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2017年3月の13件の記事

2017年3月22日 (水)

ホスピスで聖書の言葉を伝えるチャプレン藤井理恵さんの話

先日、NHKラジオ深夜便の「明日へのことば」「人生の最期に寄り添って~藤井理恵さん(淀川キリスト教病院 チャプレン)」(2017/03/04放送)を聞いた。
NHKの解説にこうある。
「“チャプレン”とは教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者のことです。
170322fujii 藤井理恵さんは会社勤務時代、同僚の自死をきっかけに牧師となることを決意しました。大学院で神学を修めたあと、終末期医療を行うホスピスの草分けといわれる病院で“チャプレン”として勤務を始めました。
多くの患者の声を聞き、最期をみとる中で感じたこと、忘れられないことばの数々をお話しいただきます。」(
ここより)

お話を少し聞いてみよう。

<NHKラジオ深夜便~藤井理恵さんの話>

*この番組の全部(43分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

この話の中で、死に逝く人に話した聖書の言葉を、幾つか紹介していた。
「詩篇23~4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

「ヨハネによる福音書
わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

「コリント人への第一の手紙4:7
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」

失うことを恐れている自分の能力は、そもそも神さまから頂いているもの。それを自分の物のように思って、自分の存在価値の裏付けにしてしまう。それが自分の物だと思っている時は、自分の思い通りにならない事に対して辛くなる。だからいったん手放すことが大切。

そして、最後にマザーテレサの言葉が紹介されていた。

「マザーテレサの祈り」
主よ、私は思い込んでいました。私の心が愛に満ちていると。
でも心に手を当ててみて、気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ、私は思い込んでいました。私は何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、わかったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しいことを。
でも、胸に手を当ててみて、気づかされました。
私は思い上がりと妬みとの心に膨れ上がっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

石川康輔訳「マザー・テレサの祈り」(ドンボスコ社刊)(ここより)

そして自分の最大の関心事?「死に際し、宗教の力は大きいのは、なぜ?」に対しては、こんな言葉。
「人間は、生きている時は横の関係(人とのつながり)の中で生き、その中で苦しみの答を見付けていくことがある。しかし、横の関係だけでは癒されない苦しみもある。その時は、縦のつながりの中で答を見付けていくことができる。限界を感じた時は、限界を超えたことにつながりたいと思う。死の恐怖を持っている人は、死を超えた希望があることを見付けたい。それは、私の場合は神さまとの関係の中で生まれてくる。」

ホスピスの草分けだという淀川キリスト教病院のチャプレンとして、26年、330人を看取った経験でのお話なので、なかなか深いものがある。

淀川キリスト教病院のチャプレンといえば、7年ほど前に同じラジオ深夜便で放送された「旅立つ人、看取る人 淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長 柏木哲夫」(2010/1/18放送)を紹介したことがあった(ここ)。
さて、自分がなぜこのような番組が気になるか・・・。それはもちろん自分も死が怖いから・・・
死が怖くなった時に、宗教がその支えになるとは、良く聞く。しかし、それが何故かは良く分からなかった。しかし、このお話の中にその一つの解が示されていた。

幸いなことに、まだ自分は余命を告げられていない。しかし、いずれその時が来るだろう。その時は、この話をもう一度じっくりと聞きたい。それで、ここに録っておくのである。
(気弱な自分は、やはり突然死がいいかな~~~)
仏教については、前に一通り勉強した。キリスト教についても、何か本を読んでみようかな・・・

(関連記事)
“生きざま”の凝縮が“死にざま”に・・・? 

17032281sai <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月21日 (火)

国や自治体はどう動く? 姫路のこども園問題

最近は、特にやりきれないニュースが多い。中でも、姫路のこども園問題は、言語を絶するやりきれなさを覚えた。
少子高齢化に対する国の対策や、1年前の「保育園落ちた、日本死ね」(ここ)でもクローズアップされた保育園不足問題だが、そんな背景をも尻目に、こんな悪徳保育園もあるのだ。

悲惨な保育実態とは? 姫路・認定こども園問題
 定員を大幅に超える園児を自治体に隠して受け入れ、しかも園児らに食事を十分に与えなかったという劣悪な環境。兵庫県は全国初の認定取り消しとする方針です。
 「(同行した)保育所長経験者は監査後に涙を流していました。あまりにもでたらめだと」(市の担当者)
 19日急遽開いた会見。姫路市の担当者も驚きの表情を見せました。認定こども園の『わんずまざー保育園』。外観はきれいで、遊具も真新しいものが設置されています。しかし、異常な保育実態にあったことが判明しました。
 市によりますと園の定員は46人。しかしこれとは別に、私的に保護者と契約した22人を市に隠し勝手に受け入れていたのです。これは抜き打ち監査で発覚しましたが、その前の訪問日を事前に知らせる定期監査では、該当する園児22人全員を休ませるなど、隠蔽工作も図ったとみられます。
 「こんな園に生後8か月から2年間も通わせていたのかと思ったら、自分が子どもに申し訳ないというか情けない。誰も死ななかったのが不思議なくらいだと思います」(園に通わせていた保護者)
 保護者が「死ぬ危険性」もあったと訴える園の実態とは?20日、現役の保育士が答えました。
 「人手が足りない時に、子どもがケガをしてしまって、その時はかなりきつかったです」(現役の保育士)

 1.不十分な給食
 約70人の園児に対し園が発注した給食は約40人分。2歳児の給食は、白ご飯のほか、カレースプーン1杯ほどのわずかなおかずがあるだけです。一方、0歳児の給食です。ごはんもおかずも一つの器に盛られ、固形の具も入っています。少ない時は、必要な食事量の3分の1程度しか与えられていなかったといいます。
 「体重がなかなか増えないってことも連絡帳に書いてましたし。1歳半のときからずっと10キロ台で。給食でちゃんと栄養が取れてるなら大丈夫かなという思いもあったんですけど、それもあってすごく悔しいやら情けないやらです」(園に通わせていた母親)
 食事量について園長に取材すると、こう話しました。
 「70人全員が食事をとるわけではなく、給食が余ることもあった」(園長)

 2.保護者が来る直前だけ暖房
 「市によりますと、朝、保護者が来る2時間くらい暖房して、あとはまったく暖房をつけていなかったということです」(山根淳綺記者リポート)
 厚労省のガイドライン。室内を20度以上に保つべきとしていますが、監査の際、暖房はつかず、室温は14度ほどだったといいます。室温について市が園長に尋ねたところ…。
 「暖かくなってきたので空気を入れ替えていただけです」(園長)

 3.保育士の水増し
 書類上、園では保育士が13人働いていたことになっていましたが、3人に勤務実態はありませんでした。その一方で園児を勝手に増やしたため、働く側にとっても過酷な環境だと現役の保育士は話します。
 「何かを園長先生に言うことが難しい職場。休憩が取れない、まったく取れない。それくらい仕事に追われている。残業代がつかないけど、子どもが多いので時間通りにあがれない」(現役の保育士)
 浮き彫りになる劣悪な運営実態、専門家は…
 「今回は特異な例で、定員を1.5倍も超えて受け入れるとか、明らかに子どもに危害が及んでもおかしくない」(奈良女子大学生活環境学部 中山徹教授)
 「わんずまざー保育園」は、姫路市などから運営費として年間約5000万円を受け取っていて、市は刑事告訴も検討しています。」(
2017/03/21付「毎日放送」ここより)

地元の神戸新聞の記事がより詳しい。
給食のおかずスプーン1杯 姫路のこども園
 園児40人余りで発注された給食を約70人で分け、おかずがスプーン1杯だけの子も…。兵庫県と姫路市の特別監査で、異常な保育実態が明らかになった私立認定こども園「わんずまざー保育園」(同市飾磨区加茂)。定員を大幅に超える園児を受け入れる一方、保育士の人数を水増しし、虚偽の報告でつじつまを合わせていた。
 県と市が抜き打ちの特別監査に踏み切ったのは2月23日。関係者の情報提供がきっかけだった。
 市などによると、施設の面積などから算定された同園の定員は46人。だが、園内には0~5歳の約70人がひしめいていた。
170321kodomoenn  特別監査があった日、同園が外部発注した給食は42人分。おかずを取り分けたが、0、1歳児にはスプーン1杯分しか行き渡らなかったという。
 給食の不足は常態化し、土曜日に限っては10食のみに固定し、これを園児40人前後に分配。おやつは午後1回だけで、4、5歳児は「ビスケット3枚」もしくは「かっぱえびせん6本」に制限した。
 余った給食は冷凍保存し、足りない日に解凍して提供。1カ月以上過ぎても使うケースがあったという。
 また、給付金を水増し請求するため、架空の保育士3人を計上し、給与分は園長が個人的にプール。同じ敷地内で運営する学童保育の小学生らの送迎を保育士にさせたり、夜間のベビーシッターを兼務させたりしていたことも確認された。
 同園はこうした実態を隠すため、市への報告書類などを改ざんしていたという。
 小幡育子園長は神戸新聞の取材に対し、特別監査で指摘された項目を認め「(認定を受ける前の)認可外保育所だった時代の感覚で運営していた。プールしたお金は遊具購入などで園児に還元するつもりだった。認定こども園としての自覚が足りなかった」と謝罪した。
 県こども政策課の担当者は「認定以前の問題で衝撃を受けている。厳しく対処したい」としている。(金 旻革、木村信行)」
(2017/3/19付「神戸新聞」ここより)

姫路のこども園 保育士欠勤や遅刻で罰金、無給勤務
 不適切な保育実態が明らかになった兵庫県姫路市の私立認定こども園「わんずまざー保育園」が、保育士と不当な雇用契約を結んでいたことが20日、市などへの取材で分かった。給付金を受けるため市に提出した雇用契約書とは別に、欠勤や遅刻をすれば罰金や無給勤務を科す“裏契約”を交わしていた。市は労働基準法違反などの疑いもあるとみている。
 同園はこども園の認定を受けた2015年度以降、運営のため、年間約5千万円の公費を受給。保育士の人件費も含まれている。
 市などによると、同園はこども園への移行に伴い、市に雇用期間や賃金を記した契約書を提出。一方で一部の保育士と内容の違う契約書を交わしていた。
 “裏契約書”には、欠勤や遅刻、早退をした月は給与から1万円減額すると記載。無断欠勤すれば無給のボランティア勤務7日間、30分以上の遅刻なら2日間などとした。保護者を待たせた場合は「10日間のボランティア勤務、お客さま宅に謝罪」ともあった。
 また、祝日などで保育士の休日数が園の規定よりも多い月は、日数に応じて給与がカットされていたという。
 裏契約書は16年度になくなったが、その後も雇用状況は変わらなかったという。
 同園の保育士は「1日働いても無給で理不尽に感じたが、園の方針で従うしかなかった」と証言した。
 同園を巡っては、兵庫県と市の特別監査で、保育士数を実際よりも多く報告して給付金を水増し請求するなどの不正行為が判明した。県は近く、こども園の認定を取り消す方針。(金 旻革、木村信行)
(2017/3/21付「神戸新聞」ここより)

この問題は、今朝(2017/03/21)のTV朝日の「モーニングショー」でも取り上げていた。そこで今も働いている現役保育士の話によると、「外部に言えなかったのは、園長が怖かったから」。
ある4歳児の保護者は「体重が4月に量って5月に量ったら1Kg近く減っていた」。
抜き打ち監査をした市の説明によると、「ちょっとショッキングな話なんですが、ご飯を残しますよね。冷蔵冷凍保存しますよね。後日、残っているものを解凍して出すことをしていた」。本来、破棄すべき食べ残したおかずを後日食べさせるとは・・・

しかし入園希望者は後を絶たなかったという。
認定こども園とは、幼稚園と保育所の2つの機能を備えた施設。よって、幼児教育を受けながら保育時間を延ばすことが出来るので、共働きの家族から人気の施設だった。そして午後7時半まで預けることが出来た。
1歳の娘を通わせている保護者は「私も負い目がある。どこにも行くところが無くて、それでも私は仕事復帰しなくちゃいけなくて、どこも受け入れてくれなくて、ここに電話したら「じゃあ見てあげます」って言われて・・・。市を通していないから悪いことは分かっているけど、そんなふうに言ってくれているから、お願いしますと・・・」。その後ろめたさから、回りのママ友にも相談出来ずに自分ひとりで抱えてしまって、今回の問題発覚で、自分ひとりではなかった、22人も同じような人がいた、とビックリしていたという。
そして、園長は「親御さんが大変で受け入れてあげたかった」と言っているが?という問いに対して、現役保育士は「そんなことはなかったと思います。お金もうけと思っていました」。
そして、保育士が園長に意見を言うと、子ども達の前で叱責されてしまい、子ども達が怯えてしまうので言えなくなった、とのこと。

現在いる保育士10人も、3月末で8人が退職予定だとのこと。

そして番組では、こんなコメントがあった。「待機児童の問題が根本。保育園を増やして、競争させるしかない」「少子高齢化で日本は大変だと言いながら、実際に子どもを育てているお母さんや子どもがこんな状態の国って、いったいどうするの?」・・・

