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2015年2月16日 (月)

「生きている」ことは“吸収と排泄”

先日、NHKラジオ深夜便で「野本三吉(元沖縄大学学長、作家)  生きる事の意味を問い続けて(1)2015年2月5日放送)を聞いた。
その中で、こんな話に、なるほど・・・と思った。(下記の後半部分)

<野本三吉氏「 生きる事の意味を問い続けて(1)より>

つまり、「生きている」ことは、空気を吸い、食物を食べ、水を飲むことができていること、そして空気を吐き、排泄が出来ること。つまり吸収と排泄が出来ると、人間は生きていることになる。
それを少し哲学的に考えると、吸収するということは、食べることだけでなく、自分が体験したことが血肉化されてくる。そして排泄は表現だという気がしてきた。泣いたり笑ったりできることも表現。この表現できることと、色々なものを体験、吸収することの二つが出来たら「生きている」ことになる・・・。と氏は言う。

確かに老人ホームなどに行くと、その食事と排便がいかに大切かを教えてくれる。それだけが出来ていれば、生物としての人間は生きられる。しかし、人間として生きているということは、体験による吸収と表現のアウトプット・・・

ま、その考え方によると、女性の長話は、まさに生きている証だけど・・・

話は変わるが、先日「死の単純さ」を感じた。
先日義母が亡くなって葬儀、納骨が済んだが(ここの下半分)、焼き場の順番は待ったものの、葬儀から菩提寺への搬送、本葬、そして納骨。菩提寺の都合があったとは言え、あれよあれよという間に、大きな大人の体がほんのわずかな骨となり、そしてお墓の下に去って行った。
あの大きな棺が、たったこれだけの骨の断片に変わった。肉体が消え去った・・・
精神的なことは別にして、物理的には、人間が死んで消えることの単純さを思い知った。

おっと話がそれた。
生きていることは、精神的、肉体的なインプット/アウトプットが出来ていること。最終的には、生物としての“食べて排泄する”ことだけが残るのであろうが、そうなる前に、出来るだけ体験による吸収と表現による「生きていること」に頑張ることにしようか・・
このblogも精神的な排泄=表現だ。つまりこれも、自分の「生きていることの証」なのかも知れないな・・・と、勝手に納得した。

150216neko <付録>「ボケて(bokete)」より


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