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2014年10月 2日 (木)

「トルコの憂い 報道の自由が消えていく」

先日の日経新聞の「池上彰の教養講座」に、こんな記事があった。
池上彰の教養講座(14)権力介入 トルコの憂い 報道の自由が消えていく
 トルコといえば、ヨーロッパとアジアの架け橋の位置にあり、国民の多くがイスラム教徒でありながら、政教分離を徹底している世俗国家。政治家は選挙で選ばれる民主主義の国。ところが、こんなイメージが、最近になって急激に崩れつつあります。
 本紙9月15日付朝刊で、本社コラムニストの脇祐三氏は、「昨年のイスタンブールの騒乱事件が示すように、政治手法が強権的になってきたエルドアン氏に対する都市のインテリ層を中心とする反発は強い」と書いています。今回トルコでメディア関係者と会い、それを実感しました。

 9月11日、イスタンブールで「日本とトルコのメディア・フォーラム」が開かれました。日本とトルコのメディア関係者が集まり、互いの国をどう報道してきたかを検証したり、民主主義とメディアの役割について意見を交わしたりしました。
 トルコは議院内閣制です。首相が政治の実権を握り、大統領は象徴的な国家元首でした。ところが今年8月、大統領を国民の直接選挙で選ぶようになり、それまで首相だったエルドアン氏が大統領に当選。エルドアン大統領は、今後、憲法を改正して大統領が強大な権力を持つ大統領制に変えようとしています。
 こうした政権の方針に対し、批判的な記事を書いた新聞記者たちが、次々に逮捕されたり、新聞社を追われたりしているというのです。
 今年に入って9月11日までに、すでに210人の新聞記者が職を失ったという衝撃的な報告もありました。
 それでも踏みとどまって政権批判をする新聞は、広告の減少に悩まされています。政権の圧力で、広告出稿を取りやめる企業が相次いでいるからだというのです。
 トルコよお前もか、と言わざるを得ません。

 このフォーラムのワークショップに参加している最中に、朝日新聞の社長が自社の誤報を認め、自身の進退に言及するというニュースが入ってきました。日本から出席していた新聞社、通信社、テレビ局の人たちからの要請で、急きょ、私に対する即席の記者会見が開かれることになりました。
 トルコ側の参加者にお断りをして、会見を開いたところ、終了後、トルコ側からの質問攻めにあいました。新聞社の社長が、自社の記者たちや読者の批判を受けて謝罪したり、進退問題になったりするなど、トルコでは考えられない、というのです。
 誤報を出したら訂正して謝罪する――。それが当たり前だと考える日本社会は、トルコから見ると、言論の自由・表現の自由が確保された民主主義国だというわけです。
 トルコのテレビ局や通信社の記者たちの私へのインタビューは、日本の言論空間の自由さを私に語らせることで、暗に自国の現状を批判しようとしていることが、手に取るようにわかりました。
 新聞業界に権力の介入を招くことなく、自らの自浄作用によって言論の自由・表現の自由を維持する。これこそが求められていることだという、至極当たり前のことを再認識したトルコへの旅でした。」(2014/09/22付「日経新聞」p23より)

トルコは政教分離の民主国家だと思っていたが、どうも最近は変わってきているようだ。
もちろん、こんな記事を読んで、“トルコよりは日本はマシ”などとは思わない。現在の日本も同様にならない事を祈るだけ・・・。

それにしても、「エルドアン大統領は、今後、憲法を改正して大統領が強大な権力を持つ大統領制に変えようとしています。」のような動きに共通するのは、憲法が権力者を縛っているのを、その権力者が、邪魔な憲法を自分の都合の良いように変えようとしていること。
ロシアなど、例は幾らでもあるが、絶対的な権力者の存在は、民主主義が崩れていく原因らしい。

先日、元社会党の土井たか子さんが亡くなったが、土井さんが活躍していた時代が懐かしい。日本も早く巨大1党の状態から抜け出さないと、トルコ同様に「政権の方針に対し、批判的な記事を書いた新聞記者たちが、次々に逮捕され」る状況になりかねない。
日本もじわじわと「茶色の朝」(ここ)に近付きつつあるので・・・

