」という9枚目のアルバムに収録された一曲。、第1曲目「悪女」だった。

例によって、歌詞のコメントはしない(出来ない)。
それで旋律だが、この3拍子(6/8拍子)は自分の好きな抒情歌に多い。自分の「お気に入り」に登録している歌で、3拍子の歌をチェックしてみると、「北上夜曲」「まりもの歌」「青葉の笛」、そして菅原洋一の「風の盆」「今日でお別れ」などなど。
自分は結構3拍子の歌が好き。自分にとっては、古い歌だが、この歌は大発見!
天才・中島みゆきの歌の世界には、こんな歌もあるのだと、改めて見直した。

| コメント (1)

2018年3月24日 (土)

東京大空襲「戦争孤児11人の記憶」~星野光世さんの話

先日、NHKラジオ深夜便で「“戦争がうんだ子どもたち”の物語 元戦争孤児の会会員 星野光世」(2018/03/15放送)を聞いた。
死者10万人以上、被災者100万人という昭和20年(1945年)3月10日の「東京大空襲」などで、両親を亡くし、孤児となった人たちの体験談である。その悲惨さは、決して忘れてはならない日本の歴史である。番組を少し聞いてみよう。

<戦争がうんだ子どもたちの物語 星野光世>

*この番組の全部(40分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

戦争孤児については、古希の自分たち以上の年代は、少なくてもその存在は知っている。しかし、今の若い親たちは、どの位知っているのか・・・。50代以下の人たちは、既に過去の話で忘れ去られているのではないか。それに警鐘を鳴らしたのが星野さん。
180324hoshino この放送で紹介されていた星野光世著「もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記憶」という本を、さっそく近くの図書館で借りてきた。易しい文章とたくさんの鉛筆画で描かれている世界は残酷な現実であり、これらをもたらす戦争を決して繰り返してはならない、と教える。

星野さんは、「はじめに」でこう語る。
「はじめに
 ある大学教授が、ひとりの学生に「真珠湾って、どこにあるか知っているかね?」と尋ねたときのこと。少し考えてからその学生は、「三重県です」と答えたといいます。
 この記事を、数年前に何かで読みました。
 大勢の若者の命が戦場で散っていったあの戦争。310万人という犠牲者を出し、日本中をガレキの山と化したあの戦争も、今では忘れ去られようとしています。
 「おじいちゃん、おばあちゃんが子どものころ、この日本の国でこういうことがあったんだよ」
 戦争に翻弄されながら生きてきた大勢の戦争孤児の実態を、今、書き留めておきたい……。そんな思いから、絵を学んだことのないわたしですが、この本作りを思い立ちました。
  戦争が始まると、その国の子どもたちの身の上にどんなことが起こるのでしょうか。先の戦争で生じた、12万3500人あまりという戦争孤児(1948年厚生省調査・沖縄県を除く)は、その後、どんな道を歩んできたのでしょうか――。
  ここに登場する子どもたちのお話は、作り話ではありません。わたしたち孤児の体験をもとにつづった本当の話です。戦争で親が死んでしまったあと、子どもたちはどのように生きてきたのでしょうか。必死に生きた、その姿を追ってみました。  星野光世」

この本に書かれている体験は、短いものでは1頁数行しかない。しかし全ての作品に共通していることは、両親を失った子どもたちは、両親の実家などに引き取られるが、そこでのイジメと、奴隷のようにこき使われる姿。もちろん学校にも行かせて貰えず、「人買い」に売られていく子どもたちも。
東京に逃げても、上野駅で浮浪児となり、生きる為に食べ物を盗み、自治体による「狩り込み」でトラックに乗せられて行った先は、田舎の山の中。そこに捨てられて死んでいった子どもたちはどの位居たのか・・・

何とか生き延びたとしても、浮浪児だったという辛い過去を引きずって生きるしかない人生。
この星野さんではないが、別の終戦時15歳だった女性は、体験談をこんな言葉で結ぶ。
「・・・・ わたしは23歳で結婚しました。
 45年間添い遂げ、夫は17年前に旅立ちました。とても優しい人でした。
 でもわたしは、その優しかった夫に、浮浪児だった過去を最後まで打ち明けることができませんでした。夫の心変わりが怖かったのです。
 「お父さん、ごめんなさい。結婚する前、東京の上野で、浮浪児生活をしていた過去を、とうとう隠し通して……」
 呼吸が止まった瞬間、わぁっと泣き伏し、優しかった夫に謝りました。」

ふと、今の日本、世界を思い浮かべる。すると、これらの話が過去の話では無い事に気付く。中東などでは、今でも爆弾が落ち、人が死に、子どもが運良く助かっても、その後の過酷な人生が待っている。そして日本でも、親に捨てられ、施設で育つ子も多い。いかに、両親がそろって普通に食事が取れる生活が恵まれているか・・・

しかし今の日本は、70年も守ってきた平和憲法が「自民党憲法改正推進本部が安倍晋三首相の9条改正案に沿った方向で取りまとめる方針を決めたことについて、23日に開かれた同党総務会では、「拙速」との批判が相次いだ。
 前日22日の推進本部全体会合では、反対論も残る中で細田博之本部長が今後の対応を自らに一任するよう求めて押し切った。」(
2018/03/24付「朝日新聞」より)だって・・・・。
国民の最も大切な財産である平和憲法の改定を、自民党の誰かに「一任」だって・・・。そんなころ出来るワケがないのに・・・
一方、東京都では、デモなどの市民活動や報道への規制の懸念がある都迷惑防止条例の改正が成立。数の力で、自由が制限されつつある。

おっと話がそれた。
悲惨な体験談と優しい絵。子どもたちへ、と作った本だが、ママさんたちに多く読まれているという。たぶん良書として近くの図書館にあるはず。ぜひ一度手に・・・
著者の言うように、自分も「おじいちゃん、おばあちゃんが子どものころ、この日本の国でこういうことがあったんだよ」ということを子どもたちに伝えていきたいと思った。

最期に、著者の体験談を少し読んでみよう。
=================
疎開したおわん
   星野光世(終戦時11歳)

 わたしは、東京都本所区で生まれました。今の墨田区です。本所区菊川町で、家はおそば屋さんでした。お店は、ちょうど深川区(今の江東区)との境で、目の前を都電が走る繁華な街でした。場所にも恵まれ、店はいつも忙しく活気づいていました。
 家族は両親ときょうだいが4人。いとこのお兄さんたちが3人、お店で働いていましたので、わたしは大家族の中で育ちました。
 お正月には、妹とふたりで家の前で羽根つきをしました。
 わたしは回転象さんが大好きでした。デパートへ連れていってもらったときは、いつも乗せてもらいました。本物の象さんのように大きな木造の象さんです。デパートのおねえさんに乗せてもらうと音楽が流れ、上下に浮き沈みしながら、ゆっくり回る象さんです。これに乗るのが、わたしはとても楽しみでした。
 今のようにテレビもゲームもない時代です。子どもたちは毎日真っ暗になるまで外で遊びました。よく見かけたのは、男の子たちが真剣にベーゴマやメンコ打ちをする姿です。お侍さんの格好をして、チャンバラごっこもやっていましたね。
 女の子たちは、夢中になってお手玉やまりつきをして遊びました。
 やはり戦争中です。まりつきの歌も兵隊さんを歌った威勢のいい軍歌でした。そのほか、「カイセン・ドン」「かごめかごめ」「どこ行き?」「見ーえた見えた」など暗くなるまで夢中で遊びました。

 1941年12月8囗、真珠湾攻撃。ついに日本はアメリカを相手の戦争に突入しました。

 子どもたちは、戦争とは兵隊さんが、はるか遠い戦場で戦うものだと思つていましたが、そうではなかったのです。日本軍は中国や東南アジアなどで戦争をしていました。やがてアメリカは、わたしたちの住む街や村へ飛行機から爆弾を落とし、日本の国内が戦場となったのです。

 アメリカは、3年の歳月と30億ドルともいわれる莫大な費用をかけて、日本に爆弾を落とすためB29という爆撃機を完成させました。全長約30メートル、全幅が約43メートルという巨大な爆撃機です。このB29は、焼夷弾という爆弾を積み、日本に向けて飛び立ちました。日本の大きな都市は、B29による爆撃の危機にさらされることになったのです。
 この爆撃=空襲を避けるために、大都市に住む3年生から6年生までの小学生を、安全な農山村へ移動させる「学童疎開」が始まりました。
 学童疎開は、ふたつにわかれていました。
 縁故疎開……田舎の親戚や知人を頼って家族で移動すること。
 集団疎開……学校ごとに集団で地方へ移動すること。
 疎開ができない、残留組をどうするかという問題もありました。体が弱い、お金がないなどの理由で学童疎開に参加できない児童もいたのです。

 学童疎開が始まると、子どもたちの姿が都会の街から消えてしまいました。
 子どもたちの安全を考えた、この学童疎開が、やがて多くの戦争孤児を生みだす原因となりました。都会に残った親が空襲で亡くなり、疎開をしていた子どもだけが残されてしまったからです。

 戦争が日増しに激しくなり、わたしは中和国民学校のお友だちといっしよに集団疎開に行くことになりました。疎開先は千葉県君津郡小糸村にある天南寺というお寺です。
 いよいよ集団疎開に行く朝を迎えました。8月の暑い囗でした。
 家の前で、母が「学校まで送っていこうか?」 といってくれました。
 「いい、こなくても。そんな大きなお腹をして」と断ったその言葉が、母と交わした最後の言葉になってしまいました。そのとき、わたしの母は、もうすぐ赤ちゃんが生まれる大きなお腹をしていたのです。
 天南寺でのわたしたち5年女子の担任は、湯沢とき子先生。若いピチピチした先生でした。
 先生は、まずわたしたち児童を4つのグループに分け、「小隊」と名付けました。その小隊をふたつずつまとめて「中隊」とし、最後に総括して「一個大隊」と呼びました。
 さすが戦争中、軍隊と同じ呼び方です。

