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2016年2月 1日 (月)

小椋佳の「私の履歴書」

「日経新聞」に2016年1月の1ヶ月間連載されていた小椋佳の「私の履歴書」が終わってしまった。
自分も毎月色々な人の「私の履歴書」を読んでいるが、今までで一番面白かった。
何よりも、若い頃の「彷徨」のLPから始まって、我が人生で!最も聞いた歌手の一人なのだ。テレビのコンサートも何度も見て、ナマも一度だけ行ったことがある。
そんな、良く知っていたはず(?)の小椋佳だが、この「私の履歴書」では、今まで聞いたことが無かった秘話が満載・・・。特に若い頃、観光会社を作っていたなどの話はなかなか聞けない。東大での生活も、とてもマジメとは言えず・・・。

★「日経新聞」小椋佳の「私の履歴書」(2016年1月掲載)の全文は(ここ

この連載の中で、今の自分に一番響いたのが、銀行を辞めた後、東大に再入学して勉強をするところ・・・

「(私の履歴書)小椋佳(26)仮面の肉面化 退職、音楽のためならず 哲学を修めに東大再入学
 私が銀行に就職すると決めたおよそ半世紀前は「1億総サラリーマン化」の時代であり、現代日本人の最大の問題は「人間の疎外、個の喪失」であると喧伝(けんでん)されていた。私は銀行に入って組織内存在として暮らしながらも、同時に何らかの創造的な作業を続け、表現者としても生きようと自分を納得させた。
 銀行員になって数年を経ぬうちに、「歌の創り手」という形で表現者としての場を持つ幸運に恵まれた。
 40代の半ばに至った頃、そろそろ銀行を辞めるべき時期が来ていると感じ始めていた。平家物語の終盤に出てくる「見るべきほどのことは見つ」を実感したからである。
 ところが、観察者であったはずの私にも「仮面の肉面化」現象は着実に起きていた。巧みに演じたと言うのがふさわしくないほどに、銀行員として一所懸命に生きてきてしまったと思われた。一所懸命の内実とは、組織の価値構造に身を染め、組織に高い評価を受ける振る舞いを心掛けていたということである。
 そろそろ辞めようと思いながら、その意味での一所懸命さが1991年に47歳で浜松支店長となり、財務サービス部の部長として戻る49歳まで尾を引いた。それ以上居残れば、残されたエネルギーをサラリーマンとしてのさらなる栄達に費やすことになる。それは若い日私が意図した生き方ではないと自省された。49歳半ばでようやく退職の決意をした。相当優柔不断な人間だったということだろう。
 退職してみると、マスコミは盛んに「小椋佳、銀行を早期退職。今後は二足のわらじの片方を脱ぎ、歌手稼業に専念」などと書き立ててくれた。本人は「二足のわらじ」を履いていたつもりも、以降、音楽活動に専念する気もさらさらなかったのに。
 もう一度学生に戻り、若い日にやり残した感のある哲学を修めたいと考えていた。3年生に編入するにはどうしたらいいか、幾つかの大学に尋ねてみた。どの大学からも、そのためには学士入学試験があるとの答えが返ってきた。筆記試験があり、かつ外国語2種の試験が必須だという。
 英語だけであれば銀行員時代に多用していたからOKなのだが、試験まで数カ月のうちにもう一つ外国語を習得するのは無理だと諦めかけていたところに、折よく東京大学の憲法の主任教授になっていた友人から連絡が入った。
 「母校である東大の卒業した学部であれば、面接試験だけで学士入学は可能だよ」
 「法学部に戻るんじゃ意味ないよ。僕は法律なんていまさら興味ないんだ」
 「とにかく入学しちゃえば、文学部だって哲学科の教室にだって聴講に行けるよ」
 世の中「持つべきものは友」である。翌94年の春、私は50歳で東大法学部の3年生になった。新しい学友はほとんど20歳そこそこである。
 再入学してみてすぐに気付いたのは、法学嫌いは若い日の思い違いだったということ。どの科目も面白くて仕方がない。毎朝一番で登校し、どの教室にも精勤して、夕方からは図書館通いである。期末の成績は全て「優」となったが、それはある意味では失敗だった。1年間で単位オーバーとなり、卒業させられてしまったのである。
 心改め、翌年の文学部学士入学試験に備えて1年間、フランス語などの独学に励むことになる。」(
2016/01/28付「日経新聞」「私の履歴書」より)

近々訪れる自分のサンデー毎日も、こんな姿勢を見習わないといけないのだが・・・

しかし、この連載で、他の人の「私の履歴書」と違う、「オヤッ?」と思いつつ読んだ部分があった。自分の過去に、素直にNGを出している点だ。

一つの例は、第24回でミュージカルをやったとき・・・
「50歳になる頃、日本人が欧米風のミュージカルを演じるにはその喉、歌唱に無理があると思い至った。そこで和の世界の歌の達人たちに演じてもらう音楽劇制作を試みることにした。出演者を民謡、琵琶、浪花節、長唄などの世界で先生と呼ばれる人たちに求め、題材を「一休宗純」「紀伊国屋文左衛門」などに設定して台本を書いて歌芝居を上演した。これも数年、数回やってみたが、私自身が納得できる作品にはならなかった。・・・」

つまり、例えそれが本音であっても、その時の周囲の人に気を遣って、なかなか言えないネガティブな反省を、堂々としている箇所が幾つかある。ちょっと心配になった!?

そして第28回の病気の変遷では、胃がんで胃を切ったお陰で、絶望的な糖尿病が治ってしまったという話・・・。全ては節制か??(氏も、1日40本のタバコだけは、止められないと言うが・・・)

この連載について、書く気になれば、幾らでも話題はあるが、まあそれはそれとして、この連載は、「歴史に残る!」名「私の履歴書」ではないかと思っている。
ぜひ全文を読んでみて下さい(ここ)。お薦めです。

160201fueteru <付録>「ボケて(bokete)」より


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