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2013年12月 9日 (月)

「確率の世界とどう向き合うか」~終末への準備はいつ始める?

先日の朝日新聞に、こんな記事があった。
「(ザ・コラム)自然と科学 確率の世界とどう向き合うか
      上田俊英(東京本社科学医療部長)

 年の瀬になると、この1年の出来事をいろいろと思い出す。医療の世界で大ニュースといえば、高血圧治療薬ディオバンの「効果」をめぐる論文不正だろう。
 ディオバンは製薬大手ノバルティスの看板商品だ。「ほかの薬と比べ、ディオバンをのんだ人は、高血圧がかかわる脳卒中などのリスクが半減した」とする論文が京都府立医科大や東京慈恵会医科大などから出され、売り上げを伸ばしてきた。
 しかし、これらの研究にはノバルティスの日本法人の社員が、その肩書を隠して参加し、患者のデータがディオバンに有利になるよう操作されていた。ディオバンの「効果」は科学的な根拠を失った。
 ところで、ディオバンの「効果」を支えた論文の中身とは、どのようなものだったか。欧州心臓病学会誌に載った京都府立医科大の論文は、次のような内容だ。
 高血圧の患者3031人を二つのグループに分け、一方だけにディオバンをのませて、その後の病気の起こり方を調べた。すると、脳卒中になる人は患者1千人あたり、ディオバンをのんでいると年間5.6人、のんでいないと年間10.4人と算出された。その通りなら、脳卒中のリスクはたしかに半減したことになる。
 とはいえ、データを操作して練り上げたこの「効果」でさえ、ななめから読めば、違うメッセージが浮かび上がる。ディオバンをのんでも脳卒中になる人はいるし、脳卒中にならない人を数えれば、のんでも、のまなくても、差はわずか。いずれにしても、ほとんどの人は脳卒中にならない。「なぜ、のまなくてはいけないの」。そう思う人がいても、不思議ではない。
     *
 科学はさまざまな自然現象のなかから法則性を見いだし、自然を理解する学問である。しかし、法則は厳密でも、科学が導き出す解答は、たいていは確率的だ。
 なにしろ物質の根源である素粒子の世界が「不確定性原理」にとらわれている。
 ドイツの物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクは1927年、ミクロの世界では物の位置と運動のようすを同時に、正確に知ることはできないという「原理」を発表した。理由は、人間の知恵と技が未熟だからではない。ミクロの世界では、物はもともとぼやけて存在しているからだ。
 ちなみにハイゼンベルクはミクロの世界を支配する量子力学の創設者のひとりで、31歳でノーベル物理学賞を受けた。第2次大戦中もドイツにとどまったため「連合国が最も恐れた男」といわれ、これが米国の原爆開発を加速させたとされる。
 いくつもの自然現象が複雑にからみあった生命科学や地球科学、巨大工学のような世界では、科学が導き出す解答は、なおさら確率的になる。そして、明確な答えを求める社会との間に、しばしば溝ができる。
 「医師のいうとおりに治療しているのに、いっこうによくならない」「安全だといっていたのに、事故が起こった」。そんな不満は、しょっちゅう聞かれる。
 私たちは科学という確率の世界と、どう向き合えばいいのか。
     *
 医療の世界では近年、「根拠に基づく医療」が花盛りだ。臨床研究や疫学研究、治療結果の統計学的な比較など最新の科学的根拠に基づく医療のことである。
 医療における科学的根拠の重要性を訴えている大野智・帝京大学医学部臨床研究医学講座特任講師は、科学の役割をこう説明する。「科学は、たとえばくじが入った抽選箱が二つあったとき、どちらの箱にどれだけの割合で『当たり』が入っているのかを教えてくれる、でも、どちらの箱からくじを引くのかは、決めてくれない。どの治療法を選ぶのかを決めるのは、人です」
 「絶対に有効」な治療法など存在しない。だから様々な価値観や死生観をもつ「人」の要素が紛れ込む、ということなのだろう。
 科学と社会が、それなりに友好的に向き合っていると感じる例も、あるにはある。毎日の天気予報で発表されている降水確率だ。日本では1980年6月に東京地方で始まり、86年3月に予報エリアが全国に拡大された。気象庁の海老原智・予報課長は「みんなが毎日、予報の検証をしているうちに、感覚的に理解されるようになったのでしょう」と話す。
 降水確率が10%なら、統計的に100回のうち10回は雨が降るわけだが、私は確率10%なら、傘はまずもたない。たまに、この選択が裏目に出たり、予報がはずれたりして、コンビニでビニール傘を買うはめに陥るが、たいして腹がたたないのは、損が気にならない程度だからだろう。
 原発事故なら話は違ってくる。既存の原子炉が損傷する深刻な事故の発生頻度について、国際原子力機関が掲げる目標は「原発1基あたり、1万年に1回」。
 さて、この確率をどう読もう。「1万年に1回」どころか「永遠にゼロ」がいいに決まっているが、それは「絶対に有効」な治療法を求めるに等しい。「1万年に1回」ならいいのか、それでも嫌なのか。決めるのは、やはり私たち、人、である。」(
2013/12/08付「朝日新聞」p10より)

最近、“ある医療”についての確率、可能性について、医師の話を聞いたり、Netで検索することが多い。そんな目で上の一文を読んでみると、なかなか含蓄がある。
「脳卒中になる人は患者1千人あたり、ディオバンをのんでいると年間5.6人(←0.56%)、のんでいないと年間10.4人(←1.04%)と算出された。・・・」
「ななめから読めば、違うメッセージが浮かび上がる。ディオバンをのんでも脳卒中になる人はいるし、脳卒中にならない人を数えれば、のんでも、のまなくても、差はわずか。いずれにしても、ほとんどの人は脳卒中にならない。「なぜ、のまなくてはいけないの」。・・・」

0.6%の確率が1%の確率に“改善”されたことを、どう評価するか?・・・

「科学は、たとえばくじが入った抽選箱が二つあったとき、どちらの箱にどれだけの割合で『当たり』が入っているのかを教えてくれる、でも、どちらの箱からくじを引くのかは、決めてくれない。どの治療法を選ぶのかを決めるのは、人です」
なかなかうまい例えで、実にその通り・・・。

普通の生活をしている人が、「確率」を一番認識するのは、やはり病気になったとき。手術の成功確率、または重篤な病気での生存確率等々。
先の原発事故を見ても、「絶対」など有り得ないことは、誰もが肝に銘じた。医療の世界でも同じだろう。例え99%の成功実績があっても、1%に入る事は有り得る。その覚悟は必要。よって出来ることは“ただ祈る”だけ・・・。

最近よく思う。人は(自分は)、永久に生きる前提で暮らしている。それで良いのか?と・・・。総溢血や心筋梗塞など、短時間で死ぬことも有り得る。例え確率が小さいとは言え・・・。
すると、「終末=死への準備」はいつから始めないといけないのか・・・

書店に行っても、「どうせ死ぬなら「がん」がいい」といった本が並ぶ。確かに死まで、ある程度の時間が与えられる病気は、自分がその気になれば後始末は出来る。しかし自分のように、非常に気の弱い人間には、その気力さえ失せてしまう気がする。
カミさんが良く言う。「人間60歳を超えたら、いつ死んでもおかしくない」。
確かに、シルバー世代になると、その確率は益々上がってくる。つまりは、死への準備=身辺整理のスタートは、早いほど良いのかも知れない。
なぜか世代交代を意識する最近である。

131209jiisan <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

>「終末=死への準備」はいつから始めないといけないのか・・・

今でしょ!!

【エムズの片割れより】
ま、そうですね。

投稿: 空 | 2013年12月10日 (火) 09:35

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