 そんなある日のこと、お寺の庭に、空から燃えかすのようなものが大量に降ってきました。わたしたちはみんな境内に出て、あとからあとから降ってくる燃えかすを見上げていました。大きいものから小さいものまで、空を覆うほどの大量の燃えかすです。
「これはいったい、なんだろう?」
 わたしたちは何もわからないまま、空から降ってくる大量の燃えかすを、ただ眺めていました。

 その日から、いく日が過ぎたでしょうか。ひとりの男の人がお寺にやってきました。顔半分にやけどを負って、焼け焦げた服を着たその人は、わたしたちの仲間、山田和代さんのお父さんでした。
 和代さんのお父さんは、わたしたちの生まれ育った東京の街が3月10日の空襲で、すべて燃え尽き、焼け野原になってしまったことを話してくれました。
 あの日、お寺の庭に大量に降ったものは、東京から飛んできた街の灰だったのです。
180324sensoukoji  背中に火が燃え移って倒れる人。
 焼夷弾の直撃を受けて火だるまになる人。
 道路が逃げ惑う人であふれる中、アメリカ軍は容赦なく焼夷弾を落としました。

 道路は黒焦げの死体で埋め尽くされ、防火用水の中には、火に追われた人たちが頭からつっこんで、真っ黒に燃え尽きていたそうです。

 3月10日からしばらくすると、千葉に疎開しているわたしたちのもとへ、空襲で生き残った家族や親戚が、子どもを迎えにくるようになりました。
 伊藤雅子さんのところへは、親戚のおじさんが迎えにきました。雅子さんは、ご両親もたったひとりのお姉さんも空襲で亡くなり、ひとりぼっちになってしまいました。
 雅子さんの立派なお家に何度か遊びに行きましたが、勉強やピアノを教える芳子さんという若いきれいなお付きの人がいました。お嬢様だった雅子さん……、おじさんに連れられてお寺をあとにする後ろ姿がいまだに忘れられません。
 鈴木弘子さんのところはお母さんが迎えにきました。最高に幸せです。
 でも、かわいかっていた妹が空襲で亡くなったと聞かされ、お母さんのひざに泣き伏しました。その夜、お母さんはお寺に泊まられました。夜のお別れ会で弘子さんはお得意の「松づくし」を上手に歌いました。
 弘子さんの家は、本所の酒屋さんでした。遊びに行ったある日のこと、「お母さんが弘法大師を尊敬していたので、わたしは弘子という名前になったのよ」と、命名の由来を話してくれました。

 生徒の半数くらいがいなくなったころ、わたしのところへ母方の伯父が迎えにきました。
 伯父は、わたしの顔を見るなり、「お父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃったよ」というのです。
 でも、そう聞かされても、不思議と悲しみもわかず、涙も出ないのです。それはきっと、両親が亡くなって、親戚と寂しそうにお寺を去っていく仲間たちを何人も見ていたからかもしれません。
 そのとき、わたしが感じたことは「ああ、とうとう自分の番がきた」、それだけでした。

 わたしの家では、父と母と兄と妹の4人が亡くなりました。
 わたしが集団疎開したあと、東京には父と旧制中学に通っていた兄のふたりだけが残りました。兄は体が大きく親分肌で、よくケンカをして父から叱られていました。
 母はふたりの妹と弟を連れ、千葉の実家に疎開しました。しかし、父が病気で入院したため、まだ赤ちゃんだった下の妹をおぶって上京し、数日後、大空襲に遭遇したのです。
 あの夜、猛火の中をどの方向に逃げたのか、どこで息が絶えたのか、4人の遺体は見つかっていません。

 残されたのは、11歳のわたしと、8歳の妹と、4歳の弟の3人だけです。

 このとき妹は、「これからは何かあっても、お姉ちゃんから離れるまい」と決心したそうです。
 わたしは、まず弟と妹のいる千葉の母の実家に連れていかれました。

  2か月後には、妹と弟といっしょに新潟の父の実家に移ることになりました。その途中、乗りかえの両国駅からわが家のあったところまで連れていってもらいました。
 1945年5月でした。
 3月10日の大空襲から、わずか2か月しかたっていません。集団疎開先のお寺で思った、あれほど帰りたかった東京の家は、むざんなガレキの山になっていました。
 ふと足元を見ると、わたしが2階の机で使っていた電気スタンドが、燃え尽きずにみどり色のまま転がっていました。

 初潟の父の実家での生活は苦しいものでした。大黒柱の叔父は兵隊に取られており、年老いた祖母と、幼い子ども3人を抱えた若い叔母が、わずかな田畑で農業をやっていたのです。
 その貧しい暮らしの中、わたしたち3人が増えたので、それはもう大変でした。
 三度の食事はお湯の中にご飯粒がほんの少し浮いているだけ。ご飯を食べるのに箸がいらない、ただ飲むだけのご飯でした。そのうえ、わたしは祖母から毎日怒られていました。
 3人きょうだいで、わたしがいちばん上でしたから、朝から晩まで、わたしのことばかり怒るのです。とっても怖いおばあさんでした。

 ある日、隣村の叔父が「今夜ひと晩だけ、叔父さんの家に泊まりにこないか」と、わたしたち3人を迎えにきました。この叔父は、東京の家にときどききていましたのでよく知っています。わたしたちは喜んで叔父についていきました。
 隣村といっても、険しい山をいくつも越えて、夕方やっと叔父の家に着きました。そこには、すごいごちそうが用意されていたのです。わたしたちはびっくりしました。お砂糖もない時代でしたが、大きなお皿におはぎが山盛りです。妹も弟も大喜びです。
 久しぶりにお腹いっぱい食べて、ホッとしていたとき、わたしは叔母に呼ばれました。叔母は、わたしの父の妹です。
 叔母は、突然こういいました。「今日からおまえたちは、ここの家の子になるんだ」と。
 わたしは、この言葉に強いショックを受けました。ひざに抱かれている赤ちゃんを含めて、叔母の家には6~7人の子どもたちがいたからです。
 ここの家の子になれといわれても、こんなに大勢子どもがいるのにわたしたちを本当に育ててくれるのだろうか。
 それなら、なぜひと晩だけといって、わたしたちを連れ出したのか。
 わたしたちは、だまされて叔母の家に連れてこられたのです。
 まただまされて、どこへ連れていかれるかわかりません。
 知らない遠いところへ連れていかれ、きょうだい3人バラバラにされ、二度と会えなくなってしまうかもしれない。「そうなってからではもう遅い」と思いました。
 学校へ行かれなくてもいい、ご飯が食べられなくてもいい、このままこの家にいたら、今よりも、もっともっと苦しみが襲ってくるに違いない。
 「そうだ、この家から逃げるしかない!」
 わたしは、眠れないふとんの中で心を決め、翌朝すきを見て妹と弟を連れ、叔母の家を逃げ出しました。夢中で走りました。
 「ここまでくれば大丈夫、もう誰も追いかけてこない」
 暗い森の中を走り抜けると、そこはまぶしいほど明るい山頂でした。8月だというのに、さすが新潟、あちこちに雪がいっぱい残っています。ふと足元を見ると清水がポコポコ湧き出ています。
 「あっ、昨日叔父さんと水を飲んだところだ!」妹と弟が叫びました。
 ……そうです、道は間違っていなかったのです。まずはホッとして、3人で蕗(ふき)の葉をコップがわりに冷たい清水を飲みました。そのとたん、今までこらえていた悲しみが、ドーツと噴き上げてきました。
 逃げてはきたものの帰る家がない。
 すがりたい父も母も、もういない。
 「お父ちゃん、お母ちゃん、どうしてわたしたちを残して死んじゃったの……」
 どうしたらいいかわからない苦しさに、とうとう泣けてきました。
 妹も声をあげて泣きだしました。
 何もわからない4歳の弟の目にも、涙がいっぱいでした。
 両親の死を聞かされたときも、ガレキの山となったわが家を目の前にしたときも泣くことのなかったわたしが、このときばかりは、両親のいない悲しみがこみ上げてきて、ついに泣いてしまったのです。
 ……やがて、わたしたちは気を取り直し、また山を下り始めました。
 知らない山道をさ迷いながら、夕方やっと祖母の家まで戻ってきました。

 「なんだ、おまえたちは!」
 祖母は大声でどなりました。
 いなくなったはずの3人が目の前に立っていたので、びっくりしたのだと思います。どんなに怒られても、わたしたちは祖母の家しか帰る場所がなかったのです。黙ってうなだれている3人を見て、祖母は「逃げてきた」と察したのか急に声を落とし、優しくなりました。
 「そうか、お父ちゃんの生まれた家がいちばんいいのか。さあ上がれ」
 わたしたちを部屋に上げると、「朝から何も食べていないんだろう」といいながら白いご飯を出してくれました。

 ふと見ると、祖母はわたしたちに背を向けて泣いているのです。
 わたしは胸がいっぱいになりました。
 逃げてきた3人を、ひとこともとがめず、涙で受け入れてくれたのです。怖かった祖母も、本当は心の優しい人だったのです。辛く当たっていた祖母自身が、わたしたち以上に辛い思いをしていたのかもしれません。

 1945年8月15日、やっと戦争が終わりました。
 日本は戦争に負けたのです。

 戦争が終わって2か月ほど過ぎたころ、兵隊に行っていた叔父が帰ってきました。しかし、生活はすぐには楽にならず、わたしたち3人は別れて暮らすことになりました。わたしと妹のふたりが、1年間だけという約束で母の郷里の千葉へ戻ることになり、弟ひとりがそのまま新潟に残ったのです。

