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2015年8月 1日 (土)

宮内庁が「玉音放送」原盤と「御文庫附属室」を公開

今朝のNHKニュースも新聞も、今朝5時に公開になった「玉音放送」原盤と「御文庫附属室」についての記事が詳しかった。
自分も朝日と日経の記事をじっくりと読んだ。

まず玉音放送。正直、全文を意味を考えながら聞いたのは初めてかも・・・
オリジナルの玉音放送を聞いてみよう。

<「玉音放送」原盤~1945年8月15日 正午放送>

玉音放送(現代語訳)
 私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
 私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
 そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。150801gyokuon 先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。
 しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
 考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。
 私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。
 まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。(協力=国文学研究資料館・寺島恒世氏、国立国語研究所・間淵洋子氏)」(2015/08/01付「朝日新聞」p19より)

公開された宮内庁のHPにこうある。
終戦の玉音放送関係
昭和20年8月14日,昭和天皇には「大東亜戦争終結に関する詔書」を2回にわたってご朗150801gykuon1 読,録音が行われました。このうち,2回目の録音盤(2枚組,3枚組,2セット計5枚)が正本として昭和20年8月15日正午からラジオ放送され,放送終了後は,大切に保管されてきました。
戦後70年の節目に当たり,70年振りに玉音放送用の録音原盤の再生を試みたところ,直接,昭和天皇のお声の再生に成功,録音することができました。」(
ここ)より

それにしても難しい。天皇の声を聞きながら、原文を追っていっても、見失ってしまう・・・。

なお、放送された内容はこんなものだったらしい・・・
「放送は国内、海外、東亜放送の全系統を動員。日本本土、中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方地域に送信することになった。昼間10キロワットの放送出力が60キロワットに増力された。
 正午、時報とともに放送が始まった。主な内容は次の通り。
 「ただいまより重大なる放送があります。全国聴取者の皆さま、ご起立願います」(和田信賢放送員)
 ―君が代
 「これより、謹みて玉音をお送り申します」(下村情報局総裁)
 ―天皇の詔書朗読(4分30秒)
 ―和田放送員による詔書再朗読
 ―内閣告諭
 ―終戦決定の御前会議の模様
 ―交換外交文書の要旨(日本のポツダム宣言受諾の条件の通告文に対するアメリカの回答文)
 ―ポツダム宣言受諾に至った経緯
 ―ポツダム宣言の要旨
 ―カイロ宣言の要旨
 ―終戦にのぞんでの国民の心構え
 ―8月9日から14日までの重要会議の開催経過
 放送は37分30秒続いた。詔書は英仏語など約20カ国語に翻訳して放送された。」(2015/08/01付「日経新聞」p39より)

そして、「御文庫附属室」については、自分はほとんど知らなかったが、その建設について、日経によるとこんなことらしい。

「皇居内3つ目の防空壕である御文庫付属室(御文庫から約100メートル北東)の建設は当時の東条英機陸軍大臣が指示した。41年6月、同盟国のドイツがソ連と戦争状態に入った150801gobunsyo ため、目的はソ連による空襲対策だった。陸軍築城本部の指導により、近衛第一師団などのべ約13万5000人を動員。1日平均約1500人が昼夜休まず突貫工事を行い、同年9月30日に完成した。」
「空襲警報下の突貫工事により補強は同年7月末に完了。のべ12万人が動員された。付属室の防護層はコンクリートなどで3.5メートル厚くなり、総計14.3メートルになった。当時の日本最強の防空施設だった。」
「付属室が公式会議に使われたのはわずか5回(前述以外の1回は8月10日の重臣会議)。付属室の第1の目的は空襲対策だったが、実際は戦争継続を主張する軍の一部勢力を介入させないため「防軍」施設として機能した。日本の運命を決める場としての役割は十分果たしたといえる。」(2015/08/01付「日経新聞」p38より)

何と、この防空壕は、陸軍から守る意味もあったという。
同じく日経のこの記事の見出しに、こうあった。
「御文庫(おぶんこ)付属室と玉音盤は終戦のための重要な「装置」だった。軍の威嚇から隔離された地下の付属室がなければ、終戦の決断はできなかったかもしれない。天皇がラジオで国内外に呼びかけなければ、終戦はより深刻な混乱をともなうハードランディングになっていただろう。戦争を終結させることがいかに困難か。2つの装置はそれを伝えている。」(2015/08/01付「日経新聞」p39より)

