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2015年12月25日 (金)

「いのちのケア」~末期がんの内科医・僧侶、田中雅博さんの話

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(インタビュー)いのちのケア 末期がんの内科医・僧侶、田中雅博さん
 人は病と闘い、生き抜こうとする。それでもいずれは、どうしても死が避けられなくなる。そのとき何を感じるのだろう。希望を見いだすことはできるのか。栃木県益子町の内科医で僧侶でもある田中雅博さんは、がんに侵され、余命わずかの身。自分の死を見据え、日本の医療からこぼれ落ちているものを問いかける。

151225tanaka  《陶器で知られる栃木県益子町。田中さんは、1300年近い歴史のある西明寺(さいみょうじ)の住職だ。昨年10月、極めて深刻な段階の膵臓(すいぞう)がんが見つかった。手術したが、今度は肝臓に転移した。今秋、寺で行われた法要の際、別の僧侶に「どうか長生きしてください」と声をかけられると、素っ気なく「それは無理です」と答えた。》

 ――余命わずかであることを公言されていますね。
 「抗がん剤の副作用がひどくなっています。特に手足のしびれ。茶わんを落としたり、つまずいたりします。もう副作用の限界ですから、抗がん剤は効果を期待できる量が使えずにいます。検査結果やデータから、来年3月の誕生日を迎えられる確率は非常に小さい。もう少しで死ぬという事実を直視しています」
 「つい先日、孫が生まれたんですよ。女の子です。どこまで成長を見ることができるか。あと3カ月くらいかな、あるいはもっと短いかもしれない、と考えてしまいます。複雑な思いですね。人の死は思い通りになりません。私も順番が来たわけです」

 ――僧として、医師として、ずっと「死」の問題を考えてこられました。自身の死は怖くない、とおっしゃるのかと。
 「そんなことはありません。生きていられるのなら、生きていたいと思いますよ。私には、あの世があるかどうかは分かりません。自分のいのちがなくなるというのは……。やはり苦しみを感じますね。いわば『いのちの苦』です。自分というこだわりを捨てる仏教の生き方を理想とし、努力をしてきました。生存への渇望もなくなれば死は怖くないはずです。ただ、こだわらないというのは簡単ではありません」
 「かといって死んでしまいたいとも思わない。生きられるいのちは粗末にしたくありません。一方で、自分のいのちにこだわらないようにする。そのふたつの間で、『いのちの苦』をコントロールしているわけです。死の恐怖や不安と闘うというよりは、仲良くしようとしている感じでしょうか」

 《寺に生まれたが、前住職である父親の勧めで医学の道へ。25歳で東京・築地の国立がんセンター(現・国立がん研究センター)で研修医となった。》

 「最初に受け持った患者さんは若い女性でした。がんが体中に転移し、どんどん悪くなっていく。『私は死ぬんでしょうか』と聞かれました。どう答えますか? 科学ではどうしようもないんです。それ以来、たくさんの患者さんから同じように問われ続けました。でも、何もできなかったんですよね……。そうした苦に応える人が病院にいない、と若いときから感じていました。患者は誰に話していいか分からず、看護師や病室を掃除してくれる人に、不安を打ち明けることがあるんです」

 「私は進行がんが専門で、がんセンターでは内分泌部治療研究室長も務めました。医学はいのちを延ばすことを扱うわけですが、そのいのちをどう生きるかという問題にはまったく役に立たない。体の痛みを止める医師が必要であるのと同じように、『いのちの苦』の専門家が必要です。それがほとんどいないのは日本の医療の欠陥だと思います」

 《田中さんが言う「いのちの苦」は医療分野で「スピリチュアルペイン」(spiritual pain)と呼ばれる。世界保健機関(WHO)でも議論され、生きる意味の喪失や死後への不安などが含まれるとされる。
 キリスト教文化を背景とした欧米の多くの病院には、これに対応する専門職がいる。田中さんは1980年代から、日本でも「スピリチュアルケア」(spiritual care=いのちのケア)が必要だと提言。ローマ法王庁が呼びかけた国際会議にも4度招かれ、海外の実情を学んだ。》