 千葉に旅立つその日。わたしと妹は、朝暗いうちに起こされ、眠っている弟を置いたままそっと家を出ました。
 最初は1年間という約束だったのですが、2年たち、3年が過ぎ、結局そのまま10年が過ぎてしました。
 「あのとき、弟も連れていくと、なぜいえなかったのか」
 年を追うごとに、わたしの後悔の念は募りました。
 4歳だった弟は、歳月が過ぎるとともに、わたしと妹のことは忘れてしまい、育ててくれた叔父、叔母を本当の親だと信じて育ち、いっしょに育ったいとこたちをきょうだいだと思って育ったのです。

 わたしと妹が引き取られた伯父の家は米作りの大農家で、おじさんや、おねえさんたちが住み込みで働いていました。当時は今のように機械化されておらず、なんとしても人手が欲しかったのです。
 わたしは中学2年のころから、農繁期になると1か月近く学校を欠席して農作業を手伝い、義務教育すら思うように受けられませんでした。しかし、両親が亡くなった時点で学業をあきらめていたわたしは、通学している友人を見ても、うらやましいとも思わず、ひたすら農作業に精を出しました。
 大自然の中で思いっきり汗を流したおかげか、弱々しかったわたしの体は見違えるほど丈夫になりました。農作業がわたしに合っていたのかもしれません。
 20歳になるころから、ぽつぽつ農家から結婚話がくるようになりました。
 自然を相手にする農業は大好きでしたが、わたしはこのまま農村で一生を終えたくありませんでした。
 「どうしても生まれ故郷の東京が恋しい……」
 今まで農業を手伝ってきたのは、戦争で親が亡くなったあと育ててもらった「恩返し」です。お嫁に行く年齢になれば、そこで初めて「自分の人生を生きる」自由が許される。わたしはその日のくるのを待っていました。
 しかし周囲は猛反対。当時まわりには、東京へ出て働く農家の娘はひとりもいなかったのです。ずいぶん反対されました。

 上京にいちばん反対したのは、わたしたち姉妹を育ててくれた伯父でした。伯父には実の子がいません。わたしをそばに置いておきたいという思いは痛いほど伝わってきます。
 ある日の夕方、薪をくべて風呂を沸かしていると伯父がきて、いいました。
 「おまえは、小さいときから体が弱かった。こうして空気のきれいな田舎で暮らしているから丈夫でいられるんだ」
 なんとしても東京行きを断念させようと、伯父は必死でした。しかし、わたしの心は固かったのです。そんなわたしに伯父は「大海のボート」といい放ちました。
 伯父の言葉にそんな自分の姿を思い浮かべました。どこへやどりつくの、いつ転覆するかわからない前途多難な航海、その運命にあえて挑戦しようとするわたしに、伯父は「日本一の強情っ張り」といってさじを投げたのです。
 戦争で両親を亡くして親戚の家を転々とし、どこにも行き場のないわたしたちを温かい心で救ってくれた優しい伯父。その伯父の思いを叶えて、地元で嫁いで喜んでもらいたい気持ちも一方にはありました。
 しかしわたしは、どうしてもこのままこの地で一生を終えたくなかったのです。

 とうとう、わたしは自分の初心を貫きました。
「東京へ行ってもいい」といわれたときのことは、今も忘れられません
「バンザーイ」
 両手を思いっきり伸ばし大空に昇っていきたい……。
 そんな心境でした。
 今日は最後の草刈りです。
 鎌と砥石を持って――。

 上京する日がやってきました
 新潟の叔父が千葉まで、わたしを迎えにきてくれました。
 途中、母方の祖母の家に挨拶に寄ると、米寿を過ぎた祖母は、わたしの手をしっかりと握り、「働けよ、働けよ」と力を込めて何度も繰り返すのです。ほかのことは何もいいません。おそらく、長年苦労した人生の中から出た言葉が、わたしに贈る、この「働けよ、働けよ」という言葉だったに違いありません。
 その夜、叔父といっしょに東京の錦糸町駅に降り立ったとき、まばゆいばかりのネオンの美しさにびっくりしました。
 しかし、その美しさに陶酔する心の余裕はわたしにありませんでした。「そうだ、この東京のネオンを、心から『きれいだな』と思えるようになるまでがんばろう」と固く心に誓いました。

 上京して最初に向かったのは葛飾に住む伯父の家です。この伯父は、父の姉のご主人です。建築業を営んでいて、新潟の叔父の長男はそこで働いていました。部屋に上がり挨拶をすると、伯父は開口一番、「空襲で両親が亡くなったとき、わたしは兵隊に行っていてなんの力にもなれず、本当に申し訳なかった」とわたしに謝ったのです。
 わたしはびっくりしました。今まで親戚から冷たくされることが多かった中で、伯父の温かいこの言葉がジーンと胸にしみました。
 葛飾の伯父と新潟の叔父は、実の父親のように力になってくれました。

 上京して初めての仕事は、伯父のお世話で、葛飾区内のお肉屋さんの店員でした。初めての就職、やっと自由になれた身。しかし、それまでの田畑を相手の仕事から連日大勢のお客を相手の仕事に変わり、ただただ一生懸命に働く毎日でした。当時はまだ、スーパーマーケットなどない時代でしたので、小売店はとても忙しかったのです。
 葛飾の伯父も新潟の叔父も、ときどきお店に顔を出してくれました。お肉屋さんのご主人から、「あなたは親がいなくても、いいおじさんたちがいていいなあ」といわれたことがあります。
 初めてのお給料日がきました。
 住み込みで1か月3000円。ご主人から初めてお給料袋を渡されたときにいわれた言葉が忘れられません。
 「人間は一生の間に、お金がいくらあっても足りないときが必ずくるんですよ。貯金しておきなさい」と。
 こうしてわたしの東京での生活はスタートしたのです。

 心がへなへなとくじけそうになったときに、力をくれたのは、上京する際に渡された一通の封書でした。千葉の同じ集落に住んでいたいとこ、源作兄さんからの贈り物です。
 源作兄さんは、もともと東京の深川に住んでいて、本所のわたしの家にときどききていました。戦後、朝鮮から引き揚げてきて、わたしの両親が空襲で死んだことを知ったそうです。
 封書の中の便箋には、漢詩のような格言が書かれていました。
 難しくて、わたしには大まかにしか理解できなかったのですが、「世の中を生きていくうえで、どんな事態にぶつかっても、心を鍛えながら乗り越える力を与えてくれる格言」だとわかりました。
 詩の末尾に「結果は自然にくる」と書き添えてありました。そして最後に「貴妹の上京に際し、右の詩を贈る。健康を祈る」と結ばれていました。
 贈られたこの詩が、心がくじけそうになったとき、どんなに力になってくれたかわかりません。今もって、わたしは源作兄さんを「心の兄」と慕っています。

 うれしい再会もありました。
 新潟の叔父から連絡があり、置いてきてしまった弟と会わせたいというのです。4歳だった弟も、義務教育を終え東京に就職が決まったとのことでした。
 11年ぶりに見る弟。
 「こんなに大きくなって……」
 がっしりした体格は母親ゆずり、幼いころの面影も少し残っています。
 4歳のとき、目ざめた弟は突然姿を消した姉たちを探して、大声で泣きわめいたに違いありません。しかし、弟は長年の別離などまるでなかったかのように、すぐにわたしになついてくれました。目に見えない血のつながりに導かれるように、その溝はすぐに埋まったのです。
 住み込みでの店員などを経て、わたしは墨田区内の建設事務所に勤めることになりました。この事務所仲間の紹介で、茨城県出身の星野光江さんとふたりでアパート暮らしを始めました。一字違いの名前は偶然です。四畳半ひと間に流し台つきで1か月3500円の部屋代でした。1960年ごろのことです。
 光江さんは生まれてすぐに母親が亡くなり、母親の顔を知らずに育ったそうです。性格はとても穏やかで仏様のような人と聞いていましたが、本当にそのとおりの人でした。光江さんとの暮らしは、わたしが28歳で結婚するまで4~5年続いたでしょうか。

 わたしは生まれながら新潟に縁があるようです。父も新潟生まれで、結婚相手も新潟の農家出身のいす作りの職人さんでした。
 結婚式はごく簡素に、夫の郷里の新潟で挙げました。夢だった花嫁衣裳ではなく、実際は振袖でしたが、わたしはとてもうれしかったのです。式のあと、夫側の親戚が「あの嫁さん、どこの馬の骨や……」と小さな声でささやいていたという話を聞きました。結婚のときに、このような心ない言葉を浴びせられたのは、わたしだけではなく何人もいたということを、ほかの戦争孤児の証言記録などから知りました。
 誰が好き好んで孤児になったというのでしょう。蔑まれるべきは、残された子どもではなく、親を奪った「あの戦争」ではないでしょうか。
 17~18歳のころだったでしょうか。「どんな結婚を望んでいるの?」と聞かれたわたしは、
 相手は「何もない人、裸一貫の人がいい」と答えたことがありました。たとえ苦労をしても自分の力で自由に生きたいわたしは、ゼロからスタートしたかったのです。
 夫は無欲の人でした。打算的なところがまったくない珍しい人です。何度も大病はしたけれど心はつねに晴天そのもの。すべて自分の思いを貫き通し、自由に生き、今から10年前に亡くなりました。
 亡くなったあと、夫を漢字一文字で表すと……と考えたことがあります。浮かんだのは
 「無」の文字でした。
 夫は、「無」の字がぴったりな、本当に無欲の人でした。
 わたしは、書家に「無」と書いてもらい、新しく建てたお墓に彫っていただきました。

 今から20年ほど前、葛飾に住むいとこのお姉さんから宅配便が届きました。直径10センチ、長さ25センチほどの筒状の包みです。
 「いったいなんだろう?」
 開けてみると、中からは幾重にも重なったおわんと、添え書きが出てきました。
 「地下をかたづけていたら『本所 わん』と書かれた箱が出てきました。戦時中あなたのご両親がわが家に預けたのだと思います。おわんは漆塗りです。ご両親の形見だと思って大事にしてください

 葛飾のいとこのうちは当時、田んぼの中にポツンと建っていて、本所のわたしの家より安全でした。太平洋戦争中、日増しに激しくなる空襲を避けるため、父が店用のおわんを「疎開」させていたのでしょう。

