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2014年8月18日 (月)

「寺田寅彦 独りで逝った最初の妻」

今日は、「読み物」である。先日の日経新聞に載っていた記事である。
愛の顛末 寺田寅彦(1)妻たちへの思慕 独りで逝った最初の妻
 東京都文京区の小石川植物園は、日本でもっとも古い植物園である。江戸幕府が設けた小石川御薬園がはじまりで、明治時代に東京大学が設立されるとその付属施設となった。一般にも公開されて人気を呼び、泉鏡花「外科室」、北原白秋「植物園小品」、森鴎外「田楽豆腐」などの文学作品にも登場している。
140818terada  恩賜賞を受けた物理学者であり、漱石門下の文人としても知られる寺田寅彦にも、ここを舞台にした作品がある。明治38年(1905年)の「団栗(どんぐり)」がそれで、肺を病んで早世した最初の妻・夏子との思い出が綴(つづ)られている。
 夏子が喀血(かっけつ)したのは、東京の本郷西片町で暮らしていた明治33年の暮れのことだった。年が明けて2月の暖かい日、寅彦は医者の許可を得て、夏子を植物園につれていく。
「団栗」には書かれていないが、実はこのとき、夏子は東京を離れて寺田家のある高知で療養することが決まっていた。感染を怖(おそ)れた寅彦の父親の指示だった。
 久しぶりの外出を妻は喜んだ。当時の寅彦はまだ帝大生で、22歳と17歳の若い夫婦である。夏子が高知に移るのは同月の下旬のことで、寅彦はせめて東京でのふたりの思い出を作ろうとしたのだろう。
 園内の温室を見学してから池の方へ行くと、母親が男の子と小さい女の子を遊ばせていた。それを見た妻は「あんな女の子がほしいわねえ」と言う。彼女はこのとき5カ月の身重だった。
 出口に向かう途中、妻は不意に「おや、どんぐりが」と声をあげる。そして、道の脇の落ち葉の中に落ちているどんぐりを、熱心に拾いはじめるのである。
〈ハンケチにいっぱい拾って包んでだいじそうに縛っているから、もうよすかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸してちょうだい」と言う。とうとう余のハンケチにも何合かのどんぐりを満たして「もうよしてよ、帰りましょう」とどこまでもいい気な事をいう〉と無邪気な妻の姿を描写した後、ふいに転調するように、話は数年後へと移る。
〈どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔(こけ)の花がなんべんか咲いた〉
 そして、妻の忘れ形見のおさな児が、かつての母と同じように植物園でどんぐりを拾う姿が描かれる。拾ったどんぐりを父の帽子の中に広げたハンカチに投げ込み、〈頬(ほお)を赤くしてうれしそうな溶けそうな顔〉をする子に、父は妻の面影を見るのである。
〈……亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりのすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである〉という述懐でこの短篇(たんぺん)は締めくくられる。寅彦の作品の中でも特に愛されている一篇である。
 植物園でどんぐりを拾った日から1年9カ月後、夏子は高知で死去する。最愛の妻をひとり寂しく死なせたことは、幼少時から人一倍感受性の強かった寅彦のその後の人生に寂寥(せきりょう)の影を落した。友人の安倍能成は、寅彦が亡くなったとき、彼のことを「実に寂しい人」「自分の苦患を自分の裏にせき止めて容易にこれを人に分たなかった」と弔辞で述べている。
 夏子の療養先は、高知市内から小舟で2時間ほどの海辺の村、種崎だった。5月26日、寅彦のもとに夏子がぶじ女児を出産したとの報(しら)せが届く。この日の寅彦の日記には「幸ありて桃の若葉と照り栄へよ」という句が記されている。種崎のあたりは、桃の木の多いところだった。
 貞子と名付けられたその子は、生後まもなく寅彦の実家に引き取られる。夏子は自分の手でわが子を育てることも許されなかった。寅彦は6月9日の日記にこう書いている。
〈……又夏よりも手紙来る乳の張るたび此(この)乳を呑(の)ます様ならは如何(いか)に嬉しからんと思ふなど言ひ越せり〉
 この年の夏、寅彦は高知に帰省しているが、その間、日記を書いていない。山田一郎『寺田寅彦 妻たちの歳月』(岩波書店)によれば、実家でわが子と対面したが、夏子とはなかなか会えなかったという。感染を怖れた父に厳しく止められていたのだ。
 寺田家は土佐藩の下級武士の家系で、寅彦はその長男である。父の利正が40歳を過ぎてやっと生まれた男子で、幼少時から優秀だったこともあり、期待を一身に受けて育った。結核とはいえまだ寝ついたわけではなく、しかも出産を控えていた夏子をいちはやく隔離したのは、大事な跡継ぎを守るためだった。
 夏の終わり、寅彦は肺尖(はいせん)カタルの診断を受ける。大学を休学してそのまま高知で療養することになったが、父の決めた療養先は須崎だった。夫婦は同じ高知にいながら、別々に療養生活を送らなければならなかった。(ノンフィクション作家:梯久美子)」2014/08/10付「日経新聞」p23より)

寺田寅彦(2) 妻たちへの思慕 海を隔てたはかなき逢瀬
 寺田寅彦の最初の妻・夏子は美しい人だった。結婚式の日の写真を見ると、黒紋付のすらりとした立ち姿に、大きな目が印象的だ。寅彦の19歳年長の姉・駒の回想によれば、駒の子供たちは「お夏さんの目が光るからラムプはいらぬ」と言って夏子をからかったという(小林勇編『回想の寺田寅彦』岩波書店)。
 寅彦と夏子が高知市内で結婚式を挙げたのは、明治30年(1897年)7月のことである。夏140818terada1 子は松山旅団長を務めていた陸軍少将・阪井重季の長女だった。新郎新婦は満年齢でいえば18歳と14歳という若さで、寅彦は熊本の第五高等学校に在学中だった。
 当時としてもかなりの早婚だが、寅彦の友人だった安倍能成は〈これは恐らく一粒の男種を伝えようとあせる両親の意志に、寺田さんがひたすら孝順だったせいであろう〉と書いている(「寅彦の墓に詣づ」)。父の利正は婿養子で、寅彦は結婚20年以上たってようやく生まれた男子だった。
 親同士の決めた結婚だったが、ふたりの仲はむつまじかった。だが挙式後は別々に暮らすことになる。寅彦は単身で熊本に戻り、夏子は高知の寺田家で家事や行儀作法を習った。家風に早くなじむようにということだったのだろうが、14歳の夏子にとっては心細い日々だったに違いない。
 ようやく一緒に暮らすことができるようになったのは、寅彦が熊本五高を卒業し、東京帝大物理学科に入学してからのことである。しかし若い夫婦の東京での暮らしは長くは続かず、1年足らずで夏子は喀血(かっけつ)。明治34年2月、身重の身体で東京を離れて高知県の種崎に隔離され、そこで産んだ娘・貞子とも引き離される。この年の夏から、寅彦も肺尖(はいせん)カタルのため高知県の須崎で療養することになったことは前回書いた。同じ高知県にいながら、寅彦は須崎、夏子は種崎、まだ乳児である貞子は高知市内の寺田家と、家族はばらばらに暮らさなければならなかった。
 寅彦が療養のため休学した期間は1年だが、この間、夫婦が会うことができたのは数回にすぎない。正月や貞子の初節句などで、寅彦が須崎から実家に帰っているとき、そこへ夏子が訪ねてくるのである。しかし夏子の住まいを寅彦が訪ねることは、感染を怖(おそ)れた寺田家が許さなかった。
 夫婦の間では頻繁に手紙がやりとりされた。明治34年11月23日の寅彦の日記には〈朝夏の端書が来て自分の今の境遇は波打際の落葉の様なものだと云つてある〉と書かれている。
 山田一郎『寺田寅彦 妻たちの歳月』(岩波書店)には、なかなか会えなかったふたりの、何とも切ないエピソードが記されている。
 寅彦が海路で須崎から高知市内の実家へ向かうとき、船は種崎の近くを通る。寅彦が事前にその日時を手紙で報(しら)せておくと、夏子は浜に出てハンカチを振ったという。
 寅彦の日記を調べてみると、確かに〈船浦戸に入りて雑喉場(ざこば)の前を過る時種崎の方の岸に見とるらしき女夏に似たり〉(明治34年11月26日)という記述がある。この日寅彦は、2日後の誕生日を実家で過ごすため、船で須崎から高知市内へ入ったのだった。
 地図を見ると、高知港に至る浦戸湾の入り口は、種崎と桂浜にはさまれた幅200メートルほどの狭い海峡になっている。ここを通る船からは、岸辺にいる人の姿がかなりはっきり見えたに違いない。それにしても、海をへだてた船上と岸辺での逢瀬(おうせ)とは、ふたりは何とはかない夫婦であったことか。
 明治35年1月19日には、正月を実家で過ごして須崎に戻る寅彦を、夏子が浜に出て見送ることになっていたようだ。この日の寅彦の日記には、〈船和楽園の前を過ぐる時浜を見たれど約束の人も見へず〉とある。寅彦は船上から目を凝らしたことだろう。しかしそこに夏子の姿はなかったのだ。翌日の寅彦の日記には、夏子から体調をくずしている旨の手紙が来たという記述がある。
 7月、夏子は種崎から桂浜のはずれへと転居を余儀なくされる。結核患者が暮らすことを近隣の住民が嫌がったためだ。あまりに不憫(ふびん)な夏子の境遇に、寅彦は〈暴風雨。桂浜の茅屋を思ふ〉(8月11日)〈朝夢に襲はれて泣く〉(8月13日)と書いている。
 9月から帝大に復学することになった寅彦は、8月21日、夏子のもとを訪ねた。
〈夏は思ひし程衰弱し居らず。戯れに写生帖にハンケチ頸に巻きたる姿を写す。別れ際に我衣の懐のだらしなく膨れたるを見て〉
 この日の寅彦の日記は、ここで唐突に途切れている。夏子は別れ際に、寅彦の着物を直してやったのだろうか。
 これがふたりの今生の別れとなった。11月15日夜10時、夏子死去。東京の下宿で寅彦がその報せを受け取ったのは、翌朝になってからのことだった。(ノンフィクション作家・梯久美子)」(2014/08/17付「日経新聞」P23より)

あまりに若い夫婦の死別の話・・・。寺田寅彦の話だが、何とも切ない話だ。
自分は寺田寅彦の作品を読んだことが無かった。それで今回、上に載っていた「どんぐり」を青空文庫で読んでみた(ここ)。何とも切ない・・・。

明治の時代は、親の決めた結婚が普通・・・。寺田寅彦の最初のこの結婚は、18歳と14歳という学生結婚なのでビックリ。そうとうな親の焦りがあったのだろう。しかし、ここにも書いてあるように、夏子17歳の暮れに肺結核を発病。翌2月に高知に療養転居して、5月に女の子を出産したが、翌年秋に、19歳で逝去したという。何とも短い生涯だ。当時の肺結核は死の病だったので、当時は仕方がなかったのかも・・・。でも幾らうつるとは言え、隔離は何とも残酷だ・・・。

その後、寅彦は夏子が亡くなって3年目の27歳の時に、浜口寛子と再婚したが13年後に寛子も31歳で死去。そして40歳の時に酒井しん子と再々婚するが、寅彦は転移性骨腫瘍のため57歳で亡くなったという。

ふと、自分の父方の祖父母を思い出した。とっくに亡くなったが、祖父母は、母親どおしが姉妹で、二人は従兄弟だという。2つ違いで生まれて直ぐに、親が結婚の約束をして、その通りに結婚したという。
当時は、それが当たり前だったとはいえ、祖父母夫婦も、まさに親の意向で全てが進んでいる。

こんな一文を読んでいると、心がふと別世界に行ってしまう・・・。
あんまり関係無いけど、そのうち小石川植物園にも行ってみようかな・・・。

140818yome <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

小林秀雄の”随筆”「栗の樹」を思い出していたら寺田寅彦の「団栗」が浮かび、ネットで検索してみたらあなたのブログに出会いました。高校生の頃、家にあった姉の古い本で読み感動して、なぜか寺田寅彦が再婚したのかが気になった事がありました。その後、岡潔先生が情緒を表現する随筆として触れられていたのにも感激。私には子供はありませんが、幼い子供を見るたびに、その背負っているものを感じ、その子共達の行く末の幸を祈ってやりたい心地になるのです。色々教えてくださって有難うございます。

【エムズの片割れより】
先日、二人目の孫が生まれました。この歳になって、改めて生命との出会いを実感しています。
ある意味、放って置いても自分で育って生まれてくる子供。しかし、その神秘性とこれから受けるであろう色々な困難を考えると、そこには祈りしかないことに気付きます。

投稿: 武藤恒男 | 2016年6月26日 (日) 05:11

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