まさに文句を口に出せない障害者、老人、幼児を食い物にしている経営者たち。
しかし、それでもなお「預かってくれるだけで有り難い」と思う親たちがいる。

調べてみたが、この件を社説などで取り上げている新聞はまだない。全国のメディアがこの問題をどう取り上げるのかを注視したい。
そして、出来るならこの事件が、昨年の「日本死ね」のような、待機児童に対する国の無策を糾弾するキッカケになれば良いな、と思う。

170321neko <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月19日 (日)

母の実家、宮原家の家系図を作った話

この所、母方の祖先が気になり、実家の宮原家の原戸籍を取り寄せて、家系図を作ってしまった。江戸時代以来の家系である。
NHKのテレビ番組に「ファミリーヒストリー」というのがある。その番組紹介に、「第一線で活躍する著名人をゲストに迎え、その家族史を徹底取材。本人も知らない家族の秘話を紹介します。VTRを初めて見たゲストは、何を感じ、何を語るのか。それは自らの「アイデンティティ」や「家族の絆」を見つめることにつながります。驚きあり、涙ありのドキュメントです。」とある。
別にそれをまねた訳でもないが・・・

先日、弟が伯母の七回忌をやってくれた。子供が既に亡くなっていた伯母は、我々甥しか身よりはいなかったのである。そして、弟が無縁墓化する宮原家のお墓を、墓じまいしたいと言って、住職と相談し、ほぼ無料で墓じまいできることになった。(普通は、離壇料などが必要になるが、今回は住職が事情を汲んでくれて、お骨を無縁墓に移してくれて、お墓の撤去費用は、次の人に譲るお金でまかなってくれるとのこと)
そのお墓は、お袋の実家のお墓であり、お袋の両親も眠っている。昔流に言うと、婿養子を貰って家を継いだ伯母が亡くなったことで、宮原家は断絶することになったが、信心深い?弟が、そのまま放っては置けないと、処置に動いてくれたもの。
そんなことがきっかけで、そして墓じまいするときの供養になるかな・・・とも思って、先祖代々を振り返ってみた。

伯母の納骨の時の住職の言葉を思い出した。
「人間には2つの死がある。一つは肉体が滅んだ時の死。もう一つは、自分の記憶が全ての人の頭から消え去ったとき・・・」(ここ

以下の記録は、自分のためのメモ(心の整理)である。実名で書いてしまうが、全員が亡くなっており、個人情報やプライバシーの問題はないはず・・・。

今回、先祖をたどってみようと思い立った理由の一つが、弟からお墓に7つの遺骨があると聞いたから。それらが、誰なのか・・・。お袋の実家なので、名前と家系くらいは知りたいと思ったのだ。
そして、今の機会を逃すと、永遠に宮原家の歴史は埋もれてしまう。まあ、それにどんな意味があるのか、また、それらが分かっても、それを知って喜ぶ人など、もう居ないのだが・・・・

今回の調査で手に入れた原戸籍は10通。まず、親父の原戸籍から、お袋の長崎市の戸籍住所を知り、その原戸籍から大阪市、三浦村(長崎県大村市)、また長崎市とたどって全体が分かった。その転籍はめまぐるしく、お袋の住んできた経緯が分かった。

①明治元年(1968年)2月11日
 長崎県東彼杵郡三浦村233番地(現・大村市)(戸主:宮原文右衛門)

②大正8年12月18日 ★お袋たち3姉妹はここで生まれる
 長崎市勝山町8番地(宮原文右衛門)

③大正14年7月24日
 長崎市茂田町13番地(宮原文右衛門)

④大正14年9月2日
 長崎市銭座町1丁目54番地(宮原文右衛門)

⑤大正14年11月4日
 長崎市平戸小屋町103番地(宮原文右衛門)

⑥大正15年12月13日(家督相続)
 長崎市平戸小屋町103番地(宮原傳次郎)

⑦昭和2年6月10日
 長崎県東彼杵郡三浦村(現・大村市)日泊郷769番地(宮原傳次郎)

⑧昭和3年8月25日
 大阪市西成区津村町548番地(宮原傳次郎)

⑨昭和12年5月10日
 大阪市東成区猪飼野大通1丁目50番地(宮原傳次郎)

⑩昭和17年11月19日
 長崎市岩川町40番地の46(宮原傳次郎)

⑪昭和18年8月1日 家督相続 ★お袋はここから嫁に
 長崎市岩川町40番地の46(宮原清二)

⑫昭和26年6月18日 
 静岡県焼津市焼津(本町4丁目)710番地の3(宮原清二)

⑬平成5年7月23日
 茨城県龍ヶ崎市3163番地(宮原秀子)

ここから分かることは、転居しても、今は戸籍は移さず住民票だけを移すが、昔は、転居と同時に戸籍も移したようだ。
生前、お袋に聞いた昔の思い出話として、2012年3月17日付で、こんなメモが残っていた。
「お袋の長崎時代~大阪時代のキーワード。長崎は「ひらどごや」。大阪は「きんのう小学校。仁徳天皇御陵のそば。道頓堀」「伯母ちゃんは長崎の三浦村に」。大阪では「てらまち通り。塩原ぎげい女学校学園、大野病院」。
調べたら「長崎市平戸小屋町」に「朝日小学校」があるので、その校門前に家があった? 長崎の三浦村は現・大村市。
大阪は、道頓堀と大野記念病院とは近い。しかし仁徳天皇御陵は遠い。塩原技芸学校は神戸。寺町通りは、あるにはあるが・・・」

仁徳天皇陵は堺市なので、これは大阪城の勘違いかも?でも、何となく遺跡というニュアンスは合っている。
お袋の年齢で追うと、3歳で母親(自分の祖母)が亡くなった後、4歳から7歳まで住んでいたのが長崎市平戸小屋町。そこでは、小学校前でお饅頭屋を営んでおり、お正月などは、学校にお饅頭を納めていたとか。
その後、7歳の時に大阪に出て、父親(祖父)はデパートに勤め、お袋が21歳の時まで大阪に住んでいた。この間、父親には再婚の話も多く、2度目の母親とお袋ははうまくいっていたが、亡くなってしまった。そして、3度目の母親とはウマが合わず、父親に「お母さんと自分のどちらを取るのか?」と父親に迫ったと言うから、お袋も気が強い。しかし戸籍にはどちらの母親も記載が無く、正式に再婚した形跡はなかった。
そして昭和17年4月に伯母が結婚して焼津に移り、同じ11月に父親と二人で長崎に戻っている。これは父親(自分の祖父)が胃がんを患ったため、故郷に戻った。そして昭和18年8月に亡くなるまで、お袋一人で看病し、看取ったという。お袋は、父親が大好きだったが、その看病は大変で、亡くなった時は、やっと自由になれる、と思ったそうだ。
その後、一人になったお袋は、伯母(お袋の姉)を頼って焼津に行き、縁あって親父と結婚するにあたって、伯母の夫(婿養子)の実家の小石家が、両親が居ないのは不憫だからと、いったん小石家に養女として入って、半年後にそこから嫁に行った。
その時のことをお袋から聞いたことがあったが、「お父さんが、東京からわざわざ焼津に会いに来た。それで、どうしてもと言うので、結婚してあげた」とのこと。お袋はどこまでも気が強い。
カミさんが「どんなお父さんだった?」と聞いたことがあったが、お袋は、「よう分からん人だった」と言っていたとか・・・。これらの話は、生前、自分の家にお袋が1週間泊まりに来たことがあったが、その時にカミさんが聞き取ったもの。

170319miyahara1 戸籍を追って書いてみた家系図に従って眺めてみる。一番古い人は、宮原市太郎という高祖父。生まれも亡くなった年も分からない。江戸時代のことだ。曾祖父は宮原文右衛門といい、嘉永5(1852)年9月5日生で、大正15年12月13日に74歳で亡くなっている。明治維新を15歳で迎えていることになる。曾祖母の宮原ミヨは、安政3(1856)年2月15日の生まれで、大正10年7月24日に65歳で亡くなっている。同じく明治維新は12歳で迎えている。
そして子供として、祖父の長男・宮原傳次郎をはじめとして、長女・トキ(結婚して他家に)、次女・ニワ(23歳で没)、次男・政治(分家)、三女・ツ子(生まれてまもなく養女に)の5人を生んだ。
その中で、政治という人の子供、つまりお袋の従姉妹たちとは、若い時は行き来があったようで、前に親父からの言い伝えで自分の家の家系図を書いた時に、色々名前が出ていた。しかし、それ以外の人は、今回の戸籍で初めて名前が分かった程度。

そして祖父・宮原傳次郎は、明治15年12月11日生まれで、先に書いたように昭和18年8月1日に60歳で 胃がんで亡くなった。
そして祖母のキンは、明治22年8月7日に生まれ、大正13年11月25日に35歳という若さで、はやり病(スペイン風邪?)で亡くなった。当時、伯母の秀子は7歳、お袋は3歳、妹の郁子は1歳半。幼子を残しての死は、無念であったろう。
祖母は、19歳で結婚して、35歳で亡くなるまで、1男6女を生んだ。ほぼ2年に一人である。でもなかなか育たなかった。
長女の文枝は、お袋から14も年上だった事もあり、頼りにしていたという。しかし23歳で結婚したが、25歳で亡くなってしまった。確か、かっけだったと聞いた。
長男の武は8ヶ月で亡くなっていたが、今回の戸籍を見るまでは、その存在を知らなかった。今まで、男の兄弟がいたことは聞いたことが無かった。夭逝したのでお袋の記憶になかったのかも・・・
次女のセイは、清子という名で聞いていた。結核でずっと養生しており、14歳で亡くなっている。お袋の8歳年上で、亡くなった時はお袋が6歳だったので、記憶に残っていたらしい。
三女の知恵子は、2歳で夭逝。誕生日が自分と同じなので、それを知った時に、不思議な因縁を感じた。そして四女の伯母、五女のお袋、六女の郁子が生まれる。
妹の郁子は、生後1歳半で母親を亡くしたため、4歳の時に養女に行った。
生き残った伯母とお袋の姉妹とは、没交渉だったが、仙台に住み、大人になってから交流があったと聞く。その息子も家に遊びに来ていた。
今回、戸籍を見てビックリしたのは、養子が居たと言うこと。昭和5年に当時17歳の四郎という養子を貰っている。しかし、たった3ヶ月で離縁して、元の戸籍に戻っている。
これは、跡取りとして貰ったものの、何かうまく行かずに、離縁したのだろう。そんな試みもあったのだろうが、当時はお袋は9歳。記憶には残っていなかったようで、そんな話を聞いたことが無い。そもそも生前にこんな調査をしておけば、もっと生きた情報が得られただろうに、今となっては手遅れだ。

もうひとつビックリしたのが、伯母に実子が二人も居たと言うこと。生前、お袋からは、伯母は子供が出来ず、自分がお袋のお腹の中にいた時に、「生まれたら、養子にちょうだい」と言われていた、と聞いたことがあった。それが今回分からなくなった。自分が生まれた後にも息子が生まれ、その子が2ヶ月で夭逝してしまい、その半年後に養子・清人を貰っていた。
まだ子供が産めたのに、自分を養子に、とは分からない。
伯母が、親父が亡くなった後に、お袋と一緒に住み始めたが、仏壇に確か赤ちゃんの写真があった。それが、二人のどちらかは分からないが、あれが実子だったのかと、今ごろ気付いた。
お袋の生前「伯母に実子が居たんだって?」と聞けば、直ぐに分かったのだろうが、今となっては分からない。

前に、お袋から、自分と弟との間に、堕ろした女の子がいたと聞いたことがあった。それを聞いた時は衝撃だった。若しかしたら、妹がいたかも・・・なので。

全ては、時間の経過と共に消えて行く。般若心経が教えるように、全ては「空」。
でも、何かこれらの事実は、一度は自分の心にピンで留めておきたい。そして、このblogにメモすることで何故か安心する。これも「忘れないことによる供養」なのかも知れない。
ついでに、父親系の系譜もたどりたいが、戦災で役所が焼けたこともあり、分かるかどうか・・・

“毎日が日曜日”の自分は、カミさんにバカにされながら、こんな事に時間を費やしているのであ~る。

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2017年3月16日 (木)

下重暁子の講演会「“家族という病”を考える」

先日、NHKラジオ第2で、文化講演会「“家族という病”を考える」作家・下重暁子(2017/02/26放送)を聞いた。
NHKの解説にこうある・
「“家族という病”を考える 作家…下重暁子
日本人の多くが「一家だんらん」という呪縛にとらわれていると考える下重さん。日本の家170316simojyuu 族について、もっとも近くにいながら、じつは一番理解していない存在であるとも言う。家族がらみのトラブルも続発している昨今、そうした家族がなぜ美化され続けるのか?『家族という病』、『家族という病2』の著者である下重さんが、家族とは何か?を問いかけながら、新しい家族のあり方を提起する。」(
ここより)