 50年ぶりに手にする両親の形見。
 すべて燃え尽きて、何もかもなくなってしまったわけではなかったのです。
 疎開して生き残った、わたしたちとおわん。わたしは、このおわんを妹と弟にも分けて送りました。
 ちょうど3月10日も近い、春の日のことでした。」(
星野光世著「もしも魔法が使えたら~戦争孤児11人の記憶」より)

| コメント (1)

2018年3月21日 (水)

森山良子の「私の“がむしゃら”時代」

なかり前だが、NHKラジオ深夜便で「私の“がむしゃら”時代・いつも全力/森山 良子」(2018/02/25放送)を聞いた。
森山良子の歌は、まさに自分と同世代の歌手として、デビュー当初の学生時代から聞いているが、今回の話で、いったん結婚で歌手を辞めたこと、そして歌手生活52年の裏には、中学2年生の時から師事している坂上昌子さんという声楽の先生にいまだに通っているということを知った。なるほど、歌唱力は日頃の努力の賜だったのだ。
このボイストレーニングについて語っている部分を聞いてみよう。

<森山良子の「私の“がむしゃら”時代」より>

*この番組の全部(45分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

森山良子は1967年のデビューなので、52年目を迎えている。両親は、歌手志望の彼女に対し、その条件として高校を卒業するまではダメ、そして基礎を学ぶために中学2年の時から坂上昌子さんという声楽の先生に就いたという。それが半世紀を経ても続いているという。なるほど、中2の時からクラシックの歌唱法を学んでいたからこそ、19歳でデビューしたときに、あれだけの歌唱力があったのだ。
妙に納得してしまった。

そしてここまでプライベートなことは知らなかったが、「歌をやめます」と言って結婚して引退したのだという。そして71年に長女出産したが結婚がうまく行かずに離婚し、1年半のブランクを経て歌手に戻ったとか。(1971年4月25日発売の「ピープル」の次は、1972年7月5日発売の「遠い遠いあの野原」)
そして現在もステージを、昨年(2017年)は65回。多いときで100数十回、50周年記念の時は100回以上。まさに古希にして大活躍中。

それにしても若い。番組では15歳位若いつもり、と言っていたが、歌手は歳よりも若い人が多い。郷ひろみのジムでのトレーニングは有名だが、ステージで2時間以上歌い続けるというのは、相当な体力が要る。そう言えば、銀行マンだった小椋佳が、初めてステージで歌うときに、体力を付ける為に、ランニングをしていたという話を思い出した。
体を楽器として使う歌手は、そのときの状態が直ぐに表に出てしまい、ごまかしが効かないだけ、大変な職業。

話は飛ぶが、自分は音楽家の中で、オペラ歌手ほど大変な音楽家はいないと思っている。
声が商売、というのは歌手全般に言えることだが、オペラ歌手の場合は、数時間に及ぶ歌を、肉声で、しかも音楽をすべて暗唱しておかないといけない。そして歌詞はドイツ語やイタリア語など様々。オペラ歌手が体格がよいのは、そうでないと持たない、ということ。

森山良子も、自分が聞いているのは初期の歌が多いが、現在も歳を感じさせない彼女の現役バリバリさに、情けないことに同じ歳の自分がひとりいじけているのである。

| コメント (0)

2018年3月19日 (月)

三友伸子・五行歌集「小鳥の道案内」を読む

三友伸子五行歌集「小鳥の道案内」を読んだ。あっと言う間に・・・
心に残ったのは「暖かさ・・・」

180319gogyouka1 先日、本棚を整理していたら、三友伸子五行歌集「小鳥の道案内」という本が出て来た。今まで、まったく開けていなかった本。
そもそもこの本は、昔、学生時代の友人から「謹呈」として送られて来たもの。自分が苦手な「歌」の本だと思って、開かなかった。しかし読んでみると、「五行歌」とは非常に分かり易い口語詩だった。

Netで「五行歌とは」と検索すると、
<五行歌五則>
1)五行歌は、和歌と古代歌謡に基いて新たに創られた新形式の短詩である。
2)作品は五行からなる。例外として、四行、六行のものも稀に認める。
3)一行は一句を意味する。改行は言葉の区切り、または息の区切りで行う。
4)字数に制約は設けないが、作品に詩歌らしい感じをもたせること。
5)内容などには制約をもうけない。
ここより)
だそうだ。

一頁の文字数が非常に少ないので、一気に読める。読んでいくと、個人情報満載。確かに、河野裕子さんなどの歌も、個人情報満載ではあるが・・・・

180319gogyouka2 この本が、いつ頃送られて来たのかと、発行年を見ると、2006年7月とある。何と、12年前である。それ以来、本棚で寝ていたというワケ・・・

読み進むと、学生時代の思い出が頭をよぎる。
彼女と知り合ったのは、大学1年の時。同じサークルで出会った。その後、卒業までは知っている。しかし卒業後は、1度位会っただろうか・・・
彼女は、1学年に2人しか居ない貴重な女子学生の一人。だから今流に言うと皆のアイドル?マドンナ?・・・ だから誰かが“彼女”にして独占?するなど、誰も考えなかった。
それを良いことに、乱暴な我々男どもは、夜でも何人かで彼女の下宿に押しかけ、雑談に花を咲かせる。それが普通だった。大学4年のとき、下の学年で唯一の女性が入り、その子を学生課から面倒を見て、ということで、彼女と同じ部屋に入った。名前は忘れたが、内臓が左右入れ替わっているという珍しい人だった。しかしその子も一緒に夜中まで、という記憶は無い。夜中、ブラブラ歩いて自分たちの下宿に戻るとき、数人で歩く男を不審に思ったのか、警官から呼び止められて職務質問を受けたことも何度か・・・

昭和44年7月、大学4年の夏、1年の時のサークルの仲間で、山登りが趣味のKNという男の主導で、キャンプに行ったことがある。自分も初めてのキャンプ。そのとき、宇都宮の彼女の実家に大挙して押しかけ、泊めてもらったことがあった。そのキャンプは、男は2人、女性が5人だった。今考えても両手に花の良き時代。宇都宮で撮った写真が残っている。全員で12人写っているので、家族は6人だったようだ。そのKN君が撮った写真が露出不足で、必死に増感現像をしていたのを思い出した。
キャンプの場所も良く覚えていないが、写真の1枚に「光徳温泉」とあったので、日光に行ったらしい。

この世に
数学が
無かったら
今の私は
無い

息子の
机の上に
二次関数の問題見るや
解くてだてを
考えている

という歌を見て、学生時代、彼女は学力が非常に優秀だったことを思い出した。我々落ちこぼれの男どもが、どれだけ助けられたことか・・・・

この歌に込められているのは、「鳥」「夫」「家族」「書」そして「息子の死」。
夫君は同じ科の1学年上のはず。結婚の話を聞いた時、どこに二人の接点があったのか不思議だった。学生時代、“ツバが付いた”という話を聞かなかったので・・・。それで、就職後の会社での再会かな・・・と思っていた。
しかしこの歌集に、

夫は
卒業の時
母を見かけて
結婚を決めた
という

という歌があった。おかしいな、彼女が卒業するときは、夫君は1年前に卒業していて、大学には居なかったはず・・・・。
ふと気が付いた。まさか大学院? 昔の大学の同窓会名簿を見たら院を次の年に卒業していた。なるほど、我々が卒業したときに、横で虎視眈々と狙っていたのだ。だから我々同期生は何も知らない・・・・。ナゾが解けた!?

180319gogyouka3_2 読んでいると、この家庭に入り込んで行くような気がした。そして歌が息子さんが、21歳でガンで逝ったことに及ぶと、読んでいて言葉が無くなる。こんな不幸もあったのか・・・・

ママ、パパ毎日ありがとう
で始まり
どっかで見守ってる。じゃあな。
で終わってる
息子の遺言

五行歌というものを初めて知った。この本の出版から12年。Netで検索すると、その後も五行歌集「宇宙人に背中おされて」という本を出したらしい。そして、彼女の娘さんやお孫さんも五行歌の本を出されているようだ。
家族の記録が、このような形で残されていく。まさに命の連綿である。

ひょんなことで学生時代を思い出してしまった。卒業からもうすぐ半世紀。時が流れるのは早い。そして、命が次々と受け継がれていく。

| コメント (0)

2018年3月18日 (日)

森友文書改ざん~各国の報道

森友文書の改ざん事件。国内のメディアは「まだ分からない」を連発しているが、誰もがそれが建前だということを知っている。
さて、では素直にナマの情報を書くであろう海外メディアは、どう報道しているのか?
朝日新聞のこんな記事が見付かった。

英紙「身びいきのスキャンダル」 文書改ざん各国で報道
 財務省の決裁文書改ざん問題は、世界各国のメディアでも報じられている。安倍晋三首相の政権運営に大きな痛手になるとの観測とともに、学校法人・森友学園を巡る政治的な背景にも改めて注目が集まっている。

<英国>
 英紙タイムズは13日、「偽造された文書、ゆがんだ不動産取引、自殺、そして子どもたちが戦前の軍国主義を習う国家主義的な幼稚園――。1年間のスキャンダルの後、こうした疑わしい要素が一つになって、右派の安倍首相を脅かす政治危機となっている」とこれまでの経緯を伝えた。森友学園については「戦前の日本で主流だった愛国主義と自己犠牲を教える幼稚園」と描写した。
180318abe  英紙ガーディアン(電子版)も12日、「夫人が関わった身びいきのスキャンダルで、安倍晋三首相の政治的将来は不確かに」との見出しで報じた。
 同紙は森友学園の籠池泰典理事長について「大阪の右翼の学校運営者」と表現。「官僚は、保守ロビー団体、日本会議への安倍氏の支援に言及した部分も削除していた」と報じた。また昭恵夫人が森友学園の教育方針に感涙したと伝える記事の引用部分などが、財務省の文書から削除されていたことを報じ、「スキャンダルの広がりは、安倍首相の9月の自民党総裁選での3選や、首相続投への望みを傷つけそうだ」と指摘。「安倍氏が総裁をさらに3年務めるに値すると自民党幹部を説得するのは、かなり難しくなるだろう」とする海外の政治コンサルタントの見方を紹介した。

