« 誤りがちな日本語表現(2)~読み方 | トップページ | 「ちいちゃんのかげおくり」の朗読 »

2015年8月14日 (金)

「戦後70年 終戦伝えた極秘送信所」

明日は、終戦記念日。70年目である。
先日の日経にこんな記事があった。
戦後70年 終戦伝えた極秘送信所
   玉音放送、世界に 神奈川山中のトンネル利用

 1945年8月15日正午からの終戦の玉音放送は、ほぼ全世界に放送されていた。中国大陸や南方などの軍・在留邦人のほか、南米などの日本人移民にも終戦を知らせるためだった。その電波を発信した極秘の防空送信所が神奈川県の山中にあった。送信所の存在は昭和史の文献でもほとんど触れられていない。
 この送信所は国際電気通信の「足柄送信所」。国際電気通信は政府・軍の国際電信のための設備建設と保守を行う半官半民企業だった。太平洋戦争末期の44年初め、本土空150814housou1 襲の本格化は必至とみた軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。耐弾式送信所として足柄、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。
 足柄送信所は御殿場線の廃止トンネルを利用して造られた。神奈川県山北町の谷峨駅の北西約300メートルの場所で、現在トンネル内は何もなく、周囲は雑草で覆われている。
 送信所は44年6月着工、11月に電波を送信し始めた。トンネルは長さ275メートル。岩盤が30メートル以上あり、爆撃に十分耐えられるとみられた。150814housou2 ただ、幅が3.4メートル、高さ4.5メートルとうなぎの寝床のように狭かったため、電話・電信送信機などの機器を設置すると、通路は1人がようやく通れる程度だった。
 45年8月10日、ポツダム宣言受諾の海外送信を多摩送信所が担い、同月15日の昭和天皇の終戦玉音放送の送信は足柄送信所で行うことになる。
 「戦時下の小田原地方を記録する会」の香川芳文さんが2004年、同送信所で勤務していた細谷覚さん(故人)から聞き取った調査によると、東京・内幸町にあった放送会館から電話連絡線を通じて送られてきた放送を増幅して電波送信していた。
 細谷さんは「終戦前夜、放送会館からの放送が終わると同時に、あすは午前4時半に送信準備をするようにと言われ、朝から待っていたがプロ(番組)が来なかった。軍の反乱が起きて、録音盤が奪われそうになった影響だろうか」と話していたという。
 細谷さんによると、8月15日当日は「天皇の声が入るんだからしっかり調整しろよ」と指示があり、現場では「ソ連への宣戦布告じゃないか」という臆測もあったらしい。また、8月14日以前から日本放送協会のアナウンサーが送信所の一室に待機していたが、実際の放送時に何をしていたかはわからなかった。
 玉音放送後は上司が真っ青な顔で「負けた」と言ったことと、女性の職員が泣いていたのが印象深かったと細谷さんは話していたという。
 細谷さんは香川さんの聞き取りに対し、玉音放送の送信先が「(中国大陸の)新京・上海向け」と話していたというが、『国際電気通信株式会社史』は同通信所の送信方面を中国大陸のほかに欧州、南米、北米中部、ボンベイ(現ムンバイ)、シンガポールとしている。
 日本放送協会編『放送五十年史』には「(玉音放送が)八月十五日以降も数日間にわたり海外放送で送出された。詔書は各国語に翻訳され、時差を考慮して順次放送された。翻訳の国語は二十数か国語に達した」と記されている。(編集委員 井上亮)」(2015/08/13付「日経新聞」p31より)

戦時中の放送が、どのように行われていたのか? 自分は興味はあったものの、特に調べもしなかった。それがこの記事で、少し分かった。
やはり送信所も疎開していたのだ。

戦時中の、国民への情報提供は、即時性から言って、やはりラジオ放送。もし空襲などで送信施設が壊滅すると、国として目が見えない状態に陥ってしまう。その貴重な送信機はトンネルの中にあったとは・・・

先日、NHKラジオ深夜便で、「特集・昭和史を味わう・アンコール「昭和と共に歩んだラジオ~戦前編」ノンフィクション作家・評論家…保阪正康」(2015/08/03放送)を聞いていたら、保阪正康さんがこんなことを言っていた。
「ラジオの歴史は昭和の歴史と一緒だと言ったが、ラジオの昭和の初期の歴史は戦争の歴史になってしまう。その初期、ラジオがちょうどメディアとして発達して行く時に、戦争に出会ってしまった。ラジオは戦争に利用された、というのが正直なメディアの姿だと思う。その頃のことを書いているラジオの研究書やラジオの歴史の本を読んでいくと、正直にその事を書いている。例えば、戦争が始まる前までは、冷静に落ち着いてなるべき感情を出さないようにニュースを読む、というのが、戦争が始まってからは、出来るだけ感情を出せと。アナウンサーと言えども国策の宣伝員なのだから情熱を込めて話せと、役割が変わって行った。その意味で言うと、ラジオの発達史というのは、期せずして昭和の歴史が背負い込んだ政治的な制約を証明したことになるのかも・・・」

この中で「アナウンサーと言えども国策の宣伝員なのだ」という言葉が重たい。
当時のNHKは、不偏不党の公共放送でも何でもなく、単なる国の広報機関だったわけで、新聞と違って、軍の言う通りで、法人としての意志も無かったのだろう。

ところで、今日はこんなニュースも流れた。
「安倍内閣は14日、戦後70年の首相談話(安倍談話)を閣議決定した。戦後50年の村山談話、60年の小泉談話に盛り込まれた「植民地支配」「痛切な反省」「侵略」「心からのおわび」といった文言を使う一方で、歴代内閣の方針を引用するなど間接的な表現が目立ち、首相自身の考えは見えにくい内容となった。・・・」(朝日新聞から)

内閣支持率の急落を受けて、「4つの言葉を使えばいいんだろ!」と開き直った感じ・・・。
そう、その調子で、安保法案も取り下げれば良いのに・・・

毎年、戦争を思い出す、暑い夏である。
(そして、明日の8/15、終戦記念日は親父の19回目の命日でもある。合掌・・・)

150814asu <付録>「ボケて(bokete)」より


« 誤りがちな日本語表現(2)~読み方 | トップページ | 「ちいちゃんのかげおくり」の朗読 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 誤りがちな日本語表現(2)~読み方 | トップページ | 「ちいちゃんのかげおくり」の朗読 »