一部を聞いてみよう。

<下重暁子の講演会「“家族という病”を考える」より>

*この番組の全部(60分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

さて、下重暁子という名は知っていたが、タレントだとばかり思っていた。それが100冊も上梓した、れっきとした作家だそうだ。
その作家・下重暁子氏が「家族という病」という新書を出してベストセラーだという。カミさんに聞いたら、カミさんは知っていたが自分は初耳・・・
講演を聞いてみると、相変わらずの滑舌の良さで、「家族」というものを喝破されていた。
確かに、辛辣な物言だが、“然り”と思う分は聞いていても違和感はない。しかし、自分をさんざん可愛がってくれた人を見下す態度には、少々食傷気味。
まあ色々あるかな・・・と思って、Amazonの「家族という病」という本を覗いてみると、案の定、様々な評価があるようだ。

レビューの件数が344件は多い。しかしその55%が、最低の星一つ。
その最初に出てくるレビューには「要するに下重さんのご自分の家族への愚痴、一般の家族へのコンプレックスとも言えるものをただ感情のままに丸めてぶつけてくるだけのヒステリックな自分語り本です。・・・」という意見。
逆に星4つの好意的なレビューは「「家族なんだから」「親なんだから」「育ててもらってるんだから」「親のことそんなに悪く言うもんじゃないよ」という無責任な言葉におしつぶされそうな人には、適した本ではないでしょうか。親の犠牲になるべきかどうか、選択を迫られている人にはおすすめです。・・・」という言葉も・・・。

しかし、それほど評価が低い本が、なぜそんなに売れているのか? 図書館で検索してみたら、9冊在庫で予約数が41件。つまり評価とは別に、読みたいと思っている人が多いと言うこと。
結局、「家族」というものが、誰にとっても“重たいテーマ”ということか・・・

前にも書いたが(ここ)、20年前に亡くなった親父の口癖は、「絶対に子ども達とは一緒に住まない。他人が家に入ってくると、気を遣って窮屈。夫婦だけが自由で良い」。

親や兄弟などとの距離感は非常に難しい。近すぎても問題を起こすし、遠すぎても悩みを生むことがある。ただ一つ言えることは、間が険悪になると、始末に負えない、ということ。関係の修復がまず無理、ということ。
特に兄弟間はそのようだ。親の遺産相続をめぐっての葬式での言い争いで、それ以降没交渉になる例は、枚挙に暇がないという。周囲にもその体験者は多い。
我々夫婦間でも、家族についての会話が非常に多い。話の内容の過半数は家族の話かも知れない。

さて、自分はこの講演を聞いただけで充分なので、本を読む気はないが、とにかく家族関係は難しい。そして一旦トラブルと修復が難しい。そもそも歳をとると、修復は不可能・・・
それを前提に、家族とはよくよく気を付けて付き合いましょう。という再認識が出来ればそれで良いのでは?と思いながら聞いた講演であった。

●メモ:カウント~1010万

170316hitori <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月14日 (火)

昔の切手をヤフオクで処分した話

自分が切手ブームに巻き込まれたのは昭和32年11月のこと(ここ)。それは「切手趣味週間」の「まりつき」という切手を良く覚えているから・・・。その発売が昭和3年11月1日なのだ。それから「小河内ダム」「関門トンネル」、そして「アジア大会」の絵柄も良く覚えている。
しかし同じ昭和32年の3月に発売になった「国際連合加盟」は手に入らず、憧れであった。

自分以上に切手に夢中になっていたのが、兄貴。3歳年上の兄貴は、切手収集に凝りに凝った。その兄貴から、昔収集した切手の処分を頼まれた。個別切手(1枚ずつ)のストックブックが2冊、シートのストックブックが4冊。
170314kitte3 そしてシートから兄貴の切手収集の歴史が見えてくる。個別の切手の収集は上の昭和32年からだが、お小遣いでシートを買い出したのは、「第13回国民体育大会」(昭和33(1958)年10月19日発売)から。そして最後が、「太平洋学術会議」(昭和41(1966)年8月22日発売)だった。つまりシートの収集は、中学2年の秋から、大学4年の夏までだった事が分かった。

さて、膨大な切手をどう処分するか・・・。Netでググってみると、兄貴は「苦労して集めたので、大変な価値がある」と思っていたが、現実は冷たい。つまり、ブームが去った今は、切手は手紙に貼って使う価値はあるが、それ以上の価値を認めてくれる人は非常に少ない、ということ。つまり、趣味で切手収集をしている人口は非常に少ないということ。兄貴は、欲しいという子ども(孫)が居れば、上げたいというが、今の子どもは誰も見向きもしない。それで、結局は処分。つまり、お金に換えようかと・・・

170314kitte1 その処分については、(ここ)が分かり易かった。つまり最も使い易いヤフオク(ネットオークション)での処分についての解説である。それによると、やはり切手収集家以外で処分すると、額面の75%程度が上限らしい。それで自分だが、街の買取業者に持って行くことは最初から諦めた。たたかれて、額面の半分にもならないかも知れないので・・・

170314kitte2 まず、超有名な「月と雁」「見返り美人」からヤフオクに出してみた。案の定、8円の切手だが、1300円ほどで売れた。それを除くと、高値で売れるものはない。
それで、ここ数日、シートを頑張って出品した。すると、結構落札されている。ここ数日、それらの出荷(発送)で大忙し・・・
一通り、シートの出品が終わったので、整理してみた。すると、売れた切手が46種(回)。額面の総額が27,967円で、売れた額が42,960円だった。その率、154%。この中には、上の特異な2種と、大量な約1万4千円分の「お年玉当選切手」があったので、それを除くと、額面が13,330円で、売値合計が24,960円だった。つまり187%。
これは、先の75%に比べて、好成績では?
そして、まだ出品中が90項目程度あるので、10万円を目指そうか・・・

だいぶん、ヤフオクに出品する時のコツが分かってきた。上のサイトにも詳しいが、自分はこうした・・・。
1)写真は、スキャナーで表と裏を撮る。そしてデジカメで、裏面の写真を、なるべく電灯の光を反射してピカピカ光っているところを撮る。
これは収集家は、裏面にちゃんと糊が付いていて、新品同様だという状態を知りたいから。
たまたま兄貴の切手は、昔買った時、そのままストックブックに収納して、それ以降、手を付けていない。よって状態は上々・・・

2)“同梱可能”として出品する
収集家にとって、送料はバカに出来ない。10円切手が20枚(額面200円)のシートを300円で落札しても、それを送るのに、定形外郵便で120円かかる。結局420円の買い物になってしまう。そのムダを省くのは、大量に一緒に買って貰う。つまりは、選択肢を多く。よって、ここ2日で、100数十枚のシートを同時に出品した。すると案の定、3~7件ほど一緒に落札してくれる。それでも、送料は120~140円で済むので、効率が良い。

でも、これで売れても、実際の実入りは少ない。300円で落札して貰っても、ヤフオクに1割程度取られるので、270円。実際に手紙に貼って使うと200円で使えるので、ヤフオクで売った効果は70円にしかならない。出品には、写真を撮ったり、切手の状態を書いたり、手間がかかる。そして何よりも、出荷の手間が結構大変。入金を確認してから、相手の住所を封筒に書き、切手が折れないように、堅いボール紙で厳封し、ポストに・・・・
幾ら100円ショップで買うとしても、使う段ボールや封筒、そしてプリンターのインクまで考えると、もうかった70円など吹っ飛んでしまう!?

まあそれはそれとして、額面が一枚50円の切手は出品せずに、手紙に貼って使う事にした。つまり、ヤフオクの傾向として、50円の10枚シートが良くて600円。つまり、ヤフオクに60円持って行かれるとすると、もうけは40円。それではとてもペイしない。手紙に貼って使うに限る・・・

それともうひと工夫。バラの切手は、とにかく使う。落札者への封筒に、10円切手を12枚ズラリと貼る。郵便局で消印を押すのが大変だろうが、構わずにとにかく貼る。そして使ってしまう。これが一番。
この所、近くの郵便局では評判になっているかも・・・!? ひとつの封筒に切手が10枚以上貼られたものがたくさん発送されているので・・・

ともあれ、売れるのはシートだけ。個別に集めた2冊の切手は、どう処分するか・・・・
一枚ずつ出品するわけにもいかず、さてさて・・・
でも、兄貴が子どもの頃に一生懸命集めたものも、結局額面の総額は、到底10万円に届かない。
子どもの頃に、広かった道が、大人になって行ってみると、その狭いのに驚くことがある。それと同じか・・・。子どもの頃のお金は、大人になって見ると、たった数万円・・・

でも、たくさんの人が自分の出品に応札してくれている。これは、まだ世の中に切手収集を趣味としている人が居る、ということ。
切手の状態は良いので、出来るだけ売ってしまい、残りは手紙に貼るしかない・・・

さてさて自分の手間賃は幾ら貰おうかな? 売値が総額10万円に達したとしても、その換金にかかった時間と手間は、とても10万円では済みそうにない。
つまりは「落札された!」という達成感!?にでも意義を見出さないと、とてもやっていられない作業かも・・・ね。

170314hikure <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月12日 (日)

森田由美恵の新録音「潮風の吹く町」

前に、森田由美恵の「潮風の吹く町」について書いた(ここ)。もう10年も前の事である。
先日、「ひこわん」さんんから、その新録音CDが発売(2017/02/08発売)になったという情報を頂いた(ここ)。
それで早速そのCDを手配した。先ほど着いたCDを再生してみて、その声がほとんど変わっていないのにはビックリした。新旧を比べてみよう。

<森田由美恵の新録音「潮風の吹く町」>

「潮風の吹く町」
  作詞:なかにし礼
  作曲:浜 圭介

ふるさとは 遠い北の果て
潮風の吹く町
荒れた手をして 網をあむ
小さな母の肩
浜なすの花が 咲く頃に
帰ろうと思いながら 二年が過ぎた

海鳴りが唄う 子守唄
潮風の吹く町
今日も夜なべの 針仕事
乱れた母の髪
許してね私 悪い子ね
帰ろうと思いながら 四年が過ぎた

雪ふれば つらい冬が来る
潮風の吹く町
凍る井戸水 汲みながら
吐息も白い母
もう二度と そばをはなれない
逢いたくて甘えたくて 夜汽車にのった
逢いたくて甘えたくて 夜汽車にのった

そして旧録音がこれ。

<森田由美恵の「潮風の吹く町」>

Netでググってみると、(ここ)にプロフィールがあった。
森田由美恵のプロフィール
3歳より歌い始め、1969年フジサンケイグループ主催「全国歌謡コンテスト」優勝。1971年、170312morita1 東芝音楽工業より「潮風の吹く町」でデビュー。30万枚を売り上げるヒットで数々の新人賞を受賞。その後、ポリドールで森田恵子と改名して数枚のシングルをリリース。実力派として評価される。その後、体調を崩して表舞台からは身を引くが、ヴォイストレーナーとして活動する中、発声と美容・健康法を融合したトレーニング法を開発。「輝く美顔エクササイズ」などの著書も170312morita2 話題となり、ヴォイス・マエストロとして活躍する。シンガーとしては、2016年3月、7月、音楽朗読劇「また君に恋してる」主演。インディーズ・リリースや舞台、LIVE などを中心に活動中だが、メジャーリリースとしては「月光桜」がかなり久々のCDリリースとなる。兵庫県神戸市出身。趣味:ツーリング(オートバイ)、ドライブ(車)、入浴、バービー人形コレクション、動物のケア(数十匹の犬・猫と暮らす)。」

旧録音盤は1971年の発売とある。つまり、46年ぶりの再録音である。それにしても、各地でコンサートを開いている大歌手と違って、ほとんどCDを出していない歌手が、半世紀を経てこの歌声・・・
前に森昌子がカムバックしたとき、発声に非常に苦労したと聞いた。往年の声は、そうそう維持出来ない。半世紀、発声を維持出来たのには、それなりの努力があったのだと思う。

聞いてみて、アレンジはまあまあ許容差内か・・・。オリジナルのアレンジが頭に残っているため、あまりに斬新なアレンジには付いて行けないが、イントロ部分を除いて、あまり違和感はない。

昔から愛聴してきた歌の音源は、ほとんどCD音源を手に入れた。しかし、CDが見付からなかった数少ない音源がこの歌。
この歌のCDは出ていないものと思っていた。しかし、Netでググると、何とCD化されている事が分かった。「愛愁唄」というCDにカップリングされているようだ。しかし、Netで検索しても、このCDの情報はほとんど無い。運が良ければ手に入るかな??

それにしても、こんな事があるのだ。半世紀前に聞いた歌が最新録音でよみがえる・・・
繰り返すが、このアレンジが、そう奇抜でないのが良い。他の歌でも、例え再録されても、アレンジがあまりに斬新で、とても聞くに堪えない録音も多いのだ。ファンとしては、同じ楽譜での再録が希望だが・・・・

他の昔の名曲も、このように再録してくれると嬉しいが、到底同じ声が期待出来ないので、まあ無理か・・・
ひこわんさんからの情報で、良い音源を手に入れた。繰り返すが、こんなこともあるのだ・・・!