<米国>
 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は12日、「改ざん文書で日本の安倍晋三(首相)がまた焦点に」との見出しで、森友学園をめぐる公文書改ざん問題を報じ、首相が「苦しい立場に置かれた」と指摘した。
 記事では、安倍首相が昨年2月、自身や昭恵夫人が関与していれば辞任すると表明したことに言及。昭恵夫人の発言とされた部分を削ったと財務省が認めたことについて、「最も劇的な告白」とした。
 また改ざんをめぐって自民党内でも批判が出ていることを紹介。「首相が関与したという明確な根拠はなく、今回辞任するとは考えにくいが、総裁選が近づくにつれて交代を求める声が強まる」とする米専門家の見方も伝えた。

<フランス>
 フランスのメディアも森友学園問題を軒並み報道。フィガロ紙は13日付の紙面で、目を伏せるようにして記者の質問に答える安倍首相の写真を掲載し、「様々な問題を乗り切ってきた安倍首相の不敗神話に対し、『森友問題』が終わりを告げる鐘になるかもしれない」と指摘した。また経済紙レゼコーは、「身びいき問題で日本政府が動揺している。首相や財務相は厳しい状態にある」と伝えた。

<韓国>
 韓国では、13日付の主要紙朝刊の多くが森友学園をめぐる文書改ざん問題を国際面で扱った。「安倍最悪の危機」(朝鮮日報)、「私学スキャンダルで支持率6%下落」(中央日報)など、安倍政権の支持率の下落と絡めて報じた。
 また韓国の放送局JTBCの東京特派員は「北の非核化をめぐる議論が急進展し、『日本が疎外された』という指摘が国内外から出る中で、スキャンダルが重なり、(安倍政権は)内憂外患で窮地に追い込まれた形だ」と伝えた。

<ロシア>
 ロシアでも12日、この問題について通信社や新聞が相次いで長行の記事を配信し、日本の国会の混乱ぶりを詳しく伝えた。
 ノーボスチ通信は、昨年2月から与野党の対立が続いてきた経緯を解説。昭恵氏が問題の土地の売買契約を巡るやり取りに関与した可能性があることや、「日本の民主主義の危機」と厳しく批判する野党の声を紹介した。内閣支持率の下落にも触れ、政権への衝撃を伝えた。
 またインタファクス通信や有力紙ベドモスチ(電子版)は財務省近畿財務局の職員が自殺していたことを紹介。タス通信は「麻生氏が辞任を拒否」と見出しでうたい、謝罪しながら自身の責任は否定する対応のちぐはぐぶりを強調した。

<中国>
 中国国営新華社通信は13日、「安倍氏が国民に対して謝罪、各界から強烈な不満表明」との見出しの記事を配信。決裁文書改ざん問題を巡って、野党が安倍首相の辞任を求めて攻勢を強めている状況や、安倍氏の退陣を求める抗議デモが起きたことなどを詳しく伝えている。
 中国共産党機関紙・人民日報海外版は13日、外交学院国際研究所の周永生教授の論評を配信。「森友学園事件は、安倍内閣の支持率を下降させ、安倍首相が今後進めようとしている憲法改正などの政策に衝撃を与える可能性が極めて高い」と分析。一方、安倍氏が改ざん問題に関与した証拠は乏しい上に、日本の民衆は安倍氏のほかに首相の選択肢が見当たらない状況だとして、内閣総辞職については否定的な見方を示した。

<通信社>
 世界の大手通信社も、この問題について、長行の分析記事を配信している。
 ロイター通信は「確かな犯罪の証拠」を意味する「スモーキングガン」という言葉を使いながら、改ざん前の文書について「首相らが介入した直接的な証拠は見られない」と分析。その上で「しかし、文書を修正したことが隠蔽(いんぺい)の疑いをたきつけている」としている。
 AFP通信は「安倍首相につきまとう公文書の書きかえ」と見出しに打つなどして複数回、分析記事を配信。「著しいひいきと隠蔽のスキャンダルで、首相への圧力が増している」などとし、NHKの世論調査で支持率が下がったことなどを伝えた。AP通信は「安倍首相の妻に関わるスキャンダルが広がる中、文書の改ざんを認める」と伝えた。(ロンドン、ニューヨーク、パリ、ソウル、モスクワ、北京)」(
2018年3月13日付「朝日新聞デジタル」ここより)

海外メディアは、麻生大臣などはもはや眼中になく、もっぱら安倍政権の終わりの始まりについて言及している。これが世の見方なのだろう。

今週末の調査による内閣支持率
毎日新聞 支持率45%→33%(△12%)、不支持率32%→47%(3月17~18日)
朝日新聞 支持率44%→31%(△13%)、不支持率37%→48%(3月17~18日)
日本テレビ 支持率44.0%→30.3%(△13.7%)、不支持率37.3%→53.0%(3月16~18日)
共同通信 支持率48.1%→38.7%(△9.4%)、不支持率39.0%→48.2%(3月17 ~18日)

この中でも、日本テレビ(NNN)の調査が、支持率が13.7%減の30.3%と最も低かった。
内閣支持率30.3%第二次安倍政権で最低
NNNがこの週末に行った世論調査によると、安倍内閣の支持率は30.3%と、第二次安倍政権発足後、5年あまりで最低となった。 安倍内閣を支持すると答えた人は前の月より13.7ポイント急落して30.3%、支持しないは53%だった。 森友学園に関わる決裁文書の改ざんがなぜ行われたと思うかについては、「政治家から何らかの働きかけがあった」が40.1%、「政治家を忖度(そんたく)した」が23.6%などとなっている。 また、麻生財務相が辞任する必要があるかという問いには、「必要があると思う」が60.8%に上った。安倍首相の昭恵夫人の証人喚問については「必要だと思う」と答えた人が65.2%に達した。 また、次の自民党総裁にふさわしい人をたずねたところ、安倍首相は前の月より8.8ポイント下がって14.1%だった。トップは石破元幹事長で24%、続いて小泉進次郎議員が21.2%などとなっている。 <NNN電話世論調査> 【調査日】3月16日~18日 【全国有権者】1918人 【回答率】40.0% ※詳細は日本テレビ・ホームページ「ニュース・情報」(
http://www.ntv.co.jp/yoron/)」(ここより)

今回の改ざん問題は、安倍政権応援派の読売・産経新聞も厳しい論調なのが珍しい。
読売系の日テレの調査がこれでは、政府も衝撃では?
それにしても、後任が寂しい。①石破 茂 24% ②小泉進次郎 21.2% ③安倍晋三 14.1% ④岸田文雄 7% ⑤野田聖子 4.2% ⑥河野太郎 3.5% だって・・・

「先の衆院選は、国民をだまして行った選挙。よって早急に衆院選をやり直します」という首相候補が出たら、応援するのだが・・・・

20180312193144efc <付録>「まんがイラスト ぼうごなつこのページ」(ここ)より

| コメント (0)

2018年3月17日 (土)

五木ひろしの「契り」

歌のシングルCDは買わない自分だが、この歌は珍しく買った。自分のお気に入りの歌である。

<五木ひろしの「契り」>

「契り」
  作詞:阿久悠.
  作曲:五木ひろし

あなたは誰 契りますか
永遠の心を結びますか

波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが砕ける
涙のように

緑は今もみずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いがきらめく
いのちのように

流れは今も清らかだろうか
子供はほがらか
人はいつでも桜のように
微笑むだろうか

愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

この歌は、東映映画『大日本帝国』の主題歌。よって「二度と生きて会うことは出来ないであろう妻(恋人)への魂の叫び」「たとえ死んだとしても 失われることのない永遠の愛を誰と誓いますか」を歌ったものだとNetに載っていた。

そして、この歌は、今は結婚式でよく歌われるそうだ。戦争の死の影と結婚式・・・何かフィットしないが・・・・
昔、カラオケが流行っていたとき、自分の十八番(おはこ)は、吉幾三の「雪國」と、この五木ひろしの「契り」だった。

カラオケと言えば、昔、会社の研修所でこの歌を歌ったことを思い出した。現役のとき、会社が借り上げた研修所で、一泊二日でよく研修会をした。まさに田舎の大きな農家。それを借り上げて社員研修所にしていた。そこで、夕食後の研修が終わると、同じ敷地にある閉店した「スナック」の建屋に行き、皆で飲んで歌った。全てが持ち込みだった。
しかしカラオケセットだけは残っており、それで歌った。
相変わらず、よく意味も分からず歌っていたが、改めて歌詞を読むと、この「契り」は「誓い」だという事が分かる。

そんな戦争の歌・・・。まさか戦後70年の今になって、日本の戦争を心配することになろうとは・・・。

| コメント (0)

2018年3月15日 (木)

なぜ日本のおじさんは「世界一孤独」なのか?