 ――いのちのケアとは?
 「欧米では、病院に配置された聖職者がスピリチュアルケアに携わっていることが多いですね。自分の宗教や考えは押し付けません。患者の話を聞くことに徹し、いのちがなくなる苦しみを分かち合おうと努めます。どんな人生であったとしても肯定し、価値を見いだしてもらえるよう促す。人間の尊厳にかかわる仕事です」

 ――死が迫ると、後悔などの感情も起こりそうです。
 「それらも受け入れ、最後の最後まで人生の『ものがたり』を形づくる手伝いをする人が必要です。それを含めての医療であるべきだと思います。科学では何もできなくなったときこそ、非常に多くのことができるはずです」

 「人というのは、元気なうちは自己の欲望にとらわれたり、怒ったり、他人を差別したりするものです。しかし死が避けられないとなったときは、そうしたことから離れて、自分のいのちを超えた価値を獲得するチャンスでもあります。いのちより大事にしたいもの。それは信仰を持たない人にとっても、自身の『宗教』だと思うんですよ。それに気づくことができれば、その大事なもののために残りの時間を生きることができるのではないでしょうか」

 「欧米でスピリチュアルケアにあたる人は宗教だけでなく、哲学や医療などもしっかり勉強しています。ただ、ある人は『知識があるだけではだめだ』と話していました。むしろ、死にゆく患者さんに大事なことを教えてもらうという態度で臨むのです。非常に高度なことですね。人格的にも優れていなければならないでしょう」

 《国内でも専門家を育てる動きがある。全国青少年教化協議会が資格認定する「臨床仏教師」もその一つ。95人の受講者から絞られていき、今春、6人が初めて認定された。約1年半の養成課程では田中さんが内科を担当する診療所も協力し、実習を受け入れた。しかし、医療現場はまだ本格的な導入には慎重だ。》

 ――医療の現場には宗教に対する違和感もあるようです。スピリチュアルケアをする人は宗教者でなければいけませんか。
 「必ずしも宗教者でなくてもいいと思いますよ。欧州では哲学畑の人もいるそうです。ただ、仏教は私たちの死生観に何らかの影響を与えていますから、日本では少なくとも仏教の知識は欠かせません。もし病院で僧衣に違和感があるなら、制服を作ってもいい。ローマの病院でスピリチュアルケアに携わる人に会ったら、白衣を着ていましたね」

 「臨床仏教師の候補者を実習で受け入れた際、ある患者さんは症状が進んで話ができず、筆談でした。候補者に『あなたの考えは浅い』と厳しいこともお伝えになりました。それでも何時間も筆談して、最後は『また来てください』とお書きになった」

 「WHOは緩和ケアについて身体の痛みだけでなく、心理的な側面と(より根源的な)スピリチュアルな側面を総合的に扱う、としています。イタリアのスピリチュアルケア従事者は、死期が迫ってからではなく入院時にすぐ会いに行くと話していました。病棟責任者らの許可もいらず、自由に病室に出入りできるそうです。そういうシステムはいいですね。患者には面談を受ける権利と断る権利を保証しなければなりません」

 ――それにしても、ご自身は穏やかな表情ですね。
 「ぐったりして休んでいることも多くなっていますが、まだ黄疸(おうだん)は出ていません。黄疸が出ると、頼まれている原稿の執筆や講演は難しいので、できる限りのことをやっておきたいと思っています。いま、何でもないことが非常にありがたい。晴れた日はいいなぁと思うし、雨の降る日もいいなぁと感じます。やはり生きているというのはいいことですね」
    *
 たなかまさひろ 1946年生まれ。東京慈恵会医科大卒。74年国立がんセンターに入り、83年寺を継ぐため退職。90年境内に緩和ケアも行う普門院診療所を建設。

 ■取材を終えて
 死が避けられなくなったとき、家族には心配をかけまいと「死ぬのが怖い」といったことを口にしない人がいるのではないだろうか。家族もまた、あまりに重い問いは受け止めきれないかもしれない。そうした気持ちを丸ごと受け止めてくれる第三者がいたら、患者と家族にとって貴重な選択肢となりそうだ。
 日本でも、一部の緩和ケア病棟などには宗教的な問いにも対応できる専門家がいるが、全体ではまだまだ少ない。病院にとっては実習を受け入れてみるだけでも、「患者の本当の幸せとは」「そもそも医療とは」と立ち止まって考える契機になるに違いない。(聞き手・磯村健太郎)」
(2015/12/04付「朝日新聞」ここより)

我々素人とは違って、いわば死に対して“プロ”である内科医であり僧である氏。1946年生まれと言うから、自分より1歳年上。まだ60代だ。
そのプロが自身の死に際して「『いのちの苦』の専門家が必要です。」と言う。
そして(ここ)によると、
スピリチュアルケアとは終末期がん患者に限らず、人生のさまざまな場面・状況で生きる意味を失い、自分に価値をおけなくなった人、生きることの無意味、空虚、孤独、疎外等を感じている人のスピリチュアルペイン(自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛)を和らげ、軽くし、なくするケアのことです。」
だという。

取材記者が「死が避けられなくなったとき、家族には心配をかけまいと「死ぬのが怖い」といったことを口にしない人がいるのではないだろうか。」と言っているが、現実はどうなのだろう・・。
自分は、とても耐えられない。黙っていることが・・・
しかし、それを誰が受け止めてくれるのか・・・
やはり、普通は家族なのだろう。それを言え、受け止めるのが家族や夫婦ではないのか・・・。
しかしそれは建前。現実には、色々な家族の姿がある。
隣家に住む兄弟の葬儀にも出席しない家族の関係もある。

話は“ぶっ”飛ぶが、我が家では、自分が病気で寝込むと、カミさんの機嫌はすこぶる悪くなる。キツイ言葉がなぜか多くなる。よって、自分はただ黙って自室で寝込む・・・
確かに、カミさんの言うことを聞かずに発病することもある。でも病人は弱い立場・・・

でも、イザと言う時は、ウチのカミさんが自分の「スピリチュアルケア」の受け皿になってくれると思う。(否、思いたい!?)
だから、今のうちから、“その時”は、どこに駆け込むのかな~~、ナンテ、調べておく必要は無いのであ~~~~~る。

上の記事。実に淡々としているが、まだ若い僧で医師という氏が、“その時”を目前にしている話だけに、ひと言ひとことが重い・・・。

1412254wame <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

後顧の憂いがない人はまだ死ぬのが自分の命だけの問題ですから、贅沢だと思います。幼子を残して死ななければならない人、障害のある子供を残して死ななければならない人には死は最も恐しいことです。母一人、障害のある子一人の家で、母親が急死、誰も来ない家の中で死の意味がわからない子供が電気もつけずに何も食べずにじっとすくんでいたという話を聞いた時ほど死が怖いと思った事がありません。ですから、自分で食べられる人を残して死ぬことはまだ贅沢なのです。施設へ預けられた子供を訪ねたら母親の位牌を持ってきて「母たんのお家に帰る」と言ったそうです。親は頑張って生きましょう。子供が死の意味がわかるようになるまで死んではいけません。後期高齢者と言われたとたん死が近くなったように思います。嫌な言葉を国民に付けたものです。

【エムズの片割れより】
読みながら、満島ひかりのTVドラマ「Woman」を思い出しました。
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/tvwoman-eb30.html
の下の音源・・・
「私死ねないんです。・・・私が死んだら、あの子たちだけになってしまいます・・・」

「死」とは軽々しく論じるものではありませんが、上のドラマと違って、我々は、少なくとも子どもが独り立ちするまで生きられたので、それ以上は、贅沢なのかも知れない、と思いました。

投稿: 白萩 | 2015年12月30日 (水) 22:19

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