話は変わるが、「週刊文春」で半藤一利氏が朝日新聞問題にこんな寄稿をしていた。
朝日バッシングに感じる「戦争前夜」 半藤一利
・・・
ただ、いまの過度な朝日バッシングについては違和感を覚えます。週刊文春を筆頭に、読売、産経などあらゆるメディアが一つになって、ワッショイ、ワッショイと朝日批判を繰り広げている。
 私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。これがいちばん大事です。昭和六年の満州事変から、日本の言論は一つになってしまい、政府の肩車に乗って、ワッショイ、ワッショイと戦争へと向かってしまった。
 あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。私のような爺いが、集団的自衛権や秘密保護法に反対と堂々と声を出せることは、大変ありがたいこと。こういう声が封じられるようになったら終わりです。
 今の朝日バッシングには、破局前夜のような空気を感じますね。好ましくないと思っています。」(「週刊文春」2014年10月9日号p24より)

報道の自由と、現在の妙なマスコミの興奮・・・。半藤さんの感じた「戦争前夜」が杞憂であればよいが・・・

141002hitchhike <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

半藤氏の言うとおり特にネットの論調は朝日に対し、「反省せよ」ではなく「朝日をつぶせ」ですからね。
私などは、朝日は随分「右より論調」だなと読んでいたのですが、それでも一部の人にとっては「極左」だったのかも知れませんね。

【エムズの片割れより】
文藝春秋社は、結構カラーがはっきりしていますね。朝日叩きも、「文藝春秋」で「朝日新聞は日本に必要か」という臨時増刊を出してまで叩いているし、先日TVの番組があった「がんの放置」の近藤誠医師を社会に送り出したのも、この会社。新聞だけでなく、こんな会社のスタンスも、社会に与える影響は結構大きいのでしょうね。

投稿: 通行人 | 2014年10月 3日 (金) 22:53

エムズさま 
 「文芸春秋」は今も昔も保守のオピニオン・リーダーでした。「左より」の「月刊・週間誌」がほぼ姿を消した中で唯一 信用できるのは「世界」のみという状況です。その「世界」の「メデイ批評」の中から・・・・・・・
8月15日をめぐるいわゆる「8月ジャーナリズム」の現状についての危機感に学びたいと思います。「多くの地方紙を含む護憲派メデイアが、戦争へと傾斜する動きにブレーキをかけている状況が浮かび上がってくるが、・・・・戦争被害の無残さなどに触れ、戦争の実相を忘れまい、とする言説が目立つ。そうした記憶を受け継ぎ、伝えていく必要はある。だが戦争とは禍々しい形相を突然あらわにし、不意に立ち現れるものだったのか。むしろ日常生活の合間に、小さな変化として棲みつき、いつの間にか身の回りに近ついてくるものではなかったか。
気が付いたときにはもう遅い。日常の全部が戦争の虜とされていた――そういう戦争への動きが安倍政権のもとで生じてはいまいか。}いわゆる大正デモクラシーの中で・・・・平和ムードと軍縮気運がいっとき広がり第2次大戦のまえまで …そこには平和主義もあり、小説、映画、音楽、美術、スポーツほかの娯楽もふんだんにあった。・・・それらがいかに国家主義、排外主義にからめとられていったのかはべつに学ぶこととして、当時メデイアが読者数をふやすという競争の中で軍部への「協力からお先棒担ぎ」に転落してゆき戦争準備に大きな役割を果たしたことを想い出したい。特に週刊誌の見出しの「醜悪さ」に「売らんがため」もおぞましさをかんじしかしこれらの「風景」に慣れたり、あきらめたりはしたくないものです。

【エムズの片割れより】
戦前のマスコミも、今の週刊誌を初めとした“キャンペーン”も、売れるなら何でもやる、という節操のないスタンスなのでしょうね。
売ることを最優先にしたマスコミなど、存在価値があるのでしょうか・・・。

投稿: todo | 2014年10月 7日 (火) 04:16

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