先日、Netでこんな記事を見付けた。
なぜ日本のおじさんは「世界一孤独」なのか?
 最新版・世界各国の「繁栄指数」を見てみると、社会や地域における人々の信頼関係や結びつきを表す「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」のランキングで、日本は全世界149カ国中、101位。先進国の中では最低だといいます。なかでも深刻な状態にあるのが中高年の男性。コミュニケーション戦略の専門家で、『世界一孤独な日本のオジサン』 (角川新書)の著者である岡本純子氏が衝撃的なデータとともに、日本のおじさんたちが「孤独」に陥っている理由と健康へのリスクを解説します。

孤独な人は、早死リスクが50%高くなる
「中高年の男性にとって最大の脅威は喫煙でも肥満でもない。それは孤独だ」(ボストン・グローブ紙)、「慢性的な孤独は現代の伝染病」(フォーチュン誌)――。海外では、「孤独」は健康に甚大な影響を与える最大のリスクである、という認識が急速に広がっている。
 その根拠となっているのが、近年、欧米で明らかになった数多くの学術的研究だ。約30万人以上のデータを対象としたアメリカの調査では、「孤独な人は、人的つながりを持つ人に比べて早死リスクが50%高くなる」という結果が出た。また、「孤独」の死亡リスクに対する影響は(1)一日にタバコ15本を吸うことに匹敵、(2)アルコール依存症であることに匹敵、(3)運動をしないことよりも大きい、(4)肥満の2倍大きい、と結論づけられた。孤独は心臓病や認知症など多くの疾患のリスクを高めることもわかっている。
 昨年10月には、アメリカ連邦政府の前公衆衛生局長官、ビベック・マーシー氏が「孤独は深刻化する伝染病」であり「病気になる人々の共通した病理(病気の原因)は心臓病でも、糖尿病でもない。孤独だった」という論文を発表し、話題を集めた。2018年1月17日には、イギリス政府が、「孤独担当相」を新たに任命すると発表して、世間を驚かせたが、これは、この切実な問題に国を挙げて取り組むべき、という危機意識の表れだった。

日本は世界に冠たる孤独大国になりつつある
 こうした流れと逆行するように、日本では、「孤独のすすめ」「おひとりさま」「ぼっち」などと、「孤独」を美化し、奨励する考え方が人気を集めているが、実はその裏で、日本は世界に冠たる孤独大国になりつつある。国際機関OECD(経済協力開発機構)の調査(2005年)によれば、友人、同僚、その他コミュニティの人と「ほとんど付き合わない人」の比率は15.3%と平均(6.7%)の2倍以上、加盟国中トップだった。オランダの2.0%、アメリカの3.1%、ドイツの3.5%などに比べると差は歴然だ。未婚率や一人暮らしの家庭も増加している。

「孤独に耐えろ」は「水を飲まずに我慢しろ」と同じくらい残酷
「孤独」とはそもそも、「頼りになる人や心の通じ合う人がなく、ひとりぼっちで、さびしいこと(さま)」を指す。「孤」は「みなしご」を意味し、誰にも頼れず、精神的に「孤立」し、苦痛を覚えるというネガティブな主観だ。一方で、日本では、「独りで独自」の時間を過ごし、楽しむことをも「孤独」ととらえられている。英語では、ポジティブな意味合いの「Solitude」(個人が能動的・自発的に一人を楽しむこと)と、ネガティブな「Loneliness」(自らの意思に反して、疎外感や孤立感を味わうこと)とに分かれているが、日本語では、「個独」という「良いこどく」と、「孤独」という「悪いこどく」がひとくくりになり、結果として、「孤独」が美化されているきらいがあるように感じる。
 人間は本来、自らの生存のために、何より、他者との結びつきを必要とする「社会的動物」だ。敵を倒すために共に戦う。食べ物を共に確保し、分け合う。孤立はすなわち「死」を意味していた。「孤独」は、のどの渇きや空腹、身体的な痛みと同じ脳の回路によって処理され、同等、もしくはそれ以上の苦痛をもたらす。そのつらさを避けようと、水を飲んだり、食べ物を口にするように、孤独な人も「苦痛」から逃れるために、自らつながりを求める。これが人を孤独から遠ざける、本能的なディフェンスメカニズム(防御機能)の基本的な仕組みだ。つまり、孤独な人に「孤独に耐えろ」というのは、水を求める人に「水を飲まずに我慢しろ」というぐらいに残酷なことでもある。しかし、我慢強さが美徳の日本では「孤独」という気持ちにフタをして、それに耐えるべきだという精神論がまかり通っている。

日本は「ソーシャル・キャピタル」が先進国最低の101位
 孤独には「コミュニティ」と「コミュニケーション」の欠如という二大要因がある。前者の観点で見ると、「地縁」「血縁」という昔からのセーフティーネットが都市化や核家族化などで消滅しつつある中、それに代わる「コミュニティ」が欠落しているのが日本社会の大きな問題だ。家族以外のネットワークやコミュニティ、ボランティアや地域活動への参加などといった社会や地域における人々の信頼関係や結びつきを表す「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」が極端に低いのだ。イギリスのレガタム研究所の2017年版のランキングによると、日本は全世界149カ国中、101位。先進国中では最低で、ルワンダ、イラン、ニカラグア、ザンビア、ガーナなどを下回った。日本はほかの指標、例えば「健康」や「安全性」などでは高い数値を獲得しているが、この「ソーシャル・キャピタル」だけが突出して低い。

「仕事が、生きがいなわけではない」。そう思っていても
 全国民の問題となりつつある孤独だが、特に事態が深刻なのが、中高年の男性だ。
 前述のOECDの調査では、「友人や同僚もしくはほかの人々と時間を過ごすことのない人」の割合は日本の男性が16.7%と21カ国の男性中、最も高かった。平均値の3倍に近く、スウェーデン人男性の約1%、アメリカ人男性の約4%などと比べても突出した水準だ。
 その背景には、日本の特殊な労働文化がある。長時間労働の中で、友人や趣味などを作る暇もなく、汗水たらして働き、気がつくと退職の日を迎えるという人も少なくない。今や就業人口の約9割が「サラリーマン」。散々、「やりがい」を搾取された挙句に、定年で会社システムから「強制退去」という憂き目にあう。転職することもなく、一生、同じ会社に働き続けることの多い日本のオジサン。40年近くも引っ越しもせず、住み慣れた「家」を追い出される恐怖感・絶望感は、例えようのないものだろう。
「仕事が、生きがいなわけではない」。そう思っていても、やりがいや仲間、居場所を提供してくれていた職場を失い、「認められない」「必要とされていない」といった思いにとらわれる。まるで、自分が「透明人間」になってしまったような寂しさと満たされぬ承認欲求を抱えた「不機嫌なオジサン」が増えていく。都内の精神科医は「サラリーマン男性の場合、退職して、肩書きを失うと、何者でもなくなってしまう。家庭内でも外のコミュニティでも居場所が見出せず、気がつけば趣味もなく、被害者的になり、何でも他人のせいにするような歪んだ精神構造になる」と指摘する。
 もう一つ、「男性の孤独」の裏にあるのが、「男のプライド」という厄介な代物だ。特に、終身雇用、年功序列制度という「タテ社会」の中で、上意下達の「ポジショントーク」を40年間続けると、フラットな立ち位置で胸襟を開いたコミュニケーションがなかなかできなくなってくる。話すこと自体を目的とし、地球が滅びるまで面と向かって営々と話し続けることができる女性と、コミュニケーションは目的を達成するための手段であり、スポーツやゲーム、お酒など、何らかの介在がないと話しづらい男性とでは、「コミュ力偏差値」に差が出やすい。
 実際に、こうした要因から、定年退職後に、家に引きこもる高齢男性が激増している。別にいつも人と群れることをおススメするものでもない。趣味でもいい、近所の友人でもいい、何らかの形で社会とつながりながら、一人の時間を楽しむ準備と心構えを現役の内からしておくことが必要だろう。終活もいいけど、たまには「集活」も、ということだ。不機嫌なオジサンが減り、元気ではつらつとした楽しそうなオジサンが増えれば、日本社会を覆う閉塞感も少しは払しょくされるのではないだろうか。オジサンたちが「孤独というオリ」から解放され、動き出せば、景気だって刺激されるかもしれない。「オジノミクス」で日本を元気に! 「ウーマノミクス」の陰で、置き去りにされつつある「オジサン」セクターの活性化は日本再生のカギを握るかもしれないのである。(岡本純子)」(
2018/03/08付「文春オンライン」ここより)

今日はカミさんの女子会の日。午前11時過ぎに出て行って、帰ってきたのは6時半。聞くと、友人と二人だけで、延々と6時間以上話していたという。毎度のことだが、男には理解不能。そもそも二人だけで会うことなど、原理的に無い。
まさに「話すこと自体を目的とし、地球が滅びるまで面と向かって営々と話し続けることができる」のが女性なのだ。
一方男は、というと「コミュニケーションは目的を達成するための手段であり、スポーツやゲーム、お酒など、何らかの介在がないと話しづらい男性」とあるが、なかなか指摘がうまい。

たまに“珈琲会”なるものがあり、同期の5人が集まって、ひなたぼっこをしながらコーヒーを入れる。10時に集まって、12時には車で近くの店にランチ。それで1時過ぎには散会。バカ話をしても、せいぜい3時間が限度。定期的な夜の飲み会も、5時に集まって7時前には散会。そんなものだ。

年金生活者になると、集まりは人によりさまざま。ある同期の男は、今さら会社の関係で付き合うつもりはない。と言う。山登りなど、同じ趣味などで昔の会社の同僚と付き合うことはあっても、上下関係のあった会社関係の集まりには行かない・・・。なるほど、と思う。
会社関係の飲み会は、元上司は、いつまで経っても上司。イヤな思いでもたくさんある。そんないつまでも頭を下げる付き合いが面白いか?ということ。
まあ同期会だけは、上下関係が無いので気楽。飲んで楽しめるのはそのくらい・・・
かと言って、新たなコミュニティも面倒・・・

高校3年の時の担任の先生が、数十年後の同窓会で会ったときに、仕事ばかりで定年になってしまうと、自分のように何をやって良いか分からなくなる。よって、準備が必要、と言っていた。その先生は映画が趣味と言っていたが、それは確かだな、と思いつつも、結局何もせずに自分も定年に突入してしまった。アドバイスはなかなか活きなかった。

話は飛ぶが、先日の3.11の震災の特集番組で、福島から避難した人たちが、仮住居に収容されてから、テレビだけがある部屋に閉じ込められ、生き甲斐も達成感もなく、ただ生きているだけ。と言っていた。人間、ただ衣食住を与えられても、生きては行けない。それで自殺者も出てしまう。
まさに、コミュニティが重要だということ。
分かっちゃいるけど・・・・の“孤独論”ではある。