(関連記事)
森田由美恵の「潮風の吹く町」 

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2017年3月10日 (金)

向井が死んだ・・・・

今日は、実に個人的なことである。昔の友人が亡くなった。
昨夜(2017/03/09)、パソコンで何となく遊んでいたら、高校時代の同窓会の面倒を見てくれている女性からメールが飛び込んできた。その短い文面を見て絶句。
「向井氏は先週 心不全で逝去、家族密葬したそうです。」

最近、これほどのショックを受けた事はない。言葉を失った。ただ「エエッ!? 絶句・・・・」とメールを打ち返すのが精一杯だった。
同時に、向井との様々な光景が浮かんだ・・・

お線香を挙げる代わりに、69歳で逝った彼について、思い出を時系列的にメモしてみる。これが少しでも供養になれば、と思って・・・

彼の経歴は(ここ)に載っている。
「空甫(からっぽ) 本名 向井稔 1947年(昭和22年)茨城県生まれ 1972年(昭和47年)千葉大学医学部卒業 1972年(昭和47年)千葉大学付属病院第二外科入局 2000年(平成12年)栃木県厚生連塩谷総合病院長 2002年(平成14年)同 退職 現在に至る」

また彼のblog「空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)」ここ)によると、自己紹介として「ペンネームは空甫(からっぽ)です。ヴェジタリアンの仏教家族、4人のブログです。2014年10月、大津へ。」とある。

自分と彼とは、中学・高校の同窓。でも、同じクラスになったことはない。
我々の出身は、茨城県の龍ヶ崎市。中学は愛宕中学校だった。その頃のことは前に書いた(ここ)。中学での彼についてのエピソードを一つ思い出した。中学3年の時、自分のいた3組の担任の男のMD先生と、4組だった向井が、廊下で取っ組み合いをしたのだ。“がたい”がしっかりしていた向井は、体の小さかった担任の先生と、互角の勝負だった??
今流に言うとそれは相撲だったかもしれない。今とは違う時代だったので、そのことが後々問題になることもなく終わった。当然向井にも言い分があったのだろうが、もう忘れた。

この龍ヶ崎市の愛宕中から土浦一高に進学したのは、3人だった。上の経歴のように、向井は千葉大医学部を経て、外科の医者になった。そしてIK君は、東北大工学部の教授になった。そして自分は平凡なサラリーマンになった。
高校の3年間、一緒に龍ヶ崎駅からローカル電車に乗って、佐貫駅で乗り換え、常磐線で土浦に通った。
そんな変化の無い通学風景が変わったのが、高校2年の時に、EG君が同じ龍ヶ崎から通うようになってから。彼は親の転勤に伴い、近くの高校に転校してきたが、2年のときにその高校の教師の勧めで我々の高校に編入してきたのだ。
カメラが趣味で多才なEG君と一緒に通学するようになってから、世界が変わった。話の世界が広がった。彼は、父親が国家公務員だったせいで、日本中を転勤しており、話題が豊富だった。その後、彼は山口放送のアナウンサーとなった。
高校時代、その彼のカメラで撮った写真が何枚も残っている。もちろん向井も写っている。

そんな彼が、医学部を目指していると知ったのは、高校3年になってからだった。思い出すのは、一緒に千葉大を見に行ったこと。それはちょうど、ケネディが暗殺された日だった。改めて調べてみると、それは1963年(昭和38年)11月23日の祝日だった。高校1年の時。
つまり彼は高校1年の時から千葉大医学部に狙いを定めていた。
そして彼は現役で千葉大の医学部に進む。合格した後や大学に入ってから、何度も彼の家に遊びに行ったことがある。
彼の家は、祖母と母との3人住まいの家だった。離婚した(またはシングルマザー?)母親は、東京の高級旅館などに、新鮮な野菜などを届けるいわゆる行商をしていた。祖母が母親役、母が父親役だったらしい。そんな彼が医学部に合格した時、地元龍ヶ崎の医学界で大いに話題になったと聞いた。
そして彼は大学で野球を始めた。体格的にはがっちりしており、まさにスポーツマンだった。
大学1年の時は、自分の大学の下宿にも遊びに来ていた。一緒に海に行ったりもした。EG君の家にも龍ヶ崎組の皆で遊びに行った。しかし、時間と共に交流は徐々に薄れていった。
そして久しぶりに再会したのが、自分が仕事で千葉に出張して泊まった夜だった。1976年3月2日(28歳)の夜、ホテルから唐突にも電話をして呼び出して、そして飲んだ。
その後、連絡を取ったのが1977年1月11日(29歳)だった。当時自分は新婚で、カミさんの体調が悪くなり千葉の実家に帰っていた。千葉大に診察に行ったというので、状況を調べて貰うべく、病院の向井に電話した。担当医も分からないのに、手を尽くして調べてくれて病状を教えてくれた。
次に会ったのが、1982年8月14日(35歳)だった。それは龍ヶ崎の中学の同窓会だった。久しぶりに2次会まで一緒に飲んだ。そしてEG君の結婚式で会ったのが1982年12月5日だった。

その山口のEG君から、「久しぶりに上京するので一緒に会おう。出来たら向井君も誘って夫婦で・・・」と電話があった。それで久しぶりに向井に電話をして、3組の夫婦が新宿で会って会食したのが1990年8月24日(43歳)だった。
彼は車で新宿まで来ていた。当時は千葉大ではなく、放射線医学総合研究所に勤めていた。
彼の専門は放射線。その後、鴨川市立国保病院外科から栃木県厚生連塩谷総合病院長になって、退職した。
この時だったか、その前に会った時かは忘れたが、奥さんと母親がなかなかうまく行っていないと聞いた。その時、「自分は迷いなく妻を取る」と言っていたのを覚えている。龍ヶ崎の母親とは、ほとんど交流が無くなったようだ。
この時に会った3組の夫婦のうち、EG君の奥さんも2013年に亡くなったとのことで、二組がひとりになってしまった。

彼と、再び交流が始まったのが、2002年9月(55歳)だった。医者を辞めた、という転居通知を貰ってからだ。消印は熊本だったが、住所は無く、住居を定めないで転々とする、と書いてあった。記されたアドレスにメールをして、メールによる文通が始まった。
最初にもらったメールを今回見付けたので、読んでみると「下の娘のアレルギーがひどく、寒さに耐えるのが難しいというのが大きな異動の理由です。私も突発性気胸になり5日ほど入院しました。その時の検査で陳旧性の心筋梗塞があったりしたものですから、私たち家族で南へ行こうということになりました。」とあるので、今回の心不全の原因はこの時からあったらしい。
そして「家も2年半前に処分したので、地位も名誉も家も無くなりました。こんな心地良さは初めての経験です。身の心も仏教徒になってきたようです・・・・・?」とあった。

近くの大学病院で、カミさんが腰痛の検査の結果、「子宮筋腫手術」を勧められたのが2002年12月だった。それで向井にメールで、「前に向井から、病院の名前では無く、良い医者に当たるかどうかが全て、と聞いたが、手術の上手は医者がいたら紹介して」と頼んだ。
すると直ぐに電話がかかってきて、こんなアドバイスを貰った。
「結論を言うと切らない方が良い。食事と運動で様子を見る。ピーマンとトマトジュース。塩分の無いジュース。油にも注意。良い油を使う。大豆、豆腐も食べる。納豆は毎日食べる。気持ちよく生きる事。よっぽどの事が無い限り切ってはダメ。切らなくて良いというDRがいると言うことは、まともな人がまだ居ると言うこと。良性疾患は切らなくて良い。90%の病気は自然と治る。メールの医師は怪しそう。婦人科で切って下さいと言っている。定期検診を受けたらよい。信用できそうな先生を選んで。切るのは何時でも切れる。切らなくて良い食道ガンの方法を考えて教授と喧嘩になった。それで外で10年過ごしたため、患者さんに色々教わった。それで人間が変わった。漢方も気をつける。短期間だけ飲んで止めるのか漢方。薬は長期に飲んではダメ。薬は対症療法。体質を変えて行かないといけない。更年期障害なんて無い。生理が止まっても子供になるだけ。病気ではない。頑張り過ぎた人に多い。ちょうど子供が言うことを聞かなくなる年代になるため、なぜ言うことを聞かないのかと精神的に落ち込む事が原因。それで精神的に参って体調を崩す。ホルモン剤など絶対飲んではダメ。食事と運動。遺伝子組み替えは絶対に避ける。ハイテクなど要らない。副作用を出してはそれの薬を飲んでまた副作用。薬ばかり増える。西洋医学は行き詰まっている。新人の医師もどの病気には何の薬と決まっているのでバカでも勤まる。子宮筋腫は経過観察をしてもらう。精神的に散歩がストレス発散に良い。油ものは避ける。オリーブ油を使う。精神科は薬付けが好き。あと水に気をつける。水道水は飲まない。浄水器を付ける。人間は80%水で出来ている。悪い水で体が汚れる。体の具合を悪くする薬は無い。良くするのが薬。医療が商売になって訴訟防止になっている。患者に教わったりしてこの10年で人間が変わった。自分の家族にどういう治療をやるか。西洋医学は否定されている。ガンの遺伝子治療など何も効かない。」

スピリチュアルな話も含めて、この手術は見送ったが、結果的には正解だった。
その後、自分の緑内障の相談をしたり、2004年7月には心房細動、2004年9月には前立腺炎の相談をしたりで、色々教わった。

そんな向井から「般若心経」を勧められたのが2004年2月(56歳)だった。写経は15年やっていた170310mukai1 が、写仏も始めたとかで、写真を送ってくれた。
そして、 「仏教の輪廻思想を理解したとたん、死生観が変わりました。死生観が変わると、それだけで気持ちが良くなります。不思議ですね。これも、長い間の医者生活で学んだものも大きいと思いますが。」という言葉が後押しをして、我々夫婦も般若心経の勉強を始めた。
当blogは、2006年6月に始めたが、当初は仏教の話題が多かった。これは、多分に向井からの影響が強かったもの。
2004年8月には、熊野三山の牛王符を送って貰い、今でも我が家の玄関に飾って、遠出をする時には「無事に帰れますように」と頭を下げている。

そんな向井が到達した世界が、医食同源。
「医食同源。これが病気の根本治療です。薬は単なる副作用を伴う対象療法ですからね。
私の医学は根本からひっくり返りました。精進料理、つまりヴェジタリアンがこれほど体によいとは誰も教えてくれませんでしたので。西洋医学も東洋医学も薬漬けですからね。
 私達も肉、魚、卵をほとんど断った食事をしています。そしてもう2年が過ぎましたが、大豆を取っている限り心配ないようです。体は至って元気です。乳製品は取っています。
 精進料理は、病気からも遠ざかりますが、心が穏やかになれます。すっかり負けるが
勝ちの気持ちです。」

さすがに我が家はヴェジタリアンにはなれなかったが、夫婦共に様々な影響は受けている。

170310mukai2 そして最後に貰ったメールが2007年1月(59歳)だった。日本中を転居している生活らしく、そのうち郵便も届かなくなった。(写真は2006年の年賀状)
それ以降、高校の同級生ルートにもたずねてみたが、消息は分からなかった。そして2年ほど前の2014年10月(67歳)に、高校3年の時の恩師の喜寿を祝う会に出て来て「最近、大津に転居した。龍ヶ崎の実家のお母様が91歳でひとりなので、今回見に来た。」と言っていたとのこと。
そして今回、同じルートで得た情報が、「亡くなった」とのこと・・・

残念ながら、ここ10年ほどは、我々とは没交渉だったが、それまでに受けた影響は、仏教や医食同源など、我が夫婦にとっては大きかった。もちろん般若心経や観音経を勉強したのも・・・。

今回、訃報を聞いて、「あれだけ体調に気を付けていたはずなのに、なぜ?」と思ったのは事実。「それでも60代で急逝してしまうのなら、幾ら食べ物や運動に気を付けていても意味が無いのではないか」とも思ったもの・・・。
それにしても、あまりに早い死に、「なぜ?」と茫然となったが、医師を辞めたきっかけとなった「検査で陳旧性の心筋梗塞があった」という言葉を今日見付け、何か納得した。

それにしても、御遺族の悲嘆は、想像に難くない。ご家庭での回転の中心を失った悲しみは、あまりにも大きい。

170310sinkyou_2 昨夜の訃報を聞いて、色々思い出してしまい、つい長々と向井の思い出を綴ってしまった。(同じ歳の友人の死は、会社の同期の1人に続いて、まだ2人目なので、自分にとってショックが大きい)
今はただ、向井の冥福を祈るだけ。

向井から教わった「般若心経」を、空海の筆とともに唱えよう。(ここより)

<「般若心経」~高野山金剛峯寺の専修学院生による

そして自分なりのおくり方だが、最後にカザルスの「鳥の歌」を向井君におくりたい。

<カザルスの「鳥の歌」>

合掌

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2017年3月 9日 (木)