映画「日本のいちばん長い日」で、当日の状況は見知っていたが、物心共に防空壕だったわけだ・・・。

その御文庫は頑丈・・・
御文庫付属室の構造は 厚さ3メートルコンクリの外壁
 御文庫付属室は戦後に宮内省を引き継いだ宮内庁の「国有財産台帳」などでは「御文庫附属庫」と表記されている。台帳によると、構造物全体の面積は631.5平方メートル。厚さ3メートルのコンクリートの外壁で覆われている。
150801obunko 内部は御前会議、最高戦争指導会議が開かれた会議室(60平方メートル、間口6メートル、奥行き10メートル)、天皇の休所と次室(各24平方メートル)、機械室(78平方メートル)、通信室(18平方メートル)の5室。各部屋をつなぐ通路の前室と3カ所の便所(天皇専用が「御厠」)がある。各部屋と前室との出入り口は木製と鉄製の二重扉になっており、8カ所の鉄製扉は厚さ25~35センチもある。
 機械室の内部機材について宮内庁は発表していないが、各種文献によると、発電装置・ガスろ過装置・空気清浄を兼ねた冷房装置・飲料水と水洗便所用水タンクがあったという。通信室には外部の重要施設とのホットラインや外部回線と付属室内の電話端末を結ぶ自動交換機などがあった。
 外部からの通路(幅2メートル)と廊下(同3メートル)はU字型で、出入り口近くに爆弾が落とされた際に爆風を外に逃がす構造になっている。西側の通路には御文庫に通じる地下通路出入り口(現在は土砂などで閉鎖)を含む3カ所の開口部がある。」(2015/08/01付「日経新聞」p38より)

最後に、朝日のこの記事が気になった。
総力戦の果て、記憶する 皇室担当特別嘱託・岩井克己
 朽ち果てた惨状に息をのんだ。降伏を天皇が決断した「聖断」の舞台となった地下防空壕(ごう)「御文庫附属室」。公開画像を見て、70年の歳月がもたらす風化のすさまじさを思った。
 「最後の生き証人」徳川義寛・元侍従長から話を聞いたのは戦後50年の節目だった。1945年8月10日、ここで開かれた御前会議に臨む昭和天皇を先導した。14日深夜、宮内省で天皇が終戦の詔書を読み上げて録音するのは扉の外に侍立して聞いた。未明になって本土決戦を叫んで皇居を占拠した反乱将校らに囲まれながら「玉音盤」のありかを隠し通した。将校は「斬れ」と言ったが、一人の兵士が自分をなぐり倒した。とっさに救ってくれたのかもしれないと振り返った。筆者は何度か御文庫内部を見学したこともあり、徳川元侍従長の生々しい体験談は臨場感があった。
 2000年に香淳皇后が亡くなったあと、御文庫や附属室を保存し公開すべきではないかと書いたのも、昭和史の剣が峰となった「現場」が廃屋として放置され、荒れるに任せるのに納得いかなかったからだ。それだけに今年、宮内庁が「附属室」画像を公開したのは驚きだった。
 最近、歴史に関する皇室の発信に、深い思いが込められているように感じる。
 先の戦争に関しては、依然として国内外の歴史認識の亀裂が埋まっていない。名称ひとつとっても「大東亜戦争」「アジア太平洋戦争」などと立場によって分かれる。御前会議の発言を下敷きに起草された「終戦の詔書」が、満州や中国での「事変」という名の戦争に触れなかったことに、「アジア諸国への侵略や植民地支配の責任に頬かむりした」との批判もある。
 その意味で、改めて思うのは天皇の今年の年頭所感だ。
 「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」
 昨今強まる「歴史観の相克」を熟知しているはずの天皇が、あえて「満州事変に始まる」との8文字を加えた意味は深く重いのではないか。今回の公開も視野に入れての布石だったのではないだろうか。
 天皇陛下は国内外を問わず戦場などの「現場」に赴き、体験者一人ひとりの生の声に接することを重視してきたようにみえる。朽ち果てた附属室には、皇太子さま、秋篠宮さまもヘルメット姿で入り、「現場」を見たという。
 戦争の歯車が回り始めたら拡大を止めるのがいかに難しいか。殺し殺され、焼き尽くし焼き尽くされた「総力戦」の行き着いた果てに防空壕で起きたことを、世代を超えて記憶し、風化に抗し語り継いでほしいとの願いを感じる。」(2015/08/01付「朝日新聞」p19より)

確かに今年は戦後70年という節目の年。
今回の公開は、天皇皇后両陛下や皇太子さま、秋篠宮さまのご希望で実現したとか・・・。それに「山本次長によると、天皇陛下は付属室内に入られたことがあり、皇太子さまと秋篠宮さまも今年7月中旬に見学されたという。」

これらの皇室の一連の行動は、前にも書いたが、現政権が驀進している“戦争が出来る普通の国”への、皇室として出来る精一杯の“警鐘”のような気がしてならない。

150801japon <付録>「ボケて(bokete)」より


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