2018031521300231d <付録>「まんがイラスト ぼうごなつこのページ」(ここ)より

| コメント (1)

2018年3月13日 (火)

<森友文書改ざん>~試される国民

籠池氏が国会で「事実は小説よりも奇なりであります。」と言ったが、このところの政局が面白い。年金生活者の特権で、色々とニュース番組を見ている。

広辞苑で「茶番」を引くと「ばからしい、底の見えすいたふるまい。茶番劇。」とある。
まさに今日本では、連日「茶番劇」が演じられ、報じられている。
そう、誰もが分かっている。マスコミでは、「誰が、いつ、何の為に」改ざんしたのかの解明が必要。ナンテ言っているが、誰もが分かっている。
それなのに、政府は相変わらずヌケヌケとワケの分からない言い訳。

昨夜(2018/03/12)のTV朝日の「報道ステーション」で、こんなコメントが紹介されていた。
「公文書管理は民主主義の基盤ですから、管理された文書の中身を変えるのは(民主主義の)基盤が揺らいでいるということなので、まさに異常事態です。政府の文書を国民は理解をして国会議員を選出する。(今回は)こういう改ざんがあったと、その過程で選挙までやっているのですから、国民は果たして現在の政権に正しい信託をしたのかという点まで問われかねない。」(公文書管理に詳しい三宅弘弁護士談)

そう、国民はだまされた事実のもとで、国会での議論を見せられ、そして投票をさせられ、政府はその投票結果を金科玉条に、憲法改定まで突き進んでいる。
そして、麻生大臣の上から目線の傲慢な記者会見は何だろう。到底国民から負託された政治家の姿ではない。国民の税金から給料を貰っている公僕の姿ではない。
それを許しているのは我々国民・・・。

最近報じられている内閣支持率。
産経新聞 支持率51.0%→45.0%、不支持率39.0%→43.8%(3月10~11日)
読売新聞 支持率54%→48%、不支持率36%→42%(3月9~11日)
NHK 支持率46%→44%、不支持率34%→38%(3月9~11日)

朝日新聞が文書改ざんを3月2日に報じてから1週間後でも、世論調査ではこんな感じ・・・
3月12日に「財務省、書き換え認める」という報道が出てからはどうだろう?国民はどう反応するのか?

今回の事件だけ捉えても、罪もない官僚に、罪人どころか死者まで出させた全ての原因を作った安倍首相。そして責任を官僚に押し付けて逃げを図る傲慢な麻生大臣。
それらを評価するのは言うまでもなく国民。
経済や就職率、株価をそれら事件に優先して評価している国民。
政府が一番気にする内閣支持率。それがこんな事件があっても一向に下がらないとすれば、日本も、憲法を変えて終身国家主席を生んだ中国のような独裁国家に突き進むしかない。
どんな政府でも、日本ではその生殺与奪の権を握っているのは我々主権者たる国民。改ざんの事実を知っていても、それを放って置いた会計検査院も、行政の一組織である検察も信用出来ない。
すべては、国民がこれらの事件をどう評価するのかにかかっている。
今後の内閣支持率の推移を見守りたい。

20180311074851987 <付録>「まんがイラスト ぼうごなつこのページ」(ここ)より

| コメント (1)

2018年3月11日 (日)

「人間の魂とは何か」~桐野夏生「だから荒野」より

今日は、東日本大震災から7年目。TVでも色々な特集番組が放送されていた。
昨日、食事に居間に降りて行くと、カミさんがコピーを片手に「読むから聞いて!」という。それが下記。
 「私には忘れられない思い出がございます。今回の原発事故とも、原爆体験とも違うのですが、初めて人前で話させて頂きます。私には歳の離れた妹かおりました。間に弟がおりますので、妹が生まれた時、私は十歳になっていました。母は長崎市にほど近い琴海町と180311kirino いうところで、和裁を教えておりまして、とても忙しくしていました。春先のある日、妹が風邪を引いて熱を出しました。ちょうど生後五ヵ月頃でしたので、母親から貰った免疫も切れる頃だったのでしょう。和裁教室に教えに行かなくてはならない母が私に氷枕を取り替えるように言って、心配そうに出掛けて行きました。どうしても授業を休めなかったのです。年配の方は氷枕がどんな物かご存じでいらっしゃいましょう?ゴム製で、氷を囗から入れて、金属の留め金で留めるのです。春休みでしたので、私は遊びに行きたくて仕方がなかったのです。それで、氷を適当に入れて留め金をし、そのまま出掛けました。ところが、その日の夕方から、妹は高熱を発しました。往診のお医者様が肺炎になったようだ、と心配そうに言いました。原因は、氷枕だったのです。私の留め方がいい加減だったので、留め金が外れて、冷たい氷水がこぼれ、妹の背中を濡らしていたのに誰も気付かないまま、風邪を悪化させてしまったのです。翌朝、すぐに入院することになり、妹は苦しそうにはあはあと息をしていました。夜中、私は用足しに起きまして、なんとなく、妹の寝床を覗きました。母が横でうたた寝をしていました。すると、妹が突然目を開け、私の方を見て、泣いたのです。赤ん坊の泣き方ではありませんでした。両の目尻からすうっと涙を流し、まるでおとなのように静かに泣いているのです。不思議ですね、人間の魂というものは。たった五ヵ月の赤ん坊にも、この世を去る悲しみがわかっていたのでしょう。
 母が気配で飛び起きて叫びましたが、妹はすでにこと切れておりました。私はそれからずっと、妹の涙を忘れることができずに生きてきたのです。あんなに小さな赤ん坊でも、死ぬ瞬間は何かがわかる。何かわかるのでしょうか。妹の命まで貰ったかのように、私は原爆にも遭わず、馬齢を重ねて九十二歳になりました。もちろん、こんなことを思うこともあります。妹があそこで生き抜いたとしても、原爆で亡くなったかもしれない、と。人の運命はわかりません。けれども、私には大きな課題が残されてしまったのです。即ち、人間の魂とは何か、を考えることであります。私が大勢の人間の死、つまり大量死に拘っているのも、たくさんの人間が死ぬ瞬間に、妹のように涙を流してこの世から消えて行ったのかと思うと、居ても立ってもいられないからなのです。妹は私を恨むことなく、別れを告げて逝きました。一瞬にして亡くなられた方々には、そんな余裕はなかったことでしょう。その死者の思いはどこに向かうのか。消えてなくなってしまうのか。いや、そんなことは絶対にありえない、人間の魂なのですから。どんなに疎まれても、私が自分の経験や思いを語り続けて一生を終えようと思ったのは、実はそんなことがあったからなのです』(
桐野夏生著「だから荒野」p439より)

カミさんは、直ぐに泣くので、これも途中で涙ぐみ、「後は自分で読んで」という。
聞くと、カミさんが今読んでいる桐野夏生著「だから荒野」に載っていた一文だという。
もちろん自分はこの本を読んでいないので、どんなストーリーの流れかは知らないが、まあひとつのエピソードとして聞いた。
しかし、「不思議ですね、人間の魂というものは。たった五ヵ月の赤ん坊にも、この世を去る悲しみがわかっていたのでしょう。」は有り得るのか・・・?
カミさんの弟は、6歳の時に病気で亡くなったが、小学校前の子どもでも、自分が死ぬのを分かっていたという。人間も動物。動物は死に逝くのが分かるらしい。

7年前に、幾多の命が失われた。テレビに映る津波のあの光景は、とても忘れられるものではない。
一方、今朝の新聞には、原発事故で避難を余儀なくされた人たちが、東電から貰った補償金に対するやっかみ、イヤミの言葉にさらされているという記事があった。
家族を思う時間もなく津波にさらわれた人、着の身着のままで故郷から避難を余儀なくなされ人、そしてやっかみでその人たちに罵声を浴びせる人・・・・。
まだまだ続く、大震災の傷跡、そして忘れることが出来ない人間の魂である。

(付録)
180311nhk Netで話題となっている今日(2018/03/11)のNHKの番組表。震災特集記事を縦読みすると「東北が大好き!」「あの日を忘れないよ」と読める。
NHKもなかなかやるな!

| コメント (0)

2018年3月 9日 (金)

妻が願った最期の「七日間」

今朝(2018/03/09)の朝日新聞の「声」の欄に、こんな投書が載っていた。
「(声)妻が願った最期の「七日間」
 パート 男性(神奈川県 71)
 1月中旬、妻容子が他界しました。入院ベッドの枕元のノートに「七日間」と題した詩を残して。
 《神様お願い この病室から抜け出して 七日間の元気な時間をください 一日目には台所に立って 料理をいっぱい作りたい あなたが好きな餃子(ぎょうざ)や肉味噌(みそ) カレーもシチューも冷凍しておくわ》
 妻は昨年11月、突然の入院となりました。すぐ帰るつもりで、身の回りのことを何も片付けずに。そのまま不帰の人となりました。
 詩の中で妻は二日目、織りかけのマフラーなど趣味の手芸を存分に楽しむ。三日目に身の回りを片付け、四日目は愛犬を連れて私とドライブに行く。《箱根がいいかな 思い出の公園手つなぎ歩く》
 五日目、ケーキとプレゼントを11個用意して子と孫の誕生会を開く。六日目は友達と女子会でカラオケに行くのだ。そして七日目。
 《あなたと二人きり 静かに部屋で過ごしましょ 大塚博堂のCDかけて ふたりの長いお話しましょう》
 妻の願いは届きませんでした。詩の最後の場面を除いて。《私はあなたに手を執られながら 静かに静かに時の来るのを待つわ》
 容子。2人の52年、ありがとう。」(
2018/03/09付「朝日新聞」「声」p16より)