車の自動ブレーキを考える

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(いちからわかる!)車の自動ブレーキ、義務化されるって?
 ■高齢ドライバーの事故を防ぐ期待。性能基準作りが進む
 ホー先生 自動ブレーキが乗用車の「必需品」になるそうじゃな。
 A メーカーに対する搭載の義務化に、国土交通省が動き始めた。社会問題になっている高齢ドライバーの事故を減らす効果が期待されている。大型のトラックやバスの新型車ではすでに義務化されているんだ。
  自動ブレーキとは?
 A 車載カメラやレーダーを使って衝突の危険性を察知し、自動でブレーキをかける仕組みだよ。最近、各メーカーがテレビCMでこぞって性能をアピールしているね。2015年に生産された新車では45.4%に装備されていた。
  効果はあるのか?
 A 裏付けるデータがある。自動ブレーキなどのシステム「アイサイト」で知られる富士重工業は、10~14年度に販売した約29万台のうち、システム搭載車の人身事故率が、非搭載車の半分以下だったと発表している。また、国交省が13~15年にトラック約6千台を調べたところ、搭載車の追突事故の発生率は、非搭載車の3分の1だった。
  高齢ドライバーにとっても心強いのう。
 A 警察庁の15年の統計では、75歳以上のドライバーによる死亡事故の原因は「操作の誤り」が最多の3割。これを減らす効果が期待されている。ただ、今は統一の性能基準がないから、メーカーや車種によって性能差がある。歩行者に対する停止実験をすると、条件は同じでも、人形の前で止まるものと、はねてしまうものがあるんだ。
  性能がバラバラじゃ困るのう。
 A だから国交省は、国際的な性能基準づくりを国連に持ちかけた。ほかの国も賛成し、策定作業に入ることが1月に決まった。基準ができれば、国交省はそれを参考に国内法令を改め、全新型車への搭載を義務づける方針。あと数年かかりそうだよ。(伊藤嘉孝)」(
2017/03/06付「朝日新聞」P2より)

我が家の12年目に入った愛車については、前に書いた(ここ)。

この頃、にわかに自動ブレーキという機能について興味が出て来た。理由は簡単。次に買う車には、自分にとって自動ブレーキは必須だと思うので・・・。

Netで自動ブレーキについてググってみると、有用なサイトが多い。それらを読んで、にわか勉強してしまった。
新聞の記事ではこんな記事が見付かった。
自動ブレーキ性能、マツダ「アクセラ」最高点 2位は…
 国土交通省は1日、市販車の自動ブレーキによる衝突防止性能などの評価結果を公表した。従来の車両追突時などの評価に加えて、今回は歩行者との衝突防止性能を加えた点数を初めて公表。総合点でマツダの「アクセラ」が最高点となった。
170309brake1_2  同省の評価に応募した、トヨタ自動車、ホンダ、マツダ、富士重工業、スズキの5社11車種が対象。車を時速10~60キロの範囲で5キロ刻みで走らせ、そのたびに人形を飛び出させて、自動ブレーキで止まれるかを測定した。人形に衝突すると減点になる。人形は、大人(身長180センチ)と子供(同120センチ)の2種類を用意した。
 自動ブレーキの車両衝突防止や、車線はみ出し時の警報などの安全性能に、歩行者衝突防止性能の点数(25点)を加えて総合評価した(計71点)。最高点はマツダのアクセラ(70.5点)で、富士重工のフォレスター(69.5点)とインプレッサ(68.9点)が続く。
 国交省は、12点以上で「ASV(先進安全自動車)+」、46点以上で「ASV++」を販売時に表示することを認めており、今回は全車種が46点以上だった。
 今回新たに評価した歩行者との衝突防止性能に限った点数をみると、アクセラ(24.5点)、フォレスター(23.5点)、インプレッサ(22.9点)の順だった。
 自動ブレーキについて、国交省は2014年から車両衝突防止性能の評価は公表しているが、歩行者衝突防止性能については初。交通事故の死者の4割近くは歩行者で、高齢ドライバーの事故も相次ぐなか、国交省は点数の公表でメーカーの開発競争を促す。(奥田貫)」
(2016/12/1付「朝日新聞」ここより)

Netの記事を覗いてみると、「車のこと初心者ナビ」(ここ)の各社比較の表が一番分かり易かった。(転載)
170309brake 自分がもっとも重視する「検知対象人間」の項目では、ホンダ、スバル、日産が○で、トヨタとマツダが×だった。
結論は「スバルのEyeSight(アイサイト)が最先端をいっている」ということらしい。

「アイサイト」のwikiを読んでみると「EyeSight(アイサイト)は、富士重工業と日立製作所・日立オートモティブシステムズが開発した衝突被害軽減ブレーキ。車内前方に装備されたステレオカメラで前方を監視し、障害物を三次元的に認識することで、自動ブレーキ、クルーズコントロール等を制御する「運転支援システム」をコンセプトに開発されている。富士重が製造しスバル(SUBARU)ブランドで販売する乗用車に装備されている。市販車用に実用化された世界初のシステムでもある。」とのこと。

なるほど・・・。日立と共同開発したステレオカメラ方式か・・

上のサイトによると、その特徴は、
「ステレオカメラ」
【メリット】
・形状を認識でき人間や自転車などを見分ける
・検知距離や角度がある程度あり自動ブレーキで止まる距離をカバーできる
・比較的安い
【デメリット】
・天候に左右されることがある
・逆光などの光に弱い

という事らしい。

そもそも、車の運転は、人間が目を使って判断している。人間の目に替わるテレビカメラが出来れば、それによる判断がもっとも正確なのは予想出来る。

テレビカメラの世界では、彼のマレーシアの金正男暗殺事件で活躍したパナソニックが民生用ではトップメーカー。しかし、いわゆる工業用カメラは、日立は伝統的に強い。昔の芝電子からの伝統があり、日立電子、日立国際電気と変遷してきた。技術的には日立本体がバックアップしているはずで、カメラ技術の日立の伝統を受け継いでいるのだろう。

しかし上の比較表では圧倒的にスバルが優勢。このリストだけを見れば、誰もスバルを選びたくなる。
さて、それでだ・・・・

次に車を買う時の最大の検討項目が自動ブレーキであると、上に書いた。
2年後は、自分は70歳を超えている。しかし住居が田舎故、車は多分手離せない。しかし自分の老化は疑うべくもなく・・・
しかし、自分はトヨタ信奉者。前に我が家の車の歴史を書いたが(ここ)、トヨタ以外に好印象はない。
次もトヨタと決めているが、こと自動ブレーキ、特に対人間に対しては、トヨタはトップでないようだ。
困ったな・・・

大きな声では言えないが、実は2度ほどヤバかったことがある。前に進むつもりでアクセルを踏んだら、何とバックしてしまった。幸い駐車場での出来事で、事故にはならなかったが、我ながら衰えを認識させられた。
だから特に対人の自動ブレーキにこだわる・・・。
繰り返すが,

繰り返すが、12年目に突入した今のトヨタ・ヴィッツは、何の問題も無い。ノントラブル。よって2年後に買い換える気になるかどうかは分からない。
それまでに、トヨタがスバルを抜くことを祈ろう。それでもスバルがトップだったら、スバルを買う? うなるな・・・・

170209tuite <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月 8日 (水)

延命治療「辞退」を宣言~樋口恵子さん

これもだいぶん前の記事だが、延命についての話である。
「QOD 生と死を問う 第4部]死を語る<下>延命治療「辞退」を宣言
 ◇樋口恵子さん 家族に委ねないで
 高齢者が病院に運び込まれた時、延命治療を行うべきか。本人の考えがわからず、家族が難しい判断を迫られることも多い。84歳の評論家、樋口恵子さんは、周囲に「延命治療は辞退します」と宣言した。
170308higuti  自身は延命治療を受けたくないと思っていても、親の最期が近い時に「やめてほしい」と言えるか。自信のない息子・娘が多いそうです。本人の意思がはっきりしていないと、身近な人が困ります。周囲に「冷たい人だ」と思われたくなくて、延命治療を頼んでしまう場合もある。我々ばあさん、じいさんは、今の時点の意思でいいから、しっかりと文章で書き、配偶者や子ども全員に伝えておく必要があるのではないでしょうか。
 私は名刺の余白に「回復不可能、意識不明の場合、苦痛除去を除いては延命治療は辞退いたします」と書き込み、日付を入れ、サイン、押印をして後期高齢者医療被保険者証と一緒に携帯しています。医療機関の人は、まず保険証を探しますからね。講演会でご一緒した高名な医師に見せたら、「完璧です」と。延命するだけの治療を断るには、この程度でもいいそうです。
 名刺は2年ほどで汚くなるので、日付を変えて書き直します。今のが3枚目かな。娘にも渡してあり、「約束は守るよ」と言ってくれています。
 ◇家族と話して
 死は誰にでも必ず訪れるというのは百も承知。ですが、自分が死ぬのは怖いし、やっぱり嫌。せめて、安らかに死にたい。私は、安らかな死の対極にあるのが延命治療だと思ったのです。
170308enmei  でも、延命治療を否定するわけではありません。
 67歳の時に、つれあいを看取みとりました。多発性脳梗塞で倒れて気管切開し、鼻腔びくうから栄養を取る状態で3年3か月を生きました。
 ジャーナリストで、「プロダクティブ(生産的)でなくなったら生きていたくない」が口癖でしたから、もし「殺してくれ」なんて言われたら困っていたと思う。でも、大学の教え子が見舞いに来ると微笑を浮かべ、満足そうにしていました。生きているのが嫌そうな顔は見せなかった。存在そのものが「生きることはいいことだ」と言っていたように思うんです。
 だから、「無理な延命治療はしてほしくない」でも、「ぎりぎりまでやってほしい」でもいい。家族に「私が最期の時は……」と話してあげてほしいのです。心配なら「後で撤回するかもしれないけれど、何も言わずにその時が来たら、これが私の意思だよ」と言い添えればいいんです。気が変わったら書き換えて、改めて家族に話す。
 ◇自分のデス
 彼の死から十数年、私自身いつ死んでもおかしくない年齢になりました。死が近づけば延命治療への考えも変わるかと思いましたが、今のところ変わりません。日本には、「私一人の命ではないから家族に任せる」という人も多いようです。でも、私は命を誰かに預けるのは嫌。死について自分で決めるのは怖いけれど、任される家族は気の毒です。誰かに委ねる「おまかせデス(death=死)」ではなくて、「自分のデス」を考えていきましょうよ。
     ◆
 【ひぐち・けいこ】 評論家、東京家政大女性未来研究所長、NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長。1932年、東京都生まれ。編著に「自分で決める 人生の終(しま)い方―最期の医療と制度の活用―」

    ◆
 ◇もしもの話難しく・・・「家族と詳しく話した」4%
 厚生労働省が2013年に行った調査によると、自分で判断できなくなった場合に備え、どのような治療を受けたいか・受けたくないかなどを書面にしておくことに「賛成」と回答した人が、60歳以上では64%に上った。ただ、そう回答した人のうち実際に書面を作成しているのは、わずか6%しかいない。
 60歳以上で、受けたい医療・受けたくない医療について「家族と詳しく話し合っている」とした人は4%。「まったく話し合ったことがない」と答えた人が44%いた。「もしもの時」に備えた話をするのは、容易ではないことがわかる。」(
2017/01/29付「読売新聞」p25より)

改めてこの記事を読んだが、最初にあった「QOD」について、QOLに対比した「Quality of death」ではないかと思ったら、やはりそうだった。「死の質(Quality of death:QOD)」
では「質の高い死」とはどのような死なのだろう。
ここ)によると「米国医学研究所の「終末期ケアに関する医療委員会」は、「患者や家族の希望にかない、臨床的、文化的、倫理的基準に合致した方法で、患者、家族および介護者が悩みや苦痛から解放されるような死」と定義している。」
少々難しい。しかし「質の高い死」を提供するのが緩和ケア病棟だという。

先日、ある知人からこんな話を聞いた。
ホスピスに入院中のガン末期の義姉の心臓が止まり、義兄の必死の心臓マッサージで、復活したという。
原因は、痰が絡み詰まった為に呼吸困難を起こし、心肺停止になったようで、旦那の必死の介護で呼吸が復活し血圧も安定したとのこと。緩和ケア病棟の看護師は、一切の延命処置をしないのに、驚いたとのこと。

緩和ケアの実態は知らなかったので、Netでググってみた。
ここ)によると、
「病気や障害の程度が重くなり、自分の力だけでは生きることが難しい状態になった時、医療技術の助けを借りて生き長らえることを延命治療(延命措置)と言います。延命治療の方法は大きく分けると次の3つがあります。
1.呼吸における延命措置
2.人工栄養法による延命措置
3.人口透析による延命治療
・・・
また、心肺蘇生についても同様の問題が起こります。終末期の患者は、いつかは心肺が停止します。しかし、人工呼吸や心臓マッサージなどを行なえば、その時間は生きることができるかもしれません。
心肺蘇生による延命をどこまで行なうのか、という問題も最終的には本人や家族が決断することです。本人の意思を尊重するのであれば、事前に意識のあるうちに、どこまでの延命を望むのか、意思を確認しておく必要があります。」

それでは病院側はどんな方針なのか・・・・。(ここ)によると、
「緩和ケア病棟入院を希望される方へ
1)【延命処置は行いません】
心臓マッサージや気管内挿管、血圧を無理に上げるような昇圧剤使用などの延命処置は行いません。
2)【抗がん剤は使用しません】
がん治療を目的とした抗がん治療は行いません
・・・・」

なるほど・・。更に(ここ)には、
「ご入院頂くには、以下の要件を満たしていただくことが必要です。
1.ご自分の病名や症状をご存知で、がんをたたくためのきつい治療をおこなわず、がんにともなう苦痛をやわらげたいと希望する方
2.もともとの病気(がん)が悪化したとき、苦痛を強め、つらい時間をのばすような延命措置(人工呼吸や心臓マッサージなど)を行わないことを了解されている方
3.入院後、可及的早期に、ご自宅で過ごせるかの評価を行い、在宅療養を積極的に進めてゆきます。
4.上記について、ご家族ともどもご理解・ご了解されている方」

なるほど・・・。病院では、「死を延ばさず、黙って受け入れる」ことらしい。
そう言えば、先日まで見ていた米TVドラマ「er緊急救命室」でも、本人が延命拒否をしている場合は、医師がどんなに治療したくても、冷徹に放っておかなければならなかった。逆に治療をしたため、裁判を起こされる可能性も・・・

一方、死に際し、「どうしても死ねない」という状況がある。
満島ひかりのテレビドラマ「Woman」第5回(ここ)を思い出した。父親を亡くした母は、どんな難病に罹っていても、死ねないという。幼い子を残して、自分は絶対に死ねないと言う。
その満島ひかりのセリフは、未だに自分の耳に残っている。

その状況はギリギリだが、どの家にも何とか解決しないと死ねないという課題はあるもの。
我が家でも、ある大きな課題があった。詳細は省略するが、この問題だけは何とか糸口を見付けないと死ねない・・・
そんな我々家族の大課題が、実は先日、大きく解決に前進した。今考えられるベストの方向に動き出した。
まさに「求めよ、さらば与えられん」である。

ま、「もう死んでも良いよ!」とまでは言わないが、それでも、夫婦共に肩の荷が少しは軽くなった。
それでまたお互いに言い合っている。「絶対に延命治療はしないでね!」

170308omutu <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月 6日 (月)

「犬と人間 目と目で通じあう、特別な絆」

だいぶん前だが、犬についてこんな記事があった。

「(文化の扉)犬と人間 目と目で通じあう、特別な絆
 このところ猫に押され気味ですが、「最古の家畜」であり、長く関係を深めてきたパートナーと言えるのはやはり犬。犬と人間はどんな道のりを歩み、特別な関係を築いてきたのでしょうか。探ってみました。

 犬と私たちはいつ、出会ったのか。最も古い犬の骨は、ロシアで発見された約3万3千年前のものだ。旧人の居住跡で見つかった。一方、人間に家畜化されたのは2万~1万5千年前と考えられている。イスラエルのアイン・マラハ遺跡では、高齢の女性が子犬に手を添える形で共に葬られた約1万2千年前の墓が見つかっている。
170306inu  日本最古の犬の骨は約9500年前のもの。神奈川県の夏島貝塚で見つかった。縄文時代には番犬や狩猟犬として飼われていたようだ。だが、弥生時代に入ると様子が変わってくる。愛知県の朝日遺跡では犬の骨が散乱した形で見つかり、解体痕もあった。
 麻布大で動物行動遺伝学を研究した外池亜紀子さんは「縄文人は犬を埋葬していた形跡もあり、大切に飼っていたようだ。だが弥生時代に入ると、食用にした形跡が増えてくる」と指摘する。
     *
 日本人のそばには昔から犬の姿があった。ヤマザキ学園大の新島典子准教授(動物人間関係学)によると、早くも「日本書紀」には天武天皇が犬や牛など5種類の動物を食べることを禁じた記録が出てくるという。鎌倉時代になると「犬追物(いぬおうもの)」がはやり、矢で射るための的(まと)として殺傷された。「犬合わせ」と称する闘犬も始まった。
 江戸時代に入ると、徳川綱吉が「生類憐(あわ)れみの令」を出す。犬だけが対象ではないが、綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれることに。法政大の根崎光男教授(歴史学)は「犬は安産の神様だったり不動明王の使いだったりするなど、日本人の文化に根付いていた」と話す。
 明治時代には各府県単位で「畜犬規則」が定められ、犬が個人の所有物となった。『犬たちの明治維新』などの著者、仁科邦男さんは「飼い主と犬の個の関係が成立し、この関係が現代にまでつながっている」とみる。
 現代の日本では全世帯の14%が犬を飼っている。推計飼育数は987万匹にのぼる(2016年、ペットフード協会調べ)。
     *
 麻布大の菊水健史教授(動物行動学)は、犬のすごさは「人と絆を結べること」にあるという。ドイツのマックス・プランク研究所の研究で、犬は人が指をさしたり、視線を向けたりしたカップにエサがあることを理解できることがわかっている。チンパンジーですら持たない、犬特有の能力だ。
 また、犬は飼い主と目線をあわせる。すると双方で愛情や信頼に関わるホルモン「オキシトシン」の濃度が上昇するという研究が、麻布大から報告されている。オオカミは飼いならされていても、飼い主と目をあわせることはない。菊水教授は「犬は人と生活することでオオカミから進化したと考えられていて、あうんの呼吸で、人の意図を理解する能力を持っている。人がこれほど特別な関係を築けた動物は、地球上にはほかにいない」と指摘する。
 スウェーデン王立工科大の研究チームが犬とオオカミのDNAを調べたところ、柴犬(しばいぬ)と秋田犬が最もオオカミに近いDNAを持っていた。背景はまだよくわかっていないが、日本犬の研究から、犬の起源が見えてくるかもしれない。(太田匡彦)

 ■愛のかたち、教えてくれる コピーライター・糸井重里さん
 犬を飼う自信がつくまで時間がかかりました。人生に影響することまで覚悟して、ジャックラッセルテリアのブイヨンを飼おうと決めました。それから12年余りたって空気みたいに、そばにいることが自然な存在になっています。
 最初は子どものような感じで、手に負えないことに気をもんでいるのが楽しかったですね。次第に落ち着いてきて、11歳になったころ、狩猟犬なのにボールを投げても追おうとしなくなった。「現役」を引退したようで、切なかったです。
 犬は、環境に適応するために改良を加えられてきたわけですが、現代の人間にとっては心のサプリメントのような存在だと思います。間違いなく家族の一員ですが、その意味では、人間社会を精神的に豊かにしてくれる。言葉でなく、愛とは何か、いろんな愛のかたちを教えてくれる存在なんだと思います。犬が人間に何を望んでいるのかは、永久にわからないですけど。

 <知る> 縄文時代と弥生時代では犬の姿形も異なる。縄文犬は額から鼻にかけて平らなキツネ顔で、弥生犬は額と鼻の間にくぼみがあるタヌキ顔。大きさは両者とも今の柴犬と同じくらいだった。弥生犬は大陸から持ち込まれ、次第に縄文犬と混血したと見られている。
 <読む> 明治時代、小説家が飼い犬のことを書き始めた。二葉亭四迷の『平凡』や夏目漱石の『硝子戸(がらすど)の中』、徳冨蘆花の『みみずのたはこと』などが例。「犬との個の関係ができ、犬を飼うことの喜びが『発見』されたのだろう」(仁科邦男さん)」
(2017/02/12付「朝日新聞」P36より)

何度も書いているが、我が家の愛犬はヨーキー。14歳で、未だ現役。散歩をしていると、若い犬と見かけは変わらない。でも、投げたボールを追わなくなったことなど、老化は隠せない。
それにしても、愛犬メイ子の我々に対する態度は、極端である。確かにエサを与えたり、可愛がっているのはもっぱらカミさんだが、それにしても態度が大違い。
夕食後、ウトウトするのは、もっぱらカミさんのヒザの上。たまに自分が抱いてやると、スキあらば・・・の態度。自分が「ヨシッ!」と声をかけると、脱兎のごとく逃げ出す。そして、いつものブルブルッ! 「あーヤレヤレ!イヤだった!」と言っているような・・・

グチだが、今日もカミさんが出掛けたので、カミさんの命令に従ってメイ子を散歩に連れ出したのだが、玄関から動かない。いつもカミさんと一緒に散歩するときは、臭いをかぐ時だけ、グイッと引っ張り、メイ子が“止まれ”と自分に命令するのだが、カミさんが一緒でないと、今日のようにそもそも動かない。引っ張っても、抵抗する。それで力を抜くと、ただ立ち止まっている。臭いを嗅ぐのならまだ許せる。しかしメイ子の態度は、オレとは散歩はしない、との明らかな拒絶。こうまで態度がハッキリしているのが自分には気にくわない。
「何でメイ子はなつかないのかな~」と言ったら、カミさんが「アナタには、誰もなついていないでしょ」と言いやがる。ま、そうだけど・・・

しかし、上の記事を読むと、犬の能力はスゴイ。上の表によると、嗅覚は人の1億倍。そして聴覚は、65Hz~50KHzだという。人は若い人で、やっと20KHz程度と言われている。老人の自分など、せいぜい高域は7~8KHzでは?
嗅覚が鋭いことは知っていたが、聴覚までこんなにスゴイとは知らなかった。さぞ音楽もハイレゾで聴くことが出来るだろう。羨ましいことだ。

日本では14%の家で犬が飼われているという。近所の家の犬も、段々と歳を取った影響か、散歩の時に会わなくなった犬も増えた。しかしまだまだ我が家がが元気。
それで、「メイ子~~。いつまで元気なんだ~?」と良く聞く。
胃腸が弱いメイ子の獣医さんの費用もそうだが、段々贅沢になるメイ子のカンヅメの食費もバカにならない。それよりも、実はメイ子が居る限りは、我々夫婦はとても旅行には出かけられないのだ。せいぜい1泊で、犬同伴可の旅館に泊まるくらい・・。
だから一見、元気そうなメイ子の寿命が尽きる頃は、たぶん自分の(旅行が出来る)体力寿命も尽きてしまいそう・・・。つまりもう旅行には出かけられない!?
メイ子に嫌われながら、メイ子の存在に左右されている我が人生なのである。

170306sanpo <付録>「ボケて(bokete)」より

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2017年3月 4日 (土)

「おもちゃの病院 さがみはら」~人の役に立つ時間の遣い方

先日、ある飲み会で、「おもちゃの病院」の話が出た。老後の?ボランティア活動の話である。
先刻、ふとその事を思い出し、Netでググってみたら、なるほど・・・。あっちこっちを覗いている間に、色々と“勉強”してしまった。こんな活動も、我々“元エンジニア”のリタイア後の時間の過ごし方では有用かも知れない。

この病院は、だいぶん前だが「読売新聞」に紹介されていた。
「「この街・あの人・どんな顔」2012/8/05掲載
   相模原おもちゃドクターの会 代表 中山英夫
毎月第1日曜日、橋本台リサイクルスクエアで『おもちゃの病院』が開催される。 青いエプロンをした『ドクター』たちが、持ち主から『症状』を聞き、壊れたおもちゃたちを『治療』してくれるのだ。
子どもたちの笑顔が見たい
 昨今、おもちゃの変化は著しい。子や孫のため、久しぶりにおもちゃ売り場を訪れて驚いたという経験を持つ方もいるだろう。壊れたおもちゃを直してと子どもにせがまれても、なかなか難しい。
「ここでは、持ち込まれたおもちゃの65%が即日に『治癒』、25%が『入院して治癒』しています」
 相模原おもちゃドクターの会代表 中山英夫さんはそう話す。
「ほとんどはモーターや電池まわりの故障です」
 もらうのは部品代などの実費だけ。動き出したおもちゃに『あー、動いた!』と喜ぶ子どもたちの笑顔が『診療報酬』なのだと言う。
◆  それぞれが力を発揮
 平成12年、3~4名でスタートさせた会には、今では50名の『ドクター』が在籍する。30代から80代まで、職業・経験もさまざまだ。
「いろいろな方がいますから、知恵を持ち寄って解決します。助かりますよ」
『病院』も着々と増え、市内28カ所で定期的に開催されるようになった。
「工具はそれぞれの自前です。交通費も含めて、手弁当でやっています」
 それでも、人の役に立ちたい、喜んでもらいたいと、『ドクター』たちは日々腕を磨いている。
「中にはボランティアのかけもちをしている人もいます。こうして集まってワイワイするのも楽しいですよ」
 ミシンを持参する『女医』さんもいる。普段は洋裁の講師だそうだ。
◆  物を大切にする心を
 中山さんは物のない時代を過ごした世代の人だ。おもちゃの記憶もほとんどないという。
「物を大切にして、使い捨て文化をやめよう。それを伝えたい」
 おもちゃの『治療』は、できる限り持ち主である子どもたちと一緒に行いたいと考えている。
「どう動くのが正解なのか、それを知っているのは持ち主ですから。そして、『治す』様子を見ていてほしいと思うんです」
 どうして壊れたのか、どう扱えば壊れないのか、物との向き合い方を伝えたいと話す。『物』だけど、永く連れ添う『親友』にもなり得るのだ。
 大人になって、子どもの頃好きだったおもちゃのことを親と話してみるのもいいかもしれない。子育ての思い出が溢れ出すだろう。どんな時代であれ、きっと幸せの記憶にちがいない。」(
読売新聞「ほうむたうん」ここより)

リンクを追っていくと「おもちゃ病院 さがみはら」というHP(ここ)があり、ここに趣旨が書いてある。
おもちゃの病院 さがみはら
相模原おもちゃドクターの会では市内各所におもちゃの病院を開いています。子供達と一緒におもちゃを修理することにより、物を大切にする心、探究する心を養うことができれば大成功です。

「おもちゃの病院さがみはら」とは
おもちゃの治療(修理)を通じて子どもたちとふれあい、「ものを大切にする心」「科学する心」「創造する心」が生まれ育まれるよう伝えたいと願う、おじいちゃん・おばあちゃんたちのボランティアグループです。診療報酬は「子どもたちの笑顔」と「ありがとう」です。子供たちとの対話を大切にしています。
また、大人も一緒に使い捨て文化を見直し、ごみの減量化や資源化に対する意識の啓発を図っています。
・あなたの大切なおもちゃ、こわれてそのままになっていませんか?
・動かないといって捨ててしまおうと思っていませんか?
そんなおもちゃがあったら持ってきて下さい。それを直して、もう一度よみがえらせてくれるのが“おもちゃの病院さがみはら”です。」
ここより)

またリンクを追っていくと、ラジオ番組に出演したそうだ。Youtubeで聞けるというので、1時間もあったが、つい聞いてしまった。
170304omocha このラジオ番組は、「エフエムさがみ」の「一緒に考えよう!相模原の未来 日本の未来」【ゲスト:相模原おもちゃドクターの会】という番組で(ここ)、平成27年12月の放送というから、1年少し前だ。(しかしYoutubeの再生回数が169 回というのは少々寂しい)
この番組で色々紹介されていたが、「相模原おもちゃドクターの会」は、修理の「おもちゃの病院」の活動と、使わなくなったおもちゃの交換の「もったいないセンター」という二つの活動をしているそうだ。そして病院は、H12年のスタートで、現在ドクター60人 病院は32カ所、そして扱った件数は1万件に達するという。

話はずれるが、この「エフエムさがみ」のようなコミュニティーFM。そもそもスポンサーが付いて、経営的に成り立つのか不思議だったが、先の番組には、ちゃんとスポンサーが付いていた。24時間放送で1996年開局というから老舗だ。
そう言えば、当八王子には無いな・・・と思ったら、今年(2017年)10月開局に向けて、準備中だという(こ)。関東地方は、テレビも広域であり、地方局のように地元に根差した情報が少ないが、“オラが町”のラジオが始まると、面白いかも知れない。

おっと、話を戻そう。
先の放送を聞くと、ドクターはリタイア後の元エンジニアが多いようだ。
今のこどもは、ゲームなどのパッケージのおもちゃが多いのかも知れないが、我々の時代は、やはりブリキのおもちゃが多かった。
自分が小学校低学年の頃は、もっぱらロボットのおもちゃが好きだった。ゼンマイ仕掛けで、ガーガーと足が動いて歩く・・・。
「将来、オトナになったらロボットを作るんだ」。そしてお袋に「ロボットとロケットはどちらが難しい?」と聞いた記憶がある。確か答えは「ロケット」。当時は、ロケットはエンジンを吹かせば飛ぶが、ロボットは動作が複雑。何でロケットが難しい?と思ったものだが、オトナになって考えると、お袋の答は合っていたようだ。
上の番組でも、同じ世代の“ドクター”が言っていたが、自分も、おもちゃは「まず分解」。おもちゃで遊ぶ、よりも、どうして動くのか?分解する方が楽しかった。しかし、オトナから見ると、「せっかく買ってあげたのにもう壊した・・・」。
小学校高学年になると、自分が凝ったのは鉱石ラジオ。このことは前に書いた(ここ)。

リタイア後の時間の使い方は色々ある。ドクターが言うように、家に引きこもるのでなく、少しでも人のために役に立つこのようなボランティア活動・・。
自分には到底出来ないが、合唱にように“自分たちだけで楽しむ”のと違い、“誰かの役に立つ”という時間の使い方について、少しだけ考えさせられてしまった。

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2017年3月 2日 (木)

東芝巨額損失問題の深層~中島聡氏の論に納得

連日報道されている東芝の巨額損失の話。
自分がどうしても分からなかった、契約の背景と、社内での買収の意志決定について、こんな記事を見付け、読んでみて自分なりに“納得”した。新聞やテレビのニュースは表面的な現象の報道に終始しているが、氏の解説は、事件の深層を突いた実に納得出来る解説なので、貴重である。

特損7000億円の東芝が犯した、致命的な「二度の失敗」 2017.02.22
14日に7,000億円を超える特別損失を発表した東芝。さらに、予定していた決算発表を1カ月後の3月に延期すると発表したことで、最悪のケースとして上場廃止や経営破綻の声まで囁かれています。メルマガ『週刊 Life is beautiful』の著者で世界的プログラマーの中島聡さんは、このままいけば「東証二部への格下げは免れない」とした上で、「企業間の契約に慣れてない日本が、米国企業に最初から不利な契約を結ばされた」との見方を示しています。

東芝と不平等条約
14日に予定していた決算発表を延期した東芝ですが、予想通り、稼ぎ頭の半導体部門を売却せずには企業の存続が危ぶまれるところまで追い詰められてしまいました。東証二部への格下げが予測されているようですが、本来ならば上場廃止にすべきでしょう。
東芝が抱える原子力事業の問題点に関しては、福島第一の事故以来、ブログやこのメルマガでも何度か触れて来ましたが、今回は「日本の会社は米国の会社と同じ土壌で戦えるのか?」という視点から総括してみたいと思います。
東芝の迷走を総括すれば、
2006年:スリーマイル島での事故以来、ビジネスが低迷していたウェスティングハウス(WH社)をShaw Groupと共に54億ドル(約6370億円)で買収し、原子力発電装置の世界三大メーカーに仲間入り
2011年:福島第一での事故で、復活するはずだった原子力産業がさらなる低迷サイクルに突入
2011年:Shaw Group がプットオプションを行使し、HW 社の残りの20%を1250億円で東芝に売却
2013年:C&BI 社が Shaw Group と S&W 社を買収
2015年:経営陣による粉飾決済が判明(主にパソコン事業)。しかし原発事業の「のれん代償却」は見送り
2015年:原発工事を手がける S&W 社を(WH社経由で)270億円で CB&I社より買収
2016年:SCANA(サウスカロライナの電力会社)が WH 社に対して「固定価格オプション」の行使(参照)
2016年:医療機器子会社(東芝メディカル)を6655億円でキャノンに売却(破綻防止のため)
2017年:半導体子会社の一部売却計画を発表(破綻防止のため)
2017年:7000億円強の「のれん代償却」を発表
となります。

東芝が犯した「致命的な二度の失敗」とは?
大きな分岐点は2006年のWH社の買収です。今になって見ると、高値掴みだったし、「原発ババ抜き」のババを引かされたとも言えますが、その時点では、決して悪い戦略ではなかったと思います。
当時、日本の原子力中心のエネルギー政策に疑問を持つ人は少なかったし、米国も「原発ルネッサンス」という言葉と共に、スリーマイル島での事故のトラウマから立ち直り、新たな原発を作る準備を進めていました。
当時は、自民党だけでなく、2009年に政権を奪った民主党ですら、原発を支持しており、エネルギー政策の上でも、地球温暖化対策の上でも、原発は疑いもなく「国策」でした。
1988年に改定された日米原子力協定により、「準核保有国」の地位を手に入れた日本にとって、日立、三菱に続いて東芝が原発に本腰を入れるというのは、とても理にかなった話でした。
しかし、実際の買収交渉になると、東芝は、致命的な失敗を二回しています。
一つ目の失敗は、WH社の買収の際に、Shaw Group に与えてしまったプットオプション(保有するWH社の株式を、決まった価格で東芝に売りつける権利)です。東芝としては、一社で WH社を買収するのはリスクが高すぎるという理由で、(原発工事を請け負う)Shaw Group に20%の株を買ってもらうことにしたのですが、百戦錬磨の Shaw Group は、「いざとなったら売りぬける」ことが出来るようにプットオプションを要求して来たのです。
本来ならば、最悪の場合を考慮してプットオプションなど与えるべきではありませんでしたが、「原発工事を請け負う Shaw Group が HW 社の株を売るはずがない」という日本人的な発想で、与えてしまったのです。
そこで起こったのが2011年の福島第一での事故です。「原発ルネッサンス」が夢に終わったことを察知した Shaw Group は、間髪を入れずにプットオプションを行使し、(原発事故の影響を考慮すれば二束三文にしかならない)WH 社の株を 1250 億円で東芝に売り抜けたのです。
二つ目の失敗は、S&W 社の買収の際の交渉です。買収の前から、工事の遅れによる賠償金を HW社と S&W社のどちらが支払うかでもめていたにも関わらず、買収後の賠償金の支払いの責任を明確にせずに買収してしまったのは、とんでもない失敗です。
東芝の発表によれば、この買収のトランザクションには不正が行われた可能性がある(拡大解釈すれば、売り手の CB&I 社が、WH社の経営陣に賄賂を渡して強引に買収を成立させた可能性がある)とのことですが、これほどまでにリスクの大きい買収に、(親会社である)東芝が関わっていなかったのは大きな問題です。
いずれにせよ、最初の失敗による損失が1000億円強、二番目の失敗による損失が数千億円なので、とんでもない話です。

契約社会で鍛えられた米企業に東芝はハメられたのか?
それに加え、(厳しくなった規制基準のために)遅れに遅れている工事に危機感を感じた顧客であるSCANAが2016年に行使した「固定価格オプション」がさらなる危険をはらんでいます。これは、「想定以上に建設コストが膨らんだ場合には、その分は HW社 が全て負担する」ことを意味します。
それだけであれば、万が一の場合にはHW社を倒産させて逃げ切ることも可能ですが(その場合には、のれん代を全て損失として計上する必要があります)、親会社である東芝が、HW社の債務の保証人になっており、東芝には最大7934億円までの違約金の支払い義務があるため逃げることもままならないのです(参照)。つまり、今回計上したの7000億円強の損失に加え、最悪の場合(原発工事がさらに伸びてコストが膨らんだ場合や、工事そのものをキャンセルしなければならなかった場合)には、さらに7000億円強の違約金を支払わされる可能性すらある、という契約を結んでしまっているのです。
この件でも分かる通り、契約社会で鍛えられた米国企業にとっては、それに慣れていない日本企業との間で、自分だけが有利になる契約を結ぶことは、赤子の手を捻るように簡単なのことのように私には見えます。
今回の件では、「何としてでも原発事業を復活させたい」という東芝側の必死な思いが、「足元を見られて東芝ばかりが一方的にリスクを負う契約を結ぶ」結果になったのだと思います。
開国当時に日米間で交わされた「不平等条約」は、今は日米の企業間で行われているとも言えるのです。

『週刊 Life is beautiful』
著者/中島聡(ブロガー/起業家/ソフトウェア・エンジニア)
マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。IT業界から日本の原発問題まで、感情論を排した冷静な筆致で綴られるメルマガは必読。」
ここより)

東芝を追い詰めた、日本式「意思決定」プロセスの弊害 2017.03.01
ネットや雑誌などで連日報道されている、東芝の巨額損失問題。そのきっかけとなったのが、海外企業との不利な契約条件を見破れなかったことによるものと言われています。メルマガ『週刊 Life is beautiful』の著者で世界的プログラマーの中島聡さんは、今回の東芝問題は「日本式意思決定プロセス」が原因となった可能性を指摘。日本人であれば「一旦社に持ち帰って検討します」という言葉に何の違和感も覚えませんが、海外でその常識は通じなかったようです。この記事では、東芝側の担当者が追い込まれたギリギリの心理状態についても分析しています。

日本企業と契約社会
先週号で、東芝の抱える原発問題の経緯を書かせていただきました。ウェスティングハウスへの投資そのものが大きなリスクを抱えるものだった、というのもありますが、共同出資者に万が一の時には東芝に株を押し付けて逃げる権利(プットオプション)を与えてしまったり、ウェスティングの債務を親会社の東芝が保障しなければならない契約を結んでしまうなど、会社にとってとても不利な契約をいくつも結んでいるために、逃げるに逃げられなくなっているのが大きな問題なのです。
私はこれまで仕事の上で日米の会社間の契約にいくつか関わったことがありますが、毎回思うのは、日米の交渉力の差です。米国側は、経営陣から全権を委任された責任者がその場でギリギリの交渉をしてくるのに対し、誰がものを決めているのかが曖昧な日本側は、難しい話になるといつも「持ち帰って相談」になってしまいます。日本側は社内のコンセンサスを取るために莫大な資料が必要で、一見慎重に見えますが、逆に一度「やる」と決めてしまうと、後には引けなくなるので、米国側に足元をみられてしまいます。
先日、この話を知り合いとしたところ、「戦後だけ見ても、日本企業は、何十年も米国企業とビジネスをしているのに、なぜいつまでたっても対等な交渉ができないの?」と質問されました。
これに関しては、私なりの答えを持っています。大雑把に言えば「文化の違い」、もう少し具体的に言えば「契約書に関する意識の違い」と「意思決定プロセスの違い」にあります。

最初からわかっていた「不平等な契約」
日本人にとってみれば、契約書作りは企業間で同意した取り決めを書類に落とし込む作業でしかありません。日本国内におけるビジネスは、一応契約書は交わすものの、お互いの信頼関係をとても重視して行われるため、「契約書に書いてあること」よりも、「お互いに同意したこと」が重視されるのです。そのため、契約書を交わす前からプロジェクトをスタートしてしまったり、(途中で仲違いしてしまうなどの)想定外の事象が起こった時にどうするかを前もって決めておかなかったりします。たとえ契約書に明記されていないことでも、企業間の約束は守るのが日本でのビジネスの常識です。
米国は全くの逆で、企業は契約書を交わす前に(コストのかかる)実作業を始めることを極端に違うし、想定外の自体が起こった時にどうするかを前もって決めておくことこそが、契約書の役割だという認識で、一字一句にものすごくこだわって交渉してきます。
ウェスティングハウスの買収の際に、東芝と共同出資をしたショーグループは、原発ビジネスのリスクを知った上で、万が一の時に売り抜けられるように、ショーグループの要求に応じて東芝は株式を(買値で)買い取らなければならないという「プットオプション」を(交渉の結果)手に入れました。これにより、ショーグループは、ウェスティングハウスが成功した時には、その恩恵を受けるけれども、(原発事故などで)窮地に追い込まれても損は東芝がかぶる、という非常に有利な出資をすることになったのです。
これこそが、典型的な「(契約書の)細部に神は宿る」例で、出資比率や出資額などの大きな数字だけを見ただけでは、決して分からない「不平等な契約」だったのです。
そして、こんな「不平等な契約」を結んでしまう根本の原因は、日本企業の(特に大企業の)意思決定プロセスにあります。

「買収を成功させることありき」になってしまう日本の意思決定システムとは?
米国の企業では、企業間の交渉の際には、経営陣から「最低限守らなければならない条件」が与えられた上で、全権が担当者に与えられます。例えば、買収の場合であれば、「最大限払って良い金額」だとか「買収後に数年間は会社に縛り付けておくべきメンバーのリスト」などが、その条件です。
担当者は、その条件の範囲内であれば、全権を持って交渉できます。経営陣に相談しなければならないのは、その条件を変更しなければならない場合のみです。そのため、交渉の場で色々なことがスピーディに決められるのです。
逆に、日本の場合、多くの場合、担当者は全権を持っておらず、交渉の場で相手から出てきた要求に対する返事は「持ち帰って検討する」ことが一般的です。
そんな意思決定システムを持つ日本の会社が米国の会社を買収する場合、全権を持たない担当者は、契約の細かな条件を決める際には、単に相手の企業と交渉するだけでなく、経営陣からの承諾を取るための「社内交渉」に大幅な手間と時間をかける必要があります。
その結果、担当者は、買収相手に対しては「買い手」でありならも、社内の経営陣に対しては「売り手」というとても微妙な立場に自分を置くことになります。さらに、社内のコンセンサスを取るための努力をしている過程で、「買収を成功させること」が自分のキャリアにとって重要、という状況にまで追い込まれてしまうことがしばしばあります。自分が担当している買収を成功させるために、社内の様々な人に協力してもらって「借り」を作ってしまった結果、「今さら後には引けない」という状況になってしまうのです。

不利な条件にもNOと言えなかった東芝
東芝で、ウェスティングハウスの買収を進めていた担当者も、ある時点で、そんな立場に追い込まれてしまったのだと思います。そもそもウェスティングハウスを買収して原発事業に乗り出すべきかどうか、そしてそれに必要な資金、共同出資者の選択、などの大きな部分で社内調整をして経営陣を説得した結果、「今さら引くに引けない」状況にまで追い込まれていたのだと思います。
そして最後の最後になって、ショーグループが「プットオプションをもらえない限りは共同出資はできない」と言い出したとすれば、それに東芝側の担当者が NO というのは非常に難しかっただろうことが容易に想像がつきます。
そして、なんとか買収を成功させたかった担当者は、「ショーグループが、プットオプションを要求しているのは、万が一のための保険に過ぎません。原発産業はこれから大きく伸びるので、ショーグループがプットオプションを行使することなど決してないので心配ありません」と経営陣を説得したのだと思います。
結局は、その万が一のこと(=福島第一原発での事故)が起こったために、ショーグループはプットオプションを行使し、東芝はさらに1000億円超のお金を支払って、(事故の結果、事業が低迷することが目に見えていた)ウェスティングハウスの株式を買い増さなければならなかったのです。

『週刊 Life is beautiful』
著者/中島聡(ブロガー/起業家/ソフトウェア・エンジニア)
マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。IT業界から日本の原発問題まで、感情論を排した冷静な筆致で綴られるメルマガは必読。」
ここより)

契約について、筆者は「大雑把に言えば「文化の違い」、もう少し具体的に言えば「契約書に関する意識の違い」と「意思決定プロセスの違い」にあります。」と書いているが、自分も現役時代に経験がある。
ある海外の大企業の日本の子会社から貰った仕事で、ある事件が発生した。事件は、顧客である日本人の指揮の元で発生したが、契約書は、こちらの会社が“請け負って”いた。
日本人の調達担当は「私も日本人なので、事情は分かるのですが・・」と言うが、会議に出て来た外人は、あるのは契約書の文字だけで、実際に現場で何があったかは無関係、というスタンス。まったく話にならなかった。
これが日本人通しだと、契約書は形だけ。実際の仕事で「契約書」という話が出ることは無い。契約書の重要さが、結果として甘かったのだろう。

そして、「「買収を成功させること」が自分のキャリアにとって重要、・・」「そもそもウェスティングハウスを買収して原発事業に乗り出すべきかどうか、そしてそれに必要な資金、共同出資者の選択、などの大きな部分で社内調整をして経営陣を説得した結果、「今さら引くに引けない」状況にまで追い込まれていたのだと思います。」というくだりは、まるで東芝社員の反省の弁のよう・・・

これも自分の現役時代のある出来事を思い出す。当時自分は、ある社内体制変更のプロジェクトを仕切っていた。プロジェクトによる体制大変更の案が出来たとき、社内で「実行するか」「しないか」の大激論になった。その中で、自分の心の中はどうだったか・・・。
最後には、「実施による効果」よりも、「この案が潰されたら、自分の努力が、そして実績がフイになってしまう。自分の存在感を示すためにも、何が何でも通さなければ」と思ったもの。まさに、筆者の指摘「「買収を成功させること」が自分のキャリアにとって重要、」そのものだった。その案の良し悪しよりも・・・

つまり、WH買収の担当者は、「とにかく買収すること」の実現のために、大枚をはたき(お金を積めば誰だって買えたので、功績でも何でもないのに・・・)、相手の契約条件を丸呑みして、社内を「ショーグループがプットオプションを行使することなど決してないので心配ありません」と経営陣を説得したのだと思います。」と、いう風に、動いたのだろう。
結果、福島原発事故後も、引くに引けずに、ズルズルと今の状況に陥って行った・・・。

話は変わるが、今日のロイターの報道に、こんな記事があった。WH破産の話である。
ウエスチングハウス破産法適用 東芝3000億円弱の損失と試算
東芝<6502.T>が米国の原子力事業子会社、ウエスチングハウス(WH)について、米国の連邦破産法11条を適用した場合、新たに連結決算に3000億円弱の損失が生じる可能性があると試算していることが1日、分かった。複数の関係筋が明らかにした。
東芝は、破産法の適用により、7000億円超の減損損失の主因となったWHの今後の損失発生リスクを遮断したい考えだ。WHの事業構造の見直しや、ガバナンス改革を進めた上で、事業継続した場合の損失発生リスクとを比較検討し、破産法を申請するかどうかを慎重に見極める。社内には、原発事業に関連した部門から、破産法適用に否定的な声も出ている。
破産法適用を決断した場合、7000億円超の減損損失に加え、3000億円弱の損失が加わることになる。
東芝は2月中旬、WHに外部の専門家を含めた調査チームを派遣し、資産査定を実施。破産法適用による収益への影響を精査している。破産法適用でWHが連結対象から外れることにより、一定の利益計上が見込まれるプラス面がある一方、支払い保証などによるコスト発生などのマイナス面もあり、東芝に対する影響額は差し引き3000億円弱の損失と試算した。
東芝はWHに対して8000億円の債務保証を行っているが、今回の影響額調査では、将来の損害賠償請求などは含まれておらず、実際の損失額はさらに拡大する恐れも残っている。
東芝の2017年3月末の株主資本は、WHの原子力事業による減損損失計上を主因として、マイナス1500億円の債務超過となる。主力のNAND事業の過半数以上の株式売却により、早期の債務超過解消が課題となっているが、売却手続きは4月以降にずれ込むため、東証2部に降格される見通し。(布施太郎 取材協力:浦中大我、浜田健太郎 編集:田巻一彦) [東京2017/03/01ロイター]」(
ここより)

上の記事で、「社内には、原発事業に関連した部門から、破産法適用に否定的な声も出ている。」という部分に驚愕する。この期に及んでも、まだ東芝の原発陣に発言力があることに・・・。
今後も続くであろう蟻地獄から抜け出すために、とにかくWHは即刻破産して全員クビ。そうでもしなければ、現役の東芝社員が浮かばれない。

(関連記事)
東芝問題~ウェスチングハウスを破産させるとどうなる? 
東芝19万人の社員が全員、米原発建設に400万円を寄付させられた話 

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2017年3月 1日 (水)

全盲の普通中学校のクラス担任~新井淑則先生の話

先日のNHKラジオ深夜便「明日へのことば」で、「見えなくなって、見えてきたもの』埼玉県皆野中学校教諭…新井淑則」(2017/02/20放送)を聞いた。

*この番組の全部(41分)をお聞きになる方は、(ここ=ZIP)をクリックしてしばらく待つ。

この番組を聞いてNetでググると、オカムラのHPに、全盲の教師が挑む新たな闘い(2014年4月)」ここ)という記事が見付かり、この放送とほぼ同じような内容だったので、そのページから氏の紹介を転載する。

「埼玉県の長瀞中学校(2016年現在は皆野中学校)で国語教師として教鞭をとる新井淑則先生は34歳のときに両目を失明。以後、特別支援学校に異動、15年の後、悲願だった普通中学校に赴任。そして今年(2014年)4月、23年ぶりに念願のクラス担任に返り咲きました。普通学校における全盲のクラス担任は全国初。そんな新井先生に、絶望のどん底から希望を取り戻すまでの道のりと働くということについてうかがいました。」・・・・

「新井淑則(あらい よしのり)
1961年埼玉県生まれ。埼玉県長瀞町立長瀞中学校教師
大学卒業後、東秩父中学校に新任の国語教師として赴任。翌年、秩父第一中学に異動し音楽教師だった妻と知り合って結婚。初のクラス担任やサッカー部の顧問を務め、長女も生まれた絶頂期の28歳の時に突然、右目が網膜剥離を発症。手術と入院を繰り返すも右170301arai 目を失明し、32歳のとき特別支援学校に異動。34歳のとき左目も失明し、3年間休職を余儀なくされる。一時は自殺を考えるほど絶望したが、リハビリを通して同じ境遇の人たちと出会ったことなどで前向きに。視覚障害をもつ高校教師との出会いを機に、教職への復帰を決意し、36歳のとき特別支援学校に復職。その後、普通学校への復帰を訴え続け、支援者のサポートもあり46歳で長瀞中学校に赴任。盲導犬を連れて教壇に立つ。2014年4月、52歳でクラス担任に復帰。全盲で中学校の担任を持つ教師は全国でも初。著書に『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』(マガジンハウス)』がある。」(
オカムラのここより)

氏の話は、上のZIPをたたいて聞いて頂くとして、若くして全盲、という人生について、考えてしまった。
いつも思ってしまう。自分だったら、耳が聞こえないのと目が見えないのでは、どちらが良いかな・・・。少々不謹慎な発想・・。
良く言われるのが、耳は一次元の情報、目は二次元の情報なので、圧倒的に目の情報が多い・・・・と。しかし、耳は、言葉での人とのコミュニケーションが取れる。しかし目は、普通には健常者と変わらなく見える。でも手話・・・

今は健常でも、人は加齢で五感は必ず衰える。
仏教では、感覚を六根で表す。すなわち般若心経における「眼耳鼻舌身意(げんにーびーぜっしんにー)」「色声香味触法(しきしょーこーみーそくほー)」(ここ)、つまり、眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識)である。
でも失って困るのは、一に眼、二に耳だろう。
しかしこの新井先生は、全盲でも、普通中学の国語の授業をして、担任も任されているという。

歳と共に、誰も、この話は他人事ではない。感覚は必ず衰えるから・・・。でも失った時に、これほどの努力が出来るかどうかは難しい。

スーパーに行った時、ふとこの話を思い出し、様々な色とりどりの物が見える有り難さを、改めて思った。と同時に、加齢に伴って五感が衰えた時の心構えも、そろそろしておかなくては、とも思った。

170301dotira <付録>「ボケて(bokete)」より

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