何とも心に迫る。
こんな最期の話を聞くと、つくづく古希を迎えた自分の身にも、いつ何時、何が起こるか分からない。と思う。いつ、命が絶たれようとも、大丈夫なように準備が必要な歳だな・・・と。
この投書では、入院して2ヶ月、一度も家に帰らず他界したらしい。これは酷だな・・・
自分なら、意識が無くなっているならまだしも、どんな状態でも、何とか家に帰らせる。幾ら医師の許可が得られなくても、「どうせ死ぬんだ」と思えば、医師の許可などクソ食らえ。どんな無理も出来る。
誰も、何の準備も無く死ぬのは無念。始末しておきたい持ち物もある。自分だったら、当然“その時”は家に帰りたいし、それがカミさんだとしても、家に帰らせてあげたい。
そんな事を考えられる病状であることを願う。まあこれは「どうせ死ぬならガン」という考え方にも通じるのだが・・・

今日の新聞にこんな記事もあった。
介護不要の健康寿命、男女で伸びる 都道府県別1位は?
 厚生労働省は9日、介護などの必要がなく、日常生活を支障なく過ごせる期間を示す「健康寿命」の2016年の推計値を発表した。男性は72.14歳、女性74.79歳で13年の前回調査より男性は0.95歳、女性は0.58歳延びていた。都道府県別では男性は山梨、女性は愛知が1位だった。・・・」(
2018/03/09付「朝日新聞」より)

東京都の男性の健康寿命は72.0歳だという。自分など、あとたった2年。そう思うとゾッとする。早速「あと2年で世話になるのでヨロシク」と、夕食後にカミさんに挨拶しておいた。カミさんは当然「!???」

同じ今朝の朝日新聞にこんな投書もあった。
「(ひととき)定まらぬ父への思い
 目の前に横たわり、たまに薄目を開ける。自分で動かせない父の手足をさすりながら、矛盾した思いが交錯するばかりで心が定まらない。
 人はここまで痩せても生きていられるのか? という極限状態。本人は一体何を思っているのだろうか?
 母と結婚して63年、家庭人として失格だったばかりか、家族に苦渋を強いてきた罪深い人間がなぜこの年(92歳)まで生きてこられたのか? 娘としては、父に対して恨みが9割、残りは哀れみかもしれない。
 家族と全く言葉を交わそうとせず、外部の人には別人格。自分の欲することだけに情熱を注いできた。母はそんな夫へのストレスと障害がある私の弟の世話に疲れ、重い病気になった。
 なぜそのような生き方しか出来なかったのか、せめて理由を聴きたかった。詫(わ)びの言葉が聞きたかった。
 たとえいかなる理由でも許せない、という思いの一方で、目の前の消えかかる一つのいのちの重さ、尊さを思う。
 日常の行為が一切できないこの苦痛こそが過去の報いか? という思いと同時に、わずかでも回復し、最期は穏やかでありますようにと祈る自分がいる。(福岡県 匿名 主婦 61歳)」(
2018/03/09付「朝日新聞」p33より)

この投書を読んで、人間の「業(ごう)」という文字が頭に浮かんだ。
広辞苑によると「行為。行動。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)。また、その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき。善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教およびインドの多くの宗教の説。」とある。
人間が死ぬとき、どんな最期を迎えるのか? 因果応報。それを決めるのは本人の意志ではないのである。

| コメント (0)

2018年3月 8日 (木)

作家 帚木蓬生氏の講演「つづりたいこと、続けたいこと」

NHKラジオ深夜便で放送された「【明日へのことば講演会】つづりたいこと、続けたいこと 精神科医・作家 帚木蓬生」(2018/04/24放送)を聞いた。
自分は、氏の小説は読んだことがない。うっすら名前を聞いたことがある位。しかし、この講演は面白かった。( 「ペンネームは、『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生(よもぎう)」から」というが自分には難しい)

<作家・帚木蓬生氏の講演「つづりたいこと、続けたいこと」>

*この番組の全部(41分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

氏の続けたいことは、朝3時に起きることだという。3~4時は朝食作り。そして4~6時が小説を書く時間だという。小説は毎朝4枚。月に100枚。そしてほぼ1年かけて一冊を書き上げる。
現役の精神科のクリニックをしながらの執筆活動。なるほど、そんな生活をしないと二足のわらじは履けないか・・・・

それにしても、氏のお話は面白い。何のことはない、日々の生活の紹介と、これから書きたい小説のテーマの話だけなのだが、なぜか引き込まれる。なるほど、こんな才能が作家には必要?

そんな氏も、WIKIを見ると「2008年、短編「終診」(『風花病棟』に収録)を執筆後にたまたま受けた定期検査で急性骨髄性白血病に罹っていることが判明。半年間の入院生活の後、復帰した。」とあった。
健康的な朝型人間も、病は黙ってやってくる。病の到来は避けることが出来ないようだ。

ほぼ同年齢の自分との差。71歳にしてクリニックも作家もまだまだ現役の氏。それに引き換え、引退して生産的な活動をしていない現在の自分は・・・・!?
同年代の輝いている人が少々まぶしい自分であ~る。

| コメント (4)

2018年3月 4日 (日)

吉村昭著「梅の蕾」の朗読

先日、NHKラジオ深夜便の「ラジオ文芸館」のアンコールで、吉村昭著「梅の蕾」の朗読を放送していた。
いつも夜中に目を覚ますと、眠れない時間がもったいないので、ラジオを録音しておいたウォークマンを2倍速で聞いている。それが最近は、再生したまま眠ってしまうことが多くなった。しかし、この朗読は、眠らずに最後まで聞いた。

<吉村昭著「梅の蕾」の朗読>

*この番組の全部(40分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

三陸の無医村の村長の、医師との物語である。
スジについては書かない。良かったら全編を聞いて下さい。

スジをカミさんに言ったら、「無理のない内容」とのコメント。実は自分はこの大作家を知らなかったが、カミさんは良く知っていた。自分は作家オンチなので・・・・
この放送は、2011年7月に放送されたものの再放送。あの大震災のあと、復興を祈っての放送だったらしい。

それにしても、無医村の村長の悩みは大変だ。医師の不在は、村民の命にかかわる問題なので・・・。
それは都会に住んでいる者には分からない。

話は変わるが、最近は何とか散歩をしている。何とか最低、毎日5000歩は歩きたいと思う。それで、近所の散歩では飽きてきたので、今まで行ったことがない場所に行くことがある。
人影のない川岸の藪の中や、林の中など。その時に「今ここで急病で倒れたら、どうなるのだろう?」と思うことがある。人が通りかかれば良いが、それが見込めない林の中などでは、放置されて死んでしまう??
まあスマホは持っているが、それでも場所を説明出来なければヤバイ。それで先日スマホに「コンパス」というアプリを入れて、北緯何度、東経何度が直ぐに表示されるようにした。たぶん、109番にこの位置情報を言えば、何とか来てくれるかも・・・

そんなことで、「もし倒れたら」という想像が頭をよぎるようになった。それに、7ヶ月も帰ってこないマグロ遠洋漁業の船で急病になったら?なんて、余計な心配をしてみたり・・・
原因は自分のトシだな。段々と健康に自信が無くなっている証拠。

この物語の無医村は、それが日常なので、その大変さが良く分かる。
段々と健康に自信が無くなってきた最近のエムズ君ではある。

| コメント (2)

2018年3月 2日 (金)

中尾ミエの「芝居は終った」

今日は、中尾ミエの「芝居は終った」である。

<中尾ミエの「芝居は終った」>

「芝居は終った」
  作詞:なかにし礼
  作曲:宮川 泰

もう よしましょう 芝居は終ったの
もう よしましょう 愛しているふりは
冷たい口づけ 偽りの涙
どこまでも 私の心は寒い 寒い
 恋の光も 恋の調べも
 消えてしまった後に何が残るの
 疲れきって みじめになった あなたと私

下手な芝居の幕を おろしましょう
三文役者の化粧 落しましょう
あなたも 私も さみしかったのね
抱きあえば なおさら 私は独り 独り
 恋の光も 恋の調べも
 消えてしまった後に何が残るの
 疲れきって みじめになった あなたと私

もう よしましょう 芝居は終ったの
もう よしましょう 昨日までの続き
私に最後の セリフを言わせて
さよならは これっきり 逢えないあなた あなた
 恋の光も 恋の調べも
 消えてしまった後に何が残るの
 疲れきって みじめになった あなたと私

180302shibaihaowatta この歌は、1971年3月発売だという。まさに半世紀前のリリース。
自分がこの歌が気になるのは、自分が好きな“バラード風”なので・・・
いや、専門家が、この歌をバラードと言うかどうかは分からないが、自分的にはバラード。

WIKIで「バラード」を読むと、「その特徴はクラシック音楽のものを踏襲しており、ゆったりしたテンポ、静かな楽想、美しいメロディラインやハーモニー、そしてラヴソングを中心とした感傷的な歌詞を音楽的な主軸とし、楽式的には、ピアノなどによる静かなイントロとエンディングに向けての劇的な盛り上がりが特徴とされる。」とある。
つまり、自分的には、ゆったりとしたメロディーで始まって、激しい旋律に発展していく歌と理解。
同じような形式の歌では、りりィの「心が痛い」(ここ)を思い出すが、ちょっと違うかも・・・
布施明の「どうしてこんなに悲しいの」(ここ)や「愛は不死鳥」(ここ)はどうか・・・。チョー・ヨンピルの「窓の外の女」(ここ)やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「身も心も」(ここ)も、ゆっくりとした旋律から始まるので、バラードかも・・・

Netでこの「芝居は終った」を検索しても、ほとんどヒットしない。歌詞も出ない。そしてYoutubeにもアップされていない。それほどマイナーな歌なのだろうか?
このように、あまり有名でない歌は、ついここに取り上げてみたくなる。
つまりは、当サイトは、自分が気になっている歌の世の中へのPRかも・・・!?
歌唱力がないと、なかなか歌いこなせない中尾ミエの「芝居は終った」である

| コメント (2)

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »